Life isn't going well
大滝レンジには、旧い馴染みがいる。
トーナ。
苗字はわからない。
旧中東系の母親と日本系の父親を持つ男。
Cランクエリア。
俗に貧困街と呼ばれる場所に、レンジはいた。
防酸性雨製の革のコートを羽織って、トタンに当たる雨の音を聞きながらドラッグパックを吹かしていた。
ドラッグパックとは言っても、市販のものではない。
裏の売人から買ったものでもない。
自作したものだ。
そこらに落ちてるドラッグパックから葉っぱや薬をほじくり出して、集めてブレンドしたものを適当な紙に巻いて火を点ける。
クソまずいし、酩酊したような感覚になる。
だが、ないよりはマシだ。
この閉塞感漂う世界から一秒でも長く逃れられるなら、比較的悪くない選択肢だと思える。
「またそれか、レンジ」
「おぉ……」
角からふらっと現れて、隣に腰掛けてきたのはトーナだった。
トーナは透明のカッパを着て、足元は防酸性雨コーティングされたサンダルだった。
皮膚がところどころ焼けているのは、コーティング箇所から漏れた重酸性雨でやられた痕だ。
「毎日毎日、飽きないな」
「これしかやることがねぇ」
トーナとともにどんよりとした空を見上げ、レンジは煙を吐いた。
頭が霞がかったようになり、煙の色が虹色に見える。
真上で響いているはずなのに、雨の音が妙に遠く感じた。
「日本人は勤勉に働くと聞いていたんだが」
「いつの時代の話だ。勤勉なんて言葉はエリート様たちのものだろ」
言ってから、レンジは横目でトーナを見た。
「あとはお前みたいな人間のためにある言葉だ」
トーナは何も言わず、口元だけで笑った。
レンジは目を閉じて、頭を錆びたシャッターにもたせかけた。
巨大な何かが動いている音、振動。
それはこの都市、ネオ・トーキョーが脈動しているような感覚を想起させた。
それならば、自分は巨大な生物の上で生きるダニのようなものか。
そんな自虐的なことを考えながら、レンジは短くなったドラッグパックを吸う。
「俺の仕事を手伝わないか、レンジ」
「……」
レンジは目を開け、トーナに視線と顔を向ける。
「金になる。とりあえず、そんなものは吸わなくてよくなる」
「……麻薬か?」
「……簡単な仕事だよ」
トーナは気まずそうに目を逸らす。
誤魔化しが下手な男だ。
昔、女に浮気がバレたときも、こんなふうに気まずそうに視線を逸らしていた。
「俺はどうしようもなく貧乏だが、警察の世話にも、マフィアどもの世話にもなりたくねぇ」
「そのあたりは大丈夫だ。うちのルートは安全なんだ」
「どうしてそう言い切れる」
「だって俺がこうしてお前の隣にいる。捕まったり、痛めつけられていない証拠だ」
レンジはジッとトーナを見て、それから嘆息した。
仕事が、というより金が必要。
それは確かにそうであった。
レンジは今、倒壊しそうでしないアパートの一室に住んでいる。
そんなアパートでも家賃は発生するし、それすらも払えなくて追い出されそうになっている。
違法にどこかに住み着くこともできるが、それをすることのデメリットはでかい。
特にここは無法のCランクエリアだ。
飯だってこの数日まともに食えていない。
トーナの仕事がどれぐらい稼げるのかは知らない。
だが、安飯屋の定食ぐらいは食いたい。
「いつ、いくらだ」
「今日の夜、500ドル」
「ドル? ジャパニーズドルじゃなくて?」
「ああ、取引相手がそっちを好む。クリティカルの人間だからな」
「なるほど……」
クリティカルはアメリカ系の超巨大企業だ。
そちらの人間ならば、ここに住んでいても母国の紙幣を使いたいのだろう。
ジャパニーズドルにすれば、日々のレートにもよるが約50000だ。
家賃も払えるし、しばらくは食うのに困らない。
「俺は何をすればいい」
レンジは結局、お手製ドラッグパックを地面にもみ消しながら、トーナにそう聞くのだった。
ー・ー・ー・ー・ー
「はっ……はっ……はぁっ……!」
レンジは雨の中を走っていた。
裏路地から裏路地へ。
「なんで、なんでっ……!」
脇には防酸性雨製の袋を抱えている。
中身は知らない。
トーナに渡されたモノだった。
足を動かすたびにバチャバチャと水たまりを踏みつける音がうるさい。
自分がここにいるという痕跡を隠したいのに、自分の荒い息と走る音が邪魔をする。
「待て」
後ろから静かな声が響く。
レンジは思わず喉の奥から「ひっ」と悲鳴を漏らした。
続いて、身体をわずかに左にずらして走る。
直後、レンジがそのまま走っていたら頭部があっただろう場所を弾丸が飛び去っていった。
「アァアッ!」
レンジは獣のような声を上げて、恐怖心を追い出そうとした。
結果として、ただ息が苦しくなっただけだ。
あと何メートル、いや、何キロ走れば“こいつ”を撒けるのか。
逃れている自分がまったく想像できない。
(どうなってる! どうなってるんだよ、トーナ!)
