第7話「訓練開始」
翌朝、バルダーは朝日が登り始めたばかりの早朝に目が冷めた。遠くで聞こえる鳥のさえずりと朝焼けする空が美しい。
近くで水音がする、川がある。昨日の戦闘から身体を洗っておらず、ドロドロの彼は川浴びをすることにした。服を脱ぎ、冷たい水に身を沈めた。少し時間が経つと茂みからブリシンガーも登場した。
「なんだ。どこへ行ったかと思えば、お前も水浴びか」
彼も裸だった。バルダーも数々の戦闘や戦争で身体に傷跡が残っているが、ブリシンガーを見て驚きを隠せずにはいた。
まるでギリシャ、ローマ神話に登場する英雄かのような美しく逞しい肉体。肌は雪のように真っ白だが、胴体にはバルダーとは比較にならない程の古傷が数多く身体に刻まれていた。特に胸部には痛々しい巨大な跡が残っていた。
バルダーの視線に気づいたブリシンガーがフッと微笑む。
「これか、これが昨夜話した、ガウレムとの戦闘によって付いた傷だ」
通常の人間であれば何百回死んでもおかしくない傷だ。ブリシンガーは長年の戦闘により極限にまで鍛えられた肉体を同じく川に鎮める。
「これが終われば、訓練を開始するぞ」
バルダーが静かに頷く。殺し合いとはまた違う己の剣技と魔法を高める訓練が始まる。
――――
先ほどの二人が野宿していた場所から少し離れた、広場へ場所を移した。
「お前の本当の力を見せてみろ。……全力で来い。魔法も、剣も、使えるものは全て使え」
そう言って、ブリシンガーは一歩後ろへ下がり、無防備な立ち姿のまま。手に武器は持っていない。だが、それでも空気が明らかに変わった。霧が微かに揺らぎ、大地が息を飲んだように張り詰める。
(なんて構えだ)
彼は武器を持っていない丸腰、それでもって構えている訳でもないのに、全く付け入るスキがない。
バルダーは無言で頷き、剣を引き抜いた。左手には瞬時に魔法陣を展開する。
そして、彼は地を蹴った。高速の踏み込み。霧を切り裂いて一気にブリシンガーとの距離を詰める。
「はッ!」
斬撃と共に、雷の魔法『ライトニング・スピア』を放つ。剣と雷が交差する同時攻撃。
しかしブリシンガーは微動だにしない。ただ身体をわずかに傾けるだけで、剣も雷も空を裂いた。空振り。
「……!」
驚愕する間もなく、バルダーは斬撃を連打し、炎と風、氷の魔法を織り交ぜた連続攻撃を叩き込む。
だが、ブリシンガーに一撃たりとも届かない。回避しているのではない。彼の立つその場所に、攻撃が「届いていない」ようにすら見えた。
刃が空を切るたび、魔法が外れるたびに、バルダーの呼吸が荒くなっていく。
「なぜ、当たらない……!!」
その問いに、ようやくブリシンガーが口を開いた。
「悪くはない。だが、お前の剣には“心”がない」
ブリシンガーはその場に落ちていた枯れ枝を拾い、まるでそれが名剣であるかのように構えた。
「強さとは、力や技術も当然だが、“信念”から生まれるものだ。お前の剣には、それが欠けている」
バルダーは剣を構え直しながら、わずかに口を開く。
「……俺はただ、生き延びるために剣を握ってきた。それの何が悪い」
「生き延びる為に剣を振るうのも否定しない。それも一つの信念だ。だが、お前は、“何のために戦っている”?」
その言葉に、バルダーの動きが止まった。
静寂が広がる朝の広場に、風が吹いた。ブリシンガーの銀髪がさらりと靡く。
「剣は“魂”の延長だ。魂が迷えば、剣も迷う。だから届かない」
バルダーは、ふと自分の剣を見つめた。それは今まで、自分にとってただ“与えられた道具”でしかなかった。奪うため、勝つため、命じられたから使ってきた剣。
そんなこと、考えたことすらなかった。
バルダーが再び突撃する—その瞬間だった。
乾いた音と共に、ブリシンガーの手元で枝が動いた。まるで舞うような流麗な動き。枝の先がバルダーの剣に軽く触れただけで、その軌道が逸らされた。
「っ……!?」
