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銀の伝承  作者: 銀の伝承
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第58話「カリスの過去」

夜風が砂の丘を吹き抜けるなか、カリスはひとり、王都の外れにある仮設テントの脇に腰を下ろしていた。

月明かりは淡く、熱の引いた砂の粒が静かに舞っている。彼の手には、小さな金属製の身分章が握られていた。

かつてイシュカンダル帝国軍に属していた証。

その冷たい感触は、もう何年も前に終わったはずの記憶を容赦なく呼び覚ましていた。


帝国隠密部隊。帝国の中でも、エリート色の強い部隊。

その任務は、情報収集だけではない。反乱の制圧、敵地での勢力分散等、高い戦闘力も求められた。

カリスは何の疑問もなく命令に従い、戦場を渡り歩いていた。

表向きは冷静で有能。だがその瞳の奥には、静かに燃え続ける憎悪があった。


彼は忘れていなかった。幼き日に焼かれた故郷の村、ファザーレ。

そこは争いを好まず、他種族との融和を重んじていた魔族の集落だった。だが帝国の政策が強まる中で、独立色のある集落は次々に粛清されていった。

火の手が上がったあの日、カリスはまだ幼かった。炎に包まれる屋根、剣を振り下ろす帝国兵、声にならない悲鳴。母は最期まで彼を庇い、胸を貫かれて倒れた。

父は剣を手にしたが、仲間に裏切られ、背後から刺された。地面に膝をついたまま、彼は空を見上げた。泣くことも叫ぶこともできなかった。ただひとつ、心の奥底に刻まれたのは、帝国への呪詛だった。

それでも、彼は幼い頃から帝国への従属をするしかなかった。むしろその方が彼にとって都合がいいのだ。帝国への復讐を誓った彼は軍へ所属し、内部から事情を探ることにしたのだった。


イシュカンダル帝国北部にある基地。

冷たい霧が鉄の壁を包み、空は鉛のように重く沈んでいた。

高台にそびえる城塞のような本部棟の前に、隠密部隊に志願した新兵たちの列が整然と並んでいる。

その一角に、カリスの姿があった。他の新兵とは違い、彼の表情に緊張も興奮もなかった。

ただ、静かに辺りを見回し、誰が指揮を執っているのか、どこに観測者が立っているのかを目で探っていた。

「……あれが噂の新入りか」

「ああ、滅ぼされた村の出身らしいぜ」

小声のざわめきが背後で起きたが、カリスは無視した。

彼の耳は、それよりもずっと微かな、司令塔の窓に立つ人物の動きに集中していた。

入隊を志願した日から半年。雑兵だった時から、彼の戦場での成績は、ひときわ目立っていた。

エリート部隊への推薦状を受けた数少ない者だった。

だがそれが、信頼を意味するわけではない。今ここで、彼らが相応しいかという試練を課される。

「前へ!」

指揮官の声に反応して、カリスは無言で一歩前に出た。

目の前に立つのは、魔導上官。

その男は彼を値踏みするように見下ろし、無感情に言い放った。

「貴様、今日から情報収集及び殲滅任務の随伴員だ。喜べ。帝国は、お前の“力”を試す場を与えてやる」

カリスは何も言わずに頷いた。それが、自分の復讐の旅の第一歩であることを、彼だけが理解していた。


最初の任務は、東部辺境での叛乱鎮圧だった。

かつて帝国に吸収された小規模な都市国家。その一部の貴族が密かに兵を集め、武装蜂起の兆しを見せていた。

カリスたち観測班は、魔導式通信で敵の布陣を探り、前線の突撃隊を導く任務を担っていた。

「位置を確認しろ」

上官の命令に従い、カリスは魔導感知能力を起動した。

視界に広がるのは無機質な魔力分布図。

敵の陣地と魔力の密度を読み取り、瞬時に報告する。

「南側の砦裏手、地下貯蔵庫に人影多数。指揮官格が潜んでいる可能性あり」

「よし、吹き飛ばせ」

数秒後、地鳴りのような爆発音が空気を揺らした。

建物は一瞬で崩れ、火柱が天を裂いた。

カリスはそれを見ながら、何の感情も抱かなかったように見えた。

だが、その炎の中で誰がいたかを想像していた。


自分の母が、かつて守ろうとした村の景色と、微妙に重なってしまった。

(……違う、これは正しい戦争だ。復讐のために、今は従え)

