“クレマ笑い”の話
王都領域圏内を一通り散策した私達魔物哨戒班は、山頂から拝した我等が都、王都プロキオンへと帰路を取ることにした。
ここら一帯の哨戒活動も済んだところだし、一先ず聖騎士団への活動報告をする算段である。
そんな中リーネは、何とは言わないまでも何やら思うところがあるようで、どうにも落ち着きのない面持ちであった。
しかし別段これと言った理由もなく私的なことを訊ねるのも野暮ったいかと思い、訊くに訊かれず成り行き任せに道中の雑談を食んで今に至る。
そんな昼下がりの林の中、場所は山の麓にある針葉樹林帯。
「王都へ戻るとなれば、しばらく振りに魔法学校へも顔を出せますね」
リーネはどこか意を決したように、ようやく本題と言わんばかりの勢いで、エトへと話掛けた。
「そうですね。私としてはまあ、どうにも気が重いところです……」
「聖騎士団召集とは言え、魔法学校での業務を全てクレーマティス様に一任してきてしまいましたからね」
「逃げるように出てきた手前、合わせる顔がありません」
「きっと聖騎士団の方からもクレーマティス様へ通達があったと思いますし、ご聡明な方ですからご理解頂けていますよ」
「だと良いのですが……」
エトはいつもの表情を崩さないが、いつになく弱気なものであった。
エトは王都プロキオンが誇る最高位魔法使いであり、国王から“大魔法師”の号を授かっている。
そんな大魔法師様には、魔法使いの中でもエキスパートと呼ばれる“魔法師”達への育成義務が課されているのだ。
聖騎士団招集で急務的に王都を発ったとはいえ、エトはそれら“大魔法師”の職務を、魔法使いクレーマティスに丸投げしてきた。
帰郷するとはいえ、なるほど歩く足取りが重いはずである。
「クレーマティス様は、エト先生のご旧友でいらっしゃるのですよね」
「ええ。クレーマティスの魔術の腕前は、幼い頃から一級品でした」
「思い至りますね」
“魔法”とは、元来ふたつの発動手段を統合した名称を示唆する。
呪文を詠唱して発動する“魔導”。
術式付与された魔具の使用によって発動する“魔術”。
前者を極めた者が魔導士であり、後者を極めたものが魔術士とされ、その両者を極めた者が“魔法士”と呼ばれるようになる。
そしてそのような“魔法士”達を指導する立場にあり、魔法使いのエキスパートとして王直々に認定を受けた者が、先述もしたが“魔法師”と呼ばれる号を受けるのだ。
つまるところエトの号である“大魔法師”とは、“魔法師”の長であり魔法使いの頂点を意味する。
いつも柔和な雰囲気だけれど、エトは、実はものすごく偉い立場に在るのだ。
それほどの職務を代理出来る人物としてエトが白羽の矢を立てたのが、魔法使いクレーマティスである。
「古希のお祝いをしたばかりですけれど、その立ち振る舞いはいつまでも優美で。ご年齢を感じさせないほど、本当にお美しい方ですよね」
「言ってあげて下さい、喜びますよ」
「ちなみに、もう一度確認しますけれど、クレーマティス様はエト先生のご旧友なんですよね?」
「そうですね」
「良きお姉様だったんですよね?」
「いえいえ、昔はクレーマティスを抱き上げて、高い高いしてあげたものですよ。そういう意味で言えば、旧友というより妹分と言った方が適当でしょうか」
「思い至りません……」
なるほど、先程からリーナがそわそわしていた理由はこれだったのか。
王都への帰省に際し、彼女はどうにも気掛かりであったのだ。
エトが職務を一任した、魔法使いクレーマティスの続柄を。
しかし、そんなリーネの反応は至極妥当なものだろう。
女性の年齢を語ることは憚られるところだが、魔法使いクレーマティスは、リーネが言った通り齢七十の魔法使いである。
彼女の意思で国王から号を授かってはいないものの、その技術力は“大魔法師”のそれに匹敵する魔法使いだ。
どちらかといえばリーネは、エトとクレーマティスの恋愛遍歴を気にしているわけではなかろう。
それほどの高齢高名な魔法使いをエトが、よもや「高い高い」していたという事実が、そもそも信じ難い話なのである。
だってそうだろう、エトの容姿はどこからどう見ても、二十そこそこであるのだから。
思い返せば、エトオール・アステルというこの人物は、勇者ファオス率いる魔王討伐部隊にて専属魔法使いを担っていたのだ。
