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銀の伝承  作者: 銀の伝承
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第59話「作戦開始」

ザラハート王国の東部、イシュカンダルとの国境で緩やかに起伏する砂丘地帯。

月の光が砂に鈍く反射し、夜の静寂を一層際立たせていた。

その影の中に、カリスの姿があった。

目の前には広げられた地図と、複数の紙片に細かく書かれた情報。

イシュカンダル帝国の軍用道路、補給拠点、関所の警備体制、監視塔の定期巡回。それらを、彼はまるで昨日までそこにいたかのような手際で、素早く整理していく。


「―ここだな」

低く呟く声に、確信が宿る。

彼が指差したのは、帝国とザラハートの国境から北東に逸れた砂漠の狭間。

通常の軍道から外れた小規模な交易路が存在し、密輸や逃亡者が通る抜け道として知られていた。

通常、兵はここを監視していない。だが、三日に一度、検問隊が巡回に入る。その間隙を縫って入れば、接触なしで帝国領内に入れる。

「今更顔を全員に覚えられている確率は低い。だが…念には念を」

小瓶に入れた魔法染料を取り出し、髪の色を少し明るく染める。瞳の色も、漆黒の瞳から淡い赤色に変化させた。決して完璧な偽装ではない。だが、目立たず潜り込むには、これで十分だった。


荷袋の奥から、彼は古びた一冊の本を取り出した。帝国軍時代、魔導兵として配られていた指令記録帳だ。

中には、自分がかつて参加した作戦の簡易記録や、基地の構造、記号の書式が綿密に記されている。

かつては憎しみながら手に取った記録帳。今は逆に、それが帝国に刃を向けるための鍵となる。

かつての地理知識と軍経験を頼りに、カリスは影に紛れながら進んでいたが―

巡回路が変わっている。

かつての帝国では三日交代で外周を監視する小部隊が動いていたが、現在では一日ごとにルートが変動し、さらに以前はなかった魔導探知機が設置されていた。

(外敵の侵入を警戒している。これは俺たちを待っているのか?)


地面を滑るように抜け、わずかな段差の影に身を滑り込ませる。

音一つ立てぬまま、彼は時折遭遇する魔族兵の背後から抜けた。殺さず、戦わず、ただ通り抜ける。

潜入において重要なのは、「無事に通った」ということ。派手に戦えば、それが侵入者の痕跡となる。


王都へと至る最後の道。枯れた草原と荒地が続く帝国北辺。

帝国軍の影を避けるための最善の経路。だが、彼の感知能力が、突然異常な圧を捉えた。魔族。無数の気配。濁流のような魔力の奔流。

カリスはすぐに身を伏せ、視線を丘の下方へ滑らせた。

そこに広がっていたのは黒い波のように連なる、巨大な軍勢だった。

「……これは……」

彼の目には、騎馬兵、魔導砲車、そして無数の歩兵部隊が隊列を組んで進軍する姿が映っていた。

各部隊の前方には、大きく掲げられた紋章がある。黒鉄の腕に鋼の牙―三柱グロイの紋章だった。

隊列は整然としており、進軍先は西。

明らかに、敵に向けた本格的な戦術行動である。きっとこれが、ヤシーンの言っていたザラハート王国への進軍なのだろう。

そこには、巨大な騎獣の背に乗った、圧倒的な体躯の男がいた。

鋼のような皮膚、岩を割る腕、そしてその身から立ち昇る、暴力そのものの塊。

グロイ。

かつて自分の仲間を、ナッシュやミレアを、一瞬で処分したあの男。

その姿に、カリスは自身の中でドス黒い感情が渦巻くのを感じたが、すぐに深呼吸で落ち着かせた。


姿勢を低くし、草の陰に紛れるようにその場を離れた。

まだ気づかれてはいない。今は、イシュカンダルへ辿り着くことが最優先だった。

月の光を避け、進むこと数時間。ようやく、遠くの地平の果てにそびえ立つ黒の王都が姿を現した。

イシュカンダル帝国の心臓部、巨大な城塞都市。

闇の中でも、その輪郭ははっきりと視えた。

その瞳には、恐れも焦りもなく、ただ冷たい決意の光だけが宿っていた。

王都は、まさに牙城だった。

周囲を囲む防壁。そのうち最外縁の門は軍専用の通行口であり、一般兵ですら自由に通るには許可証と身分認証の魔印が必要とされる。

カリスは岩陰から遠望しながら、以前の地図と現在の状況を照らし合わせていた。

見張りの数は増え、各防壁ごとに監視塔が追加されている。


再び大きな気配を察知した。ふと、門番たちの列の中に、微かに覚えのある魔力の温度を感じた。

(この感触は……)

