父親の話―I had respect for my father―
僕だって最初から父が嫌いだったわけではなかった。僕たちの父親は生粋の冒険者で、よく遺跡探索の帰りには冒険の話を聞かせてくれた。ガーゴイルという魔法生物に襲われ、命からがら倒したという今考えると少し盛った土産話や、遺跡で拾ったり街で購入してきたらしい土産物は幼い僕たち兄弟にとってどれも心躍るものばかりだった。母はそんな父を見て、いつもニコニコ笑っていた。僕はそんな母が好きだったし、何より――父の冒険話を真剣に聞いている兄が好きだった。
でも、そんなものは幻想で。そんな日々はあの男にとってただのままごとでしかなくて。僕と兄と母はそんな箱庭の中で笑っていただけだった。
父が帰ってきたその日、母さんの表情はいつになく辛そうで、僕が「どうしたの?」「具合が悪いの?」と聞けば笑顔を作って「大丈夫」「ゼクスは優しい子ね」と僕らと同じ金に近い茶色の髪を揺らし微笑むだけだった。それが無理をしていることは幼い僕にもわかって、明日になったらまた聞いてみよう――と、その日は母に「おやすみなさい」と言って自分の部屋へと戻った。
「お、もう寝るのか? ゼクスもノインも早寝だなー。いいことだ! ほれ、今回のお土産」
廊下では父親が煙管をふかしている。僕たち兄弟と同じゴールドの瞳を持ち、明るく僕に何かを手渡した。今現在も手放すことはなかった、僕が父親の土産物の中で唯一喜んだもの――通話のピアス。一対のピアスで、一日10分だけどれだけ離れていても会話ができるというものだ。もう一つは兄が持っている。つけるのは大人になってからな、と、父は僕の頭を撫でる。その大きな手が今では――正確にはこの後から、歪んで見えるようになった。
部屋に戻って兄さんと通話ピアスの使い方を覚え、二人で大人になったらどっちの耳に付けるか相談した。兄さんと話すのはとても楽しくて、母さんが辛そうだったことすら忘れてしまっていた。この時母さんが辛そうだったことを兄さんに話せていれば――いや、それは言うまい。
耳に入ったのは聞いたことのない怒鳴り声だった。暗闇の中で覚醒する。兄は横でぐーすか寝ていたのが幸いだった。心臓がまだ高鳴っている。あれは父の怒鳴り声、だろうか。聞いたことのないそれに胸が苦しくなった。
息を殺して居間に向かう。父親の姿が見えたが様子がおかしいのが離れていてもわかった。何かをブツブツと呟き、その手には大幅の剣が握られている。
「今日限りだ。四歳になればもう母親役はいらん。あまり手間をかけさせるな」
聞いたことのない声。ああ、父親が突出してる左手の先に誰がいるのだろう。あんな父さんは見たことがない。あんな怖い目をした父さんは知らない。あんな低い声、知らない。いや、違う。僕は父さんのことを何も知らない――。
右手に持たれたそれが振り下ろされる。そこに躊躇いはなく、僕は廊下の壁でへたり込んだ。近くに何かが倒れる。金色に近い明るい茶。きめ細かく長いその髪は夜闇でもわかるくらいに赤黒く染まっていて。その手はまだ少し動いていて。逃げなきゃ、母さんを助けなきゃ、ここを動かなきゃ。脳が送るはずの指示が頭の中でグルグル回る。
「なんだゼクス、起きていたのか?」
まだ少し動いていた母の手が、その男に踏みにじられる。小さく母の口から悲鳴が漏れた。その後に小声で僕の名前を繰り返す。僕は恐る恐る、母さんから目線を逸らし上を見上げた。返り血を浴び、金色の瞳に笑みを浮かべ立っている黒髪の男を――
僕の脆い意識はそこで途切れた。
意識が覚醒するとそこは兄と僕の部屋だった。兄が心配そうに僕の顔を見つめている。すべて夢だったと思えるほどに朝は穏やかで、兄はいつも通りだった。ただ、僕の頭を撫でて一言「大丈夫だからな」と言った以外は。
