第39話「影と誇り」
幻影の森内
深く沈んだ霧の中、システィーンは一人立ち尽くしていた。先ほどまで共に歩いていた仲間たち。ブリシンガー、バルダー、ドゥガルの姿は消え、代わりに白く濁る霧だけが辺りを覆っている。
どこからともなく、森の匂いがした。甘く、少し湿った花の香り。
彼女は静かに歩き出す。呼ばれるように、導かれるように、古びた石畳の上を進んでいく。
やがて、霧がゆっくりと割れ、目の前に一本の古木が現れた。
その根元には水鏡のような透明な泉が広がり、その向こうに─もう一人のシスティーンが立っていた。
金髪に透き通る肌、同じ服、同じ魔道具。だが、その瞳はまるで違った。冷たく、非情で、容赦のない真実の刃のような視線だった。
「来たのね、“私”」
幻のシスティーンが、ゆっくりと歩み寄ってくる。まるで氷が床を滑るように、無音の足取りで。
「いつまでヒロイン気取ってるつもり? “仲間の力になりたい”? “支えたい”?笑わせないで」
「……あなたは……」
「そう、私はあなただよ。“優しくて、皆を癒す存在”っていう、あなたが作り上げた幻想の中にいる偽りの理想。でも私は、本当のあなたの心を知ってる」
彼女は、泉を踏み越えて、すぐ目の前まで迫る。
「あなたは、怖かったのよね。霧の峡谷でクロアやゴーレムと遭遇した時、あの魔族を見たとき、あの力を目の当たりにしたとき。戦いの中にいることそのものが、心の奥で怖くてたまらなかった」
システィーンの瞳が揺れる。
「でも、隠してた。ブリシンガーの隣にいたいって思ったから。自分が無力でも、役に立ってないことに気付いてても─ただ“彼の傍にいたい”って、それだけで言い訳してたんでしょう?」
「……違う……」
「違わない!」
幻が冷酷に続ける。
「あなたは未熟。魔力の制御も不安定。守られてばかり。結局あなたは優しいだけの女、戦場には必要ない存在なのよ。本当は気づいてるでしょう?あなたの優しさは、誰かに必要とされたいだけの“依存”よ」
「……う……」
システィーンは、言葉を失った。その場に崩れそうになる。心の奥に押し込めていた不安が、今こうして、目の前に声を持って現れている。
「それに……」
幻の声が少しだけ、低く囁くように変わった。
「あなた、ブリシンガーに恋しているのでしょう?でも考えてみて。彼が今まで何を見てきたと思う?何千年という時を生き、無数の命を見送り、幾多の悲しみを背負ってきた彼が、あなたみたいな若い女に、何を感じると思ってるの?」
システィーンの目に、涙がにじんだ。
「やめて……やめてよ……」
「彼に触れるなんて、思い上がり。身の程を知りなさいよ」
静寂が落ちる。心の芯まで突き刺された言葉は、どれも彼女自身がかつて思ったことだった。
膝から力が抜け、ゆっくりと崩れ落ちる。
でも─その中に、たった一つだけ、強く否定したい感情があった。
「それでも……!」
涙を拭い、彼女は立ち上がる。両手を胸の前で握りしめ、静かに言った。
「それでも……私は、彼の隣にいたい。私がどんなに未熟でも、役に立てなくても。でも私が、彼を想っている気持ちは本当なの!」
「……!」
「私は彼に何度も助けられた。魔法を私に教えてくれた。だから、彼の背中を守りたいって、心から思ったの。それが……それが、間違っていないと信じている」
その声と共に、手から光があふれ出す。それは想いが力に変わる瞬間だった。
「私は、確かに今は弱い。けれど、だからこそ成長できる。自分を信じて、皆の力になれる魔法を、私自身の手で掴む!」
その言葉と同時に、胸の奥から熱が溢れ出した。心臓の鼓動が痛いほど早まり、全身を駆け巡る血が光に変わっていく。
胸の奥で、まるで閉ざされていた魔道の門が軋みを上げて開いたような感覚が走る。
彼女の指先から、淡い光の粒が立ち昇った。
最初は小さな火花のように震えていたが、やがて空気そのものを震わせるほどの輝きに変わる。霧の結界を満たしていた冷気が一瞬にして吹き払われ、柔らかな風が泉の水面を揺らした。
「これは……」
幻のシスティーンが初めて驚愕の色を見せる。その冷たい瞳にも、光が反射して温もりを宿していった。
「私は……逃げない!」
システィーンは涙を拭い、両手を広げる。その掌から放たれる光は、彼女の恐れと迷いを一つひとつ焼き尽くすように強さを増していく。
光はやがて泉を覆い尽くし、鏡のように映っていたもう一人の自分を包み込む。
