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銀の伝承  作者: 銀の伝承
第五章「星砕の戦編」
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第82話「本物のいない朝」

王都の夜は、穏やかだった。

石畳の道を、柔らかな灯りが照らし、人々は、明日への静かな希望を胸に眠りにつこうとしていた。


だが、その裏側で静かに、死が忍び寄っていた。

彼らが動いたのは、街が眠りについた頃だった。


南区の裏通り。人気のない、細く曲がりくねった道。

そこを歩くのは、布の端切れを抱えたシェレムだった。昼間、市場の女主人から預かった布を、新たな仕立て場へ届けに向かう途中だった。


彼は知らなかった。

その背後―闇の中、彼と全く同じ姿をした“もう一人のシェレム”が、無音で接近していたことを。


影のような気配が、一瞬だけ石畳に揺らめいた。

そして、次の瞬間シェレムは、口元を布で塞がれ、声を

上げる暇もなく、暗闇に引きずり込まれた。


足掻く間もなかった。背中に滑り込む冷たい刃。

その顔に、同情はなかった。

布の束と一緒に、シェレムの身体が、路地裏に沈んでいった。


一方、郊外の農場。

遅くまで農具の手入れをしていたロゥガは、帰路につこうとしていた。

満天の星空。

微かに揺れる麦の香り。


そんな中茂みの影から、“自分自身の姿”をした何者かが現れる。ロゥガは一瞬、眉をひそめた。


「…誰だ?」

次の瞬間、偽者のロゥガは、驚異的な速さで間合いを詰めた。


拳と拳がぶつかり合う。本物のロゥガは屈強だった。

だが偽物もまた、殺すために作り変えられた存在だった。


わずかな隙を突かれ、ロゥガの腹に短剣が深々と突き立つ。

「…くそ、ったれ…」

ロゥガは歯を食いしばりながら、最後の力で相手の顔を殴った。


だが、それは小さな抵抗に過ぎなかった。

ロゥガは、血を噴きながら、夜の麦畑に崩れ落ちた。


最後に、王立学舎の裏門。

ナシュリィアは、教え子たちから渡された小さな花束を抱えながら、ゆっくりと帰途に着いていた。

その笑顔は、確かに暖かかった。


だからこそ、その死は―あまりにも、冷たかった。

背後から、音もなく近づいた“自分自身”。


花束を抱きしめたまま、ナシュリィアは背中を刺され、そのまま石畳に膝をついた。

「…っ」

咄嗟に振り向きかけた瞳に映ったのは、笑顔の“ナシュリィア”だった。

彼女の目には、何も映っていなかった。


三人の命が、ほぼ同時に、夜の中に散った。

静かに、確実に、誰にも知られることなく。

そして偽物たちは、本物たちの死体を秘密裏に始末すると、完全にその役割をなり替えた。


そして―システィーンとバルダー。

王国の希望を、未来を根こそぎ奪うために。


夜が明け、ザラハート王国にまた新しい朝が訪れた。

市場は賑わい、子どもたちの笑い声が響き、兵たちは出撃準備に忙しく走り回る。


すべてが、平和に見えた。

だが。すでに、その中に“異物”は紛れ込んでいた。


布屋。

偽者となったシェレムは、昨日と同じように織機を操っていた。

器用な指さばき、無口な立ち振る舞い、控えめな微笑み。


それらすべてが、完璧に本物をなぞっていた。だが、市場の女主人がふと感じた。


「…シェレム、今日、少し…手際が違う?」


わずかな、ほんのわずかな違和感。しかし女主人はすぐに首を振った。

(疲れてるだけよね。大丈夫、大丈夫…)

そう、自分に言い聞かせた。


郊外の農場。

偽者のロゥガは、鍬を担ぎ、笑いながら農夫たちと働いていた。

だが、彼の笑い声はどこか、微かに冷たかった。仲間の農夫が、汗を拭いながらふと呟く。


「…ロゥガ、笑うとき、あんな目、してたか?」

だが、忙しさに紛れて誰も追及しなかった。


学舎。偽者のナシュリィアは、子どもたちに絵本を読み聞かせていた。

その声は、甘く、柔らかかった。

けれどナシュリィアが読んだ物語は、いつもより、どこか暗い結末を迎えるものばかりだった。


女の子が小さな声で言った。

「…ナシュリィア先生、今日のお話、ちょっと…怖いよ」


ナシュリィアは微笑んだ。完璧な、作られた微笑みを。

「でも…怖いことも、大事なことよ。大人になるためにはね」


そして、昼下がり。

ブリシンガーたちの訓練場。

偽者たちは、それぞれ“偶然”を装いながら、システィーンとバルダーの周囲に接近し始めた。


シェレムは、訓練用の布具を届けるという名目で、システィーンに接触した。

「…システィーンさん。新しい練習用のマント、持ってきました」


柔らかな口調。だが、ほんの僅かに―その瞳が、揺れた。

システィーンは受け取りながら、ふと、胸の奥に小さな棘のようなものを感じた。


(…?なんだろう、この…妙な…)

