第60話「折れぬ盾」
カリスがイシュカンダルを去った翌日ぐらいの時。
ザラハート王国の空は高く、乾いた風が赤い砂を巻き上げていた。
夜明け前のまだ静けさの残る王都では、避難命令を受けた民たちが列をなし、王城の南門から郊外の地下避難壕へと静かに歩を進めていた。
子を抱く母親、荷を担ぐ老父、震える手で杖を握る老人。その誰もが、口には出さずとも、迫り来る戦の気配を感じていた。
王宮の高台から城下を見下ろす一人の男―ヤシーンは、その風の意味を理解していた。
「……いずれ来るとは思っていたが、今がその時か……」
彼は小さく呟くと、手に持っていた地図をくるりと巻いた。
王族の補佐官が報告にやってくる。
「民の避難、始まっております。王都北部の水源地帯へ優先的に移しておりますが、一部の者は“不安を煽るな”と反発しておりまして……」
「当然だ」
ヤシーンは、そう言ってフードを取り払った。
精悍な顔立ち。剃り上げられた顎髭、太陽に焼けた褐色の肌。戦場で鍛えられた眼光と、決して折れぬ意志。
だがその目は、決して民を見下ろすものではなかった。それはあくまでも、守ろうとする者の目だった。
「人は、いつも平穏に縋って生きている。だが、俺たちが守るべきは、その平穏そのものだ。誤魔化すな。隠すな。怯える姿を、俺たちが支えろ」
「…はっ」
だが、その傍らには、甲冑を纏った騎士や兵士たちが一人一人に声をかけながら、列を守るようにして付き添っていた。
民を運ぶ護衛部隊の多くは、生まれも育ちもこの国の者たちだった。彼らにとって、この砂の国は戦場である前に故郷であり、守るべきものは城壁ではなく、この中に生きる人々だった。
一人の少年が、泣きながら父と別れを惜しんでいた。父は城門の方へ向かっていく兵士なのだ。
「父ちゃん、やだよ!いかないでよ!」
「泣くな。お前を守るために俺は剣を取る。だけど、帰ってくる。絶対にな。俺の息子だろ?」
少年の頬を撫で、ぎゅっと抱きしめた後、男は顔を上げて前を向いた。その目には恐れがなかった。だが、迷いもなかった。
その姿を見た周囲の者たちも、徐々に沈んだ表情から、何かを噛みしめるような表情へと変わっていった。
彼らは知っていた。周辺国を徹底的に蹂躙し、支配してきた帝国の軍が、やってくる。
それでもこの王国の兵たちは逃げない。
避難民の最後尾が砂の丘を越えて姿を消したとき、ヤシーンは剣を鞘から抜いた。その刃は朝日を受けて、鋼色に輝いた。
「民のすべてが避難を終えた。さあ、我らの番だ」
兵たちは一斉に槍を掲げ、砂を踏みしめた。
「ザラハートの盾は、折れぬ!」
「王都に、敵の影すら踏ませるな!」
「我らの誇りは、誰にも奪わせない!」
ヤシーンはとっくに覚悟は出来ていた。
あとは、潜入を託したカリスが有益な情報を持ってくるのに賭ける。彼は帝都へ通じる幾多ものルートを知っている。
大軍よりもずっと早く動けて、戻って来れるはず。
(カリス……頼んだぞ……!)
帝国側の、地平線に黒雲が立ち込める。




