表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

コバルト短編小説新人賞投稿作品

果樹園で会いましょう~お嬢様と秘密の林檎~

作者: 結川さや

 古い林檎の木には、妖精が棲んでいる。それは豊かな森と澄んだ小川が自慢の、ここムーンウッド島で語り継がれる伝承だ。しかし、人々が不思議な現象を忘れ、日々の暮らしに忙しくなった今では、あまり本気で信じている者はいないだろう。ただ一人、真夜中の果樹園で何やら懸命に探し歩いている少女を除いては。

「ない、ない、ない……一体全体どこにあるのよっ、金の林檎はっ!」

 そう叫び、疲れ果てたように草むらにへたり込む。ポニーテールの明るい金髪と、はしばみ色の大きな瞳。小柄な体に白いモスリンのドレスをまとった、一見すれば可憐な印象の少女だ。ただ、きゅっと持ち上がった眉と不満げに引き結ばれた唇に、意思の強さが滲み出ている。

「あーん、おばあちゃまの嘘吐き……満月の夜に清らかな乙女が心から願えば、金の林檎から妖精が現れるって言ったくせに。全部嘘よデタラメよ。眉唾のインチキの、詐欺妖精め! 乙女の危機をどうしてくれるのよう……」

 ぼやくだけぼやいた彼女は、胸元のネックレスに片手で触れた。金鎖の先で揺れるのは、林檎の形のモチーフだ。祖母から譲り受けた形見で、お守りとして肌身離さず身に付けていたのに、妖精どころか金の林檎も見つからない。

「出てきなさいよっ、林檎の妖精!」

やけになって叫んだその時、視界の端にかすかな光が届いた。弾かれたように上げた顔を照らすのは、月光よりも明るい、金色の光で――!

「林檎……金の林檎だわ!」

秋の初め、まだ収穫までは少し早いこの時期。他の林檎がやや小玉であるのに比べ、頭上にぶら下がる金の林檎は、かなり大きく、美しい球体をしている。

 さっきはなかったはずだったが、この際そんなことはどうでもいいと思い直した。

(そうよ、金の林檎さえ……林檎の妖精さえ現れてくれるなら)

 いまや眩いばかりとなった金色の光は、林檎の実を丸く包み込んで輝いている。

「娘よ、何を望む?」

 光の中から声が聞こえた。想像よりも少し、いや、かなり若く滑らかな声音であることに、注意を払う余裕などなかった。「ああ林檎の妖精様、お願いです! あの優しく賢く、文句のつけようもないほど凛々しい青年イーサンと――」

「……結ばれるように、か?」

 続けられた言葉に、少女は満面の笑みで首を振った。縦にではなく、横に。

「いいえ、どうか結ばれないように! 彼からの求婚を退けられるようにしてほしいの!」

 断言すると、すぐに答えは返された。輝く金の林檎が、太い枝からぷちりとその茎を離れ、まっすぐ落ちてきたのだ。あわてて両手を伸ばし、受け止めようと身構える。しかし、いつまでたっても林檎は手の中に収まらなかった。林檎ではなく、彼女の体のほうがみるみる縮み、その実の中へと吸い込まれてしまったのだから――!


 少女――ステラ=アップルガースは、ほどなくして目を覚ました。ゆっくりと巡らせた視界に、素朴な木目の天井が映る。起き上がったお尻の下には、キルトカバーのかかったベッド。正面に木製の丸テーブルと椅子一組、小窓の反対側に丸い扉。ランプの明かりに照らされた、小さな丸太小屋の中に自分はいるようだ。

「どこ、ここ……?」

「ああ、気が付いた?」

 気楽な調子でかけられた声は、どこかで聞いた覚えのある、優しいアルトで。

(そうだ、金の林檎は……!?)

