第5話「理由」
真っ青な空の下、二人はゆっくりとコロセウムの門をくぐり、外の世界へと踏み出していった。
城下町を歩く二人を止めようとする者はいなかった。
彼らの歩む道は静寂に包まれ、喧騒に満ちたはずの市場ですら、誰もが言葉を失っていた。人々はただ遠巻きにその姿を見つめ、彼らの視線を避けるように道を開ける。商人たちは声を張り上げることすら忘れ、衛兵たちですら、二人から距離を取っていた。
王国の兵士たちは誰一人として声をかけることができず、見張りの騎士たちも、ただ沈黙したままその姿を見送るしかなかった。誰にも干渉されることなく、二人はゆっくりと街の大門を潜り、外の世界へと消えていった。
しばらく無言のまま歩き続けた後、バルダーがふと口を開いた。
「……ブリシンガー」
彼が足を止めることはなかったが、僅かに視線がバルダーに向けられる。
「さっきの老人の話……聞こえていた。本当に伝説にある神の戦士なのか?」
その問いに、ブリシンガーはすぐには答えなかった。風が吹き抜け、草木を揺らす。遠くで鳥が鳴き、街の喧騒はもう聞こえない。やがて、ブリシンガーは静かに言葉を紡いだ。
「そういう風に呼ばれることもあったな……俺は確かに、ハルディヴァーの手によって造られた存在だ」
バルダーはその場に立ち尽くした。冗談のように聞こえたが、ブリシンガーの声音には微塵の迷いもなかった。バルダーは彼の横顔を見つめる。太陽の光が当たるその姿は、まるで歴史の彼方から現れた幻のようだった。
バルダーは喉を鳴らし、言葉を継ぐ。
「じゃあ……なぜ今になって?」
ブリシンガーはしばらく沈黙した後、ゆっくりと語り始めた。
「お前は、イシュカンダル帝国を知っているな?」
「ああ、エアリンデル大陸の東にある帝国。ヴァルハイトでも刃が立たない程の武力を持ち、様々な王国を支配下に持つという……」
「そこを滅ぼしに行く」
無表情なバルダーだが、息を呑む。
帝国イシュカンダル。エアリンデル大陸の東側に位置する王国。大陸に存在する王国の中でも最も長い歴史を持つと言われている。
その実態はグランヘイムとは比べ物にならないほどの強大な武闘国家であり、歴史上様々な王国を侵略し支配下に置いてきた。イシュカンダル帝国とまで称される恐るべき王国は周辺の国家を揺るがす程の軍事力と経済力を持ち、ドラゴン族と魔族を除く全ての種族に畏怖されている。
この世界では、様々な種族が暮らしている。
-人間:身体能力、魔力ともに突出した才能はないが、逆に苦手な分野もないという特徴が無い種族。稀に特定の分野に秀でる個体が出現することもある。数も全ての種族中最も多く、彼らの王国も最も世界中に多い。
-ドワーフ:小柄だが非常に筋肉質な種族。魔力はほぼ無く、知性も低いが身体能力が高い。古来より人間と非常に密接に協力してきた種族。人間では持ち上げられないほど重いものを軽々持ち上げたりする力強さを持ち、肉体労働に従事していることが多い。とても明らかで社交的な性格として知られている。
-エルフ:見た目は人間とほぼ同じだが、人間と違い耳が尖っているのが特徴。身体能力は人間より少し高い程度だが、魔力が突出して高いのが特徴。それにより人間には不可能な高レベルな魔法を使用可能。性格的に排他的な者が多く、あまり他の種族と混ざらない。過去に人間との争いがあったが、人間との関係は完全に冷え切っている訳ではなく、経済的な交流や深刻な危機の場合は互いに協力する程度には関係は続いている。
-ドラゴン:エアリンデル大陸最北部の、人を寄せ付けない険しい山脈に存在する種族。他の種族は勿論、後述する魔族ですら恐れおののく力を持つ。30メートルは超える巨躯と巨大な翼を持ち、エルフですら比べものにならない程の高い魔力と圧倒的なパワーを持つ強大な存在。個体数が非常に少ないが、一体だけでも一つの王国を滅ぼすほどの力を持っている。数千年以上生きるとも言われており、如何なる種族も超える知能を持つ生態系の頂点。プライドが非常に高く、他の種族に協力することは通常は絶対に無い。
-魔族:主にエアリンデル大陸の最も東の、イシュカンダル帝国に存在する種族。ドラゴン族程ではないが、人間、ドワーフやエルフを凌ぐ身体能力と魔力を持つ者が多い。他の種族と基本的に敵対しており、危険な存在として知られている。歴史上最も様々な種族との衝突も多く、あらゆる種族の共通の敵である。
見た目は人間やエルフに近いが、禍々しい角が生えていたり、肌の色が紫や赤色であったりと、一目で危険な存在であると分かる。個体によっては人間に友好的な者も稀に存在するが、交流がほぼ無い、断絶された存在として知られている。
人間やエルフ、ドワーフは神ハルディヴァーとシルヴァラを信仰することが多い中、彼らの主神はヴォルガノスである。
バルダーは彼に問う。
「グランヘイムより酷いからか?」
「そうだ。だが、元々そこを滅ぼすつもりはなかった。バルダーよ、イシュカンダルの創立に纏わる伝説は知っているか?」