それは史実に基づく確定的な情報であり、誰もが知っている真実である。
そう、言い返せば、もはやその真実は史実であり、それがそもそも信じられない要因と化しているわけだけれど、魔王が討伐されたのは今から五十年も前の話なのだ。
じゃあお前はいったい、いくつなんだよ。
エトオール・アステル。
いやはや、計り知れない。
「噂をすれば影、ですかね」
するとエトは急に立ち止まり、その先に在る切り株を指差した。
見遣ればそこには、澄んだ空気を一身に纏う紫色の髪の少女がひとり。
木々の狭間に落ちる麗らかな木漏れ日を湛えた大きな切り株に、まるで童話から出て来たような絵画的な雰囲気で、静かに腰を据えているではないか。
人里離れた針葉樹林帯の奥地、辺りには凶悪な魔物もごまんといる。
だというのにその年端もいかない少女は怯えた素振りもなく、木漏れ日の中で目を瞑ったまま、ただそこに在った。
「どうしてこんなところに女の子が……」
「本当ですね、どうして貴女がこんなところにいるのですか。ブリギッド」
エトは彼女のことを、どうやら知っている風であった。
ハーフアップにした紫色の長い髪、透き通るような白い肌、やがて緩やかに開かれた瞼の奥には黄金色の瞳。
灰色を基調とした淡い黄色の線が走るドレスアーマーを纏い、腰の両側に携えられたふた振りの剣が、年齢にそぐわない彼女の様態をさらに煽り立てている。
リーネより幼く見えるその少女は物々しい風貌をしているものの、よくよく見遣れば何というか、私もどこか知っている雰囲気を過分に含んでいた。
「それはこちらの台詞です、卿」
少女は可憐な仕草で切り株から立ち上がり、しっかりとこちらを見据えたまま、鈴の音のような柔らかい声でそう発する。
間違いない。
容姿こそ童女のそれであるものの、あの雰囲気、あの声色、あれは魔法使いクレーマティス・ブリードそのひとである。
どれだけ声が幼変わりしても、猫魔族の聴覚は誤魔化せない。
しかしエトは彼女を「ブリギッド」と呼んでいたが、いったいどういうことだろう。
何故あのような見た目であり、何故このような場所に在るのかわからないが、その無表情な彼女の眼光は並々ならない威圧感を放っていた。
「言いたいことは山とありますけれど、今は止すとします。妾がここまで赴いた理由はひとつ」
ブリギッドと呼ばれる少女は、腰に携えられた両剣の柄を握り、その剣身を厳かに外気へと晒していく。
刀身が鞘を擦る金属音は、静かに林の中を巡る。
「卿等を王都へは帰しません」
彼女の引き抜いたふた振りの剣、その刀身のひと振りは鮮やかな真朱色、もうひと振りは淡い白群色をしていた。
どのような性能を誇るかわからないが、あれは両方とも魔剣である。
術式が付与された道具である“魔具”、その技術を剣身に用いたものであり、そのあり様は“魔術”の真髄と言っても過言ではない。
要求内容を如実に表すそんな彼女の抜刀は、辺り一帯の空気を一挙に緊迫させた。
「残念ながら、私達は今まさに王都へ向かっているところです。ブリギッド、要件はそれだけですか?」
「要件はそれだけです、が、それは最も重要なことです」
ブリギッドはふた振りの剣を構える。
一寸の隙もない彼女の気迫は、易々と道を空けてくれないことを示唆していた。
「卿は聖騎士団からの依頼で、魔物照会帳簿の改稿作業を行なっていたのだとか」
「はい」
「あの日、学室にある私の卓上には“いってきます”と書かれた羊皮紙がひとつありました。てっきり妾は、卿が昼食を取られに出たのだとばかり思い、聖騎士団の方から封書を渡された翌朝までそこで待機しておりました」
「そ、それは本当にすみませんでした……」
「いえ、聖騎士団長であるアーサー様直々のご命令であったと伺っております、卿にとってもそれが急務であったことをお察し致しております。ひと晩を学室で明かしたことや、“大魔法師”の職務を代行する程度、何の不服もございません」
「微妙に、根に持っている言い草ですね」
「しかし件の急務、伺えば伺うほど、それはまず妾にお声掛け頂きたかった内容だと沸々思いが昂ぶるものでした」
ブリギッドの鋭い視線が、リーネを貫く。
何だ、訳ありか?