そう自分に言い聞かせながら、彼は冷たい目で燃え上がる瓦礫を見つめていた。

任務の合間、カリスは時折、同じ観測班の魔族兵士たちと行動を共にした。

その中には陽気な笑みを絶やさないザルドという者がいた。

彼はカリスの無口さに構わず何かと話しかけ、飲みの席にも引っ張り出そうとした。


「なあ、カリス。お前、本当に何考えてんだ?いつも無言で怖いぞ」

「余計なことは考えない。それが長生きの秘訣だ」

「そういうとこがまた怖ぇっての。ま、でも一緒に戦ってりゃ多少なりとも分かってくる。お前、仲間を裏切る奴じゃない」

カリスはその言葉に、一瞬だけ目を伏せた。

この帝国の兵士である限り、誰もが選別の刃の側にいる。親しくなればなるほど、別れは痛む。

彼はそれを、幼き日に学び過ぎていた。


とある日―

その任務は、明らかに“おかしい”ものだった。

通常の粛清任務とは違い、対象となる村は帝国に協力的という記録があったにも関わらず、「潜在的反逆の疑い」によって処分対象とされた。

派遣されたのは、カリスを含めた数名の魔族兵士たち。

その中には、彼と同じくラ・ファザール出身だった少年、ナッシュの姿もあった。

彼は幼い頃に別の場所へ養子に出されていたが、部隊内で偶然再会して以来、寡黙なカリスにだけ心を開いていた。

もう一人、部隊の中でも異彩を放っていた魔族の女兵士ミレアも同行していた。

彼女は帝国に忠誠を誓いながらも、裏では“帝国の本当のやり方”に常に疑問を抱いていた。この三人は普段よく話し、よく自由時間の間につるむことが多いいわゆる戦友だった。


「……この命令、おかしいわよ。どうしてこの村が?」

ミレアは魔導記録を読み返しながら呟く。

「他種族との交易を一部許可していた、それだけで粛清?」

カリスは言葉を返さなかったが、内心、彼女の疑念に強く頷いていた。

「……俺たちの故郷と同じさ」

ナッシュが低く、押し殺した声で言った。

「協力的でも、何か理由をつけて焼き払う。帝国にとっては“支配”以外の何も存在しない」

カリスはその言葉を聞きながら、己の胸中に再び黒い怒りが渦巻いていくのを感じた。

しかし、命令は命令だ。帝国の兵士である限り、従うしかない。

否―かつてはそう思っていた。

任務当日、カリスたちは村を包囲し、周囲を封鎖する役目を担っていた。

だが、火は放たれなかった。爆破の音も、悲鳴もなかった。

「…終了した。報告は“完遂”で通す」

そうミレアが言った。村を焼くための爆薬は設置されたが、起爆されなかった。

代わりに、彼女たちは偽の記録を残し、「全住民殲滅」と虚偽報告を上げたのだった。

「帝国はどうせ確認なんかしないわ。……焼けた遺構さえあれば」

カリスはその静かな反逆に、何も言えなかった。


だが、その日以降、ミレアもナッシュも、まるで何かを覚悟したような目をしていた。

その反逆が長く隠し通せるはずもなかった。

数日後、カリスたちは帝都近郊に呼び戻される。

そこで彼らを待っていたのは、三柱の一人、グロイだった。

「お前たちは、命令を拒否したな?」

鉄のように硬い声。グロイの巨体は兵士たちを見下ろし、隠すことなく殺気を放っていた。

「…命令は完了しました」

ミレアが毅然と答えた。だが、その声音には微かな震えがあった。

グロイはその言葉に一切の反応を見せず、ゆっくりと右手を上げる。その手が振り下ろされたとき、空間が砕け、地面が裂けた。

一瞬ミレアの身体が爆裂するように四散した。ナッシュが振り返る間もなく、鋼の腕が彼の胸を貫いた。

カリスだけが、刹那の魔導によって間一髪、後方へ飛び退いた。

その視界の中で、グロイの瞳がまっすぐに彼を捉えていた。

「そのまま逃げれるとでも?」

その問いに答えず、カリスは飛び退きながら煙幕を展開。

破れかぶれの逃走劇だった。魔導術式の混乱を利用し、地下水路を抜け、南への脱出路を確保する。

仲間の最期を背に、彼は帝国から―命からがら、逃げ延びた。


逃走の日々は苛酷だった。

追手は容赦なく放たれ、街の影、砦の裏路地、幾度となく死が背後にあった。

それでも、カリスは生き延びた。

砂嵐にまぎれ、傷を隠し、飢えを凌ぎ、ようやく彼はザラハート王国の国境、ザラハートへと辿り着いた。

もはや帝国の兵ではない。

だが、自らの手を血で汚し、仲間すら救えなかった自分が、英雄にも反逆者にもなれないことを、彼は知っていた。

風が砂を巻き上げるその中で、カリスはただ、拳を握りしめる。

(あの日、俺は生き残った。だが今度は、意味を持って生きてみせる)

彼の瞳には、もう揺らぎはなかった。

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