目を疑った。こちらは鍛え抜かれた鋼の剣。対して、彼が持っているのはただの落ちていた“枯れ枝”—それなのに、あらゆる斬撃が受け止められ、いとも容易く弾かれていく。
「くっ……!」
剣を振り下ろす。魔法を添える。だが、ブリシンガーは一切の躊躇なく、それを枝一本で受け流していく。
「ライトニング・エッジ!」
バルダーが雷を纏って突撃するも、ブリシンガーはただ一歩踏み込んで、枝で剣をはじいた。
雷鳴が散り、剣が弾かれる。その勢いでバルダーの身体が後方に回転し、姿勢を崩す。
それだけで、バルダーは地面に膝をついていた。ただの枝。それなのに、まるで神具のような威力と精密さで自分の攻撃を封じ込める。
息を切らしてきたバルダーがもう一度彼に向かって地面を蹴る。だが—
「甘い」
静かな声と共に、ブリシンガーが一歩、地を蹴った。
その一歩だけで地面が鳴る。バルダーが反応する間もなく、目の前にブリシンガーの姿が迫っていた。
「ッ……!」
咄嗟に剣を構えようとするが—遅かった。
ブリシンガーの手に握られた枝が、しなるように振るわれた。
風を切る鋭い音と共に、バルダーの腹部に一撃が叩き込まれる。一瞬、世界が止まったように感じた。
直後、重たい衝撃がバルダーの全身に走り、彼の身体は宙に浮いた。
「が……っ……!」
呼吸が一瞬で奪われる。肺の空気が全部吹き飛んだかのような感覚。そのまま、バルダーの身体は後方へと吹き飛ばされ—後ろの木に背中から激突。ズズ……と滑るように地面に崩れ落ちた。数秒の沈黙。
ブリシンガーはその場で枝を軽く振って、無造作に地面へ捨てる。
「武器の差が戦いを分けると思うなら、それはまだ半人前ということだ」
「道具はあくまで手段に過ぎん。信念のこもった者が握れば、たとえ枝でも岩でも“武器”になる。だが、お前の剣はただ、命を奪うだけの道具として使ってきた」
ブリシンガーはバルダーに歩み寄る。
「力なき信念は愚かだが、信念無き力はただの暴力。今のお前に欠けているものは、技術以上に『心』だ。誰かや何かの為に振るう剣は、そうでない者と比較して何倍も強くなる」
バルダーの目がわずかに揺れる。
「今までお前は機械的に戦い過ぎた。自分がなぜ戦うのか、分かっていない。だから、届かないんだ」
ゆっくりと立ち上がる黒髪の戦士バルダー。
「じゃあ、俺の戦う理由とやらを探すのを手伝ってもらおうか」
肩で息をしている。
「まずは技術―剣での戦い方を教えてやる。俺の動きを真似してみろ」
その後はブリシンガーがひたすらバルダーに剣の技術を叩き込んでいた。
細かな手首の角度、剣筋、足さばき、呼吸法など、今までバルダーが王国で学んだ戦闘法とは全く異なる技術だった。
だが―しっくり来た。今までの戦い方はひたすら相手を徹底的に攻め落とす剣。自らの肉体的な負担を考えない自爆攻撃に近いものがあったが、ブリシンガー直伝の技術は自然と身体に馴染むような感覚があった。人間の身体の動きと自然にマッチしていた。
「流石ヴァルハイト王国最強の戦士だな、飲み込みが早い」
ブリシンガーは彼の成長速度に驚いた。たった一時間で彼の剣の腕は飛躍的に向上した。トゲのあった剣の振り方や荒々しい踏み込みが、完全ではないが、洗練されていくのが感じ取れたのだった。
「一つだけ、技を教えよう」
「呼吸だ。力を出すには、筋肉でも魔法でもない。“呼吸”が核になる。体の中にある力を、無駄なく引き出し、解放するための道筋だ」
「呼吸……」
「深く吸って、ゆっくり吐け。意識を一点に集中しろ。体の中心から力が湧き出す感覚を掴め。魔力は使わなくていい。これは“己の肉体”だけで放つ剣だ」
「これが正しく出来れば、最小限の力で最大の効果を発揮することができる」
バルダーは、剣を構える。
言われた通りに、すううう……と深く息を吸う。胸が膨らみ、肺が空気を満たす。筋肉の一つひとつが目覚めていく感覚。
身体の奥底に眠っていた何かが、静かに、だが確実に目を覚ました。
「っ……!」
