第19話「世界へ踏み出す日」
朝焼けがまだ東の空をほんのり染めた頃。ファルデン村の門の所に、人の気配があった。
通常ならまだ眠っている時間帯。しかし、この日は違った。
村人たちは次々と集まり、見送りのために道の両脇を静かに埋めていた。
「……こんなに来てくれたのか」
バルダーが荷物を担ぎながら、呆気にとられた声を漏らす。
彼らの背には、旅のためにと用意された大きな荷袋。食料、薬草、防寒具―村人たちが惜しみなく持ち寄ったものばかりだった。
その中の一人の老婆が、バルダーとブリシンガーに向かって声をかけた。
「……ここが、アンタたちの第二の故郷だよ。いつでも帰っといで。何年かかっても、誰を連れてきても、またここに来るのを待っているよ」
その言葉に、バルダーとブリシンガーが微かに口元をほころばせた。
そのとき、少し離れたところに立つ、システィーンの両親の姿が目に入った。娘の背中を見つめながらも、言葉にできないほどの不安をその表情ににじませていた。
ブリシンガーは一歩進み、二人の前に立つ。そして静かに頭を下げ、一礼した。
「彼女の命は、俺が背負います」
その言葉に、システィーンの両親は目を見開き―やがて、母がそっと微笑みながら頷いた。
父も、少しだけ震える口元で、ゆっくりと拳を握りしめて言った。
「お願いします。どうか、娘を……」
空が白み、鶏の声が一度だけ響いた。ブリシンガーが背を向け、歩き出す。バルダーもそれに続き、そしてシスティーンが最後に振り返る。
「……行ってきます!」
彼女の声に、村人たちは一斉に手を振った。
「気をつけてねー!」
「またいつでも戻っておいでよー!」
「絶対に無事でね!」
その声を背に、三人は旅路へと踏み出す。
日が照り始めたファルデンの朝は、いつもより少しだけ眩しかった。その光の中、村を後にし―世界へ向かって歩き出した。
村の風景が少しずつ遠ざかっていく。
システィーンは、何度も何度も振り返りながら歩いていた。石畳、木の柵、家々の煙突。その全てが、彼女の日常だった。
もう戻れないとは思っていない。けれど、確実に違う世界へ踏み出したのだという実感が、胸に静かに重なる。
寂しさと、不安。それらをすべて押しのけて、胸の奥で高鳴る鼓動があった。
幼い頃から、何度も夢に見ていた冒険。今、自分もその物語の中にいる。
夢に描いても想像できなかった。思わず、顔がにやけそうになる。だが、必死に抑えて歩を進めた。
「……おい、システィーン」
急にバルダーの声がして、はっと顔を上げる。
「顔、緩んでんぞ。……にやけすぎ」
「えっ、う、うそっ……!?」
バルダーがフッと笑った。
「気持ちはわかるけどな」
その隣で、ブリシンガーは無言だった。だが、ちらりとだけ彼女の方を見やり、僅かに微笑んだ気がした。
地図にはない風景。本に書かれていない出会い。
そして、自分自身の物語を紡ぐ旅。システィーンの足取りは、いつのまにか軽くなっていた。
歩いて半日近く経った頃、開けた丘の上に腰を下ろし、三人は小休止を取っていた。風が心地よく吹き、草原の匂いが鼻をかすめる。
バルダーが地面に座り込む。その隣で、システィーンは草の上に座りながらも、まだどこか夢見心地の表情だった。
そんな二人の前で、ブリシンガーは地図を広げる。紙の端が風でめくれそうになるのを押さえつつ、淡々と口を開いた。
「ここから先、一週間かけてグランヘイム王国の王都に行く」
「王都……やっぱり大きい街なんですか?」
システィーンが聞く。ファルデン村もグランヘイム王国の領土の中にある村だが、彼女は当然、王都も話でしか聞いたことがない場所だった。
「大陸でも有数の人口を誇る大都市だ。物資の補給と情報の収集には最適だ」
それを聞いたシスティーンの顔が期待に満ちる。ブリシンガーの指が地図のとある山岳地帯を指す。
「だが、王都に入る前に、最初の試練となるべき場所を明日から通る。霧の峡谷だ」
「霧の渓谷。濃霧で覆われた山岳地帯か」
バルダーはそこを知っているようだった。それに頷いたブリシンガーは続けた。
「そこは様々な危険が待ち受ける。バルダー、お前なら大丈夫だろうが、システィーンは常に俺達の傍にいろ。それがお前に課す一番最初の課題だ」
それを聞いたシスティーンは力強く頷く。
「わかりました」
バルダーも理解した表情で頷いた。
ブリシンガーは地図をたたみ、その言葉で表情が強張る二人を見る。
「ここからが“旅”だ。歩くぞ」
何事もなく終えた旅の初日の夜。
