第63話「思念体ガウレム」
何らかの思念体だけでも復活するのを目撃したカリス。
空中に、邪悪な竜の頭部がぼんやりと浮かび上がった。
(これは……もはや災厄だ)
目の前で浮かび上がった“それ”が何か分からない。ガウレムだということはまだ、知らない。でも、これがあの爪に宿っている思念体なのは分かる。
それだけでもこの魔力。
あの爪だけで、これほどの影響を大陸全土に与えている。
思念体が、口を開く。
「我を復活させようとする愚者は、誰だ」
空間が軋む。
声は空から降るでも、地から湧くでもない。
ただそこに、在る。
聞いた瞬間、すべての思考が停止するような、神話そのものの声。
三つの影だけは、まだ立っていた。
たカイムが、低く膝をつきながらも顔を上げる。
「ガウレム。あなたをこの世界に再び顕現させるために、長きに渡り準備を重ねてきた」
その隣、メレディナが静かに言葉を重ねた。
「あなたの魂の残響…この爪の封印に宿った断片を我らが呼び起こしました」
ガウレムは一瞬だけ沈黙し、再び問いかける。
「時代は、大分流れたようだが。その愚行、誰が命じた。烏滸がましい」
「否―」
その声に重なるように、第三の存在が静かに口を開いた。
「我は知っている。姿も、怒りも、力もすべてを」
低く響く、鈍い声。ヴァル=ザイオス。
ガウレムの思念体が、ピクリと波打つように空気を振動させた。
「ザイオス……か」
その名を呼んだ瞬間、空間に再び雷鳴のような音が轟いた。
「まだ生きていたか。まだ我の記憶に消し去るには惜しい背信者として、残っていた名だ。ならば、問おう。貴様は誰のために、我を目覚めさせた?」
沈黙が落ちる。
だがその空白の時間が、あまりにも重く、冷たく感じられた。
カイムが口を開く。
「世界を変えるためだ。秩序を壊し、理を塗り替え、真なる力が支配する世界を創る」
メレディナは淡々と告げる。
「そして、それを成し得る存在は、あなたしかいない。神をも殺す、災厄そのもの……それが、ガウレム」
ガウレムはしばし沈黙し―
「……ク、クク……クアァァッ……ハァーーーハハハハハッ!!!!」
結晶が次々と砕け、壁が軋む。床が波打ち、空間が捻じれる。それは、世界を破壊しかけた災厄が放つ、あまりに邪悪な笑いだった。
「クク、貴様らの口から、そのような言葉を聞くとはな……魔族風情がこの我を“利用する”だと?」
「滑稽で、あまりにも愚か。愚かすぎて、哀れですらあるわ」
声が空間を突き破り、重く沈む威圧が三人にのしかかる。
「イシュカンダル帝国、あの小賢しい魔族の塵共の成れの果て。寄せ集めの王国。矮小な理屈で築かれた醜悪な王国。それが、今更都合よく我を“復活”させるつもりか?身の程を知れ、下郎ども」
その言葉に、メレディナの目がかすかに細まった。だが、冷静さは崩れない。
「我々は恐れていません。あなたを理解し、あなたの力を引き出す覚悟を持っている」
「……“覚悟”だと……?」
声の温度が一瞬だけ冷たくなる。
ここでカイムが一歩前に出た。重い一歩。それだけで、天井から小石がこぼれ落ちるほどだった。
「我々が望むのは、ただの支配ではない。あなたのように“絶対的な力”を持ち、この世界に楔を打ち込める存在―その象徴だ」
「この世界は腐りきっている。軟弱で、秩序に縋る弱者どもも、虚偽で築かれた王国も。ならば、あなたこそが、そのすべてを裁く刃となるに相応しい」
ガウレムはしばし黙し、空気が澱む。そこに、ザイオスの声が被さる。彼だけは微かに笑っていた。
「そして、世界は再び揺れ始めている。世界は、待っていたのだ。お前が“戻ること”を。破壊者としてでなく―新たな原点として、ドラゴンを、再び頂点へ」
ガウレムの思念体が、一瞬だけ波立つ。
「“原点”だと?」
「そうだ。秩序の均衡が崩れ、かつての敵までもが無様に変わり果てていくこの時代。誰もがお前を“災厄”と呼ぶ―ならばその名のままに、新しい世界を刻めばいい」
「言うな、小竜ごときが……」
「だが、それをできるのはお前だけだ。我らではない。神々でもない。ただ、お前だけがそれを成し得る。そして、”奴”を葬れる存在は、お前しか居ない」
「……フン。ただ、我だけが成し得る……?」
ガウレムの声が低く、そして震えるように広がっていく。
「ならばまず問おう。あの男はまだ、この世に存在しているか?」
