“ゆるふわ”の話
平原の端にある水辺を越え、足場の悪い荒野帯を斜めに歩みながらしばらく。
私はふと疑問に思ったことを口にしてみた。
「なあ、エトよ」
「はい?」
「私達は今、魔物哨戒班としての活動義務に反することをしているのではないか?」
「そうでしょうか。確かに魔物という生き物は、遭遇した種族に対し敵意を持って無差別に襲い掛かってきます。それは魔物の本能であるから仕方がないことですけれど、それに対し私達が迫り来る魔物達を一掃する必然性はないと思うのです」
「力説をありがとう」
私はエトの頭で垂れたままその力説を承ったが、しかしそれを納得することが出来なかった。
エトの頭の上という至極近い距離で聴く演説も、私の感覚からは至極遠い位置にある内容である気がする。
そうであるなら仕方がない。
他人の意見を捻じ曲げてまで自身の意を通すほど、私は愚かでないつもりだ。
私はエトの傍らを歩く、もうひとりの班員へ視線を預けた。
「なあ、リーネよ」
「……はい」
“ワームスネーク”に噛まれた尾がまだ痛むのだろうか、美しい銀白色の長い尾を身体の手前に引いて、その先をさすりながら不機嫌そうに彼女は応じた。
気乗りしないところ本当に申し訳ないのだけれど、自身の意見を押し付けることは否であるとして、しかし私のこの違和感を捨て置くこともまた違うと思うのである。
「私達は今、魔物という敵に対して不遜な行いをしているのではないか?」
「そうでしょうか。魔性生物学基礎にもあるように、確かに、魔物を構成する三要素は“憑依具体物+悪意+マター”です。このことから魔物は悍ましいまでに奇怪異形であることが常ですけれど、それは大多数がそうであることを意味するというもので、そうでない極少数まで一様に“敵”とするのは間違っている気がします」
「力説をありがとう」
ふむ、もしかすると、私がおかしいのだろうか。
荒野を進む私達、そのすぐ背後、ひとつの気配。
見遣れば、真っ白いふわっとしたそれが、弾むように跳ねながら一定距離を保ちつつ私達の後を追って来ている。
「なあ、エトよ。一瞬でいい、ほんの少しだけ立ち止まってみてやくれないか?」
するとエトはその場に足を留め、隣を歩く獣人族も合わせて足を止めた。
さらに言えば、その真っ白いふわっとしたそれも、ぴたりと静止する。
いつもより少しほっこりとした笑顔のエトは、背後の光景を見てしかめっ面を綻ばせるリーネと視線を合わせ、弛んだ微笑みを互いに交換していた。
再び足を進め始めたエトとリーネ。
それに合わせて、背後の真っ白も行進を再開する。
ふむ……。
「まあ、そういう考え方もあるか」
「何を考えているのですか、コル?」
「いやな、見方によってはこれ、襲い来る魔物から私達は逃げている状態なのではないかと。そう思ったのだ」
「なるほど」
「ましてやあれは初見、魔物照会帳簿の確認もしていないだろう?」
「ですね」
「しかしまああの真っ白は、追っては来るものの、攻撃してこないわけだ。そう考えると、なるほど確かに愛くるしい容姿のあれを、わざわざ目の“敵”のように勇んで討伐する必要もないのかなと」
とはいえ仕事は仕事、討伐するか否かは据え置いて、これだけは確認せねばなるまい。
「あれは何だ?」
「囮属白綿毛種、雪のような純白の毛に覆われた球形の魔物です。跳ねるように身体を弾ませ、一定距離を保ちながら相手の背後をひたすら追って来る、地味なストレス攻撃を与えてくる魔物ですね」
「いやしかし……」
「そう、当該魔物の中でも特に白綿毛種は……、非常に可愛い。彼等魔物側としては私達にストレスを与えているつもりでしょうけれど、悩ましいことに、逆効果なほどこちらはほっこりしてしまうのです」
「して、あれの名は?」
「“ゆるふわ”です」
言い得て妙が過ぎるぞ、勇者ファオスよ。
「いつも明後日な方向に命名するくせに、何故そのものズバリな感じなのだ」
