“おーミミズ”の話
なだらかな道を少し進んだ平原の辺り、清廉な水面は陽の光を反照し、穏やかに凪いだ空気を静かに冷やしている。
「ううぅ……、まだ嫌な臭いが取れません……。痒みも……」
その水場からほど近い茂みの裏に、エトと私は在った。
ジェルスライムの攻撃に被弾したリーネは、その異臭と猛烈な痒みに堪えかねて沐浴を申し出てきたのである。
無理もない。
その白い肌には小さな発疹がいくつも生まれ、三角形の耳がふたつ乗る銀色のボブヘアは粘り気を帯び、近寄り難い異臭を放ちながら嗚咽を漏らしていたのだ。
あれでそのまま任務続行というのは、些か無茶が過ぎるというものである。
「本当にあの痒みは堪らないんですよ、リーネさんの心中お察しします」
「むしろここまで良く堪えたものだよ、リーネは。私なら自殺する」
「原因を作った張本人が良く言いますね」
「張本猫だけどな」
エトは笑顔のままで、しかし妙な雰囲気を醸してくる。
怖い怖い、触らぬ何に何とやらである。
リーネが沐浴をしている間、私達はこの茂みの裏で周囲を警戒しているわけだが、これが何とも暇なものだ。
魔物が出現してもそこの大魔法師様が瞬殺してしまうし、哨戒前の魔物ならともかく、既に魔物照会帳簿改稿済みの魔物ばかり。
そういえばこいつはあんな名前だったなとか、その散り際に嘲りと失笑を手向けてやる程度のことしか娯楽がない。
そのように言えば私がひどく偏屈な猫魔に思われる者も在るだろうけれど、私が偏屈だからこうであるわけもなく、この暇が私をそうさせるのである。
「本当に臭いが取れません……。もう、どうして私がこんな目に……」
「如何に早くヒロインを脱がせるか、という評論をした者が在ってだな」
「何の話ですか……」
「こちらの話だ」
「そんなことよりコル師匠、絶対に覗かないで下さいよ?」
「なんで私だよ」
「エト先生は絶対にそんなことしません。良いですか、絶対に覗かないで下さい」
「“覗くな覗くな”というのは、“覗け”の合図だと言う国があってだな」
「覗くなって言ってるんですよ、捻くれ者の掃き溜めですかその国は!」
「まあ、申し訳ないがお子ちゃまには嗜好がないものでな。心配しなくても、それこそ神力的な不可抗力がない限り故意に覗いたりしないよ」
…………。
“お子ちゃま”と言われたことに腹を立てたのか、以来からリーネの応答がなくなった。
それもまたひとつだろう。
そもそもリーネは猫系獣人族、猫の耳や尾を持つ人間の近縁種族である。
対して私は猫魔族、猫と魔物の狭間を揺蕩う、造形が猫に近しい神獣種族だ。
人間が猿の裸体を見て発情しないように、私もリーネの裸体を見たところで特に感慨が湧かないのは本音である。
しかし、うむ、少し意地の悪いことを言ってしまっただろうか。
「リーネ、確かにお前はまだお子ちゃまだが、周囲も認める可愛らしさがある。そのまま健やかに成長すればきっと、獣人族の一派をたちまち悩殺できること請け合いだ」
「…………」
「私が猫魔の血に賭けて確約しよう、もし愛玩職に就くのであればプロデュースは任せて欲しい」
「……、っぷは! エト先生、コル師匠! 来て下さい!」
「何だかんだ言ってもお前、やっぱりそっちの気があったのか」
「ち、違います! 助け……っ!」
リーネの異変に勘付いたエトは、私より早く茂みを飛び出した。
追って水辺を見てみれば、周囲は波打つ帯状の物体、その爛々と光る眼と旺んに動く舌で満ち溢れている。
丸い、口が丸い。
夥しい数の帯状のそれは、まるで地面が波打っているかのような錯覚さえ起こすほど、その圧倒的な物量に不気味さを感じ得る。
リーネはそれらの中心で全身を締め上げられ、まさに祀り上げられるが如く掲げられ、磔刑状態で苦しみに悶えていた。
エトは霊験あらたかな動作で手を掲げ、力を込めて放った。
それ以外無動作のままに、それ以来無詠唱のままで、放ったのである。
魔法、と呼ぶには少し枠が狭過ぎる。
エトによる、エトだけの、あの魔法を。
すると周辺を埋め尽くしていた帯状のそれは瞬く間に爆ぜ、霧散し、失せた。
再び垣間見る地面の懐かしさを思い、私とエトはそこを歩いてリーネのもとへ寄る。
「けほ……、ぇっほ……」
「大丈夫ですか、リーネさん」
エトは自らの白いローブをリーネに掛け、久方振りの酸素に咽ぶリーネを労った。
窒息するくらい強固な締め付けに思えたが、しかしローブの端から覗く、縛られていたリーネの手足には緊縛痕が見られない。
あの帯状の魔物、実は柔いのだろうか。
「な、なんだったんですかあれは……」
「円口属帯状種。やつらはヒエラルキーを所有しており、無数の群で行動します。下っ端が獲物を捕縛するとフェロモンを発し、上位のやつらは円形に開かれた大きな口でその下っ端ごと丸呑みにする不気味な魔物です」
「全く音もなく、突然出現しました」
「やつらは細長い身体を波打たせて、地中や水中を這うように進みます。無風状態の日ですらその察知は困難を極め、気付くと辺り一面やつらまみれになっていることがままありますね」
「都の近くに出現して良い魔物ではないでしょう……」
「個体ひとつひとつは大した強さでもないので、冷静に対処すれば難所はない魔物ですよ」