自分の仕事は絶対に安全だと言ったトーナは死んだ。
レンジに荷物を渡して、自分の分の荷物を持った瞬間、頭が弾け飛んだ。
意味がわからなかった。
だが、数十メートル後ろに立っていた奇妙な男、真っ赤なコートを着込んだ男に、本能が恐怖を知らせた。
レンジは逃げた。
とっさの判断だった。
それが功を奏した。
そのときも、直後に自分のいた場所に銃弾が飛んできた。
それから二十分以上、走り続けている。
怖い。恐ろしい。
もう終わりにしたい。
走る足を止めてしまいたい。
だが、そう考えるたびに目の前で頭部を弾けさせたトーナを思い出す。
死ぬのも怖い。
逃げるしかなかった。
選択肢など、ひとつもなかった。
「……あ?」
不意に、レンジは気付いた。
この荷物を投げ捨てればいいのではないか? と。
追跡者が狙っているのは明らかにこの荷物だ。
運ぶ場所を一応トーナから聞いてはいるが、メインのトーナが死んでいるならもう仕事は失敗も同然だ。
命があればこそだ。
こんな荷物なんてさっさと投げ捨ててしまえばいい。
そう思ったときだった。
「おお、もうひとりも到着か」
裏路地を曲がった先にいた男が、レンジを見てそう言った。
「……へ?」
レンジは間抜けな声を出して、その男を見た。
ドレッドヘアーで、丸いサングラスをかけた男だった。
身長は高い。
もしかしたら190はあるかもしれない。
身体もよく鍛えられている。
黒のタンクトップにジョガーパンツ、スポーツシューズがよく似合っている。
肌が浅黒い。
ラテン系のように見えた。
「おいあんた、大丈夫か?」
さらにドレッド頭の後ろから、不健康そうな男が顔を出す。
「顔色がずいぶん悪いようだが」
「……」
レンジは荒く息を吐きながら、その場に立ち尽くした。
男たちが何者なのか、その正体を考えようとしている。
けれども酸素は不足しているし、情報だって足りない。
ただひとつ、ここは偶然にも、トーナが最初に指定した場所だったかもしれなかった。
「あんたは……」
「ん?」
「あんたは、山田フォルン……か?」
「ああ、そうだ。そしてお前はトーナ、いや、レンジのほうか?」
「……レンジだ。この、荷物……」
唐突に依頼主に会えたことで、レンジは最初の目的を忘れて荷物を山田フォルンに渡そうとした。
そのときだった。
「待て」
後ろから、あの背筋が凍るような声がした。
振り向かずともわかる。
赤いコートの男。
追跡者。
一瞬で恐怖に駆られ動けなくなったレンジは、もうダメだと身体を強張らせた。
しかし自分がトーナのように頭を粉砕されるより先に、フォルンの手が素早く動いていた。
握られているのは拳銃。
旧い型のようだが、大型で、威力はありそうに見えた。
その銃が火を噴いた。
ドカンッ、とまるで壁をハンマーでぶっ叩いたような轟音がした。
直後、背後で何かが落ちる音。
レンジが振り返ると、赤いコートの男が大の字……いや、頭部が吹き飛んだ状態で横たわっていた。
「おいおいゴミを連れてくるなよ。報酬から引いておくからな」
「……え? あ、あの……」
「なんだ。清掃料がタダだとでも?」
フォルンの言葉に、レンジはそうではないと言おうとした。
けれど、そんな言葉に何の意味があるのかわからなくて、結局は口を噤む。
「さあ、荷物をくれ」
「……は、はい」
レンジは大人しく、フォルンのほうへ向かって荷物を渡した。
大口径の銃を持っている人間相手にこれ以上何か余計なことを喋るほど、レンジとてバカではない。