「私はあまり気に入っていないのですけどね」
「拗れてないからだろうよ……」
複雑な心理状態である。
いやいや、そうじゃなくて。
「聖騎士団長アーサーの為にも、せめて魔物照会帳簿の改稿作業だけは進めてやりたいのだが」
「でもコル師匠。あの子、本当に“ゆるふわ”って感じが私もするんです。改稿余地はあるのでしょうか?」
「リーネまでそう言うか。“ゆるふわ”に関する、魔物照会帳簿の照会データは読んだのか?」
「エト先生がいつも解説して下さるので、今回も特には読んでいませんけれど。ストレス攻撃をしてくる程度の魔物です、危険はありませんって」
だめだ、リーネのやつ完全に絆されている。
私は思うのだ。
そうは言っても、あれは魔物。
魔物構成三要素のひとつ“憑依具体物”に関しては、恐らく鳥類の羽根の毛玉である具体物等へ憑依したのだろう、それは良い。
そして魔物構成三要素のひとつ“マター”に関して、これは宇宙空間から際限無く降り注ぐ魔力の根源であり、種族にとっては魔法発動のエネルギーだが魔物にとっては生命線であるし、それも良い。
しかし魔物構成三要素の残るひとつ、それは“悪意”である。
この時点で魔物という生命体は、私達にとって有益無害なはずはないのである。
引っ掛かることもある。
このふたりはもう綻んでしまっているが、私の性根は貴様如きに懐柔されないぞ。
このモコふわ生命体め。
「なあエト、本当に“ゆるふわ”は安全なのか?」
「それを確かめる方法がひとつあります」
「それは?」
「“ゆるふわ”が誰の後を追って来ているのか、それが鍵です。その場に複数人いる場合、追われているのはそのうちひとり。つまりそれ以外の者は、あの“ゆるふわ”に触れることが出来るのです」
それはつまり、安全だということの裏返しで良いのだろうか。
追われているひとりだけは、あのモコふわ生命体に触れられないというのも、確かに地味なストレスではあるかもしれないけれど。
するとリーネは「はい、はーい!」と、大仰な動作で挙手した。
「私、“ゆるふわ”に触ってみたいです!」
「やめておけ、相手は魔物だ。エトの解説によれば、やつに追われてさえいなければ、まあ触れるのだろうけれど……」
「大丈夫ですよぉ、むしろこんなに可愛らしい生き物に触れられる機会の方が稀有なんですから」
そうとだけ言うと、リーネはくるりと踵を返した。
エトはその場に立ち止まり、私も頭の上で様子を伺う。
「触れないハズレ確率は1/3……、つまりアタリの可能性の方が高い!」
リーネはそっと“ゆるふわ”へと近付いた。
一歩、また一歩と目標に向けて足を進めてみる。
するとどうだろう、“ゆるふわ”はその場に硬直したまま微動だにしないではないか。
つまり追われていたのはエトか、もしくはその頭の上に乗る私。
要するに、私達がここから動かなければ、リーネは“ゆるふわ”に触れられるということ。
つまり彼女は、彼女の言うアタリを引いたようである。
垂涎した蕩け顔のリーネは、辛抱堪らんと言った具合に“ゆるふわ”へと飛び付いた。
普通の生物なら恐怖すら感じ得るだろうリーネのダイブに、しかし“ゆるふわ”は自身の生態に従って全く動かない。
捏ね繰り回すようにそれを撫で、愛玩状態の“ゆるふわ”へ容赦のないリーネは、それに頬擦りしながら耽美の吐息を漏らす。
「はあぁー、可愛い、可愛過ぎます。この収まりの良いサイズ感、柔らか過ぎず固過ぎない肌触り、ただひたすらモコモコを追求したような素晴らし……」
刹那、“ゆるふわ”を中心点とした周囲一帯が消失した。
否、荒野ごと摂餌されたと言った方が正しいだろうか。
突如として足場から生えた巨大な牙群がリーネを包囲し、まるでそこへ誘い込まれたかのように、勢い良く上顎と下顎が閉じてそれは彼女を丸呑みにしたのである。
あまりの出来事に、私は口を大きく開いたまま、ついこう漏らしてしまった。
「fin」
「いやいや、助けましょうね」