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銀の伝承  作者: 銀の伝承
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第20話「霧の峡谷」

陽が昇り始めたばかりの、ひんやりとした朝。朝霧が薄く立ち込め、音だけが水面に沈んでいた。

今日も旅が始まる。三人は出発した。


正午を少し回ったころ、三人は細く続く山道に足を踏み入れていた。

周囲の風景が徐々に変わり、木々がまばらになっていく。

三人の足は徐々に標高を上げ、岩肌の露出した細道を進んでいた。やがて、空が狭まり、谷のように深く落ち込んだ地形が彼らの前に姿を現した。

そして視界を、白い霧が覆い始めた。

「……ここが、霧の峡谷か」

バルダーが足を止め、険しい斜面を見下ろす。

視界の先は、白い霧に覆われていた。底の見えない谷底を包むその霧は、風が吹いてもまったく揺れる気配がない。まるで谷そのものが、息を殺しているようだった。

「正式には“霧喰いの谷”と呼ばれている場所だ」

ブリシンガーが、谷を見下ろしながら言った。

「……通らなくていいなら、絶対に通りたくない場所だな」

バルダーが唾を飲み込む。

「でも、ファルデンから王都に向かうには……ここを通るしかないんだよね」

システィーンの言葉に、ブリシンガーは静かに頷いた。

「ああ。東から西への迂回路は存在しない。だからこそ、ファルデン村は平和に保たれている。戦火の火が今までここまで及ばなかったのも、その立地が大きい」

システィーンは谷底を見下ろし、思わず小さく身震いする。霧が濃い。目で見ているはずなのに、距離感が壊れていく。足元の石でさえ、どこか輪郭が曖昧に見えた。

「だが同時に、ここを越えられるかどうかが、旅人としての資格のひとつだ。足をすくませたままでは、先へは進めない」

その言葉には、優しさも、脅しもなかった。ただ、旅の現実を静かに突きつけるような重みがあった。

「ここから先は、一列で進む。俺が先頭だ」

「な、なにかいるの……?」

「この谷は、霧の中に様々な魔物が潜む。敵の領域だ。絶対に、はぐれるな」

ブリシンガーの声が、低く響く。歩き出した彼の背を、バルダーとシスティーンが続く。

足音さえも響かず、足元の岩がどこまで続いているかすらわからない。霧が吸い込むのは視界だけではない。息の音や心臓の鼓動まで、薄い布で包まれたみたいに遠くなる。

慎重に、一歩ずつ進む。

何分歩いたか、わからない。時間の感覚すら曖昧になっていた。


そのとき―

「なんか音、しなかったか……?」

バルダーが立ち止まり、背後を振り返る。

音はしなかった。

けれど何かが、霧の奥でうごめいている気配だけが確かにあった。濃霧の向こう――何かが、こちらを見ている。視線の形だけが、肌に貼りつく。

「……構えろ」

ブリシンガーが剣の柄に手をかける。

明らかにその何かが近づいている気配はあった。不気味な静寂が周囲を覆う。


そして次の瞬間、乾いた唸り声と共に霧の中から、黒い影が飛び出してきた。人ではない異形の存在。

「来るぞ!」

ブリシンガーの声と同時に、剣を抜き、一閃。瞬時に霧が渦を巻き、刃がそれを断ち切る。

「複数体いるな」

静かに呟くその声の直後、別の方向から、複数体の魔物が姿を現す。

「数が多いな。ブリシンガー、右は任せる!」

バルダーが背中越しに叫び、剣を一閃。厚みのある霧すら裂くような力強い剣筋が、襲いかかる魔物を真っ二つにした。

彼の動きは重く、それでいて速い。剣技と体術を融合させた、ヴァルハイト王国とブリシンガー仕込みの豪快な戦い方。

「すごい……」

思わずシスティーンの口から漏れたその言葉。けれどその瞬間、彼女の前方からも一体の魔物が姿を現した。

「っ……!」

口が開きそうになったが、声が出ない。魔物の鎌が、霧を裂いて彼女に向かって伸びてくる。

(動かなきゃ……!魔法を……!)