 振り返った部屋の隅に揺り椅子があり、ステラより少し年下に見える少年が腰掛けていた。大体十二歳くらいだろうか。濃い赤毛と焦げ茶色の瞳に、同系色のギンガムチェックのブラウスと膝下ズボンがよく似合っている。

「だっ、誰なのあなた!」

「誰とは失礼な……しかもここ僕の家なんだけど。それに、君が呼んだんだろう? この僕、林檎の妖精ギルをさ」

「林檎の妖精ですって? あなたが?」

「うん。ほらこれ見て」

 言ってくるりと壁を向いた少年――いや、妖精ギルの背中には二枚の薄い羽。どういう仕組みか、ブラウスの後ろからすっと透けて出ているではないか。

「そんな……本物!?」

 混乱のままに叫ぶと、ギルと名乗った彼は苦笑する。羽の存在がなかったら、表情や頭を掻く仕草までも人間そのものだ。

「で、でも大きさがっ……妖精って言ったら小さくて、衣装だってもっと神秘的で不思議っぽい雰囲気で――」

「だってこのほうが楽だからさ。それと僕が大きいんじゃなく、君が小さくなってるんだけどね、ステラお嬢様」

「どうして名前……それより小さくなってって、え、えええっ!?」

 混乱状態のステラに、ギルが歩み寄る。少し低い目線で見上げられ、いたずらっぽい微笑が向けられた。

「君はステラ。古い言葉で『林檎園への門』を意味するその姓の通り、この果樹園を所有するアップルガース家のお嬢様。最近十六歳の誕生日を迎えた君に持ち上がった、本土の名門キャラハン家の次男イーサンとの結婚話に困っている。無難に断るべくあれこれ画策するも全て失敗に終わり、最後の頼みの綱として思い出したのが、今は天国にいる祖母から幼い頃に聞かされた、この僕、林檎の妖精への願掛けだった。どう? まとめるとそういうことだよね」

「そ、そうだけど……どうして知ってるの?」

「これでも妖精だよ? このアップルガース家のことは何でも知ってる」

 くっく、と楽しげに笑い、彼は続ける。

「生まれ育った家、それにこの果樹園から離れたくないんだろ? 本土にお嫁入りしてしまえば、なかなか戻ってこられなくなるしね。いいよ。それだけ僕らの棲む場所を愛してくれている君のために、願いを叶えてあげる」

「ほ、本当っ?」

 瞳を輝かせたステラを優しく見つめ、ギルはただし、と人差し指を立てた。

「そのためには一つ、君に探してもらいたいものがあるんだ。見つけられたら君は元の大きさに戻るし、願いも叶えてあげる。どう? やってくれるかい?」

「も、もちろんよ!」

「じゃあ契約成立、だね」

 双方笑顔になったギルとステラは、ぎゅっと握手を交わす。深い焦げ茶の双眸に、ほんの一瞬閃いた意味深な光は、ステラには見えなかったのだった。


 きい、と扉を開けたギルに続いて外へ出ると、そびえ立つ巨木の群れに迎えられた。背丈ほどもある緑の草や薄い色の花々の間を縫って歩きながら、ステラは甘く爽やかな林檎の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

そう、ここは先ほどまでいた果樹園だ。小さくなるとこれほど風景が変わることに驚いたが、それにもじきに慣れた。

(すごいわ……おばあちゃまの言っていたことは本当だった!)

 見上げた先にはもう金の林檎――ギルの家はない。ギルが棲むあの林檎は人々の目から隠されていて、彼が認めた相手にしか見えないらしい。果樹園に通じるこの扉も、満月の夜だけ開くのだとギルが教えてくれたのだ。

「よーし、じゃあ早速出発するわよ! 金の林檎……じゃなくって、今度はあなたの大事な『金の鍵』を探すために!」

 先ほどギルが出した条件。それは、彼が昔なくしてしまった金の鍵を探すことだった。この果樹園のどこかに落としてしまったらしいそれがないために、ギルは本来の妖精の力を制限されているという。

「ねえ、あなたが妖精みたいな服を着てないのもそのせいだったりするの?」

「よっぽどイメージに合わないみたいだね。別にこの服は力と関係ないし、何ならご希望に添いましょうか? お嬢様」

 苦笑し、おどけて言ったギルの衣服――今まで身に着けていたブラウスとズボンが、突然膝くらいまである薄布の衣装に変わった。いかにも絵本などに登場する妖精のイメージ通りだ。が、等身大(今のステラにとって、だが)で見ると、薄布からは胸板や腿も少し透けている。年下の外見をしているとはいえ、立派に男の子な体格にどきりとさせられた。

「や、やっぱりいい! さっきの格好のほうが素朴でいいわ。ほら、早く元に戻しなさいったら!」

「わがままなお嬢様だ」

 ふっと口角を上げ、伸ばした手で頭をくしゃりと撫でられる。そんなギルの仕草も微笑みもなぜかひどく大人っぽく感じた。

(何をドキッとしてるのステラ! 彼は妖精よ、人間より長生きだって言うし大人っぽくたって当然じゃない。ほら、集中集中!)