イシュカンダルは先述の通り、大陸の中でも最も古い歴史を持つ王国である。その創立については様々な説があるが、一つは太古の昔に存在していた騎士がいて、彼がイシュカンダルの創立者であることが有力視されている。
名前や出で立ちは時間が流れ、謎に包まれるようになったが、イシュカンダルは大陸の中でも最も魔族の住人が多いことから、この騎士は魔族の出身ではないかと言われている。
「ああ、知っている」
「イシュカンダルの創立者の騎士、そいつと俺は戦ったことがある」
「では、イシュカンダル帝国が一人の騎士に創立されたという伝説は本当なのだな?」
「ああ、名前はアイゼンヘイム。魔族の騎士だった」
バルダーは目を見開く。初めてその騎士の名前が顕になった瞬間である。様々な考古学者でも知り得ない、貴重過ぎる情報だ。
「アイゼンヘイム……ブリシンガーはなぜそいつと戦ったのだ?」
ブリシンガーは目を閉じてゆっくりと深呼吸をする。
「アイゼンヘイムは魔族の騎士だ。俺と対を為す存在だった。奴は混沌の神、ヴォルガノスにより作られた、いわば地獄の戦士だ。俺を倒す為に作られたと言っても過言ではない」
「奴はこの世界を支配し、魔族に合った世界に作り変えようとしていた。その始めが、イシュカンダル王国だ、だからこそ奴とは戦わざるを得なかったのだ」
それを聞いたバルダーは驚くばかりだったが、二つの疑問が浮かぶ。
「なぜ、イシュカンダル王国を滅ぼさなかった?なぜ、ヴォルガノスはお前を倒そうとアイゼンヘイムを作った?」
それを聞いたブリシンガーがゆっくりと語る。
「三柱の神は世界を創造したと言われているが、正確には違う。ハルディヴァーが天地を創造し、ヴォルガノスが地底を創造し、シルヴァラが全てに知恵を与えた、別々の役割があった。ヴォルガノスはその性質からして、混沌を収めるハルディヴァーと俺と敵対する運命だった。故にアイゼンヘイムを作った」
「アイゼンヘイムが建国した当時のイシュカンダルは、魔族を中心とした、多種多様な民族の住まう多民族国家だった。罪の無い住人が多かったのだ。いくら世界を支配する拠点としての王国だとしても、その住人を手に掛けることなどあってはならない。だが、今は違う。イシュカンダル帝国に住まう人間、ドワーフやエルフは魔族により駆逐され、世界の秩序を脅かす危険な存在となっている」
アイゼンヘイムは邪な戦士であったが、同時に誇り高い騎士でもあった。彼は自らの信条を持ち、無益な争いや殺生を好まない存在だったのだ。故に魔族を中心とした多民族国家を創立した。魔族が中心になるという、世界の秩序を揺るがす存在であったが、本質的には「悪」ではないのだ。ブリシンガーが彼と戦う時は非常に複雑だったと語る。
「これが、彼の鎧の欠片だ。彼に敬意を表す意味で、いつも持ち歩いている」
ブリシンガーがポケットから薄紫色に光る金属の破片を取り出す。極僅かにだが、その欠片からはかつて計り知れない力を宿していた者の一部だったという雰囲気を放っていた。
今のイシュカンダルはアイゼンヘイムの思想とはかけ離れた存在であり、次に何をするのか分からない危険な国家なのだ。滅ぼすに値する。
「因みに、お前がアイゼンヘイムと戦ったのは何年前なんだ」
好奇心からバルダーが彼に問う。
「ざっと6,000年前ぐらいだ」
まるでそれが5~10年前の出来事かのように平然と桁外れの年数を言う彼に、バルダーは内心苦笑するしかなかったが、あえてもう一歩踏み込む。
「お前は、一体どれぐらいの年月を生きているんだ」
ブリシンガーがしばらく黙る。無表情であったが、彼が太古の時代にまで記憶を馳せていたのは感じ取れた。
「まだ人間社会が形成される前の、1万年ぐらいだ」
気が遠くなるような年月だ。そんな年月は普通の人間が生きていたら間違いなく発狂し、廃人になるだろう。彼が神の力を宿していることで精神まで強化されているかは分からないが、いかなる種族でも想像も付かない。
「バルダー、お前の出で立ちは理解している。だが、もう少し表情を出す練習をしないとな」
「へ?」
唐突なブリシンガーの言葉により間抜けな声が出てしまう。ブリシンガーはそんな彼を気にせずに続ける。
「声に抑揚が全くない。常に無表情。何を考えているか分からないのは戦士としては優秀だが、日常会話において友達が出来ないぞ」
「なんだ急に……」
「俺と一緒に旅をする上でのアドバイスをしただけだ、気にするな」
無表情のままブリシンガーもバルダーから目線を外した。唐突な助言に戸惑ったが、それでもう一つ疑問が彼の中で生じた。
「俺が戦士として育てられた過去、捨て子だった過去はお前に言っていない。なぜ初見でわかった?」
ブリシンガーがフッと鼻で笑った。
「俺が何年生きていると思っている。バルダー、お前と同じような境遇にいた戦士を何百と見てきた。もはや語らずとも見ただけで分かる」
「全てお見通しって訳か、気が抜けないな」
ブリシンガーは固そうに見えて、意外と気さくな人物なのかもしれない―そうバルダーは彼に対して思い始めた。




