“テツタマ”の話
「と、言うわけで」
針葉樹林帯を抜け、湖畔と接しながら平原方向へ伸びる馬車道の最中。
エトの頭上で背骨を案じながら養生する私と、頭をさすりながらとぼとぼ歩くリーネを余所に、紫色の髪の人形魔具ブリギッドは開口した。
「卿等を無事に王都へ送る、護衛の命を新たに授かりました。若輩者では御座いますが、身辺の矛としてどうぞお役立て下さい」
ブリギッドはドレスアーマーの端を摘んで、礼儀正しく会釈を送る。
針葉樹林帯から共にしばらく歩いてきたわけだけれど、何故今更挨拶をするのかという野暮な質問は、本当に野暮なのであろう。
ブリギッドがクレーマティスからの命令を受け取るまで若干の時差があるのかもしれないし、思い出したことを思い付いたときに発信しただけかもしれない。
そんな優雅な立ち振る舞いのブリギッドを見て、リーネは自身のみすぼらしい装いを確認した。
哨戒活動用の簡易な服は長旅で汚れ、お世辞にも綺麗な身なりとは言い難い様相であった。
リーネの場合は近接戦闘を主体とするからか、エト以上にそれが目立つ。
仕事と言えばそれまでであるし仕方のないことかもしれないが、それでも文句ひとつ言わないリーネに対し、ひとりの女の子の扱われ方として私は少し気の毒に思った。
「なあエト、せっかく湖畔の近くを歩いているわけだし、ここらで水浴びをしていかないか?」
「王都はもうすぐですが、確かに少し休憩したいところですね」
「そうだろう。以前水場に寄ったとき“ワームスネーク”とひと悶着あったが、ここは水面が穏やかだし見通しも良い。何かあってもすぐさま応戦出来るぞ」
「見通しが良過ぎて、逆に場所がない気もしますが……」
まあ、それも一理あった。
湖畔沿いに簡易な舗装が施された馬車道の通るここは、高い木や陰となる岩場が辺りにない。
女の子が沐浴するには、些か開放的過ぎた。
しかしリーネは身を清められる期待に胸膨らませており、私としても後には退けない状態である。
「目隠しがないなら、作れば良いじゃない!」
「キャラがブレていますよ、コル」
「エトも水浴びしたかろう?!」
「いえ、私は別に」
「一緒に沐浴しよう!」
「結構です」
「そういえば一緒に風呂場へ行ったことはなかったな。お前は男湯に行くのか、それとも女湯に行くのか、さてどっちだ?」
「質問の意図がわかりません」
「エト、お前の場合は中性的過ぎて性別が迷子だ。長い付き合いだが、結局お前は男なのか女なのか、はっきり言ったらどうだ!」
そこまで押し切って、エトは「やれやれ」と嘆息した。
ところどころ本音も漏れたが、破れかぶれにもうひと押し、といったところだろう。
「リーネ、お前も身体を流したいよなあ?」
「は、はい! 出来ることならば、ぜひお時間を頂きたいです!」
それが決め手となったのか、エトは小さく頷いて了承した。
「わかりました、少し時間を下さい」
エトは馬車道から湖畔の喫水域へ歩み寄り、そこで強く地を踏んだ。
すると衝撃で辺りの地形が隆起し、振動と共に高い土壁が出現する。
王都プロキオンが誇る大魔法師、エトオール・アステル。
そんなエトが所有する特別な力である“退魔法”、それに次いで取り沙汰されるのはこれである。
エトの場合“魔導”に関しては、魔法発動の本質的な魔導行程であり必要条件である呪文詠唱を完全に省略する特異能力を有しているのだ。
本来あり得ないその離れ業によって、ノーモーションから繰り出される多彩な魔法の数々は、数多の敵を翻弄し圧倒する。
法則と秩序を掌握したエトのみに許される、神域の技である。
エトは幾度かそれを繰り返し、穏やかな湖面に不釣り合いなほどの高い土壁がいくつもそそり立った。
これならば、周囲の目もあまり気にせず沐浴出来るだろう。
「ふう、こんなところでしょうか」
「いつもながら鮮やかです!」
「リーネさんから、水が綺麗なうちにどうぞ」
それじゃあまるで、私が入ると水が穢れるみたいじゃないか。
とは言わない。
こういう時はレディーファースト、私だって心得はある。
しかしリーネは嬉しさ半分の隣に、不安感も半分ほど潜ませていた。