彼の皮膚の下から、熱のような白い光が微かに滲み出す。それは魔力ではない、ただの活性化された肉体が放つ圧。
そのまま、息を吐きながら—
「うおおおおおおおおおおおおっ!!!!」
バルダーが、全身全霊の力で剣を振り下ろす。
空気が裂け、地が震えた。雷鳴のような轟音が森に響き、剣が振り抜かれた軌道に沿って、地面が抉れる。
剣圧だけで、地面に一直線の巨大な亀裂が走っていた。
数秒後。風が止む。
バルダーは荒く息をつきながら、剣を見つめていた。
「これが……俺の力……?」
自分が放った一撃。その重さに、自分自身が驚いていた。今までのどんな訓練でも得られなかった“確かな感触”が、腕に、足に、背中に残っている。
ブリシンガーが静かに近づき、淡く微笑む。
「……悪くない」
だが、同時にどっとした疲れがバルダーの身体を襲う。当然、ブリシンガーはそれに気づいていた。
「慣れるには時間がかかるだろう。それまでは肉体的な鍛錬をするしかない。少し休憩してから、また旅を始めよう」
二人が焚き火のあった所に戻り、しばらく休憩をした。バルダーが問題なく動けるまで回復した後に二人は準備を始めた。
昨日までの自分とは何かが違う—そんな確信が、彼の胸の奥に微かに灯っていた。
二人は静かな森道を抜け、街道沿いへと出る。草を踏む音だけが旅路に響いていた。やがて、乾いた土の上に馬車の轍と靴の足跡が残る、比較的開けた道に出た。
ブリシンガーがふと立ち止まり、周囲に目をやる。
「……」
風が止まった。空気が一気に緊張感を帯びる。
その瞬間—
「来たなぁ、旅人さんよォ!ここは俺達の縄張りだ」
茂みの陰から十人ほどの男たちが姿を現した。ボロボロの鎧、鈍った剣、狡猾そうな目つき。どう見ても普通の旅人ではない。明らかに戦闘慣れした盗賊団だった。
「あんたらみてぇなよそ者が通るってことは……グランヘイム王国にいくつもりかぁ?残念だが通らせねぇ、連れの小僧も上等な剣を持ってるし、旅人狩りにはちょうどいいぜ……!」
バルダーが剣に手をかけた瞬間—
「下がれ、バルダー」
ブリシンガーの声が、静かに響いた。
だが、次の言葉が意外だった。
「……いや、違うな。今回はお前がやれ。俺は手を出さない」
バルダーはわずかに目を見開く。
「俺が?」
ブリシンガーは微かに頷いた。そして、さらに一言を添える。
「ただ一つだけ条件を課す。相手を殺すな」
その言葉に、バルダーの足が止まった。
「……殺すな?」
かつて、戦う理由など持たなかった。命令されるままに、敵を斬り、殺す。それが“戦い”だと思っていた。
ブリシンガーはただ、じっと彼を見つめている。その眼差しには怒りも苛立ちもない。ただ“信じている”という静かな光が宿っていた。
バルダーは目を伏せ、剣に視線を落とす。
心の奥に、かつての自分が囁く。“殺さなければ、殺される”。それがこの世界の理だと。だが、その隣にはブリシンガーがいた。命令ではなく、“意思”を持って戦えと教えてくれた男が。
バルダーは拳を握った。
「……分かった」
低く呟いたその声は、かつての冷たい自動人形のようなそれではなかった。
わずかに、ほんのわずかに震えを含んでいた。初めて、「命を奪わずに剣を振るう」という未知の道に、足を踏み入れようとする少年の決意だった。
それを見ていた盗賊たちが間抜けな顔で笑っている。
「なんだァ?あの銀髪、やる気ねぇのかよ!」
「じゃあまずは小僧からやるかぁ!!」
瞬間、ひとりの盗賊が雄叫びとともに突進してきた。短剣を逆手に構え、目に血走った興奮が宿る。
バルダーの剣が、一閃した。
剣の平が盗賊の側頭部に直撃。殺意のない、だが重たい一撃だった。
「ぐっ……あ……!?」
盗賊は目を白黒させながらそのまま地面に倒れ、意識を失った。
それを見ていた他の盗賊たちが顔色を変える。
「てめぇ……!」
「仲間をやりやがったな!!」
「まとめてやっちまえ!!」
怒声と共に、残る九人が一斉に襲いかかってくる。剣、棍棒、斧、魔道具すら混ざったごちゃ混ぜの装備が振るわれる。
