5)ごめんね、名前も知らない君
私は、基本的に水遊びが大好きで、泳ぐのももちろん大好きだった。
物心付く頃には幼児用プールでは飽き足らず近くの川で犬掻きを、さらに学齢期になれば小学校の25mプールを高学年にまぎれて泳ぎ回り、年齢に似合わない記録を打ち立てていたらしい。
本人に全くその自覚が無かったので、そこらあたりは後になって周囲に教えられるほどの適当加減だったが。
今でも、泳ぐこと自体は好きだ。身についた脂肪のおかげか、浮力だけは並ならぬ自信がある。(←オイ)
そして、とにかく泳ぎたいとバスで片道20分かけて、スイミングスクールにも嬉々として通っていた。
ある日、いつものコースに見知らぬ子が一人増えていた。
本来の日に欠席して、代替日として自分のクラスに参加した子だった。
「なぁ、お前何歳?」
さぁ泳ぐぞ~とプールを前にウキウキしていた私は、なぜかその少年にそう尋ねられた。
記憶が正しければ、彼は私より3歳年上でスイミングスクール近くにある小学校の生徒だと言っていた。
他人より発育がよかった分、年上に年齢を尋ねられることはよくあったので、また威嚇みたいなものかなと、受け流していたのだが、その後、俺これが出来る、あれが出来る、となぜか私に話しかけてくる少年。
そして、何かと”年上”と主張してくる。
更にコースを泳ぐ私に負けるまいと張り合ってくる。
一秒でも速く泳ぐことにしか興味の無かった私にはどうでもいいことだった。
上には上がいることぐらい、周囲が年上ばかりだったから分かりきったことだし他人と比べるという意識が全く無かった。
話しかけてくる少年を知り合いと思った担当コーチは、少年と私をセットにした。
大人用コースに子供が2列、競争するかのようにタイムアタック。
延々とレッスン時間一杯、50mを泳いではタイムを確認し、また歩いてスタートまで戻り、そしてまた50m泳ぐのだ。
ひとつのクラスに15人ほどいたから、いくら10mごとに間隔をあけてスタートしても、順番待ちが当然やってくる。
その順番待ちの合間にまた話しかけられる。
私にしてみればうっとうしいことこの上なく、プールから上がれば走ってスタートに戻ったり、他の子と話してみたり、と逃げたのだがやはり近くに来る。
そして、レッスン時間残り5分のところで、彼は唐突に私に爆弾を投下してくれた。
「お前、俺と付き合え」
よく父親が付き合いで飲んでくると夕方出かけることがあったことを思い出し、「お酒?」とある意味お約束な返事を返してしまった私に罪はあるまい。うん、多分、罪は無いはずだ。……はずだ。
お約束ボケを返した私に、違う違うと彼は言い、そこで彼の言う「付き合う」の意味に思い立った。
へぇ、最近の小学生は(←自分棚上)小学高学年でもマンガみたいなことあるんだ~……と聞き流そうとしてふと気がついた。
ちょっと待て。
お前私を何歳と思ってるんだ。
お前より3歳も年下だって言ったぞ。言ったよな、聞いてたよな、お前●年?って驚いてただろ。
いくら外見が年齢平均より育ちすぎてても、未だ私は年齢一桁なんだぞ。
知り合いのお姉さんからお下がりでもらう少女マンガ雑誌だって、ヒロインにはおとといきやがれと言える年齢だ。
いくら子供でもそれくらいは分かる。
全くの余談ですが、近所におわす10歳以上年上のお姉様方は、り●んなどの低年齢層向けのマンガ雑誌だけではなくマー●レットや別●ミ、Y●Uなどの雑誌も私に投下していた上、私は読めれば何でもよかった無知雑食の為、当時の私の知識は中途半端なマンガからの受け売り知識だけが備わって、肝心なところが丸ごとごそっと抜けてます。
そして、混乱を始めた私に更なる爆弾投下。
「お前可愛いな。俺、お前好きだわ」
混乱に混乱を呼び寄せるな、ボケ!
「着替えたら遊ぼう。更衣室の前で待ってるから」と、結局レッスン終了後も、更衣室入口までついて来た少年。
私は、即座にぬれた水着の上に服を着て、少年に見つからないよう一目散に私はスクールを出た。
スクール前にあるバスの停留所で、早く来い来いとバスを待ちわび、いつも乗る便より一便早く来たバスに飛び乗った覚えがある。
水着の水分でびしょ濡れになった服で帰ってきた私を、母親は「何考えてるの。ちゃんと着替えて帰ってきなさい」と叱ったが、帰りの路線バスの出発時間に送れそうだったからと嘘をついてごまかした。(もちろん、バスの待ち時間が十分に余裕あることを母は知っている)
少年が怖くて逃げて来たとは、言えなかった。
生まれてこの方、両親以外から「可愛い」と言われた記憶のない私には、処理できないものだった。
今だから言える。
ごめんね、名前も知らない少年よ。
自分のしたことは、君を傷つけるだけだと分かっていた。
奇特にも、私を「可愛い」と、「好きだ」と、物怖じもせず伝えてくれた君よ。
本当にごめんなさい。
今更謝っても、伝わるはずも、どうしようも無いことぐらい、十重に分かっている。
でも、今でも謝らずにはいられない。
あのときの私にとって、君は、『男』だった。
だから、逃げるしかできなかったんだ。
怖かったんだ。
とても、怖かったんだ。