魔物が棲息する外界での無防備な状態は極力作らないのが鉄則であり、“ワームスネーク”の一件もあったわけだから余計に水場への警戒心は強かろう。
それを見越して、エトはブリギッドの方を見遣った。
「ブリギッド、貴女もリーネさんと一緒に水浴びをして来ますか?」
「いえ、妾は問題ありません」
「ではリーネさんが沐浴中、身辺警護をお願いします」
「了承しました」
リーネはブリギッドに深く礼を捧げ、共に土壁の裏へ向かって行った。
彼女の剣技を目の当たりにした今、何とも心強いボディガードである。
そういえばブリギッドは人形魔具らしいけれど、風呂にも入るのだろうか。
まあエトが彼女に訊ねていたということは、つまり入浴もする、もしくは出来るのだろう。
自分で自分を洗える魔具。
いやはや、道具扱いはもはや間違いか。
「ブリギッドを見ていると、人間との境界線がどんどんぼやけてくるなあ」
「彼女には人格が備わっていますからね、性格はほぼクレーマティスのトレースですけれど」
「人間より人間らしいというか。では人間とは何なのか、なら魔具とは何なのか、種族観が崩壊しそうだ」
「とはいえ彼女はひとの形をした魔具ですから、不便なこともあるようです」
「例えば?」
「ブリギッドは、人形という触媒に術式を施し、術者が注入したマターを基盤の生命線として活動しています。つまり食事の必要がないので、ものを食べる事は出来ますが、食への幸福感は理解不能でしょう」
「マターが生命線とは……、魔物みたいだな」
「人間を含め“種族”と呼ばれる存在は、マターが枯渇しても卒倒こそすれ、死ぬことはありません。そういう意味で言えば確かにブリギッドはマターが枯渇したらただの人形に戻るので、魔物と近しい生命活動形態をしていますが、口が裂けてもそんなこと言わないで下さい」
「彼女にも人格があるのだものな、失言だった」
「それに彼女は少し特別で、外部的マターを内部的マターに変換出来る術式を体内に備えています。起動時だけ術者がマターを注入すれば、活動中は外界にあるマターを大気中から経口的に取り込めるので、故意に内部的マターを消耗し過ぎない限り枯渇が原因で活動停止になることはありません」
この世界は、宇宙から無限に降り注ぐ“マター”で溢れている。
大気中に存在し外界を満たすマターを“外部的マター”と言い、それらを呼吸や食事で摂取することにより、自身の体内に互換性のあるエネルギー体として不随意的に変換されたものを“内部的マター”と言う。
魔法はこの“内部的マター”を使用することで発動し、“外部的マター”変換速度以上に“内部的マター”を使用すれば消耗し枯渇する。
人間や獣人、猫魔や他の種族、そして魔物すらその法則は普遍である。
しかし魔術の場合は術式の施された道具に術者がマターを流さなければ発動しないだけに、起動時以外はマターを外界から取り込める変換術式を備えた魔具など聞いたことがない。
ブリギッドは人間と魔具の中庸にある存在であり、同時に、異常なまでに稀有な存在でもあるようであった。
「だからブリギッドは、彼女自身が魔具でありながら魔剣まで扱えたのか。魔法を使える魔具とは本当に聞いたことがない……」
「それは正確ではありません。彼女は“魔術”こそ扱えますが、“魔導”を行使することは出来ませんから」
術者が術式にマターを流し、その術式が道具に変質をもたらす“魔術”。
それに対し“魔導”とは、呪文詠唱により法則の変容を誘導させる技法である。
要するにブリギッドは、あの腰に携えていた魔剣を扱うことが出来ても、エトのように何もないところから土壁を出現させたりすることは出来ないというわけだ。
しかし安易に考えれば、自身の内部的マターを放出する程度のことは出来るということになる。
内部的マターを持つ魔具自体聞いたこともないけれど、それを放出して他の魔具を扱えるだなんて、彼女はもはや物食わぬ人間である。
「クレーマティスは、いつからその様な技術を?」
「先述しましたが、彼女の“魔術”に対する才能は幼少期から一級品です。ずっと昔にその基盤は確立していましたし、私も彼女から幾度となく“魔術”を教わりました。ブリギッド自体は、私とコルが出会う以前から存在していましたよ」