指先が震える。喉が乾く。訓練で何度も口にした詠唱が、頭の中で絡まり、ほどけない。

「護壁……!」

小さく、声にならない声で唱えた。だが、恐怖で魔力詠唱がうまく出来ない。薄い光が一瞬だけ灯り、すぐに消えた。

「……っ!」

怖い。

本物の殺意を向けられるのは、初めてだった。書物の中の戦いは美しかった。だけど――現実の戦場は、足がすくむほど冷たい。

「下がれ」

ブリシンガーの声と同時に、剣が目の前を駆け抜けた。システィーンのすぐ横で、魔物が弾き飛ばされ、地に崩れ落ちる。

「大丈夫か……!? 集中しろ、ここは本気で殺しに来てる!」

それを見ていたバルダーが戦いながら彼女に語る。

「……う……うん……」

それでも、システィーンの声は震えていた。自分の中で、魔力が形になる直前で崩れ落ちた感覚が残っている。できるはずのことが、できない。それが一番怖かった。

霧の中。ブリシンガーは次々と敵を迎撃していた。

「残り一体」

その言葉と同時に最後の魔物を仕留めたブリシンガーは、剣を下ろし、後方にいるシスティーンを見やった。

その目に、責めるような色はなかった。

けれど、彼女自身が感じていた。

(私は……止められなかった)

ほんの一瞬でも護壁が張れたなら。足が動いていれば。詠唱が通っていれば。考えが、遅れて追いかけてくる。

静かになった霧の峡谷。彼女の耳に残っていたのは、剣の音でも、魔物の声でもない。自分の心臓の、怖さに震える鼓動の音だった。

膝が震え、手のひらにはじっとりと冷たい汗。魔法を構えたまま、半端に光って消えた自分の手。

(……私は、ただ足をすくませていただけ)

どれだけ訓練をしてきたって、何の意味もなかった。本物の恐怖を前に、詠唱ひとつすら通せなかった自分が、悔しかった。

「システィーン」

前からブリシンガーの声がした。その静かな声に、彼女は思わず肩を震わせた。

「……ごめんなさい。私……足を引っ張って……」

うつむいたまま、絞り出すような声。ブリシンガーは近づき、彼女の前で足を止めた。

そして、まっすぐに言った。

「最初の戦いで、足がすくむのは当たり前だ」

「……え?」

「初戦闘で、殺意を向けられたのは初めてだったんだろう。それで、生きていた。それだけで十分だ」

その声には、怒りも、呆れもなかった。ただ、事実だけを、優しく肯定するように。

続けて、バルダーが後ろからぽん、と彼女の肩を軽く叩いた。

「俺なんか、最初の戦闘じゃ泣きながら剣振ってたぞ?」

「えっ……バルダーが?」

「そうそう。手が震えすぎて、剣を落とした。えらい怒られた」

そう言って、にかっと笑う。

「だから安心しろ。動けなくても、怖くても、次がある。“次にどうするか”が一番大事なんだ」

システィーンはようやく顔を上げた。まだ涙がにじんでいたが、それでもその目はしっかりと前を向いていた。

「……ありがとう、二人とも」

「礼は不要だ」

ブリシンガーの言葉に、彼女は小さく頷いた。


こうして、彼女は初めて戦場の空気を吸い、初めて、自分の弱さと向き合った。それでも彼女は、立っていた。未遂でも、恐怖でも、体はここにある。

地面に倒れた異形の死骸を見下ろしながら、バルダーが眉をひそめる。

「やっぱり……クロアか」

その名を聞いて、システィーンが顔を上げる。

「クロア……?」

バルダーは片足でその死骸を軽く蹴り返しながら、唸るように答えた。

「全身がねじれて、骨も皮も混ざったような体。でかい鎌を持ってて、群れて動く……。霧の濃い場所や廃墟なんかに巣を作る、下級の魔獣だ」

「それほど珍しい魔物じゃないが、旅人にとっては十分すぎる脅威だ」

ブリシンガーが静かに付け加えた。バルダーは頷き、続ける。

「こいつら、姿を見せるのは斬りかかる瞬間だけ。まともにくらえば、体ごと裂かれる」

「……そんなの、遭遇したら……」

バルダーが唇を歪めた。

「見ろよ、こいつら……ちゃんと仕留めたはずなのに、まだ身体の一部が動いてやがる」

倒れたクロアの手先が、かすかにぴくり、ぴくりと痙攣していた。

まるで何かを求めるかのように。

システィーンは無言で、その異様な死骸を見つめていた。

その姿には確かに理がなかった。ただ、生きるために、殺すために生まれてきたような歪な存在。こんなのが、谷の中にはまだいる。

システィーンはぐっと唇を噛みしめ、目を閉じた。もう怯えてはいけない。怖さが消えなくても、せめて、詠唱を通せる自分にならなければ。

クロアの死骸を谷の端に蹴り捨て、ブリシンガーが短く言った。

「先へ進むぞ。……気を抜くな」

バルダーも静かに頷き、システィーンは拳を握りしめながらその後に続いた。

その背後で、霧がふっと脈打った。

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