「そう……それなら、貴方の行き着く所を見届けてみるわ」
幻の声は穏やかに変わり、氷のような瞳は柔らかく閉じられた。その輪郭は霧に溶け、光と共に消えていく。
残されたのは、ただ静かに輝く泉と自分自身の決意だった。
─そして、霧が晴れた。
風が戻り、木々が囁く。システィーンは、ゆっくりと目を閉じ、静かに笑った。
「もう私は、ただの“支える者”じゃない。自分の意志で、歩ける魔法使いになりたい。ありがとう、私の“影”……。あなたがいてくれたから、私は今、ちゃんと前を向ける」
─けれど。
胸の奥で、まだ小さな震えが消えずに残っていることに、システィーンは気づいていた。
恐怖は、完全には消えていない。
今もなお、戦いの中に立つことへの不安は、確かに胸のどこかで息をしている。
(……それでも)
彼女は、ゆっくりと息を吸い込んだ。怖いままでもいい。震えがあってもいい。
それでも前に進むと、今ここで決めた。
(逃げない。怖さごと、抱えていく)
そう思えた瞬間、胸の奥に残っていた震えは、
足を止めるものではなく、“進む理由”へと姿を変え始めていた。
「はァ……こりゃ、迷ったな……」
ぼんやりと立ち止まるドゥガルの鼻先に、冷たい霧が触れた。
周囲を見渡しても、木々は影のように黒く沈み、足元は苔も草も生えない“無の空間”だった。彼はぽりぽりと頭をかきながら呟く。
「ったく……何だってこんなとこ通らなきゃならねぇんだ。俺ぁ、鍛冶屋だぞ……魔法の森は柄じゃねえ……」
そのとき。
「だからお前は“場違い”なんだよ、ドゥガル」
後ろから聞こえた声に、ドゥガルは振り返る。
そこにいたのは自分自身だった。姿かたちは同じだが、その顔には苦い皮肉と焦りが浮かんでいた。
「お前、考えたことあんだろ?自分だけ浮いてるって。ブリシンガー、バルダー、システィーン。あの三人は、もう仲間って感じで息も合ってる。でもお前はどうだ? つい最近くっついてきた余所者のオマケだ」
ドゥガルは言葉を返せなかった。
幻の自分は続ける。
「鍛冶屋やる? 村の鍛冶場を再興する?……笑わせんなよ。ミスリルなんて、扱ったこともねえくせに。神の戦士が使うような“伝説の武器”なんて、お前が作れるわけがねえだろ」
「うるせぇよ……」
「ブリシンガーがその気になったら、王族の鍛冶師だって喜んで剣を打つさ。お前は、何だ?ただの田舎鍛冶屋の成り上がりだ。お前じゃない方がいいって、心のどこかで思ってるんじゃねぇのか?」
ドゥガルの拳が震える。
だが、反論できない。
幻の言葉は、すべて彼自身が夜にこっそり思い出してしまう不安だった。
「ドラゴンの住む山に行くって?お前、震えてたよな?本当に俺なんかが、一緒にいていいのかって。鍛冶屋のくせに、剣もロクに使えねえくせに、“仲間”ヅラしてんじゃねぇよ」
「……」
「ドゥガルって名が泣くぜ。……お前には、誇りなんてもの、持てる価値はねぇよ」
その瞬間。
「……なら、喧嘩だな」
ドゥガルがゆっくりと斧を構えた。その姿は、愚直で無骨、だけど─目に燃えるような火を宿していた。
手のひらが、少しだけ汗ばんでいる。
「確かに、俺はビビってた。ミスリルなんて、見たことすらなかった。ブリシンガーの剣?俺なんかが作れるわけねぇって、思ったさ」
足元を踏みしめる。霧が揺れた。
「でもよ、だからこそやってやるって思ったんだよ!!ドワーフの誇りってのは、“できる奴”だけのもんじゃねぇ。“出来るようになるまで諦めねぇ奴”のもんなんだよ!」
幻の自分もまた、同じ重さの斧を構えた。
ドゥガルの怒声が続く。
「俺は鍛冶屋だ!斧も剣も鎧も、火と鉄で何度も叩いて、命を吹き込む!心が折れそうでも、何百回でも打ち直してやる!!そんぐらいの覚悟で、ブリシンガーの剣、作るって決めたんだよ!!」
激しい斧の一閃。
幻の自分は、大地に叩きつけられ、そして砕け、消えた。
まるで、不純な鉄が叩かれ、火花と共に鍛え直されるように。
ドゥガルは肩で息をしながらも、ゆっくりと立ち直り、笑った。
「……ったく、口の悪い俺だったなぁ。でもよ、そんなビビってる自分がいたから、今んとこまで来れたのかもな」
そのとき、霧がすっと晴れた。森に風が戻り、遠くから仲間たちの気配が感じられる。
「よし。行くか。あいつらの隣で、俺も“鍛冶屋”やってやるよ。神の戦士だろうが、なんだろうがな!」
そして、ドゥガルは前を向いて歩き出した。




