第49話「あなたの今に、私はいる」
夜の森。
ブリシンガーは少し離れた岩に腰を下ろし、目を閉じて休んでいる。ドゥガルもグランヘイム王国から支給された、自身のテントでイビキを盛大に立てていた。
その背を見つめるように、システィーンとバルダーが焚き火の前で肩を並べていた。
「今日はよく寝てるな、あいつ」
バルダーが小さく笑いながら言った。
「ここに来るまで色んな魔物と遭遇したんだもの、一番動いている彼が疲れるのも無理ないわ」
システィーンの声は穏やかで、けれど少しだけ柔らかく、どこかうっとりとした響きを含んでいた。
「……好きなんだろ、あいつのこと」
システィーンは一瞬、ぴくりと肩を震わせた。顔を真っ赤に染め、慌てて手で頬を覆う。
「な、なにをいきなり言ってるの……っ!」
「顔に出すぎなんだよ、いつも」
焚き火の日が、ぱちりと弾ける。
「そ、そんなつもりじゃ……!」
「嘘つけ、グランヘイム王国のこととか、戦いの後とか、あいつを見る目、完全に惚れてるやつの目だ」
「そ、それは……!そ、尊敬の眼差しよ!そう、戦士としての尊敬……っ!」
バルダーは軽く鼻で笑った。
「じゃあ聞くけどよ。仮にブリシンガーが他の女に優しくしてたら、どう思う?」
「えっ…そ、それは…!や、やきもちくらいは……少しだけ、たぶん、あるかも…っ」
「はい、正直者」
システィーンは再び顔を覆い、焚き火の影で耳まで真っ赤になっていた。
バルダーは薪をくべながら、ふと声のトーンを落とした。
「でもさ……アイツは神の戦士だぞ。不老不死で、何千年を生きてきた存在だ。そのこと、わかってるか?」
その言葉に、システィーンはゆっくりと顔を上げた。
「……ええ、わかってる。私は、彼のすべてを知ってる訳じゃない。でも、彼がどれだけ孤独で、長い時間を一人で耐えてきたか、少しだけ分かる気がする」
システィーンの声は揺れていた。けれどその瞳はまっすぐだった。
「私の時間は彼と比べて短いけど……だからこそ、私は全力で生きたい。彼の側で、彼の笑顔を見て、支えていたい」
「怖くないのか?最後には、必ず別れが待っていることが」
「怖いわ。とても。だけど、彼と一緒にいられる”今”を捨てる方が、私はもっと怖い」
焚き火の光が、彼女の瞳に映る。その中には、静かな決意と、あたたかい想いが込められていた。
バルダーはしばらく黙っていたが、焚き火を見つめながら肩をすくめて、やれやれと笑った。
「ほんとに、お前の気持ちはでかいな。ちょっと関心するよ」
そして、ぽつりと呟いた。
「アイツ、いつか気付けるかな」
システィーンは小さく微笑んで、焚き火の向こうにいるブリシンガーを見つめた。
「気づいてくれなくてもいいの。私は、この気持ちを大切にしたいから」
「でも……できれば、いつか……気づいてくれたら、嬉しいな」
二人の笑い声が、夜の静けさに溶けていく。
谷間に広がる静かな森には、星々の光が淡く差し込んでいた。一行はそれぞれのテントに入り、眠っていた。
だが、その中で一つだけ、眠りが安らかではない者がいた。
ブリシンガーの寝息は荒く、眉間に皺が寄っていた。
額には玉のような汗。寝具の上で身体が小さく揺れる。
「やめろ……やめろ、来るな……!」
「お前は……そこに、立つな……!」
彼の声はかすれていたが、確かに誰かに呼びかけていた。
その言葉の裏には、怒りや恨みではなく、哀しみと戸惑いが宿っていた。
夢の中で、彼はかつての仲間たちを見ていた。
戦場で倒れた者、寿命で静かに消えていった者。
そして―アイゼンヘイムの姿。
兜からの視線は責めるようでもあり、微笑むようでもあった。
俺は……本当に、正しかったのか……?
