第16話「守りたいもの」
朝露が森の草葉を濡らす頃、今日もまた三人の姿があった。
しかしいつもと違う空気が、そこには流れていた。システィーンの動きは鈍く、呼吸の調整も、魔力の流れも、どこかうわの空だった。
バルダーがそれにいち早く気づき、近づいて声をかける。
「システィーン。どうした?顔色あまり良くないぞ」
「……!」
不意に声をかけられたシスティーンは、ぎこちなく笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「……いえ、なんでもありません……」
その言葉に、ブリシンガーもふと視線を向ける。
彼女の様子をじっと見つめ、そして静かに尋ねた。
「何か、悩んでいるな」
システィーンは少し黙り込んだ。
だが、深く息を吸い込み、ゆっくりと切り出す。
「……あの……」
視線は地面の草に向いたまま。
「私……昨日、宿のマスターに聞きました。ブリシンガーさんと、バルダーさんが、私のことを話してたって」
バルダーがぴくりと眉を動かす。ブリシンガーは、黙って彼女を見つめ続けていた。
「だから……その……聞いてしまって、ごめんなさい」
彼女は唇を噛み、ほんのわずか震える声で続けた。
「……私、小さい頃から旅に出たいって、ずっと憧れだったんです。……お二人と一緒に、もっと多くを知って、見て、学んで、強くなりたいって……!」
それは、覚悟とともに紡がれた言葉だった。
だが―
「だめだ」
短く、冷たいほどに明確な言葉が返ってきた。
システィーンが顔を上げると、ブリシンガーがゆっくりと首を横に振っていた。
「お前の想いは理解した。だが、旅は甘いものではない。俺達の旅の目的も知らないだろう」
「……でも、私は―」
「戦えば、人が死ぬ。選べば、後悔が残る。どれだけ力を持っていても、救えない命は必ずある。……そういう現実を、お前に背負わせるわけにはいかない」
ブリシンガーの言葉は静かだった。けれど、その中には経験に基づいた信念が込められていた。
バルダーは何も言わず、ふたりのやり取りを神妙な表情で見守っていた。軽く口を挟むこともできず、彼はただ静かに、苦々しく唇を噛む。
システィーンは何も言えなかったが、その瞳にはまだ完全には消えない光があった。
―その晩。
夕焼けに包まれた村のすぐ外にある丘にブリシンガーとバルダーがいた。
バルダーは草の上に寝転び、ブリシンガーは立ったまま、遠くを見ている。風が枝葉を揺らし、まだ明るい空に一番星がうっすらと顔を覗かせていた。
「……お前、分かっているんだろう」
バルダーが空を仰いだまま、ぽつりと口を開く。
「今日のシスティーン、完全に覚悟決めてた。あいつ……本気だぞ」
ブリシンガーは応えなかった。だが、それは無視ではなかった。
そのまなざしが、どこか深く、何かを飲み込んでいた。
「迷ってるんだろ、お前」
バルダーが起き上がり、立ち上がって言葉を続ける。
「もう、あの目はな……もう引き止められる目じゃなかった」
しばらくの沈黙の後、ブリシンガーがようやく口を開いた。
「……わかっている。彼女の言葉も、想いも、全部嘘ではなかった」
低く、静かな声だった。
「迷いながらも進もうとしている。恐れていながらも、その先を見ようとしている……」
「でも、それでも迷ってんだな」
バルダーの言葉に、ブリシンガーは視線を下げた。
「俺は……彼女を危険に晒したくない以上に、彼女自身の“想い”を守れるかどうかが怖い」
「想い?」
「旅に出れば、綺麗事では済まない現実にぶつかる。理想が、信念が、踏みにじられることもある。あの清らかでまっすぐな目を……いつか曇らせてしまうかもしれない」
バルダーはしばらく黙っていた。
だが、ふっと小さく笑って、こう言った。
「なら、なおさら一緒に行くべきじゃねぇか。曇りそうになった時に、支えられるのは仲間だろ」
ブリシンガーは目を伏せる。
その表情に、かすかな苦悩と、かすかな安堵が入り混じっていた。
「明日、旅の目的を伝える。それでも彼女は付いて行きたいと言ったら……考える」
