第8話「ファルデン村のシスティーン・メイルフィ」
ファルデン村は、山裾の緩やかな丘に寄り添うようにして広がる、静かな村だった。
森を抜けた先、曲がりくねった街道の尽きる場所に、まるで絵画のように小さな屋根が点在している。木造の家々には古びた味わいがあり、石積みの囲いには花が咲き、煙突からは穏やかな煙が上がっていた。まるで昔話の中に迷い込んだかのように穏やかで、どこか懐かしい。
畑では農民たちが腰を曲げて働き、子どもたちの笑い声や赤子を抱いた母親の笑い声がどこからともなく風に乗ってくる。時間の流れがどこか緩やかで、剣や魔法の世界とは遠い、“日常”そのものが息づいている場所。
交易の中心からは離れており、資源は少ないが、旅人に対して閉鎖的というわけではない。むしろ、珍しい顔を見かけると、村人たちは目を丸くしながらも興味津々に話しかけてくる。
外敵を防ぐ門もなければ、村を囲む柵すらない。ここには“戦う”という概念そのものが、初めから存在していなかった。
一応、村を守るという名目の「兵士」は数人いるが、彼らもまた、実際に剣を抜いた経験など一度もない。ただの農夫や木こりが交代で役目を担っており、日中は畑を耕し、夜は井戸端でのんびりと煙草をくゆらせる、そんな程度の役割だった。
ここには酒場も宿も一軒しかないが、それでも旅の疲れを癒すには十分だ。
ファルデン村。それは戦の匂いから遠く離れた、剣を鞘に納められる場所である。
村の朝は、いつも静かだ。
その日も、遠くで小鳥のさえずりが聞こえる中、織機の軽やかな音が、民家の一角から響いていた。カタカタ……カタカタ……と、規則的で優しい音が、村の空気と混ざり合っていく。
音の主は、一人の娘だった。
彼女の名は、システィーン・メイルフィ。
西の大国グランヘイム王国に属するこの辺鄙で小さな村で生まれ育った彼女は、二十歳。両親が営む織工房を手伝いながら、静かに日々を重ねていた。
その姿は、まさしく村の風景に溶け込んでいたが、同時に誰よりも際立ってもいた。
腰まで届く絹糸のような金髪は、朝の光を受けてやわらかに輝き、碧眼はどこまでも澄んでいる。
肌は、まるで雪解け水に濡れた磁器のように白く滑らかだった。その美しさは村の誰もが認めており、子どもから年寄りまで、皆が彼女を敬意と親しみを込めて「ファルデンの女神」と呼んでいた。
だが彼女自身は、その称号を特別なものとは思っていない。むしろ、少しだけ照れくさそうに笑うだけだ。
「……今日は風が気持ちいいわね」
休憩時に窓を開け、指先に風を感じながら呟くその声には、二十歳とは思えない落ち着きがあった。けれどそこには老成ではない、すべてを包み込むような母性があった。
村しか知らない。けれど、村の外を知りたい。
彼女は幼い頃から、本が好きだった。家や神殿の蔵にあった神話や英雄譚の古書を何度も読み返し、語り部が訪れれば朝から晩まで聞き入った。
剣を掲げて悪を討つ英雄。ドラゴンと心を通わせた魔術師。命を賭して国を救った王女。そんな物語に憧れ、いつしか彼女は外の世界を夢見るようになっていた。
中でも、彼女がとりわけ強く心を惹かれたのが、ブリシンガー・ヴァルディアという者の伝説だった。