 再びブラウス姿に戻ったギルを追って、果樹園を進む。そこはまさしく、ステラにとって庭同然の場所だ。木に登って勝手に林檎をかじっては怒られたり、両親に叱られた時隠れたり、小さな頃からの様々な思い出が詰まっている。

「それで、その鍵はどういう形をしているの?」

 訊ねたステラを、ギルがそっと見上げる。

「何も覚えてない?」

「え? まだ説明してもらってないはずだけど」

 聞いたのかもしれないが、混乱状態だったステラには覚えがなかった。首を傾げると真剣だった瞳がふっと和らぎ、ギルは何事もなかったように前を向いた。

「持ち手が綺麗な半月模様をした鍵さ。ちょうど、林檎を半分に割ったみたいにね」

「半月模様ね。わかったわ」

「妖精にとって、力の源とも言える大事なものなんだ。鍵は扉を開くもの。妖精の力の、そして、心の扉をね」

「心の?」

 不思議な言い回しに一瞬ひっかかったが、ギルはそのまま歩き出した。二枚の薄くやわらかそうな羽が、月光を浴びて淡く光っている。改めて見入っていたステラは、ふと一つの可能性に気づいた。

「ねえ、もしあたしが鍵を見つけられなかったらどうなるの?」

 願いを叶えてもらえることが嬉しくて、『もしも』を考えていなかったのだ。

「まさか、元に戻れないなんてことは――」

「ちゃんと戻れるさ」

「本当ね? よかった!」

「君を心から愛する人に、想いを込めて名前を呼ばれた時にね」

「……ええっ!?」

 思わず絶句してしまう。目の前でにっこり微笑むギルの瞳が、なぜかとても意地の悪いものに見えたからだ。

「妖精との契約には、願いの大きさに相当する対価が必要。そんなことも、おばあちゃんに聞かなかった?」

「で、でも……そうだわ! それは両親でもいいのよね? 朝になってもあたしが戻らなければ、きっと心配して――」

 名前なんてすぐに呼んでくれる。そう思ってほっとしたのも束の間、

「ああ、『恋人として』って言い忘れたな。けど心配いらないよ。明朝には例のイーサンがまた訪問する予定になってるんでしょ? 彼が君を呼んでくれれば、問題は解決する。ついでに、君を本当に愛しているかの証明にもなる。一石二鳥だ」

「な……っ、そ、それじゃああたしの願いはどうなるのよ」

「その時にも君が心から願うなら、イーサンとの婚約話はなくなるようにしてあげる。大丈夫、僕、約束は守るから」

 今度は人の良さげな顔で微笑まれて、ステラは困惑した。それならば確かに問題はない。でも、もしイーサンが名前を呼んでも戻れなければ? 鍵も見つけられなかった時はどうなるのだろう。

「その時は、このまま僕と暮らせばいいじゃない。君の願い通り、この果樹園にずうっといられるよ?」

「あなた、あたしの心が読めるのね!?」

 思い描いただけの不安を言い当てられ、しかも見当違いの提案までされてしまっては、さすがに恐ろしくなる。願いを叶えてくれる優しい妖精。それは必ずしも、有難いだけの存在ではないのかもしれない、と。

 歩みを止め、思わずギルと少し距離を置いてしまった。しかしそんなステラの反応に、ギルは瞳を翳らせたのだ。

(どうしてそんな、悲しそうな顔をするの?)

「僕ら林檎の妖精には、特別な力があるんだ。古い林檎の木に宿る神聖な力がね。もう、誰もが忘れてしまった言い伝えさ。それより、どうして君はそんなにここを離れたくないんだい? 果樹園が好きなら、本土にだってあるじゃないか」

 意味深な笑みで問いかけられ、ステラははっと気が付いた。

「あ、あなたもしかして、その理由もわかってるのね!? まったく趣味の悪い覗き見妖精だわ! 人の心を盗み見て――」

「妖精ってのはそういう生き物なのさ」

 ふふっと笑い、ギルは舌を出した。どうせ知られたのなら、とステラは嘆息する。

「約束したのよ、昔……小さな頃に」

『待っていて、必ず迎えに来るから』

 思い起こすのは、誰か幼い少年の言葉だった。顔はおぼろげに霞んでいてわからないけれど、笑顔が優しかったことだけは覚えている。

「ママに話したら、夢だって笑われたわ。でもその言葉が胸の奥深くに残ってるの」

 林檎の木の下、少年と過ごした時間がとても楽しかったこと。月が綺麗だったこと。全ては曖昧で、夢かと言われたらそんな気もしてくるほどだ。けれど、なぜだか必ず来るような気がしてならなかったのだ、その約束が果たされる日が――。

