第90話「綻びの兆し」
場所は、イシュカンダル帝国王都。
暗く巨大な城の中枢部。
天井の高い謁見の間には、冷たい空気が満ちていた。
その手前、光なき床に跪く魔術師が、一通の報告書を捧げていた。
「…ザラハート王国、制圧失敗。アッシュナイトの敗北―」
掠れた声が途切れた。
そこに座るのは、長い髪に、冷徹な瞳を持つ魔女メレディナ。
彼女は無言で報告書を手に取り、ゆっくりと目を通した。
その指先は微かに震えている。だが、怒号を上げることはなかった。
静かに―それゆえに恐ろしいほどに、メレディナは立ち上がる。
「…アッシュナイトが敗れることは想定内だが、ここまで早いとは」
掠れるような低い声。しかし、その言葉の奥には、抑えがたい怒りが宿っていた。
ブリシンガー。
忌まわしき名前。幾度となく彼女たちの計画を狂わせる異物。
メレディナの周囲の空気が、かすかに震えた。
魔力の奔流。たった一人の怒りが、空間そのものを歪ませる。
その時―背後から、ゆっくりと歩み寄る気配があった。
「落ち着け、メレディナ」
鋭く、冷たい声。長身の男。三柱の一人、カイム。
鋼のような肉体に、仮面から覗く刃のような双眸。
彼は淡々と、だが僅かに笑みを滲ませながら言った。
「焦ることはない。我らの準備は、すでに最終段階に入っている」
「そして、壊滅状態のザラハート王国にいるブリシンガーもすぐには動けまい」
さらに、その隣にもう一つの巨大な影が現れる。
ザイオス。
彼は重々しく言葉を継ぐ。
「…ガウレムの復活は、間もなく成る。そして、アイゼンヘイムの肉体も、ほぼ完全な再生を遂げた」
その言葉に、メレディナの瞳がわずかに揺れた。
ガウレム―かつて世界を震撼させた破壊王。
そして、アイゼンヘイム―数千年前、英雄ブリシンガーによって滅ぼされた、地獄の騎士。
両者を融合させた時、この世界に抗える者など存在しない。メレディナは静かに目を閉じ、深く呼吸を整えた。
「…そうね。焦る必要はない。こちらの切り札は、今なお鋭く、強く、成長している」
カイムが薄く笑う。
「たとえ、今はあの男に邪魔されようとも。次に動く時―世界は、抗う間もなく膝を折るだろう」
ザイオスもまた、低くうなずく。
「…我らは、この世界の頂に立つ。その時、すべての種族は、我らに膝を屈するしかない」
その声には、誇り高きドラゴン族の哀しき執念が滲んでいた。
メレディナは静かに、だが確かな決意を瞳に宿した。
「ブリシンガー…お前がどれほど足掻こうと、運命の奔流は止められない」
月光も届かぬ暗黒の城に、彼らの低い笑い声だけが、静かに響き渡った。
そして、世界は、知らぬ間に、滅びの鼓動へと導かれつつあった。
イシュカンダル王都の片隅、軍政区の一角に、小さな宿舎があった。
帝国に仕える者たちの宿泊所。権力を持たぬ下級将校や、古株の兵士たちが静かに身を置く場所だ。
その一室、男は窓辺に座り、外の闇を静かに見つめていた。
ザルド。
かつて、カイムと共に戦場を駆けた男。
今の彼は、どこか重い影を背負った表情をしていた。
宿舎の廊下を、兵士たちが忙しなく行き交う。
ザルドはそのざわめきの中に、ふと奇妙な言葉を耳にした。
「…いよいよ、アイゼンヘイム様が…」
「禁忌の復活だってさ…俺たちに知らされてないけどな…」
兵士たちの小声。それは、明らかに「聞かれてはいけない話」だった。
思念体ガウレムが発した強大過ぎる魔力、そこから三柱と、ザイオスの計画が広まった。
中にはその計画に賛同する忠義のある者、人智を越えた力を扱おうとする恐怖で反対する者もいた。
ザルドは眉をひそめた。
アイゼンヘイム―
その名は、彼にとって忘れようにも忘れられないものだった。
かつて世界を震撼させた、地獄の騎士。
英雄ブリシンガーによって討たれたはずの、恐るべき存在。
(…復活するだと?)
胸の奥に、重く冷たいものが沈んだ。
ザルドは目を閉じ、深く息を吐いた。
イシュカンダル帝国。
その内側には、不気味な狂気が渦巻いている。
強さを求めすぎた結果、死者すら蘇らせ、世界を支配しようとする。
そんな道を歩み始めた帝国に、ザルドの心は、静かな拒絶を覚えていた。
だが―
(俺には、何もできない…)
帝国の監視の目は厳しかった。
密告一つで命が絶たれる世界。
迂闊な行動は許されない。自由な意思すら抑え込まれる場所。
ザルドは拳を握りしめた。
(…カイム…お前は、今どこで何をしている?)
心の中で、かつての友に問いかけた。
そして決意する。
グロイとアッシュナイトが討たれたことは、最早王国中に知れ渡っている。
それに対して、三柱の実力と指導力を問う声も少なくない。
今はまだ、動く時ではない。
まだ動けない
まだ確証がない
だが、必ず機会は訪れる。
アイゼンヘイムが復活するなど許されてはならない。
もしその時が来たなら―たとえ己が砕けようとも、ザルドは、己の正義を貫く覚悟だった。