その問いの答えは、誰も教えてはくれなかった。
そして、夢はさらに変わる。
空が割れ、大地が叫び、暗雲のような巨影が現れる。
あの災厄、ガウレム。
「ブリシンガー!貴様の存在が、我等誇り高きドラゴンにとって厄災に他ならない!貴様が存在する限り、我は我でいられないのだ!だからこそ、ここで死ね!!!」
大地を砕き、大陸を飲み込み、空すら喰らうその圧倒的な存在。血だらけになりながら、精一杯自らが放った一撃が、感触が、彼の胸を締め付けた。
「うあああっ……!」
彼は、呻き声を上げながら飛び起きた。
肩で荒く呼吸し、顔は汗に濡れ、目は見開かれていた。
テントの中、静寂。
彼はしばらく息を整えたのち、言葉もなく起き上がり、テントの外へと出た。
一方、近くのテントで眠っていたシスティーンは、その声に目を覚ましていた。
(……ブリシンガー……?)
寝袋から身を起こし、テントから顔だけを出して辺りを見回す。
すぐに、焚き火の向こうへと歩いていく彼の背中が目に入った。
いつもは強く、堂々としているその背中が、今夜だけは、どこか小さく、弱々しく見えた。
彼女はそっと起き上がり、何も言わずに、彼の後を追った。
丘の上。
月明かりが優しく地面を照らす岩に、ブリシンガーは腰を下ろしていた。
両肘を膝に乗せ、俯き、どこか遠くを見ていた。
その横顔には、疲労と苦悩、そして静かな諦念が滲んでいた。
「……ブリシンガー」
その声に、彼はわずかに振り返る。
システィーンは心からの優しさで問いかけた。
「……大丈夫?」
彼はすぐには答えなかった。
だが、彼女の声と存在が、確かにこの現実に引き戻したようだった。
システィーンは、ゆっくりと彼の隣に座った。
しばしの沈黙ののち、ブリシンガーが小さく呟いた。
「……俺は、不老不死なんだ」
「老いない。戦いの中で殺されない限り、死なない。今まで皆と同じように笑い合っていたはずなのに……気づけば、俺だけが取り残されていた」
「戦場で倒れた仲間もいれば、何も言わずに老いて静かに逝った者もいる……なのに俺だけが、生き続けている。取り残されている」
「気づけば…共に笑った顔も、戦場で散った背中も、もう思い出せない仲間たちがいる。名前も、顔も思い出せない…それが一番、怖い」
その言葉に、システィーンは彼の手に自身の手をそっと添えた。ただ、そこにいるというぬくもりだけを伝えるように。
彼は悪夢を見たのだろう。彼女は分かっていた。そして、彼がこうやって思い悩むのも今に始まったことではないことを。
「……何千年も生きて、あなたはこの世界を守り続けてきたのよ。逃げずに、投げ出さずに、この世界を守ってきた。それだけでも、どれだけの重さか……」
彼女のその言葉に、ブリシンガーはわずかに顔を伏せる。
彼の指先が、かすかに震えた。
「……そして、また繰り返すんだ。出会って、絆を結び、そして別れる」
「お前や、バルダー、ドゥガルまでも、俺の前からいなくなる日が来る。それを考えるだけで、胸が張り裂けそうなんだ」
彼の声に滲む苦しみを感じ取って、システィーンはそっと彼を抱き寄せた。
「何千年も、俺は同じことを繰り返してきた。仲間を失って、痛みに耐えて、生きてきた。でも、もう嫌なんだ……」
「もう、誰も失いたくない……お前も、バルダーも、ドゥガルも……。泉の時だって、お前たちを失ってしまうかと、俺は怖かった」
声が、震える。
「記録では、俺を“戦いの化身”なんて言う。恐れ知らずの神の剣だなんて…」
「でも違う……俺は、本当は……怖いんだ……」
「戦うのが怖い……手を伸ばせば、また空になるのが怖い……!」
「アイゼンヘイムと剣を交えたときも……ガウレムと対峙したときも……本当は、怖くて仕方なかった……!」
そこに居たのは、神の戦士ではない。幾多もの命が生まれては消えるのを見て、果てしない年月を孤独で生きてきたブリシンガーという、一人の人間の姿だった。