「ふうん、それで離れずに待ってるってわけか」

「幼稚だって笑いたければ笑えばいいわ。あたしだって、別に本気で信じてるわけじゃないもの。なんとなく気になってるってだけのことよ」

頬を染め、そっぽを向いたステラの肩を、ギルが軽く叩く。目線を戻すと、優しい満月の光に照らされた彼が微笑んだ。

「満月の夜には奇跡が起こる。もしかしたら君の待ち人だって来るかもしれないよ? そのためにも鍵を探してごらん。悩むより行動、それが君の性格だろう?」

「わ、わかってるわよ! 絶対鍵を見つけてやるんだからっ!」

 憤然と歩き出すステラの背後で、ギルが小さく笑った。


 かくしてステラはまた真夜中の果樹園を歩き回るはめになり、皮肉にもそれは先ほどの『金の林檎探し』より困難を極めたのだった。

「もう足が痛くて歩けない! ちょっと休憩するわ」

 またしても座り込むこととなったステラの隣に、ギルも並ぶ。といっても彼のほうは軽い足取りで付いてきたり、はたまた飽きると周囲をふわふわ浮遊したりしていたので、疲れてはいないようだが。

「ねえ、どこで落としたのか覚えてないの? こんな広い場所で小さな鍵一つなんて、まるで大勢の前に突然放り出されて、『さあ、この中から生涯の恋人を見つけてごらん』って言われるくらいに難しいわ」

「確かにね。しかも人間一人と違って、草の陰や石の下まで探し回らなきゃいけないんだから」

「その通りよ。ねえ、あなたの力でちょちょいっと探せないわけ? あんなにすごい力を持ってるくせに」

「この鍵には、妖精の力は使えない。自力で見つけないと、意味がないからね」

「自力でって、あたしに頼んでるじゃない」

 頬を膨らませると、ギルはまた声を上げて笑った。そうすると目じりが下がり、とても愛嬌のある顔になる。

(可愛い、だなんて……あたしったら何考えてるの!)

 ぶるぶる頭を振っていたステラは、吹き付けてきた夜風に身も震わせた。小さくくしゃみをしてから、肩をふわりと包んだ温かいものに驚く。

「褒めてくれたお礼にどうぞ。大事なお嬢様に風邪を引かせるほど、悪い妖精じゃないつもりだから」

 またも思考を読まれたことに気づき、ステラは真っ赤になる。肩にかけられたギルの赤いシャツ。優しいんだか意地悪なんだか、まるでわからない妖精だ。

「君は、イーサンのことはどう思ってるの?」

「えっ?」

「もしも果樹園を離れないで済むなら、彼と結婚してもいいと思ってる? 最初に君は、文句のつけようもない好青年だって言っただろう」

 まっすぐ見つめて問いかけられ、ステラは更に赤面した。それは十六歳の純粋な乙女の、ごく自然な反応だっただろう。何度も訪れる彼の整った風貌や、気品ある風情、常に穏やかで優しい態度と話し方。全てが完璧な上に彼は、幼くして不幸にも病死してしまったという一つ年上の兄に代わり、次代キャラハン家当主の座が約束されている身だ。きっと女の子なら誰もが憧れる結婚。けれど、自分は?

「わからないのよ……あたし。彼みたいな人に嫁げば、きっと幸せなんだろうって思うわ。でも、彼こそが本当にあたしの生涯の恋人なのかって言われると、自信が持てないのよ」

 自信。いや、確信とでも言うべきか。この人とならずっと愛し合える。一生添い遂げられる。すぐにそう感じられないのは、誰でも同じなのだろうか。

「……約束の彼が、会いに来るかもしれないから?」

 そう訊ねたギルの瞳は、ひどく真剣なものだった。

「言ったじゃない、もう昔の話よ。それに、万が一そんな彼が実在したとしても、約束なんて忘れてしまったんだわ。だからいくら待っても……」

「会いに来たくても、来られないとしたら――?」

「ギル?」

 苦しげに揺れる瞳で見つめられ、ステラは困惑した。重なり合っていた視線を先に外したのは、ギルのほうだった。

「なんとなく、そう思っただけだよ。長い間ずっと鍵を探していたから、見つけたいものが見つけられない気持ちはわかる」

 しばらく無言でいたステラは、先ほどまでの疲れた姿が嘘のように勢いよく立ち上がった。ギルの肩を、今度はステラが叩く。

「行くわよ、ギル! あなたの鍵、あたしが見つけてみせるから」

 自分のことばかり考えていて気づけなかった。ステラと同じくらい、いやもしかしたらそれ以上、ギルだって困っているのだ。

(見つけてあげなきゃね。二人とも笑顔になれる方法は、これしかないんだもの)