リーネはエトの言わんとしていることを察し、頭に乗る三角形の耳を伏して反省の色を示す。
要するに、リーネの力量ならば丸腰でも切り抜けられる魔物だと、エトはそう言いたいのだろう。
可哀想ではあるが、そこに同情の余地はない。
同情することは即ち、リーネを半人前に扱うことと同義であるからだ。
王都聖騎士団直轄の魔物哨戒班として人員編成された以上、事実として彼女が半人前であろうとも、その扱いを事実と等号で結ぶことは出来ないのである。
何故ならばそれは魔物照会帳簿改稿作業に於いて、決定的な審議への参加を、他の誰でもないリーネは認められているからだ。
世界中の者達が閲覧する魔物図鑑の原本改稿権を持つ以上、生半可な仕事は出来ないし、さらに高位の魔物と遭遇した時に命の保障が出来ない。
王都の大魔法師エトオール・アステルがいるとはいえ、ある程度の自分の保身は必要条件なのである。
「すみませんでした」
「次は頑張りましょうね」
「はい……」
「ちなみに、あれは“おーミミズ”と言います」
「ミミ……、蛇でしたよ!? どちらかというと!!」
「“大きなミミズ”という意味と“多量に群れて出現するミミズ”という、ふたつの意味が掛かっています」
「意味合いの前半は理解出来ますけど、後半が全く納得出来ません! “ohミミズ?!”ってニュアンスの方が、私は抜群にしっくりきます! だって蛇でしたもん、あれはどう見ても!」
「それは良い名ですね、すぐにでも改稿しましょう」
「待っ、て、下さい! あれはミミズじゃありませんって!」
「蛇は円形状の口をしていませんよ?」
「ミミズは円形状の口をしているんですか?!」
「さあ……」
「んもぅ……」
ただ、まあ、改稿作業に関してだけはリーネを応援せざるを得ない。
勇者ファオスのネーミングセンスを始め、エトのそれもなかなかどうして酷い。
聖騎士団長から直々に依頼された仕事である、それなりにこなしたいものである。
「まあでも、そうですね、確かに即断するには早計でした」
「エト先生……!」
「私ならあの魔物には“マルグチミミズ”と名を付けるからです」
「エト先生……!?」
「あの丸い口、ブヨブヨとした触感、そして地中で生活をするスタイル。文字通り名が体を表しているというか、生態がしっかり考慮された良い名でしょう?」
「締め付けは蛇のそれでしたもん……」
今回は魔物の生態を良く把握しているエトに軍配が上がり掛けている、これはよろしくない。
私は少し梃入れしてみることにした。
「しかしエトよ、ミミズには眼がないだろう?」
「え? ええ、まあ……」
「やつらには眼があった、獲物を呑まんとする好機に輝く下卑た眼が」
「確かに、そうですね」
「そしてチロチロと、旺んに舌を動かしてやいなかったか?」
「やつらの嗅覚器官は、丸い口の中心奥寄りにある棒状のものに付いているので、ああやって臭いでも周囲の獲物を補足するのです。舌ではないですが、そう言われてみるとその生態は蛇に近しいような……」
「そうであるならば、リーネの洞察は言い得て妙というものだ。彼女の命名も聞いてやって然るべきだろう」
「ふむ」
エトは深く頷き、私の意見に納得したようである。
ちょろい。
リーネは手を合わせて、こちらに小さく感謝を表していた。
まあこれが私の仕事であり、先程の不躾な発言の罪滅ぼしでもある。
後は任せたぞ。
「ではリーネさん、貴女なら件の魔物にどう名付けますか?」
「ミミズの生態もあれば蛇の生態もある、そこで私は“ワームスネーク”と名付けます」
「良いですね」
いつもの通り、エトは笑顔のままで不満そうである。
子どもか。
その点、自分の意見だけでなく相手の意見も採用しつつ、それなりに魔物感のある名を付けられるリーネは流石である。
「では出揃いました、ただいまから多数決を取ります。件の魔物を“マルグチミミズ”と命名希望の方は挙手」
ひとつの手が中空に上がる。
「では“ワームスネーク”と命名希望の方は挙手」
ひとつの手、そしてひとつの肉球が中空に上がる。
「改稿してきます……」
エトはリーネから魔物照会帳簿を受け取ると、茂みの陰で改稿作業を始めた。
背中に哀愁が滲み出ている。
「何だか少しエト先生が可哀想になってきました、いつもこのパターンですもんね……」
「気にするな、仕事だ仕事」
「やっぱり“マルグチミミズ”の方が……」
「熟考してみろ。あれと遭遇した方々が、戦闘前に図鑑でその名を見たときどう思う?」
「きっと私と同じ反応をすると思います」
「そうだろうな。“は!? ミミズ?!”って、なるだろう。その一瞬の変な隙を、皆が起こさないよう配慮していくのが私達の仕事だ」
「さ、さすが灰猫師匠です! 勉強になります!」
「その二つ名はよせやい、照れる」
兎にも角にも一件落着。
リーネの沐浴もある程度は済んだようだし、次の哨戒区画へ移動出来そうである。
その時だった。
「なーーーーっ!」
リーネは素っ頓狂な声を上げて、エトのローブごと跳ね上がった。
見遣れば彼女の尾には一匹、取りこぼした“ワームスネーク”が、そのマルグチで懸命に食い下がっているようであった。