第82話「本物のいない朝」
王都の夜は、穏やかだった。
石畳の道を、柔らかな灯りが照らし、人々は、明日への静かな希望を胸に眠りにつこうとしていた。
だが、その裏側で静かに、死が忍び寄っていた。
彼らが動いたのは、街が眠りについた頃だった。
南区の裏通り。人気のない、細く曲がりくねった道。
そこを歩くのは、布の端切れを抱えたシェレムだった。昼間、市場の女主人から預かった布を、新たな仕立て場へ届けに向かう途中だった。
彼は知らなかった。
その背後―闇の中、彼と全く同じ姿をした“もう一人のシェレム”が、無音で接近していたことを。
影のような気配が、一瞬だけ石畳に揺らめいた。
そして、次の瞬間シェレムは、口元を布で塞がれ、声を
上げる暇もなく、暗闇に引きずり込まれた。
足掻く間もなかった。背中に滑り込む冷たい刃。
その顔に、同情はなかった。
布の束と一緒に、シェレムの身体が、路地裏に沈んでいった。
一方、郊外の農場。
遅くまで農具の手入れをしていたロゥガは、帰路につこうとしていた。
満天の星空。
微かに揺れる麦の香り。
そんな中茂みの影から、“自分自身の姿”をした何者かが現れる。ロゥガは一瞬、眉をひそめた。
「…誰だ?」
次の瞬間、偽者のロゥガは、驚異的な速さで間合いを詰めた。
拳と拳がぶつかり合う。本物のロゥガは屈強だった。
だが偽物もまた、殺すために作り変えられた存在だった。
わずかな隙を突かれ、ロゥガの腹に短剣が深々と突き立つ。
「…くそ、ったれ…」
ロゥガは歯を食いしばりながら、最後の力で相手の顔を殴った。
だが、それは小さな抵抗に過ぎなかった。
ロゥガは、血を噴きながら、夜の麦畑に崩れ落ちた。
最後に、王立学舎の裏門。
ナシュリィアは、教え子たちから渡された小さな花束を抱えながら、ゆっくりと帰途に着いていた。
その笑顔は、確かに暖かかった。
だからこそ、その死は―あまりにも、冷たかった。
背後から、音もなく近づいた“自分自身”。
花束を抱きしめたまま、ナシュリィアは背中を刺され、そのまま石畳に膝をついた。
「…っ」
咄嗟に振り向きかけた瞳に映ったのは、笑顔の“ナシュリィア”だった。
彼女の目には、何も映っていなかった。
三人の命が、ほぼ同時に、夜の中に散った。
静かに、確実に、誰にも知られることなく。
そして偽物たちは、本物たちの死体を秘密裏に始末すると、完全にその役割をなり替えた。
そして―システィーンとバルダー。
王国の希望を、未来を根こそぎ奪うために。
夜が明け、ザラハート王国にまた新しい朝が訪れた。
市場は賑わい、子どもたちの笑い声が響き、兵たちは出撃準備に忙しく走り回る。
すべてが、平和に見えた。
だが。すでに、その中に“異物”は紛れ込んでいた。
布屋。
偽者となったシェレムは、昨日と同じように織機を操っていた。
器用な指さばき、無口な立ち振る舞い、控えめな微笑み。
それらすべてが、完璧に本物をなぞっていた。だが、市場の女主人がふと感じた。
「…シェレム、今日、少し…手際が違う?」
わずかな、ほんのわずかな違和感。しかし女主人はすぐに首を振った。
(疲れてるだけよね。大丈夫、大丈夫…)
そう、自分に言い聞かせた。
郊外の農場。
偽者のロゥガは、鍬を担ぎ、笑いながら農夫たちと働いていた。
だが、彼の笑い声はどこか、微かに冷たかった。仲間の農夫が、汗を拭いながらふと呟く。
「…ロゥガ、笑うとき、あんな目、してたか?」
だが、忙しさに紛れて誰も追及しなかった。
学舎。偽者のナシュリィアは、子どもたちに絵本を読み聞かせていた。
その声は、甘く、柔らかかった。
けれどナシュリィアが読んだ物語は、いつもより、どこか暗い結末を迎えるものばかりだった。
女の子が小さな声で言った。
「…ナシュリィア先生、今日のお話、ちょっと…怖いよ」
ナシュリィアは微笑んだ。完璧な、作られた微笑みを。
「でも…怖いことも、大事なことよ。大人になるためにはね」
そして、昼下がり。
ブリシンガーたちの訓練場。
偽者たちは、それぞれ“偶然”を装いながら、システィーンとバルダーの周囲に接近し始めた。
シェレムは、訓練用の布具を届けるという名目で、システィーンに接触した。
「…システィーンさん。新しい練習用のマント、持ってきました」
柔らかな口調。だが、ほんの僅かに―その瞳が、揺れた。
システィーンは受け取りながら、ふと、胸の奥に小さな棘のようなものを感じた。
(…?なんだろう、この…妙な…)
だが、彼女は微笑みを返した。
ロゥガは、バルダーの剣の手入れを手伝うふりをして、さりげなく隣に立った。
バルダーは笑いながら、
「助かるっす、ロゥガさん!」
と声をかけたが―ロゥガの手からは、僅かに、冷たい殺意がにじみ出ていた。
バルダーは無意識に肩をすくめた。
(今の…なんだ?)