「もうひとりは? トーナ」
「あんたが殺したヤツに殺された」
「なんだよ。じゃあ荷物もパーか」
「……たぶん」
トーナが持っていた分がどうなったのか、、それは知らない。
仮に赤いコートの男が拾ってなかったとして、落ちているものがそのまま、もしくは警察に届けられるほど、この都市の人間たちは善良でもお人好しでもない。
「なら、報酬は100ドルだ。文句はないな」
「…………ああ」
レンジは差し出された100ドルを素直に受け取る。
怖かったとか、そういうことではなく、ただ妥当だと思った。
仕事をちゃんとこなさなかった。
このエリアじゃ、それですべてパーになることもザラだ。
むしろ金を出すだけ良心的すぎる。
フォルンはレンジに金を渡すと、すぐに袋の中身を確認する。
中に手を突っ込み、取り出したのはドラッグパックを一箱。
包装紙をビリビリに破き、中から一本、紙巻き型のドラッグパックを取って咥える。
「火ぃくれ」
「ああ」
フォルンに応えたのは、不健康そうな顔をした男だった。
ライターに一度雨が当たって火が消え、もう一度点ける。
「……」
フォルンはドラッグパックを深く吸って、それから一息にフゥッと吐き出す。
「ああ、上質だ。お前も一本やれ」
「いいのか。ありがとう」
フォルンからドラッグパックを受け取った不健康そうな男は嬉しそうに言って、唇で挟んでカチカチカチと慌てて火を点ける。
中毒者だ。
ドラッグパックに深くハマった者。
この掃き溜めには珍しくないタイプの男だった。
見た目は不健康そうだが、ランナーかもしれない。
運び屋。
レンジは一瞬、自分よりも不健康そうだが、それでも自分より有能だろう男に嫉妬めいた感情を抱いた。
この底辺な場所でも、働けるというのは有能な証だ。
それでなけりゃ、使い捨てという末路。
レンジは言わずもがな、後者だ。
「ほれ、お前もやれ。手間賃だ」
「あ……」
不意に、フォルンが二本しか抜いていないドラッグパックを一箱、レンジに投げてよこす。
思わず受け取ったレンジは、ドラッグパックとフォルンを交互に見た。
「いいんですか?」
「ああ。半分だが、荷物は一応届いた。それにお前らに支払う金も安く済んだからな。それぐらい構わない」
「いいなぁ。俺は最初から100ドル契約だったのに」
「うるせぇ。お前にはもっと高額な1カートンを用意してるんだから文句言うな」
「ああ、そうだった」
嬉しそうに笑う不健康そうな男に、フォルンは呆れたような視線を向ける。
「あの……じゃあ、俺はこれで」
「ん? ああ。また頼むぜ、兄弟」
「……え?」
また、頼む。
自分は、自分たちは失敗したのに、とレンジは思った。
しかしそれ以上はなかった。フォルンはレンジに興味をなくし、すぐ真後ろにあった扉を開けて、自分のテリトリーへ帰っていく。
不健康そうな男も、一度レンジに手を振ってから、1カートンのドラッグパックを小脇に抱え、ゴミ箱から建物の窓、非常階段などを蹴るように走ってあっという間に屋上へ登っていく。
その姿はすぐに見えなくなった。
「……」
レンジは、右手の中でクシャクシャになっていた100ドルを見つめた。
昔馴染みの友人が目の前で殺されて、必死に逃げて手に入れた紙幣一枚。
これで家賃が払えるし、数日は腹を空かさずに生きられる。
「……はぁ」
金は手に入った。
代わりに飯を食う友を失った。
どう考えても釣り合っていない。
でもこの都市では、こんなことが日常茶飯事だ。




