フューン・デッチャー
フューン・デッチャーは水を求めていた。
粗悪なドラッグパックをやりすぎて、ひどく喉が渇いていた。
巨大都市、ネオ・トーキョー。
Cランクエリア。
いわゆるスラム街の位置する場所に、フューンはいる。
建物の影を歩きながら、時折、空を眺める。
重酸性雨が、都市を溶かしながら、地面に吸い込まれていく。
俯いてネオンが照らす通りを歩く人々の中に、時々、空を見上げてニコニコと笑うやつがいる。
大体はドラッグのやり過ぎで、そしてCランクにいるやつがやるドラッグなんて、粗悪なものでしかない。
ラリってる。
皮膚が焼けるのもお構い無しに、空を見上げて笑う。
ああ、違う。
と、フューンは思った。
あれは、自分と同じだ。
水を求めている。
だから、笑っているように見えたのは、口を大きく開けているからだ。
重酸性雨でもいいから、水なら、なんでもいいから。
口を開けていた男が咳き込み始め、ふらふらと路地裏に消えていく。
それから、雨の音に混じって、何かが倒れる音がした。
「100J$(ジャパニーズドル)です」
柵が設置されているカウンターから、女の声がした。
ようやく見つけて入ったコンビニで、水を買ったのだ。
「……これで」
フューンはくしゃくしゃになった100J$紙幣を出した。
女のもとへ滑って紙幣が流れていくと、会計の済んだ音がする。
「またどうぞ」
女は笑顔を見せて会釈をするが、それらはすべてARだ。
画面があって、そこに店員の女が立っている──映像が流れているだけ。
カウンターの一番奥にいるのは、銃を携帯したバイトだ。
店内の商品を補充するのは、やせ細った、フューンとそう年の変わらない人間。
無愛想で、何かを聞いても応えず、ただ案内用のARを指差すだけ。
ここはCランクエリアだから、生体認証支払いもない。
アンドロイドやガイノイドで補充するシステムもない。
店員が奥で銃を持っていなければ、強盗だって何度も起きる。
ふたつ通りを挟んだコンビニでは、強盗を働こうとした男女が殺されている。
持っていたのは粗悪なナイフで、取ろうとしたのは金と水、それから袋入りのチョコだった。
ちなみにその男女は、商品を補充していた女を刺して殺している。
フューンは買った水を一息に飲み干した。
それからコンビニの端のほうにあるゴミ箱に捨てる。
それぐらいの理性はまだある。
フューンは外に出た。
傘を差し、周りの人間たちと同じ速度を保って歩く。
Cランクにもデカい広告ビジョンは存在する。
スラム街を仕切る三又城の所有するビルだ。
大きな光と、大きな音。
Cランクエリアの人間たちは大抵が下を向いているから、広告効果はほぼない。
そもそも、広告されても買う金がない。
だからもっぱらCランクで広告されるのは、『あなたの腕、買います!』。
なんていう、自分の身体を切り売りさせるための宣伝文句だった。
あんたの技術を買う。腕を振るってもらう。
という、慣用句ではない。
フューンは、通りにある、露店に挟まれた小さな店に入った。
中は湿った匂いがして、照明も薄暗い。
両サイドにショーケース。
前方には、店主である親父がいるだけの店。
「よぉ、フューン」
親父が言った。
「ああ」
フューンが応えた。
フューンはショーケースの間を歩く。
ショーケースの中は照らされているが、中にあるのは商品名が書かれた札だけだ。
そのうちのひとつを取って親父に渡すと、商品が出てくる。
それを現金と交換する。もしくは、現金に相当するもの。
それがこの店の売買のルールだった。
「なにか、仕事はあるか」
カウンターの前に立ち止まり、フューンが言うと、親父は口にドラッグパックを咥えたまま、小さく頷いた。
「……ちょっと待ってろ」
言って、マッチ箱を取り出し、火を点ける。
それをドラッグパックに近づけ、タバコと同じ要領で火を灯した。
美味そうな、苦い匂いがフューンの鼻をくすぐる。
「……お前に任せられるのは……」
親父が言いながら、空中の何かを見ている。
フューンには見えないが、空中にディスプレイが表示されているのだろう。
「デリバリーだな」
親父は視線を空中から、フューンに戻す。
「お前、得意だったよな。ランナーの仕事は」
「……ああ。エンフォーサーもやる」
「そうだった。ひとりで二役こなせる男だ」
親父はドラッグパックを咥えたまま、ニッと広角を上げる。
それからカウンターの下に手を伸ばし、小さな紙包みをフューンの前にドンッと置いた。
「ウエノストリートに山田フォルンってやつがいる。そいつのところにデリバリーだ」
「報酬は?」
「お前が吸ってる粗悪品じゃない、普通のドラッグパック1カートンと現金で1万J$だ。受けるか?」
「……ああ」
フューンは小さな紙包みを取り、ジャケットの懐にしまう。
「時間は今からだと……」
親父は店内右隅の上部に浮かび上がる透過スクリーン時計を見て目を細める。
「二時間以内だな。お前なら楽勝だろ」
「ああ」
「地図はこれだ」
親父が手を振ると、フューンの視界に小さな地図が現れる。
先にアプリを仕込んであるから、白い光点が自分。赤い光点が山田だということがわかった。
ウエノまでは歩いて30分弱。
それで1カートンと1万J$はなかなかにいい仕事だと思えた。
「遅れたら報酬は半分。紛失したらお前はこの店に借金だ。OK?」
「わかってる」
フューンは頷き、ジャケットの内側に入れた紙包みを撫でる。
それから、親父の顔を見た。
少しだけ、卑屈な笑みを浮かべる。
「相談なんだが、前払いでドラッグパックを1つくれないか」
「はっ……」
親父は笑い、カウンターの下に手を伸ばすと、ドラッグパックをひとつ掴んでフューンに投げて寄越す。
「助かる」
「いいさ。ジャンキーなのはこのエリア全員だ」
フューンは頷き、踵を返す。
あと2時間弱。
無事にデリバリーすれば、今日か、明後日ぐらいまでは、人間みたいに生きられる。