この伝説は今や、子どもに話す曖昧なおとぎ話として扱われている。
数千年を生きた神造の戦士。国を超え、種族を超え、幾多の戦乱を鎮めた英雄の名。だが、その存在を語る者は今やほとんどおらず、語り継ぎの書も忘れられている。
けれど彼女は、知っていた。
古い巻物に書かれたその名を、記憶に刻むように何度も読んだ。
“炎を超えた光の剣”を持つ不死の戦士—彼が本当に存在したのなら、どれほどの孤独を知っていたのだろう、と。
この古びた巻物が現存するのも、ファルデン村が歴史上の戦火から逃れたからだった。
世界で一つしか存在しない貴重なもので、神殿の奥底に眠っていたものだった。古びた巻物に誰も興味を示さず、彼女の手に渡ったのが発端だった。
もう一つ、ファルデン村では古代から、物語や神話を織り模様として残す文化があった。例えば布に織り込まれた紋様が、神話を語る。祖母の代から伝わる一枚の古いタペストリー。そこには“光の剣を掲げる者”が描かれていた。
システィーンは幼少期、周りに「この人は誰?」と尋ねるたびに、「むかし、空から現れた光の人だよ」とだけ教えられていた。
ここから彼女は彼の伝説を発見し、夢中になった。
システィーンが「ブリシンガーの伝説」を信じていたこと自体、周囲からすれば子供じみた夢想や空想に見える。
だからこそ彼女は思うのだ。会ってみたい。いつか、その人が本当にどこかにいるのなら。
ただの伝説であると彼女は知っている。そんな人が実在するわけがないというのも、心の奥底では静かにわかっていた。だがその“憧れ”すらも、彼女の深い優しさに包まれて、決して焦燥にはならない。
何があっても人を責めず、誰にでも平等に穏やかに接し、静かに微笑むその姿は、まさに聖女と呼ぶに相応しい。その視線の先にあるのは、村の外に広がる未知の世界—そして、彼女すらまだ知らぬ、一つの“運命”だった。
ファルデン村の朝の、いつも通りの穏やかなその空気を僅かに揺らす“気配”があった。二つの影が、村の門なき入口に近づいていた。
ゆっくりと、だが確かな足取りで歩むふたりの男。
一人は銀髪の長身、もう一人は黒髪の若者。背中と腕の中には、見る者すべての視線を奪うほどの“異様な荷物”が積まれていた。
鎧。剣。マント。衣類と思しきごちゃ混ぜの戦利品が、大きな布袋に括られ、ギシギシと不穏な音を立てて揺れている。
村人たちの目が、次々に吸い寄せられていく。
そんな中で、二人はぼそぼそと会話を交わしていた。
「……おい、ブリシンガー。もう少し、目立たない持ち方はないのか」
「文句を言うなら担げ。どうせ売るんだから綺麗にまとめる必要があるだろう」
「剣の束が斜めに飛び出しているぞ。完全に“何かやってきた奴ら”だ……」
「実際にやったんだから仕方ない」
平和で静かな村とは対極の凄まじい存在感と共に、二人の旅人は平和な村に足を踏み入れた。
村人たちは、思わず手を止める。
まるで物語の外から、異世界の住人が迷い込んできたような、そんな気配だった。
「……だ、誰?あれ……」
「旅人……?」
「ママー!あれは誰?」
ざわつく村の空気の中、システィーンは、通りを歩く途中で足を止めた。
買い物の帰りだった。だが、周囲の雰囲気が明らかに変わっている。
(……旅人?)
