“かなり嫌ん”の話
山岳地帯の頭頂部。
荒野の先にある大平原を眼下に抑え、その果てに佇む王都プロキオンを拝しながら、遠征も来るところまで来たのだなと感慨は深い。
天候良好、視界最良、風速安定、順風満帆。
山頂だけあって少し肌寒くもあるが、しかし雄大なこの眺めと、どこからともなく聞こえてくる美しい野鳥の囀りが心の芯を温めてくれる。
はてさて、魔物哨戒班であるそんな私達にも小休憩が来たということで、エトは立ったまま景色を眺めて山頂の綺麗な空気をいっぱいに吸い込んでいた。
私とリーネは近場にあったベンチのような細長い一枚岩へ共に腰掛け、しかしそんな小休止の折に、獣人族の少女は茶を煽りながら複雑な面持ちをしていた。
「リーネ、どうした?」
「たまたまかもしれませんけれど、口周りの災難が続くなぁと思いまして」
「程度こそ違うが、まあ確かに、痺れたり齧ったり不憫が続くな」
「何でですかねぇ……」
“ヘッドフィッシュ”の尾鰭に刺さり全身麻痺、これはまあ不慮の事故であったし仕方がないけれど、“ソニックシェル”の時に関しては自分で舌を噛んだだけなので何とも言えない。
しかし、ぺろりと晒したリーネの舌は真っ赤に腫れており、見事な咬傷痕がありありと残っていた。
「エト先生はどう思われますか?」
「可哀想に思います」
「すごい流された感が否めないのですが……」
「頑張っている姿が最近とても良く見られるリーネさんですから、そういう痛みある名誉もありましょう。努力の勲章だと思って、めげずに躍進して頂きたいですね」
「ねぇ、コル師匠! 聴きましたか、エト先生の素晴らしいご評価!」
リーネは嬉々として“努力の勲章”というエトの言葉を反芻しながら、こちらへ満面の笑みを飛ばしてくる。
物は言いようである、本当に。
その点、エトは上手だなあと素直に評価しよう。
「感覚的なものだが、舌先を負傷しているのと、舌先が痺れているのとでは、どちらが辛い?」
「痛み……、痺れ……、うーん。どっちも嫌ですけれど、どちらが辛いかと訊ねられると……」
休憩時に於ける別段これと言った意味合いのない質問であったが、リーネは腕を組んで悶々と悩み始めてしまった。
もっと簡単に考えて、当人の体感で答えてくれたら良かったのだけれどもなあ。
毒を薄めれば薬となるように、真面目も過ぎると精神衛生上よろしくない気がする。
質問者として、その感想もどうかと思うけれど。
「ところでおふたりとも。座っているその岩肌、気を付けて下さい」
突然エトは私とリーネの腰掛ける岩を指差し、それに促されて私達は股下を見遣る。
「い、いやぁあぁぁっ!」
驚愕の声を上げるリーネ。
私とリーネはその岩肌から飛び退き、エトの背に隠れて今一度それを確認する。
なんとその細長い一枚岩の付け根には、無数に蠢く突起状の何かがあった。
「九十九胴属八百万脚種。実際はそんなに胴節や足があるわけではないのですが、見た目のイメージからひどく盛られた分類名に在る魔物です」
「凄まじい量の……足なんですね、あのウネウネは……」
「はい。実際は五十個の胴ひとつひとつに大脚一本小脚二本、計大脚五十本小脚百本、ご覧の通り大脚はひとつの胴節ごとに左右互い違いで生えています。一番前の胴に生えている大脚が左側か右側かで、利き足がわかるんですよ」
「よくそんな研究をしましたね、エト先生……!」
「いやあ、牙に軽い毒を含んではいるものの、危険度自体はそれほど高くない魔物ですからね。まあ、この気持ち悪さを除けば」
「場合に寄っては気持ち悪さというものは、攻撃性より危険だと思いますよ!?」
リーネは身震いしながら、当該魔物を見詰めている。
まだそうしてまじまじと見ていられるだけ、そこいらの女子とは肝が違うと、私は心底感心するよ。
正直私は、あれに腰掛けていたのだと思うだけで毛が逆立つ。
鳥肌ものである、猫魔だけど。
「余計なお世話かもしれませんけれど、あれだけ足が多いと苦労も多そうですよね……」
「猫魔の生まれで良かったと、私は今、心からそう思うぞ。あれに生まれついていたなら、神へ直訴だ直訴」
当人、というか、当該魔物を前にして失礼なことを言ったものだと自身へ突っ込む。
さすがに言い過ぎである、自重しよう。
「そういえば、あの魔物は何と言うのですか?」
「“かなり嫌ん”と言います」
「清々しいくらい直球ですね!? 勇者ファオス様もお嫌いだったことが、びっくりするくらい伝わってきます」
「数奇な話ですが、あれだけの容姿をしておきながらカナリヤのような美しい声で鳴くんですよ」
「よもや、掛詞でしたか……」
