第88話「命の矛盾」
戦いの嵐が、嘘のように静まった。
崩れ落ちた灰だけが、かすかに風に舞っている。
それはまるで、世界から一つの悲劇が静かに消えていった証だった。
システィーンは魔力の余波にふらつきながらも、真っ先に駆け寄った。
金髪が光の中で揺れ、青い瞳が心配に曇る。
「ブリシンガー…!」
声が震えていた。
彼女にとって、あの一撃―アッシュナイトとの真正面からの衝突は、到底無事では済まないと思えるものだった。
銀髪の戦士は、微笑んではいない。
けれど、確かに柔らかく彼女を見た。
「…俺は無事だ」
短く、だが確かに言葉を紡ぐ。
その声音に、システィーンはほっと息を吐き、胸に手を当てた。
「…よかった…」
彼女は震える指先で、ブリシンガーの腕に触れた。
まだ温かい。
その確かな存在に、胸の奥から安堵が湧き上がる。
ゼルグ、ドゥガルとバルダーも遅れて歩み寄った。
誰もが言葉を失っていた。言葉にならない戦いだった。
ただ、皆、確かに感じていた。この場に立つ誰もが、今、同じ想いを抱いていた。
ブリシンガーは、地面に落ちた黒ずんだ鎧の破片へと視線を落とした。
アッシュナイト―死と破壊だけを宿命づけられた存在。
自ら選んだわけではなく、与えられた運命に、最後まで抗おうとした者。
ブリシンガーは静かに、その場に膝をついた。
拾い上げたのは、灰に塗れた、かつての騎士の名残。
それをしばし見つめると、そっと大地へ置いた。
まるで、魂を弔うかのように。
「…お前も、苦しかったんだな」
誰に聞かせるでもなく、ブリシンガーは低く呟いた。
数え切れない程の多くの命を犠牲に作られた人工生命体。
生きることも死ぬことも許されず、ただ命令に従う為だけに作られた禁忌の生命体。
彼の中には、破壊衝動以外にも、戦いの中で見せた“生”への執着が確かにあった。
それが、彼を作るのに寄せ集められた数多くの命の中に唯一残っていた理性だったかもしれない。
だからこそ、最期の最期まで、あがいたのだ。
死にたくなかったのではない。
生きたかったのだ。
けれどそれは、彼には叶わなかった願い。
ブリシンガーは、拳を軽く握りしめ、そっと目を閉じた。
「…せめて、安らかに眠れ」
そう言って、立ち上がる。
システィーンはその背中を見上げ、静かに胸に手を当てた。
バルダーも、ゼルグも、何も言わなかった。
ただ、皆、静かに頭を垂れた。戦いの勝者としてではない。
失われた存在への、ささやかな敬意を込めて。
風が、灰を運ぶ。世界は何事もなかったかのように、青空を広げていた。
静かな余韻が、残っていた。誰もがまだ、先程の壮絶な戦いの余韻を引きずっている。
やがて、ゼルグが口を開いた。
「…ブリシンガーよ」
低い声で、だがどこか戸惑いを含んだ響き。
「なぜ、回復魔法が効くと分かった?」
バルダーも、珍しく視線を伏せながら言葉を継ぐ。
「俺も、正直…驚いた。破壊と死の権化に、回復で対抗するなんて、普通は思いもよらない」
システィーンもまた、手を胸の前で握りしめたまま、ブリシンガーを見上げた。
その瞳には、ただ純粋な疑問と、尊敬の色が浮かんでいた。
ブリシンガーはゆっくりと口を開いた。
「理屈は、単純だ」
彼の声は、静かだが確信に満ちていた。
「アッシュナイトは、あらゆる現象を破壊し、命を死に変える存在。つまり、奴の本質は"破壊"と"死"という、一方通行の力だ」
ブリシンガーは指を一本立てて続ける。
「破壊というのは、一方的な現象だ。崩す。壊す。命を絶つ。そこには、"戻る"という概念がない。逆行がない」
「……」
周囲が黙って聞き入る。
「だが、回復は違う。回復とは、破壊されたものを"再生"する力だ」
ブリシンガーは一歩、地面を踏みしめる。
「破壊と回復は、互いに正反対の概念だ。理屈上、両方を同時に保持することはできない。死と生―それらは絶対に並立できない矛盾だ」
ゼルグが低く唸った。
「つまり、破壊だけで構成された存在に、回復を流し込んだら…」
「―内部で矛盾が暴走し、自己崩壊する」
ブリシンガーは静かに頷いた。
「生きる器を持たない存在に、"生"を流し込めばどうなるか。その存在は、自分自身の在り方に耐えられず、崩れる」
「これは"理論上"だ。だが、実際に試す機会は、まずない。なぜなら、破壊だけで存在しているものなど、ほとんどいないからだ」
彼は灰に覆われた大地を見下ろし、低く結んだ。
「アッシュナイトはその数少ない、純粋な破壊と死だけでできた存在だった。だからこそ、回復はあいつにとって毒だった」
システィーンが、そっと呟いた。
「生きることができない存在…」
ブリシンガーは微かに頷いた。
「矛盾を突かれた時、存在は自壊する。それが、この世界の理だ」
「もっとも、ただの“回復魔法”だけでは奴にとって無意味だった。死の力に抗う程の魔力でなければならない。システィーン、お前の膨大な魔力から来る、回復の才があってこそ出来たことだ」
しばし沈黙が流れる。
だがその沈黙は、どこか敬意を孕んでいた。
ブリシンガーの推論と決断―
それがなければ、誰一人ここに生き残れなかっただろう。
ゼルグが不器用に腕を組みながら言った。
「…理屈は分かったが。それを、あの瞬間で見抜いて迷わず命令するとは、流石だな」
バルダーもわずかに目を細める。
「常人なら、"回復で破壊する"なんて発想は、まずできない。理屈を知っていても、実行できるとは限らない」
ブリシンガーはそんな彼らを見て静かに答える。
「他に方法が無かった訳ではない」
「全力のスピードで奴を破壊し、灰化の能力が俺に作用する前に倒すというのも一つの手だったが、そんな速度を出したら周囲が吹き飛ぶ。今回の方法が、周囲に被害を出さない最適案だった」
彼一人でも対処出来た脅威だったと考えた周囲は、改めて、彼が世界を守る守護神の立場であるということを再認識させられる。
ブリシンガーは、そんな三人を見渡すと、ほんの僅かに、口元を和らげた。
「…礼はいい。生き延びた、それで十分だ」
彼はそう言って、静かに背を向けた。