ザイオスは一瞬だけ笑みを浮かべ―そのまま、静かに口を開いた。
「ブリシンガー」
その名が発せられた瞬間―
「グオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
凄まじい咆哮が放たれた。
まるで世界そのものを憎むかのような怒声。大地がうねり、壁の魔方陣が一斉に砕け、部屋中の魔術具が次々と粉砕された。
「あの男……我を、否定した存在……!神に創られたというだけの、忌まわしき男!滅ぼすべき下等生物に過ぎぬはずの人間ごときが―この我を屠った!!」
思念の波動が強まるごとに、空間の壁が脈動する。
「我は必ず、再びこの世界に舞い戻る……!そして、今度こそあの男を、消し去ってやる!!ブリシンガーを我が手で、永遠の無へと葬る!!!」
ガウレムの咆哮が、部屋中に響き渡る。
だが、ザイオスたちは冷静だった。
メレディナが一歩進み、静かに呟く。
「……ですが、今のあなたには“肉体”が無い。実体も無く、ただの思念体でしかない。その憎しみを形にすることは、まだできない」
ガウレムの波動が、一瞬だけ沈黙する。
そこにカイムが言葉を継ぐ。
「だが、もうじきミスリルに魔力が満ちる。あなたの器にも、長き年月をかけて血肉と魔力が集まりつつある」
ザイオスが口元を歪めた。
「それら全てが、“ガウレム”という復活のための血肉になる。ザラハートにあるミスリルを奪えば、さらに復活が早まるだろう」
「そして……その時が来た時、お前を完全に顕現させる」
やがて、低く、どこか嘲るような声が響いた。
「……そうか。つまり貴様らは―我が“怒り”を利用するつもりか。小賢しい」
「だが、良いだろう。せいぜい踊るがいい。ブリシンガーを殺す舞台を整えるために。奴がどこにいようと、必ず我が復活の瞬間に、姿を現す……」
「そしてその時こそ、我が爪は神の使者を貫き、無に帰してやろう!!」
その言葉と共に、思念体の圧力がゆっくりと沈んでいく。
燃え盛るようだった瘴気は冷え、波立っていた魔力も静かに収束していく。
裂けていた空間が閉じ、狂った重力が消えていく。
そして、爪は再び静寂を取り戻した。
ただ、その中心にはなおも微かに赤黒い光が揺らぎ、ガウレムの意思が確かに待機していることを物語っていた。
ザイオスは一歩下がり、メレディナは静かに呼吸を整え、カイムは手を後ろに組んだまま無言を貫いていた。
「……さあ、戦争の始まりだ」
暗く、広大な大理石と柱がある王室―その奥にある巨大な玉座に“皇帝”は座っていた。
そこへメレディナとカイムが訪れる。二人ともその静かに鎮座する"皇帝"に一礼をした。
「主よ、貴方が望んでいた世界は、すぐそこに」
空は澄み切っていた。風も穏やかに流れている。
だが、その中心に立つ男の瞳は、遥か彼方を射抜いていた。
ブリシンガーは、拳を握りしめていた。空を裂くような邪気のうねりが、確かに彼の魂の奥底を震わせたからだ。
「……感じたな」
彼の声は低く、そして鋭かった。
「イシュカンダルが……動き出したか」
近くにいたエルフの騎士たちが、彼のその変化に息を呑む。
滅多に見せない、冷ややかな怒気。まるで、鉄の意志そのものが剥き出しになったような、殺気のような静けさ。
ブリシンガーの足元、石畳にわずかなヒビが走る。
「"ガウレム"が目覚め始めている」
彼の中にある神々から授かった光が、わずかに軋むように共鳴していた。
「何千年経とうと、奴の力と気配だけは見誤れん。あれはただの破壊者ではない。意思を持った滅びだ」
彼は思い出す。あのかつての決戦。
炎すら蒸発し、空そのものが裂けた最終戦争を。
そして、奴を倒したあの日の感触。
全身を焼かれ、命を削ってようやく撃退した、あの恐るべき存在。
「イシュカンダル……」
風が吹いた。
それはまるで、彼の決意に応じるように、空の奥から届いた呼応。
遠くから、リゼルフェインが現れ、静かに言う。
「…やはり、“奴”だったのですね。ブリシンガー」
「ああ。間違いない。ガウレムが蘇ろうとしている。イシュカンダルが動いているのも、その証左だ」
「…向かうつもりなのですか?」
ブリシンガーは答えず、視線をドゥガルがいる工房に向けた。完成したら、すぐにでも行くと言わんばかりに。
「戦いが避けられぬのなら、迎え撃つまで」
ブリシンガーの声が、冷たい風に乗って遠くの空へと消えていく。