「そうだったのか」
「魔王を討ってから争い事も減りましたし、クレーマティスもブリギッドを使う機会自体なかったのでしょうね」
「それこそ給仕でもさせたら良かったのではないか?」
「これも先述になりますが、ブリギッドの記憶はクレーマティスにも反映されます。クレーマティスがブリギッドに給仕させると、自分が自分に命令し自分で自分を従属させる状態になり、自身を二重俯瞰しているようで精神崩壊を起こすそうですよ」
「鏡に映る自分に向かって、お前は誰だ、と言い続けると錯乱してくるアレと同じだな。“魔術”と言ってもさすがは魔法、根底に“誰かを害する”という性質があるのは同じというわけか」
何とも複雑というか、難儀なものだ。
その時、土壁の裏から大きな物音が響いた。
まるで巨大な何かが湖面を叩きつけるような、激しい物音であった。
次いで、乱雑に振り回した鈴のような、荒く耳障りな騒音が耳を突く。
土壁の端で水面が揺れている、エトと私は顔を見合わせた。
「リーネさん、ブリギッド、無事ですか!」
エトは土壁の向こう側へ、大きく声を張り上げる。
しかしそれに対する応答はない。
しばらくの後、乱立する土壁のひとつに、反対側から飛んできた巨大な鉄球によって風穴が開けられた。
私達のいる馬車道側へ吹き飛びんできたその鉄球は、騒音を上げながら地に転がって動作を止める。
土壁の風穴越しに、哨戒活動用の白いローブを羽織ったリーネの姿があった。
合間から白い肌を晒し、銀白色の長い尾は威嚇で毛が逆立っている。
「何でいつもいつも、入浴中に来るんですかっ!」
それがお前の立場上の性質である、とは到底言えない。
上空へ伸びる土壁の頂上には、ふた振りの剣を鞘から引き抜いたブリギッドが立っていた。
「卿、敵襲です」
「守核属鉄球種ですね。文字通り鉄球を憑依具体物とし、内側の心部を守りながら攻撃してくる厄介な魔物です」
「妾の剣では完全に刃が通らず、傷や凹みは出来るのですが、即座に回復します。護衛の身で情け無い話ですが、卿の“退魔法”で消滅願えますでしょうか」
「それが、この手の魔物には退魔法が効かないんです」
「まさか、そんな……」
「“退魔法”は私が、消滅対象となる魔物を認識する必要があります。守核属の魔物は、自分の身を人工物等で覆っている為、消滅対象となる魔物を私が認識出来ません」
「なるほど確かに、見た目だけならただの巨大な鉄塊ですか……」
ブリギッドは睨め付けるように、件の魔物を見下ろした。
巨大な鉄球のように見えるその魔物は、突然宙へと浮遊する。
ゆらゆらと宙空を舞う奇妙な球体は、不気味としか表現出来ないほどの雰囲気を醸していた。
しかしその表面にはひとつ、拳大の穴が空いている。
内部の魔物がまるでこちらを伺うかのように、その穴は私達とブリギッドへ交互に向けられている。
「あの魔物は何と言うのですか?」
リーネはローブのままエトの隣へ戻り、そう訊ねる。
「あれは“テツタマ”と言います」
「まさかとは思いますけれど、金や銀はいないですよね……?」
「いますよ、名前は“キン……」
「ああっ、大丈夫です! またの機会に!」
食い気味に、リーネはエトのそれを封じた。
うむ、練度が上がってきている。
「卿、ひとつご教授願います」
「何でしょう?」
「“テツタマ”の外殻は再生速度が非常に速く、攻撃し続けることは徒労なようです。しかし反面、その外殻は想像以上に脆い」
「ご明察です」
「それを踏まえた上で、“テツタマ”の外殻にある穴から内部へ直接攻撃することは、有効打となりますでしょうか?」
「この手の魔物は、外殻もそうですが、それ以上に内部にある核と魔法自体の親和性が高いです」
「魔法との親和性、ですか?」
「“ジェルスライム”に粘着する性質があったり、“ワームスネーク”に緊縛する性質があったり、魔物は形態によってある程度の特性を判断出来ます。それは形態というものに、魔物の性質が束縛されているからです。しかし“テツタマ”は鉄球なのに浮遊し、鉄塊なのに脆い。形態と相反する性質ばかりを持つ魔物は、性質が形態に束縛されておらず、魔法伝導率が高いと言えます」