だが、彼女は微笑みを返した。


ロゥガは、バルダーの剣の手入れを手伝うふりをして、さりげなく隣に立った。

バルダーは笑いながら、

「助かるっす、ロゥガさん!」

と声をかけたが―ロゥガの手からは、僅かに、冷たい殺意がにじみ出ていた。


バルダーは無意識に肩をすくめた。

(今の…なんだ?)

だが、それ以上は考えなかった。


ナシュリィアは、休憩中に子どもたちを集めるシスティーンの隣に座った。

甘い誘い。優しい声。だがその奥底に、暗い、深い、淀んだ影が蠢いていた。


彼らは、完璧に振る舞った。

完璧に微笑んだ。完璧に溶け込んだ。


だが、その“完璧さ”こそがわずかな違和感となって、静かに周囲へと滲み始めていた。

次なる目標は、王の元へ近づく機会を得ること。そして、出撃前夜、システィーンとバルダーを仕留めること。


静かに、ゆっくりと、破滅の幕は、確かに降り始めていた。

出撃まであとニ日。

傷も治り始めていて、訓練を終えたシスティーンとバルダーは、広場の片隅でブリシンガーとドゥガルと共に軽く休息を取っていた。

だが―その空気には、どこか奇妙な緊張が混じっていた。


カリスは、じっと遠くを眺めながら眉をひそめた。

布屋の帰りに立ち寄った市場。


そこで見かけたシェレム―彼の立ち居振る舞いは、確かに、“本物”と同じだった。だがカリスの胸に、どうしても消えない違和感があった。


それは、言葉にできない、本能的なものだった。

(…シェレムは、人と目を合わせるのが苦手だったはずだ…だが、さっきの“彼”は、自然に視線を交わしていた)


微細な、本当に微細な違い。

だが、カリスのような過酷な環境で生き残ってきた魔族にとって、それは見過ごせるものではなかった。


ブリシンガーもまた、無言で街の様子を見渡していた。

彼は感じていた。空気の“歪み”を。言葉にできない、世界のわずかな軋みを。

「…何かが、おかしい」

彼は静かに呟いた。


隣にいたドゥガルが首を傾げる。

「どうかしたか?」


だがブリシンガーは首を振った。

今はまだ、確証がない。

だが、戦士の勘が危機を告げていた。


王城では、翌朝の出撃に向けた最終準備が進められていた。

兵たちが行き交い、武具が整えられ、指揮官たちが作戦図を前に討議している。


そんな中―静かに、静かに、“偽者たち”は動き始めていた。

偽シェレムは、補給物資の確認要員として王城内へ。

偽ロゥガは、農作物搬入の護衛に紛れて。

偽ナシュリィアは、学舎から運ばれる文書の整理係として。


それぞれが、完璧に役割を装いながら、王城の中枢部へと忍び込んでいった。


そして、出撃前夜。

王宮の一角。薄暗い回廊を、システィーンとバルダーが並んで歩いていた。


出撃前の最終確認を終え、少しだけ、肩の力を抜いていた。

「ふぅ……今回ばかりの戦いは、ブリシンガー頼みだな。まだ傷が疼く」


「そうだね……」

その時。

二人の背後から、微かに忍び寄る気配―


システィーンは、何かに気づき、振り返った。だが、そこには誰もいなかった。


バルダーも、首を傾げる。

「…なんか、変だな。気のせいかな?」


「…うん、たぶん…」


だが確かにいた。

闇の中、潜む三つの影。偽シェレム、偽ロゥガ、偽ナシュリィア―彼らは、一斉に位置取りを完了させた。


まるで、獲物を狙う狼のように。


その目には、もはや憐れみも、戸惑いもなかった。

あるのは、ただ冷酷な命令だけ。


抹殺せよ。

ザラハートの希望を、根絶せよ。


静かに、静かに、殺意が充満していく。

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