だが、それ以上は考えなかった。
ナシュリィアは、休憩中に子どもたちを集めるシスティーンの隣に座った。
甘い誘い。優しい声。だがその奥底に、暗い、深い、淀んだ影が蠢いていた。
彼らは、完璧に振る舞った。
完璧に微笑んだ。完璧に溶け込んだ。
だが、その“完璧さ”こそがわずかな違和感となって、静かに周囲へと滲み始めていた。
次なる目標は、王の元へ近づく機会を得ること。そして、出撃前夜、システィーンとバルダーを仕留めること。
静かに、ゆっくりと、破滅の幕は、確かに降り始めていた。
出撃まであとニ日。
傷も治り始めていて、訓練を終えたシスティーンとバルダーは、広場の片隅でブリシンガーとドゥガルと共に軽く休息を取っていた。
だが―その空気には、どこか奇妙な緊張が混じっていた。
カリスは、じっと遠くを眺めながら眉をひそめた。
布屋の帰りに立ち寄った市場。
そこで見かけたシェレム―彼の立ち居振る舞いは、確かに、“本物”と同じだった。だがカリスの胸に、どうしても消えない違和感があった。
それは、言葉にできない、本能的なものだった。
(…シェレムは、人と目を合わせるのが苦手だったはずだ…だが、さっきの“彼”は、自然に視線を交わしていた)
微細な、本当に微細な違い。
だが、カリスのような過酷な環境で生き残ってきた魔族にとって、それは見過ごせるものではなかった。
ブリシンガーもまた、無言で街の様子を見渡していた。
彼は感じていた。空気の“歪み”を。言葉にできない、世界のわずかな軋みを。
「…何かが、おかしい」
彼は静かに呟いた。
隣にいたドゥガルが首を傾げる。
「どうかしたか?」
だがブリシンガーは首を振った。
今はまだ、確証がない。
だが、戦士の勘が危機を告げていた。
王城では、翌朝の出撃に向けた最終準備が進められていた。
兵たちが行き交い、武具が整えられ、指揮官たちが作戦図を前に討議している。
そんな中―静かに、静かに、“偽者たち”は動き始めていた。
偽シェレムは、補給物資の確認要員として王城内へ。
偽ロゥガは、農作物搬入の護衛に紛れて。
偽ナシュリィアは、学舎から運ばれる文書の整理係として。
それぞれが、完璧に役割を装いながら、王城の中枢部へと忍び込んでいった。
そして、出撃前夜。
王宮の一角。薄暗い回廊を、システィーンとバルダーが並んで歩いていた。
出撃前の最終確認を終え、少しだけ、肩の力を抜いていた。
「ふぅ……今回ばかりの戦いは、ブリシンガー頼みだな。まだ傷が疼く」
「そうだね……」
その時。
二人の背後から、微かに忍び寄る気配―
システィーンは、何かに気づき、振り返った。だが、そこには誰もいなかった。
バルダーも、首を傾げる。
「…なんか、変だな。気のせいかな?」
「…うん、たぶん…」
だが確かにいた。
闇の中、潜む三つの影。偽シェレム、偽ロゥガ、偽ナシュリィア―彼らは、一斉に位置取りを完了させた。
まるで、獲物を狙う狼のように。
その目には、もはや憐れみも、戸惑いもなかった。
あるのは、ただ冷酷な命令だけ。
抹殺せよ。
ザラハートの希望を、根絶せよ。
静かに、静かに、殺意が充満していく。