「魔物の上位互換、魔法生命体というわけですか。しかし魔法との親和性が高いのなら、魔法による攻撃は有効なはずではありませんか?」
「親和性が高いということは、核と魔法が安定的に結合し易いということ。それがどんな魔法であれ、自らのエネルギー源として喰ってしまうでしょう」
「なるほど、つまり“テツタマ”は物質体というより魔法体に近く、通常の魔物であれば殺傷可能な魔法でも吸着あるいは透化してしまうということですね。通りで魔剣での攻撃に、あまり手応えがないと思いました」
エトは大きく頷いた。
高度過ぎる会話に、私とリーネは目を回していた。
くそ、精神錯乱系の魔法か。
違うか。
ともあれ、どうにか私も理解出来たことがある。
“テツタマ”に魔法はあまり効かないということだ。
「しかし内部への直接攻撃が物理的なものであるなら、それは有効打と言えるでしょう」
「理解しました、ご教授感謝致します」
「ですが“テツタマ”の核は、その巨体に対し小石程度の大きさで、常に内部を動き回っています。穴から狙って剣を突き立てるのは、ほぼ不可能ですよ」
「勇者ファオスならば、恐らく外殻を両断した後、再生する前に核を斬るのでしょうね」
「はは……」
「妾にその技量はありません、が、非力なりの戦法は持ち得ます」
ブリギッドは十二分に反則的な強さだと思うのだが、確かにそんな彼女が傷付けるだけで手一杯だった件の魔物の外殻を両断するとは、さすが勇者ファオスである。
武功を聴けば、勇者の前では誰もが非力を感じるだろう。
しかしブリギッドは無表情ながら、口元に小さく笑みを浮かべた。
非常にぎこちない、微笑というより恐喝に近い面持ちだけれど、それはこの際良しとしよう。
どうやらブリギッドには案があるようであった。
「卿の御手を煩わせるまでもありません。あれは妾等で仕留めます」
「妾等……、って誰のことでしょう?」
「ちらっ」
「ええっ、私も頭数ですか!? というかブリギッドさん、そういう擬音語は口に出しちゃダメです!」
「じーっ」
「ダメですってば!」
「ぎょろっ」
「怖い!」
何を遊んでいるのだお前達は。
“テツタマ”がゆらゆらしていてくれたお陰で、十分過ぎるほど解説尺は取れたぞ。
リーネの経験を思ってのことか、エトは素早く後退した。
それを合図にブリギッドが動く。
土壁の頂上から神速で“テツタマ”の背後へ移動し、白群色の魔剣を振り抜いた。
すると剣撃軌道に沿って地から凍結を始め、瞬く間に“テツタマ”の外殻は凍り付く。
魔法攻撃とはいえ、身体全体を凍らせられてはそう簡単に抜け出せまい。
しかし、何故かその穴だけは剥き出しのまま残されていた。
「卿に良いところを見せて差し上げましょう」
距離は遠いが、猫魔の聴覚がそんなブリギッドの声を捉える。
「でっ、でもどうしたら……」
「妾が“テツタマ”を中空へ打ち上げます。リーネ氏、貴女はそれを思い切り叩き落として下さい」
「叩き落とすって、湖にですか?」
「はい。その時の注意点として、この穴が始めに水面へ着弾するようお願い致します」
「は、はぁ……?」
ブリギッドは徐ろに湖へ入り、“テツタマ”へ向けて両剣で湖面を斬り上げた。
大量の水が“テツタマ”に掛かり、その穴にもいくらかの水が入る。
「では参ります」
「えっ、ちょっ……!」
ブリギッドは真朱色の魔剣を数転させ、火炎の旋風を発生させる。
その炎は氷結軌道に沿って“テツタマ”を焼き、高温に熱せられたその魔物は穴から汽笛のような音を立てて水蒸気を放出した。
ブリギッドが先程斬り飛ばした湖の水が、どうやら“テツタマ”の中で沸騰したらしい。
核は熱がっているのか、猛烈な音を立てて内側から外殻を打ち鳴らしている。
「ふっ!」
氷が完全に溶けた状態で、穴から湯気を吹いたままの“テツタマ”をブリギッドは両剣で宙へ斬り上げた。
警笛を鳴らしたままの“テツタマ”は、彼女の膂力によって高い土壁を易々と越える。
「えっ、間に合わな……!」
「これが出来ないようならば、魔物哨戒班をお降り下さい」
一瞬怯んだものの、その辛辣な言葉がリーネに火を付けたようであった。