気になった彼女は、宿屋の脇道へとそっと入り、木陰から様子をうかがう。
そこにいたのは、まさに異彩を放つ二人の男。
汚れた旅装束、戦場帰りのような風貌。
「宿、一泊いくらだ?」
銀髪の男が、無表情に宿の看板を見上げながら呟く。
「……装備品を売ればしばらくは泊まれる。だが風呂が先だな、お前の顔がひどい」
「それはお前もだ」
そのやり取りに、システィーンは思わずクスッとする。
(なんだか……不思議な人たち)
その時だった。ブリシンガーがふと、わずかに首を傾けた。
その瞳が、宿の脇道にある木陰へと向く。システィーンと、視線が交わった。
一瞬。本当に、一瞬だった。けれど、その刹那の中に、何か深く、言葉にできないものがあった。彼の目は、静かだった。驚きも、問いもない。
ただ、すべてを受け止めるような、深い湖のような瞳。システィーンは、思わず息を呑んだ。
(……見られた……)
視線を逸らし、木の影に身を引く。鼓動が少しだけ早くなる。恥ずかしさで頬がわずかに熱を帯びていた。
(でも……怖くなかった)
不思議だった。初めて見るはずの人なのに。まるで、昔どこかで会ったことがあるかのような、そんな錯覚。そのとき、ふと心の奥に、古びた巻物の記憶が浮かんだ。
“銀の不死の戦士”の記述。
『……その者の髪は、満月の光よりも淡く、瞳は戦火を越えてなお、深い静寂をたたえていた』
読み返すたびに胸が高鳴ったその一文が、今、まるで脳裏に焼きつくように蘇る。
(……まさか……)
そう思ってすぐ、彼女はその考えを打ち消した。
ありえない。神話に語られるような存在が、こんな小さな村に現れるはずがない。だが、あの静かな目。あの髪の色。あの、何かを抱えているような気配。
(……気のせい。だけど……)
気のせいだと思いたい。
けれど、もし、もしも本当にあの人が、伝説に語られるあの存在だとしたら。その“もしも”が、心の奥に、小さな火を灯す。
市場の広場は、いつものようににぎわっており牧歌的な時間が流れていた—その時までは。
「……な、なんだあれ……」
「武器屋じゃないよね?あれ……旅人だよな……?」
「鎧まで売りに来てるぞ。……しかも全部、サイズがバラバラ……」
ざわ……っと空気が変わった。
広場の真ん中、日よけ布の下に現れた二人の男。
一人は銀髪の長身で、目を細めながら鎧や剣を丁寧に並べている。彼らの背後には、旅人とは思えぬほどの戦利品の山が積まれていた。
鎧、マント、剣、豪奢なベルト、ブーツ。およそ十人分近い。
「……すごい、これ全部どこから……」
「まさか、盗賊狩り……?」
市場の一角にある道具屋の主、中年の商人が恐る恐る声をかけた。
「お、お兄さんたち……その品、どういう経緯で?」
ブリシンガーは、ちらりと目を向けただけで言った。
「森で拾った」
「ひ、拾った……?……なるほど、そういうことで……(つまり“聞くな”ってことか)」
商人は即座に理解した。長年の経験で、目の前の男が只者ではないことは分かる。
「で、希望する値は?」
「まとめて出す。査定して、換金してくれ。妥当な額でいい」
ブリシンガーはそう言うと、布袋から次々と剣と鎧を並べていった。その動作はやたらと丁寧で、まるで武器屋の店主のようですらあった。
バルダーはというと、彼の隣で小さな短剣をじっと見つめていた。
「この剣、血を拭かずに鞘に入れていたな。錆が酷い」
「商売に向いてないぞ、お前……」
ブリシンガーが呟く。数分後、村人たちは広場の隅に整然と並んだ“盗賊装備即売会”の光景に完全に圧倒されていた。
「……こ、このマント、案外いいじゃない」
「剣は……ちょっと古いけど、細工が良いわね」
「村の警備隊にまわすのもありかもな……」
気づけば、少しずつ人が集まり、彼らが賑わいの中心になっていた。
システィーンは少し離れた路地からその光景を見つめながら、まだ胸の中に言葉にならない感情が渦巻くのを感じていた。
(……あんなに人たちが……)
村の日常のなかに“異物”として確かに現れた二人の姿は、すでに村全体の空気を変え始めていた。
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数十分後。売れるものはほとんど片付いた。
周囲の村人たちは皆、興味津々な視線を向けていたが、それ以上に近づくことはなく、適度な距離を保っている。
バルダーが最後に小銭袋を受け取り、手のひらで重さを量るように振った。
「……結構入ってるな。思ったより高く売れた」
それに対し、隣に立つブリシンガーがぽつりと呟いた。
「宿代が稼げた」
その声はどこか満足げだった。バルダーが思わず苦笑する。
「……奪ったものでだけどな」
「結果がすべてだ。旅人の流儀だろう?」
そう言いながら、ブリシンガーは再び荷を背負い直した。
背に感じる重さが減った分だけ、次の一歩が少しだけ軽くなった気がした。