 ステラの言葉に目を細めたギルは、嬉しそうに頷いたのだった。


「ない……ない……ない、見つからなーいっ!」

 どさり、とステラは草むらに寝転んだ。懸命に歩き回ったけれど、やはり果樹園は広大で、今のステラは小さすぎた。ドレスはもう草と土にまみれてよれよれ、髪も乱れて散々な有様。そんなステラの耳に、鳥の声が届く。そう、ついに朝がやってきてしまったのだ。

「ああ、ご両親が君を捜し始めたみたいだ。ほら、声が聞こえるよ?」

 ギルに教えられ、ステラは起き上がる。遠く、自分を呼ぶ声が聞こえてきた。両親と使用人たちが揃って、心配そうに自分を捜し回っている。

(そうだ……思い出したわ!)

 あれはちょうど学校に上がる前の年。おてんばだったステラは、その夜も部屋を抜け出し、この果樹園で遊んでいた。そんな時、迷い込んできた彼と出会ったのだ。

『大丈夫よ、あたしが守ってあげる』

 幼いステラがそう言い、一生懸命手を伸ばして頭を撫でたら、少年――十かそこらだったろうか――の悲しげな顔が綻んだ。『女の子に守られてちゃいけないね。僕も強くなるよ。それでいつの日か、君を守れるくらいに強くなったら……』

優しい声が約束して、その後はどうなった? 思い出そうとしたステラは、ずきりと痛んだ頭を押さえる。

「どうしたの? ステラ」

 覗きこむギルの赤い髪、焦げ茶の双眸。それはひどく既視感を与えるもので……?

「ほら、彼が来たよ」

 思考を遮られ振り向くと、使用人たちに案内され、こちらに歩いてくる背の高い青年が見えた。濃い金色の短髪にグレーの瞳をした、理知的な美しい顔。

「イーサン……」

 彼が来たことが嬉しいのか、それとも怖いのか、今のステラにはわからなかった。けれど、心配そうな顔をした彼の唇が、ちょうど開く直前に思い出したのだ。あの夜、自分と共にいた少年に、突然襲い掛かった恐ろしい出来事を。闖入者の叫び声を!

『お前なんかだいっ嫌いだ! 母さまも父さまもお前ばっかり可愛がって期待して……お前なんて!』

 光る刃先が少年に向けられ、林檎の幹に押し付けられた肩が赤く染まって――。

「だめ……やめてっ!」

 鮮やかに蘇った光景を見まいとして両目を覆った、その刹那。

「ステラ!」

 イーサンが声高に呼んだ。しかし、身を縮めたステラは、元の大きさには戻らなかった。両親は他の場所を捜しに行き、一人残ったイーサンの表情は冷たく豹変する。

「あの娘、どこへ行きやがったんだ。さっさと結婚してこの土地を手に入れたら、こんな果樹園ぶっ潰してやる。これであの邪魔者の影に怯える暮らしにもおさらばだ」 高笑いする顔は、記憶の中と同じ狂気にゆがんでいた。全てを思い出し、恐怖と、それ以上の怒りに包まれたステラが叫ぶ。

「いいえ、おさらばするのはあなたのほうよ!」

 渾身の叫びが届いたらしく、イーサンは周囲を見渡し、声の主を捜している。

「誰だ!? 出て来い!」

 本心を聞かれたことに動揺したのか、既に表情を取り繕うこともしていない。憤怒の顔で探し回るイーサンに、小さなステラの姿は見えないようだった。

「そうよ、彼は――あなたのお兄さんは、十年前この島の別荘で行方不明になった。周囲には病死と発表されたようだけれど、彼は死んでなんかいない。ちゃんと生きていたのよ。この果樹園でね!」

「な、なんだって……? おい! いいかげんなことを言うと許さんぞ! 誰なんだ、出てきたらただじゃおかないからな!」

 取り乱したイーサンが草むらを走り回る。突然の行動で避け損ねたステラをかばったのは、ギルだった。ふわりと広げた羽でステラを覆い隠し、両腕で強く抱きしめる。そこに下りてくる大きな靴。

(だめよ! やっと、全部思い出したのに……!)