彼女の纏う雰囲気が変わる。
「変性意識状態:M・T」
そう呟いたリーネはひとつ深呼吸を放ち、同時に、そして瞬時に毛髪が紺碧へと染まる。
変性意識状態:M・T
意識的に脳内リミッターを解除し、随意的に身体的能力向上を行う為、肉体の限界値を問わない代わりに驚異的な戦闘能力が得られるというリーネの魔法である。
「MTL:1、MTL:2、解除!」
M・Tには数段階のレベルがあり、解除する度にリーネの様々な能力が拡張されていく。
MTL:1は感覚拡大、つまり五感の官能性を飛躍的に向上させる。
MTL:2は渾身拡大、つまり全身の身体能力を飛躍的に向上させる。
リーネは地と土壁を蹴り、たった三歩で中空彼方の“テツタマ”を足元に捉えた。
未だ留まることを知らない警笛は、リーネの威圧感に身の危険を覚えているからだろうか。
「せぇ、のっ!」
そして、リーネの猛烈な踵落としが決まる。
鋭角に繰り出された蹴りが直撃した“テツタマ”は湖面へ垂直に落下し、大きな水飛沫を上げてその巨大な半身が水中へ埋没した。
刹那、炸裂音にも似た大きな音がひとつ上がる。
“テツタマ”を見遣れば、球形の外殻は無惨なまでに圧し潰されて、鉄の塔のように細長く変形していた。
“テツタマ”の外殻は、突如としてその形状を崩壊させたのである。
あれでは中にある核などひとたまりもないだろう。
しかし、いったい何が起こったというのだ。
「う、ふぁ……」
中空に投げ出されたリーネの毛髪は銀白色に戻っており、無抵抗のまま力なく落下してくる。
恐らく動く力がなくなってしまったのだろう。
A・Tとは異なり、M・Tは強制的に脳内リミッターを全解除する為、発動中に身体能力の許容限界値を軽く超えてしまうのが珠瑕だ。
しかし、あのままでは地に叩き付けられてしまう。
エトが飛び出そうとしたその刹那、ブリギッドは既に、落下してくるリーネの麓へ跳んでいた。
抱き留めるようにしてリーネを受けたブリギッドは、緩やかに着地を決めてそっと降ろす。
「お疲れ様でした」
「あ、ありがとうございます」
「貴女は魔物哨戒班がお好きなのですか?」
「エト先生とコル師匠のいる、魔物哨戒班が好きなんです。ここは誰にも譲りません」
「そうですか、それを聞いて安心致しました」
ずっと無表情であったブリギッドは、ここで初めて華やかな笑みを浮かべた。
人間とも人形とも区別が付かない彼女だけれど、その表情はまさに人間そのものであった。
「ところでブリギッドさん、“テツタマ”はどうして圧し潰れたのですか?」
「鉄球内外にある大気圧の差を利用しました」
「大気圧?」
「穴の空いている鉄球。その外殻は非常に脆く、内部には広い空洞があり、魔剣があまり有効でないことは初手一撃で判りました」
「“テツタマ”を斬り付けたときですね。あの一瞬でそれだけの情報を……」
「第一段階、魔剣の効力が多少有効な外殻のみを氷結させて動きを拘束、鉄球の空洞内に湖の水を投入しました。これがまず第一段階です」
「何故、湖の水を?」
「結論から言ってしまえば、湖の水は魔法ではないからです。魔剣による氷結能を生かして水分を空洞内へ流し込んでも、恐らく水分子が構成される前にマターとして吸収されてしまうでしょうから」
「そういえばブリギッドさんは、エト先生にそんな質問をされていましたね」
「そして第二段階、魔剣による熱を用いて“テツタマ”内部に入れた水を沸騰させます。ある程度は外殻にマターとして吸収されてしまいますが、魔法での精製物ではない湖の水は、その程度の熱で容易に湧きます」
リーネは「そういえば汽笛のように大きな音を立てていましたね」と、感慨深く開口した。
「“テツタマ”の中で沸騰した水は蒸気となり、空洞内の大気を押し出します。やがて内部は水蒸気で満たされ、その状態のまま湖へ突き落として頂きました。その際、水蒸気の逃げ口である穴側から落下したら、どうなるでしょう」
「私が蹴り落としたやつですね、ええっと……?」
「内部の水蒸気は湖の冷たい水に一瞬で冷やされ、気体から液体へと変化します。その時“テツタマ”は外殻の穴から湖へ落ちたので、新たな大気が内部へ侵入する暇はありません。すると内部の大気圧は失われ、外部からの大気圧によって圧し潰されるという計算です」