かなり嫌だし、カナリヤっぽく鳴くから、“かなり嫌ん”。
すごく、嫌だ。
そういえば、ここ山頂に着いた時も野鳥の囀りが聞こえていたけれど、まさかその正体がこいつだったとでも言うのか。
うん、すごく、嫌だ。
大脚五十本・小脚百本であることから、まだ“五十歩百歩”とかそういう名前の方が、受け入れられそうなものである。
然して、大脚五十本無くても、小脚百本無くても、きっと私の嫌悪感は五十歩百歩であろう。
やかましいわ。
「“かなり嫌ん”と戦ってみますか?」
「勘弁してください……!」
「いつもなら背を押すところですが、まあ、今回ばかりは仕方ありませんね」
そう言うと、エトは“かなり嫌ん”に向けて手を掲げながらそっと近付く。
ただひたすら無数の脚をその場で動かし続けているだけの“かなり嫌ん”は、エトの退魔法射程距離圏内に入った矢先、無抵抗のまま跡形もなく霧散し消滅したのだった。
本当に何がしたかったのだ、あの魔物は。
「願うことなら、もう二度と出会いたくない魔物だ」
「ダメなことを言うようですけれど、万が一“かなり嫌ん”と再び遭遇しても、戦える気がしません。私も……」
「もっと言うなら、この次私は失神するかもしれない」
悍ましい、まさに魔物だ。
物理的な痛みや、毒性的な苦しみ、それは魔物が持ち得る特性だけれど、容姿による不快感だって十二分に凶器である。
「いい加減“かなり嫌ん”のことを忘れる為にも、早く改名作業に移りましょう!」
「うむ、私は“五十歩百歩”が良いと思う」
「うわぁ……、コル師匠らしからぬ命名ですね。よっぽど気が動転していらっしゃるようで……」
「ではリーネ、お前はあれをどう見るというのだよ。大脚が五十本、小脚が百本、有っても無くても気色悪い。これを五十歩百歩と名付けずに、どうしろというのだ」
「だからと言って、その名前だと、改名しても“かなり嫌ん”と似たような結果になってしまうじゃないですか……」
まあ、それもそうだった。
あまりにも気味が悪過ぎて、改名意図を失念するところであった。
私としたことが、これはいけない。
「改名の難しさを痛感するよ、失礼した。しかし、そう考えると言い得て妙だな。“かなり嫌ん”か……」
「“かなり嫌ん”の印象とか感想は、一先ず置いておきましょう。命名に関しては、魔物としての特性を最大限に表現する必要がありますからね」
「念頭に置くべきが魔物としての特性であるなら、あれに関しては随一の薄気味悪さがそれだけどな」
「なかなか悩みどころが多いですね……、エト先生は何か妙案がございますか?」
エトに訊いてもしょうがないと思うけれど、こうして上司に気を遣う辺り、やはりリーネは出来た子である。
そんな大魔法師様は少し悩んだ素振りを見せ、やがて何か閃いたのか、手を打って開口した。
「“すごく足”、なんてどうでしょうか?」
「か、考えように寄っては、“すごい足”ではなく“すごく足”と命名した辺りに深淵を感じてしまいますが……。でも、なるほど確かに、印象ではなく容姿そのものに着目するのは良いかもしれませんね」
リーネは熟考しながら名案を探る。
先程の失言を挽回する為にも、ここは彼女に協力させて頂くとしよう。
「猫魔の頭脳たる私が引き継ごう。“すごく足”が多かったわけだが、実際の本数は大脚五十本と小脚百本で、計百五十本。百と五十の足を持つ、という意味で“百五十足”というのはどうだ?」
「妥当性が高いと思います! さすが灰猫師匠!」
「うむ、苦しゅうない。エト、お前は?」
リーネに倣い、私もエトに声を掛ける。
エトは曲がりなりにも魔物哨戒班の長。
大魔法師様の頭上を特等席にしてしまうような間柄だが、言ってしまえばそんな私の上司でもあるわけで。
しかし今回もエトの案を参考にしたからか、本人は満足気な笑顔を呈していた。
「はい、では“モモイソク”に改名します」
エトは魔物照会帳簿を取り出し、改稿作業へと移った。
とんだ小休憩であったけれど、これも仕事。
エトの改稿作業がひと段落したら、今度は座る場所に気を付けながら、ゆっくり茶でも飲みたいものである。
握り飯があれば、なお良し。
そういえば……、というほどのことでもないが。
飲食を妄想していてそれとなく思い出したのだけれど、リーネに出した質問の返答がまだであった。
今更訊き直すことでもないと思うが、まあ、この暇の雑談ということで。
「頗るどうでもいいことを訊き直すようだが、リーネ。結局のところ、舌の痺れと痛みはどちらが辛いのだ?」
「打算的に言えば……、うん、五十歩百歩ですね」
そう言うと思った。
お後がよろしいようで。