「俺は…ただの、臆病で小心者な…ひとりの男だ…!本当だったら…俺だって、ただの人間として生まれたかった」
「剣なんて握らずに、誰かと笑って、年を重ねて老いて、眠るように死にたかった」
「小さな家で…誰かと肩を寄せ合って、穏やかに生きたかったんだ……けれど…それすら許されない運命を、俺は与えられた……!」
「俺に立ち止まる猶予など与えられない。数え切れない程の命が消えるのを目の当たりにしても、戦うしかない、先に進むしかない」
「滑稽だろう…こんなのが神の戦士として祭り上げられているのが……」
「俺は……弱い…!」
その叫びのような言葉に、システィーンの瞳から涙がこぼれた。彼女は、彼の頭をそっと胸に引き寄せ、耳元で優しく囁く。
「……あなたが臆病者だなんて、誰が言うの?」
「怖いって思えるのは、あなたが優しくて、誰かを大切に思っているからよ。それは、戦士じゃなくて、“人”である証。私はそれを、心から誇りに思う」
「それにね、ブリシンガー……何千年もひとりで戦い続けてきたあなたは、誰よりも強い。誰よりも優しい」
「逃げようと思えば、きっと逃げられた。それでもあなたは、この世界のために剣を握り続けた。それがどれほど尊いことか、あなた自身が一番分かっていないのかもしれない」
「私は……そんなあなたのすべてを心から尊敬するわ。それは弱くも、臆病者でもない。私達がこうして生きているのも、過去のあなたが必死に世界を守ってきたから。そしてね……」
彼女は微笑んだ。
「たとえ私が老いて、あなたより先に死ぬことになっても……それでいい。私と一緒に過ごした時間が、あなたの中に残り続けるなら……それだけで、私は幸せ」
「あなたの未来すべてにはなれないかもしれない。でも、あなたの“今”にはなれる。だから私は、何も恐れない。今を抱きしめる。それだけでいいの」
「貴方はこれからも長い時を生きるかもしれない。でも、その長い歴史の中で、例え一瞬だとしても、私が貴方の一部になれたのなら、もうこれ以上は何も求めない」
「私は、今を一緒に生きたい。未来が怖くても、今のあなたが傍にいるなら、私はちゃんと笑える。だから…それでいいの。未来のことは、未来の私が泣くから」
その言葉に、ブリシンガーの身体がふるりと揺れた。
「システィーン……ありがとう……」
その呟きはかすれていたが、胸の奥から滲み出る、魂の声だった。
しばらくの沈黙のあと、ブリシンガーはぽつりと呟いた。
「どうして……俺の為にそこまで……」
その問いに、システィーンは微笑んだまま、そっと彼の頬に手を添えて答えた。
「あなたが優しいから。あなたが強いから。そして、何より……あなたが、一人で泣いているのを、もう見たくないから。誰も気づかないなら、私だけは気づいていたい。あなたの痛みに、寄り添いたい」
丘を渡る風が、ふたりの間をそっと包み込む。近くに咲いている花が揺れ、静けさの中に優しさだけが残っていた。
ブリシンガーの肩が、静かに震えている。その瞳には、隠しきれない苦しみと、心の奥底に積もった寂しさが滲んでいた。
「今は、この瞬間だけでも、私があなたを守る番です」
彼を腕の中で抱えるシスティーン。その髪に、指を差し入れるようにして、そっと撫でる。柔らかく、細く、銀色に輝く髪。月明かりの中で光を反射するそれを、彼女はひと房ひと房、大切に撫で続けた。
「……不思議だね。前に、王宮であなたが私の頭を撫でてくれたでしょう?あの時、とても安心できた。だから、今…少しでも、その時のあなたみたいになれたらって」
ブリシンガーは、黙ったまま、彼女の胸元で目を閉じた。そのまぶたの奥に、どれほどの記憶が揺れているのか、彼女には知る由もない。
けれど、今だけは。
この瞬間だけは。
「……あなたは、一人じゃない」
その囁きは、風の音にもかき消されそうなほど小さな声だった。
でも、ブリシンガーには、しっかり届いていた。
彼に回されたシスティーンの腕が、とてもあたたかくて、優しかった。