「……あっ、今お魚が跳ねましたね!」
「…………」
難解な説明を拝聴しても、きっとリーネにはまだ理解及ばないだろう。
しかしなるほど、そういう原理か。
簡単に言えば、同じ力で押し合いをしている人間がいるとして、ひとりが力を抜けば、もうひとりは当然のことながら押し勝つだろう。
つまりはそういうことである。
大気から“テツタマ”内外に掛かる圧力のうち、内部の圧力のみを失わせ、外部に掛かっている大気圧によって外殻を圧し潰したのである。
自然現象を利用した見事な戦法だ。
「良いですか、リーネ氏」
ブリギッドは徐ろに開口した。
「卿といれば、貴女は自身の非力を幾度となく痛感するでしょう。それほどまでに、卿は強者です」
「はい……」
「しかし非力を痛感することと、それを悲観することは全く別の問題です。強者には見えない弱者側からの世界、それを駆使すれば、弱者には弱者なりの戦い方が見えてくるでしょう」
「私はブリギッドさんのように聡明ではありませんし、ブリギッドさんより遥かに非力です。そんな私にも、ブリギッドさんのような戦い方が出来るでしょうか……」
「出来るか出来ないか、ではなく、するかしないかです。やらざるを得ない状況下に置かれた時、出来るか出来ないかで悩んでいたら、そのうちに貴女はなぶり殺されるでしょう。しかし、するかしないかを考えれば、しない選択肢を選んでも、他の方法を試みる余地が生まれてきます」
手厳しい事を言っているが、ブリギッドの言論はもっともである。
死地に於いて、己の命を繋ぐのは己なのだ。
エトは無言のまま、ふたりのやり取りを見詰めていた。
「魔物哨戒班にいたいのなら、卿の手助けがしたいのなら、弱者として強く在るべきです。助けられるだけのお荷物ではなく、強者である卿を援護する心強い弱者で在るべきです」
「…………」
「少なくとも貴女は、卿の手助けをすることが出来る権利を有しています。その権利が欲しいひとなど無数に在るこの世の中で、貴女がそれを持っているのです。素質は十二分にあるのですから、その僥倖を上手に活かしましょうね」
「ブリギッドさん……、はい!」
リーネはまだまだ強くなれるだろう。
その成長を見守る楽しみもまた、もしかすれば私達の僥倖なのかもしれない。
女の子だと思って彼女に気を遣い過ぎていた私は、浅はかだったのかもしれない。
エトは満足そうに笑みを浮かべ、ゆったりとふたりの方へ歩み寄った。
「そういえば“テツタマ”の改名がまだでした。ブリギッド、付けてみますか?」
「卿、それは魔物哨戒班ではない妾がして良いことではありません」
「班長権限で許可します」
「で、ですが……」
「では改名案の提出を要請します、それなら良いでしょう?」
「それくらいならば……」
ブリギッドは腕を組み眉根を寄せて熟考の後、至極小さな声で囁いた。
「“アイアンベル”……、とか……」
「改名します」
「卿?!」
「採用されました、おめでとうございます」
「あ、主人に指示を仰いでから、うぐっ、今は講座の最中ですか……」
ブリギッドが慌てる様子を見るのは、なんとも稀有で愉快な雰囲気である。
私は改稿作業を始めたエトの頭上から飛び降り、寝そべったまま空を仰いでいるリーネのそばへ寄った。
深妙な顔つきで、彼女は小さく溜息を吐いている。
「具合はどうだ?」
「コル師匠」
「お前のM・T発動限界は、確かL:2までであったな。使用時間が短かったとはいえ、しばらくは動けまいよ」
「そうみたいです。何とも情けない気分です」
「ブリギッドの言葉が心に刺さるか?」
「正しいことを言われているなぁって、そう感じました。でも、だからこそ、私も強くなりたいって思います。一生という短い期間のうちにどれだけ恩返し出来るかわかりませんが、恩を返せている自信が持てるくらい、エト先生の手助けが出来る強さが欲しいです」
「そうか」
そう語るリーネの眼差しは、熱意に溢れていた。
私もますます、負けてはいられないな。
魔物哨戒班の成長は、これからである。