バルダーは一瞬だけ深く息を吸い、地面を蹴った。
疾風のように、彼は舞う。
殺さずに制する。無駄な動きを一切しない意識を心がけた。剣の平、柄、踏み込み、重心移動、全てが精緻に計算されていた。
盗賊たちは次々に倒れていく。痛みで呻き声を上げながらも、命に別状はない。寸止めの刃と正確な打撃による無力化。やがて、全員が呆気なく倒れた。
バルダーは息を整えながら、振り返った。ブリシンガーは腕を組んだまま微動だにせず、彼を見つめていた。
「……どうだ」
バルダーの問いに、ブリシンガーはわずかに頷いた。
「悪くない、十分だ。相手を殺さずに制圧するのは、ただ勝つよりも遥かに難しい。だが、お前はそれをやってのけた」
「殺す価値もなかったな」
バルダーの言葉に、ブリシンガーは満足げに口の端を上げる。
「その判断ができるようになったなら、お前はもう“剣を振るうだけの存在”じゃない」
その穏やかな声に、バルダーの肩の力がすっと抜ける。
—だが。
次の瞬間、バルダーは思わず動きを止めた。
「……な、なにしてる」
見れば、ブリシンガーは倒れている盗賊の一人にしゃがみ込み、武器を手当たり次第回収するのと同時に、服を脱がせ始めていた。
「まずは上着……それから靴……っと。このベルトは悪くないな」
手際よく次々と剥いでいく。鎧、マント、下着に至るまで、あっという間に全員が素っ裸だった。森の中に、男たちの生まれたままの姿がずらりと並ぶ。
バルダーは目を見開き、眉をぴくりと動かす。
「……それは、何の意味が?」
ブリシンガーは至って真顔で答えた。
「追ってこられたら面倒だろう。丸裸で森を抜けるのは危険だし、こうすればしばらく動けん。武器と服を失った盗賊ほど弱いものはない。それにこの道は人通りが増える。彼らが捕まるのも時間の問題だろう」
「……合理的だが、妙に……」
「それに、これは旅の資金にもなる。武器、鎧や装飾品、使えるものは全部剥いで、村や商人に売ればいい。今までもそうしてきた。案外いい金になるぞ」
バルダーは小さく息を吐いた。
「……それじゃあ、ほとんど“山賊”じゃないか」
ブリシンガーはくすりと笑った。
「必要なものを取るのは旅人。全部奪うのが山賊だ。俺たちはちゃんと線を引いている。な?」
その言葉に、バルダーは小さく肩をすくめた。
「……理解はした。納得はしていないが」
そう言いつつも、バルダーは静かに剣を鞘に収めた。森の中に、朝日が差し込む。素っ裸の盗賊たちが風に揺れ、どこか妙な静けさが広がっていた。
手に持ちきれないぐらいの武具、鎧や服装を持っていたブリシンガーの表情はどこか明るかった。それらを売るのが待ちきれなかったようだった。そんなブリシンガーを横目にバルダーが質問をする。
「次はどこへ向かってるんだ」
「ここはヴァルハイト王国とグランヘイム王国の国境近くだ。そこを超えて少し行くとファルデン村がある。そこで物資の補給と休憩をしよう」
ファルデン村は先述の通り、どの街からも非常に遠く離れた村だ。訪れる人は限りなく少なく、ごく僅かな商人や旅人ぐらいだろう。故にヴァルハイト王国での昨日の騒ぎがそこに届くのは遅いはず。バレずに行動出来るというのは何かと都合がいい。
ここから数日間、ブリシンガーとバルダーは歩を進める。道中で出現する魔物を倒して食べ、毎朝の特訓という日々が続いた。
「今の一撃はいいぞ、その調子だ」
「ハァ……ハァ……まだまだぁ!」
「よし、今から今から一緒に腕立て伏せ、腹筋と背筋、スクワット100回だ、そしてランニング10キロ」
「うっ…ぐっ……!」
時間こそ短いが、密度は彼が言った通りとても濃く、ハードだった。だが、ブリシンガーはバルダーにこういった特訓を一人ではさせずに、常に一緒にやっていた。
「剣の腕はだいぶ良くなっている。もう少ししたら魔法の扱い方に切り替えよう」
彼らの特訓は続いた。