辺りはすっかり闇に包まれ、焚き火の小さな炎だけが三人の姿を照らしていた。
ブリシンガーは薪をくべていた。少し離れた場所でバルダーが欠伸をして、すでに村で貰った寝袋に入り始めていた。静けさの中、火のパチパチという音が心地よく耳に残る。
その中で、システィーンはちらりと隣に座るブリシンガーの横顔を盗み見る。
今なら、聞けるかもしれない。ようやく仲間になれたのだから。
「……あの、ブリシンガーさん」
少しだけ緊張した声に、彼は静かに顔を向けた。
「どうした?」
「その……以前から、気になってたんです。あなたの伝説のこと……」
沈黙。
火がぱちりと弾ける。
「……お前は、詳しいようだな」
ようやく、ブリシンガーが呟き、少しだけ目を伏せた。
「“伝説”と呼ばれていた時代も、確かにあった。だが、それは過去の話だ」
謙遜をしている訳ではない。ただ、本当にその肩書きをなんとも思っていない様子だった。
「それでも、やっぱり信じられないくらい凄いです。あなたの歴史の中で語られる様々な戦い……」
ブリシンガーは皮肉交じりにフッと鼻で笑った。
「……俺はただ、長く生きているだけだ。英雄じゃない。伝説にも、なりたくてなったわけじゃない」
システィーンは何も言えなくなった。
彼女はふと空を仰いだ。星々の瞬きが美しかった。
バルダーはすでに寝息を立て、木の根元で丸まっていた。
彼女は少しだけ身を寄せて、勇気を振り絞るように口を開いた。
「……もうひとつだけ、いいですか?」
ブリシンガーは静かに頷いた。
「何でも聞け」
「あなたの話の中に、“パングラス大陸”の話が出てきたんです。今のエアリンデルのすぐ隣にあった、もうひとつの大きな大陸……」
ブリシンガーは視線を落としたまま、火を見つめている。システィーンは続けた。
「そこに現れた“ガウレム”という存在。かつて、あなたがたった一人でそれと戦ったと記録にはありました」
「……」
「そして……その戦いで、パングラス大陸そのものが、跡形もなく消滅した、と」
口にするには、あまりにも現実離れした話だった。だからこそ、彼女はその真偽をずっと確かめたかった。
「本当なんですか?」
少しの沈黙。やがて、ブリシンガーが言葉を落とすように呟いた。
「……ああ」
システィーンが言葉を探している間に、薪が崩れて火が跳ねる。
ブリシンガーはそれを見つめたまま、ぽつりとだけ言う。
「沢山の命も、消え去った戦いだった。二度と、戻らないものがある」
そして、言葉を切るように付け足した。
「だから俺は、二度と同じ過ちを許さない」
それ以上は語らない。それきり、彼は黙った。
システィーンも、もう続けられなかった。けれど、彼はもう、ただの伝説ではなかった。
彼女は、少しだけ笑みを浮かべながらぽつりと呟いた。
「……なんだか、私……ずっと緊張してました」
その言葉に、ブリシンガーが目だけで彼女を見やる。
「ずっと“さん付け”で呼んでるし、敬語も抜けなくて……。なんだか、私だけまだ旅の仲間ってより、遠い存在みたいで……」
彼女の声はどこか照れくさそうで、そして少しだけ不安を滲ませていた。ブリシンガーは焚き火の小枝をそっと直しながら、静かに答えた。
「敬語は、いらない」
「えっ……」
不意を突かれたようにシスティーンが目を見開く。
「“さん”も必要ない。肩書きも、遠慮も。俺は誰かの上に立つような人間じゃない。お前たちとは、同じ道を歩く旅の仲間だ。バルダーにもそうしてやれ」
その言葉は、まるで焚き火の温もりのようにじんわりと心に広がった。
「……じゃあ、呼び捨てで……?」
「ああ」
システィーンはそっと目を伏せ、頬をほんのり赤らめる。
「じゃあ……ブリシンガー、って呼ぶね」
名を呼ばれた彼の目は相変わらず深く、静かだったが、柔らかくなったようにも見えた。
「……ありがとう」
その一言を、システィーンは小さな声で付け加えた。
言葉はそれで終わったが、火を囲む二人の間に流れる空気は、今までと少しだけ違っていた。
たった一言。
でも、たった一歩分だけ、彼との距離が近づいた気がした。
その夜、システィーンは寝袋に入ってからもずっと、心臓の高鳴りを抑えきれなかった。
(呼んじゃった……ブリシンガー、って)
名前を呼んだだけなのに、まるで夢みたいだった。
そして、星の下で静かに眠る彼の姿を思い浮かべながら、彼女はそっと、目を閉じた。
明日から、何が彼女を待ち受けているかも知らずに。