その意図はすぐわかった。居間に行くと、部屋は綺麗だった。血の跡すらない。台所から料理の音が聞こえるいつも通りの朝。――料理を作っているのは父親だった。横にいた兄は静かに「母さんは――昨日の夜出て行ったらしい……俺のこと……嫌になったのかな、昨日父さんとばかり話してたから……」と呟いた。反射的に「違う!」と声を出していた。僕が怒鳴ることはめったになく、兄は目を見開いて僕を見る。
「そうだ、ゼクスの言う通りお前たちが悪いんじゃないさ……父さん、昨日母さんと喧嘩してな。家をあけすぎだって怒られちまった」
あの男が僕の言葉を取る。僕は違う、しか言えなかった。僕自身あの事を夢だと思い込みたかった。目の前の父親は悲痛な面持ちで僕たち二人を抱きしめる。明確に否定できない自分が悔しかった。この時父親を引きはがせなかった自分が悔しかった。母さんはコイツに殺された、と明言できない自分が悔しかった。
「父さんのせいじゃない……俺のせいなんだ……」
横で震えた声でそう呟いた兄さんの言葉が、今でも耳に残っている。そしてその言葉が頭によぎる度に僕はそれを否定する。違う、兄さんのせいなんかじゃない。と。
否定してあげればよかった。どんなに兄さんが壊れても、早い段階なら傷は浅くて済むかもしれなかった。でも、僕がそれをできなかったのは――僕が臆病者だからだ。
兄さんは今でも母が帰ってくると思っている。僕はそれを明確に否定はしない。何故なら、僕も心の奥底ではあれは夢で、母は出て行っただけだと思いたい気持ちがあるからだ。あのむせ返るような臭いも、血にまみれた髪も、あの震える手も、あの男の笑みも。そしてこのこみあげてくる感情さえ幻だと思いたい。
―I have a grudge against the father now―
父親視点で考えてみたら、四歳の幼子が何を言ったところで信じられるわけがないと思ったのだろう。ましてや僕らは村八分で、僕がいじめられていることも父さんは知っている。村の人間は頼れない。そして何より、僕が兄さんのことを考えて真実を話せないことも見抜いていたはずだ。何より、全てアイツの手のひらの上だというのが気に食わない。
「ゼクスさんゼクスさん、難しい顔してどうしたんですか? 悩み事ですか?」
「オレガノちゃん? あれ、ノインと山菜とりに行ったんじゃなかった?」
「ははは、何を言ってるんだゼクス!もう夕暮れだぞ!」
どうやら随分昔のことを考えていたらしい。一日をあの男のことで潰すのは癪だと思い、兄さん――ノインに向き直る。母さん譲りの金色に近い茶色の髪。そしてあの男と同じ金色の瞳。ノインが父親のような冒険者になる、と言うたびにあの夜の父親の瞳が彼に重なる。それがたまらなく嫌だった。
「じゃあ料理するから待ってて。オレガノちゃんとノインは手伝い禁止。理由は危ないのと味覚音痴だから」
「いやいや! ゼクスばかりに押し付けるのはよくない! 食事は俺とゼクスの当番制だといっただろう!」
「お願いだから理由を聞いてよ!! 味覚音痴が一番怖いの! この前作った料理だって塩辛くて食べれたもんじゃなかったし!」
「お二人とも、喧嘩しないでください……」
「喧嘩じゃないよ!? お願いだから泣かないで! 大丈夫だからね?」
「ははははは! おぅちゃんは泣き虫だなぁ!」
「ノインはちょっと黙ってて!」
一連の流れを終えてぜえはあと息をつく。このオレガノちゃんという子はかなり感情のふり幅が大きく、ちょっとしたことで泣き出すしノインはノインで相変わらず人の言うことをちゃんと聞かないポジティブシンキング野郎だけど――それでも僕は、あの男のいた日々よりは今の日常の方がだいぶマシだと思っている。