カリスは目を細め、砂埃を通して見張りの顔を確認した。

そこにいたのは―忘れるはずのない顔。

少しがっしりとした体格、笑えば牙の見える口元、あの頃と同じ、どこか能天気な空気を纏いながらも鋭い眼差し。

ザルドだった。

彼と最後に会ったのは、数十年前。任務終わりに酒を酌み交わした夜。

同時に、脳裏に冷たい予感が走る。

もしザルドが当時より帝国軍人であり、なおかつ忠誠を誓っているのなら、カリスは見つかった瞬間に確実に粛清対象となる。


どう動くか、迷いが走る。

カリスは一瞬の決断で、自身が隠密機動をしていた時に身に着けた影忍びの魔法を発動。近くに影がある場所があれば、一瞬でそこまで転送出来るという高度な転送魔法。見張りの位置まで一気に距離を詰める。

背後、わずか数歩。

見つかれば即斬られる距離―だが、彼は静かに声を投げた。

「……久しぶりだな、ザルド」

「っ……!」

振り返る衛兵。剣の柄に手がかかり―だが、その手は止まる。

沈黙の数秒。

ザルドの目が、信じられないものを見たかのように見開かれた。

「……カリス、だと……?」

カリスは静かにフードを取った。

「お前、死んだって……。ずっとそう聞いてたぞ」

「悪いな、死に損なってた」

ザルドは唇をかすかに引き攣らせた後、声を低くした。

「ここで何してやがる。お前……“敵”だぞ、今の立場じゃ」

「わかってる。だが、聞きたいことがある。答えだけもらって消える」

「チッ。相変わらず人の都合も考えねぇな」

ザルドはあたりを確認しながら、カリスの腕を引いて門番詰所の裏側、魔力干渉の届かない死角へ移動した。

周囲に視線を走らせ、ようやく小さく呟く。

「お前、何をしにきた?」

「……長い話になる」

ザルドの目が鋭くなった。

「三柱にまで踏み込む気か?」

「偵察しに来ただけだ。お前も知ってるはずだ。帝国は今、何かを隠してる。表に出せない計画がある」

ザルドは腕を組み、悩むように唸る。

「……お前に渡すべきじゃねぇが、俺がバカな兵士だった証として、こいつをやる」

そう言って彼は、帝国兵の魔導徽章の複製品を取り出した。これがあれば、仮に彼を知らない魔族に身分証明書の提示を求められたら、使える。

カリスは驚きもせず、それを受け取る。

「助かる」

「これを渡す代わりに、お前の存在を俺は“見てない”ことにする」

「次に会うときは、敵としてかもしれねぇ。それでも―」

ザルドは笑った。

昔と同じ、どこか寂しげな、それでいてまっすぐな笑みだった。

「…生きろよ、カリス」

カリスは何も言わずに背を向けた。

王都の門は近い。だが、その中には闇が渦巻いている。


彼はもう、引き返さない。

王都の外縁から、古びた給水路を経て地下へ。

狭い鉄格子の隙間を抜けた瞬間、彼の足がピタリと止まった。前方の通路に、うっすらと漂う魔力の波。誰かがいる。

(見張りか……)

カリスは懐から細身の黒刃を抜いた。彼は魔力の気配を絞り、まるで壁と同化するように気配を消した。

足音。二人。距離三メートル。

カリスは壁伝いに滑るように進み、次の瞬間―

「……ッ!?」

刃が一閃。背後から喉元を貫いた哨戒兵は、呻く間もなく崩れ落ちた。

その体が倒れる音すら防ぐように、カリスは左手で受け止める。

もう一人の兵が反応する前に、カリスは背後に回り込み、腰から胸元まで深く刃を滑らせた。

音もなく、息絶える。

彼は両者の死体を一時的に魔導布で包み、視界から外れる位置へ引きずった。

すべての所作に迷いはなかった。


この裏通路を抜ければ、帝国軍本部の旧補給室に出る。そこからなら、市街区の中層へと潜り込めるはずだ。

だが、カリスの背に残るのは、先ほど奪った二人の命の温度だった。

殺しに慣れている―だが、慣れたからといって、忘れたわけではない。この王都にいる限り、彼は再び過去の自分に戻らなければならない。

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