鬼気迫る眼光を受けたリーネは、自身より身の丈がいくらも小さい童女に対し、捕食者と遭遇した被食者のように怯え硬直してしまっている。
その膝はひどく震え、跳ね上がる動悸と脂汗がリーネの心情を濃く表現していた。
いくら容姿が幼いとは言え、あの覇気は幾重もの死線を潜って来た者のそれである。
ブリギッドがその気になれば、リーネなど視線だけで射殺すだろう。
「妾の思いを知っていながら、何故この仕事を……」
ブリギッドは白群色の魔剣を地に向けてひと振りした。
すると彼女の正面から直線上にある樹林帯の草花は瞬く間に凍り付き、たちまち氷結した冷涼な道が作り出される。
ブリギッドはその氷上に踏み入り、優雅な動作でこちらへ近付いてくる。
「何故この仕事を受けた事を、お伝え下さらなかったのですか」
一瞬。
それは、ほんの一瞬の出来事であった。
視界の中心に捉えていたブリギッドを、私は完全に見失ったのである。
視界には爆ぜる薄氷と、その速度に圧されて宙を舞う草花。
彼女の存在は、姿勢を低く落とした状態で、私達の直ぐ足元に在った。
既に真朱色の魔剣を振り抜いた後のようで、その剣戟が突風となって背後の木々の合間を突き抜けて駆る。
後ろを見遣れば、そこにあった豊かな針葉樹の林は塵芥と化し、突風の通った後は煌々と焔が燃え盛り、その熱は荒く額を焼いた。
まさに神速、“ソニックタートル”が可愛く思えるくらいである。
しかし、それを思えば不思議なことがある。
そうであるならば、私達は既に両断されているはずである。
どうやらブリギッドが意図する殺意の矛先は、私達ではないらしい。
彼女は剣の切っ先を、ちょうどリーネの背後に残った一輪の花へと向けた。
「妾がそれを知ってあれば、いち早くこの魔物の改名を懇願しました。卿にお任せ出来れば、大安心を以て王都の執務に専念出来ましたのに」
その矛先には、紫色の小さな花が咲いていた。
耳を澄ませば判る、その花はまるでひとの声を生き写したように、小刻みに震えながら笑い声を上げていたのだった。
花が、笑っている。
滑稽なほど、滑稽に。
不気味なほど、不気味に。
笑っている。
「ぐ、群生根属笑花種。ひとの笑い声のような音を発するこの魔物が密生すると、一帯がまるで宴会場のような騒音になり、精神的なストレスを周囲に与えます。枯れると音が止まるので、焼き払うか除草剤を散布すれば対策が出来る植物系の魔物ですね」
「流石は卿。さて、この魔物の名は何と申しますか?」
「……“クレマ笑い”」
「そう、“クレマ笑い”。私はこれほど品の欠いた笑み方を、していないつもりです。紫色というだけで妾の名を冠してしまったこの魔物、命名した勇者ファオスを幾度恨んだか知れません」
「そ、そういえばそうでしたね。すぐ改名しましょう」
どうやらこのブリギッドという少女の目的は、痴話騒動の報復でもなければ、何かエトに私怨があるわけでもないらしい。
究極的なまでに改名を望む魔物がいる、その為にここで私達と相対しているようであった。
ブリギッドはエトのそれを聞いて腰の鞘に両剣を収め、踵を返して再び切り株へと腰を下ろす。
「え、エト先生、彼女はいったい……」
「彼女は、クレーマティスが開発し、最も愛用している魔具“ブリギッド”。主人の命を絶対遵守し、一定条件が満たされると元の姿へ還る、意思ある人形です」
「意思ある、人形……」
「ある程度の情報や思考を施術者と共有する性質があるので、どうしても術者と人格が似通ってしまう欠点はありますが、恐らく魔術の中でも唯一の自律型魔具かと」
「術者の命令を遂行するために、自由意志で行動する魔具ですか。そんなものがこの世に存在するなんて……」
リーネの感慨はもっともである。
魔具とは本来、ある物体に対して、その物体の性質を変質させる魔法が施された道具を差す。
例えば矢に魔法を施して一定距離で爆発させたり、例えば槍に魔法を施して瞬時に柄を伸縮させたり、魔具とはそのような使われ方をするのだ。
しかし人形魔具“ブリギッド”に与えられた変質は、人格の所有である。
さらに言えば火気と冷気を放つ魔剣すら扱う、言わば魔具を行使する魔具。
もはや人形魔具というよりひとつの存在に近い、異次元の魔術だ。
俄かには信じ難いが、ともあれ話を突き詰めれば、彼女は魔法なのである。
「ブリギッドが得た情報は、少しの間を要してクレーマティスにも届けられます。その情報に対して、命令の即時変更や追加をクレーマティスは遠方から行っております。つまりブリギッドは、自由意志を持っているとはいえ、クレーマティス本人に相違ないと考えた方が懸命でしょう」
「じゃあブリギッドさんは、“クレマ笑い”を改名して欲しくて、クレーマティス様にここへ派遣されたんですか……」
「そういうことでしょうね。この魔物の改名は、かなり重要ですよ」
命の危険、的な意味だろうか。
エトと私はリーネを見詰め、それを受けた彼女は驚嘆する。
「えっ、えっ、私が改名するんですか!?」
「私が付ける名は、いつも正当性に欠けているようですし」
「ご自覚があったんですね……」
「何より、“クレマ笑い”は私にとっても存外悪くないと思っていたりするもので。本人の前では口が裂けても言えませんが」
どことなくブリギッドの視線が刺さる。
聞こえているのではないか?