「ギル、逃げて……っ!」

 腕の中で必死に叫んだステラに、ギルはひどく大人びた微笑を向けた。

「僕はもう、あの頃とは違う。ずっと会いたかったよ――ステラ」

 低く囁いたギルが、ステラを遠くへ突き飛ばす。残されたギルの体は、今にもイーサンの靴に踏み潰されようとしている。「やめて! お願い、林檎よ。助けて――!」

 なぜそう言ったのか、自分でもわからなかった。ただ無我夢中で、ネックレスの林檎を握り締めて願う。瞬間、まばゆいばかりの金の光がそこから発され、ステラを、そしてギルを優しく包み込んだのだ。

「う、うわあああっ、お、お、お前まさか、そんな……ギルバート!?」

 ふっと光がやんだ後、イーサンの慌てふためく声が聞こえた。尻餅をついた彼の前に立っていたのはギル――ではなく、成長した立派な体格の青年。赤毛に似合うギンガムチェックのジャケットをお洒落に着こなした彼は、優雅に微笑む。焦げ茶の瞳に、厳しい光を湛えて。

「久しぶりだね、イーサン。それとも、自分が葬ろうとした兄になんて、会いたくなかったかい?」

「わああ、やめろ……やめてくれ! 本当に刺す気なんてなかった。ほ、ほんの脅しのつもりだったんだ!」

「もちろんそうだろう。あの頃はまだお前も僕も、子供だったのだからね。両親とお前との板ばさみに耐えかねて、夜中に飛び出したりした僕にも非はあった。だがもうそんな言い訳が通じない大人同士、これからどうするべきか、利口なお前にはわかるね?」

 家紋の刻まれた古めかしいナイフ。過去自分が振りかざした凶器を見せつけられたイーサンは、その場にずるずると崩れ落ちた。


 古い林檎の木には、妖精が棲んでいる。今も語り継がれる伝承はしかし、真実を正しく伝えてはいなかった。

「十年前、刺されて意識を失った僕は、林檎の妖精ギルとなって目覚めた。林檎の木によって与えられた守護は、真実の愛を鍵として解かれる契約だったんだ。遥か昔から、時折林檎のこんな奇跡はあったそうだよ。それがいつの間にか、林檎の妖精の伝承になっていったんだろうね」

 ひと月後の日曜日、午後の日差しをいっぱいに浴びた林檎の木の下でギルバートは言った。大人な笑顔に、まだ慣れることができない。

「ずるいわ、あたしを騙して散々苦労させて……どうしてネックレスが鍵になるんだって教えてくれなかったの? それに、僕が約束の少年だって最初に言ってくれれば」

「言ったらどうしてた? すぐに思い出して、感極まってキスの一つもしてくれたかい?」

 目を剥くステラに、ギルバートが笑いかける。いたずらっぽい瞳だけが、妖精のギルであった時と同じだ。

「真実の想いでないと力は発動しない。だから黙ってるしかなかったんだ。怒らないでおくれ、お嬢様」

 ステラの胸で揺れる半月の形をした鍵。それはギルバートの持つもう片方と合わせると、奇しくも林檎の形になる。

「あの晩僕を守った林檎の木の根元で、君が拾ったものだ、なんてわざわざ教えてあの悲劇まで思い出させたくなかったんだ。いっそこのまま見守っていようかとも考えた。けれどそのせいで、約束を果たすのが遅れてしまったね」

「そ……そうよ、おかげで待ちくたびれてしまったわ。ぜーんぶ、あなたのせいなんだから!」

 つんと顎を上向かせ、不機嫌な顔を装う。優しい気遣いに緩んだ涙腺をごまかしたことなど、お見通しのようだった。

「これからは、何度でも君に会いに来るよ。果樹園で会いましょう。僕の大事な、ステラお嬢様――」

 微笑んだギルバートが、ステラの手の甲にそっと口付ける。わがままで純粋なお嬢様の頬は、林檎色に染まった。


読んでいただき、ありがとうございました!

感想、アドバイス等、何でもお待ちしています^^

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