「とはいえ、クレーマティス様と同じ紫色をしているというだけで“クレマ笑い”は、確かにひどい気がします。私が責任を持って改名させて頂きます」
「さすがリーネさん、心強いです。この魔物をどうお考えになりますか?」
「紫色、ひとの声で笑う、植物の魔物……」
リーネはぶつぶつと呟きながら、その魔物に耳を近付けた。
頭の上に乗る三角形の耳が、魔物の発する音を懸命に集める。
「クフ、クフフ、フフフフ、クフフ……」
リーネはそんな魔物の発する音を聴いて、ひどく渋い顔をした。
うん、何となく気持ちはわかる。
「うっわ、ものすごい不気味ですね……」
「他の仲間はブリギッドに焼き払われてしまったので、今はとてもローテンションなようです」
「ハイテンションな笑い声もちょっと気になりますが、いやいや、全然笑えない不気味さですよ」
リーネはそこまで言うと表情を変え、手を打って「決まりました」と声を上げる。
「紫の笑う草と書いて“紫笑草”、どうでしょう?」
「“シッショウソウ”、なかなか良いが、リーネらしからぬ命名だな」
「かねてからのクレーマティス様の怨恨も、ありったけぶつけてみました」
「ブリギッド、どうだ?」
切り株の上で涼しげな顔をしているブリギッドに、私は声を掛けた。
彼女は無表情のままこくりと頷いて、許可を下したようであった。
「良い命名です。卿、即時改稿を要請します」
「心得ました」
エトは魔物照会帳簿を取り出し、改稿作業を始める。
どうやら、今回も一件落着なようであった。
しかし“クレマ笑い”か。
勇者ファオスも感覚的な生き方をしていたものである。
当人からしてみれば至極不名誉な話であるわけだし、少しでもそれが払拭されるのは望ましいものだ。
「ちなみにですけれど、ブリギッドのことをくすぐってみて下さい」
エトは改稿作業を行いながら、耳打ちするようにしてリーネへそう開口する。
改稿中改稿とか、よせよ。
「くすぐる、ってエト先生。出来るわけないじゃないですか、粉微塵にされます」
「大丈夫ですよ。雰囲気はあんな感じですけれど、根はとても優しい子ですから」
「それはクレーマティス様がですか、それともブリギッドさんがですか……!?」
エトはそれ以上答えないようで、改稿作業への集中を始めた。
私とリーネは顔を見合わせ、特にやることもないからと、エトのそれを実行してみることにした。
私はエトの頭上からリーネの頭上へ飛び移り、切り株に腰掛ける妖精のような雰囲気のブリギッドの御前まで、リーネと一緒に歩み寄る。
彼女は小首を傾げ、訝しげにこちらを見上げていた。
あれほどの剣捌きを見せられた手前、ちょっとした恐怖感もあるが、リーネは意を決して会釈をひとつ。
「失礼します!」
「え、な……っ、うっ、ふふっ、くふふっ、ちょっ、やめっ、ふふ、くふふふ……、っ!」
なるほど納得、それで“クレマ笑い”か。
笑い方がアレと微妙に似ていた。
これはブリギッドの笑い方だけれども、彼女はある意味クレーマティスを投影した人形。
クレーマティスはいつも粛々としているので私は聞いたことがなかったが、笑うとこんな感じなのだろう。
いずれにしても勇者ファオスは、感覚的に生きる部類の人間なようである。
このテキトーな感じが適当と言うか、ビミョーな感じが妥当と言うか、魔物への命名が直球である。
「やだっ、やっ、くふっ、くふふ、はは、っ、やめて、やめてくださっ、くふふふ、やっ、やめなさいっ!」
リーネに向けて放たれたブリギッドの拳骨が私の背骨へ直撃したことは、それから数瞬だけ後の出来事であった。