ブリシンガーは立ったまま、少しだけバルダーに視線を送った。
「……お前、変わったな」
「ん?」
バルダーが上半身を起こし振り返る。少しとぼけたような表情。
「前までに、そんなふうに他人の感情に気を配ったり、熱くなったりする奴ではなかった」
その言葉に、バルダーが思わずむっとした顔になる。
「……そりゃあ、少しは変わるさ。お前と言う存在と一緒に旅をしている。嫌でも変わるさ」
ブリシンガーは静かに頷いた。
だが、次の瞬間。
「感情の起伏がここまで豊かになるとはな。最初の時なんて、“興味ない、関係ない”しか言わなかった男が……今じゃ“本気だぞ”とか言ってる」
バルダーは一瞬ぽかんとして、そして顔を赤くした。
「……そういう言い方すんなよ。恥ずかしいだろ」
「事実だ。否定はしないだろ?」
「ぐっ……!」
しばし、バルダーがもぞもぞと足元の小石を蹴ったりしているのを眺めながら、ブリシンガーが、ふっと息を漏らした。
「変わったのはお前だけじゃない。俺も……そうかもしれん」
バルダーが驚いたように目を丸くする。
「お前が? あの感情ゼロの氷像みたいなブリシンガーが?」
「言い方が悪い」
「だってよ、俺が“本気だぞ”って言った時、お前……口元がほころんでたぞ。あれ、絶対笑ってただろ」
「……笑ってなど……いや……少しだけ緩んだかもしれないが」
「赤くなってるぞ」
「……っ……黙れ、バルダー……!」
ほんの少し、ほんの少しだけ。
ブリシンガーの耳の先が、赤く染まっていた。
その光景に、バルダーはお腹を抱えて笑い出す。
「他人の前じゃ一切感情出さねぇくせに、俺にはこんな顔見せるんだな」
「……いい加減にしろ」
「はいはい、悪い悪い」
そこには、戦士ではなく、十八歳の純粋な若者のあるべき姿が写っていた。
遠くで鐘が鳴る。村の夕食の時間を知らせる鐘だ。静かな時間は終わりを迎え、夜がゆっくりと近づいてくる。
バルダーは背中を向けながら、ぽつりと一言だけ残した。
「俺は賛成だ。もしあいつが明日も本気の目で来たらな」
同刻―夕日が家の窓を染める頃。
メイルフィ家の作業場にも、静かな赤い光が差し込んでいた。手織りの機が止まり、ひと息ついたところだった。システィーンは、少し緊張した面持ちでその前に立っていた。
「……お父さん。お母さん」
「ん?どうしたの?」
母親が微笑みながらも、どこか彼女の表情の硬さに気づいた様子で首を傾げる。
「……私、話したいことがあるんだ。ちゃんと、聞いてもらるかな?」
父と母は、黙って椅子に腰かけ、娘の方をまっすぐに見つめた。そのまなざしの静けさに、システィーンは少し安心し、深く息を吸って話し始めた。
「私……ブリシンガーさんとバルダーさんと出会って、自分の中にある力のことを知って、初めて“何かになれるかもしれない”って思った。ずっと昔から、外の世界を見てみたくて、冒険に憧れてて……でも、きっかけもなくて、ずっとこの村にいたけど……」
言葉に詰まりながらも、彼女は精一杯想いを口にする。
「今なら、行ける気がする。怖いこともあるって分かってる。でも、だからこそ……知りたい。感じたい。旅の中で、ちゃんと、自分の力で生きていけるようになりたい」
長い沈黙が流れた。両親は、何も言わなかった。
ただ、じっと娘の言葉を聞き、噛みしめるように視線を交わし合っていた。
やがて母が、ふっと優しく微笑んだ。
「……やっぱり、そう言うと思ったわ」
「え……?」
「小さい頃から、本の世界に憧れていたでしょう?あなたの目、いつも村の外を見ていたもの。彼らが村に来てからのあなた、すごく変わったわ。前よりもずっと明るくて、生き生きしてる。……私たち、気づいてたのよ」
父が立ち上がり、ゆっくりと娘の肩に手を置いた。
「本当は心配だ。お前が傷つくのが怖くもある。けどな―それ以上にお前が前を見てることが嬉しいんだ、夢を叶える機会が回ってきたという」
彼はしっかりと彼女の目を見て言う。
「だから……行ってこい、システィーン。自分で選んだ道なら、私たちはいつでもここで待ってる」
その言葉を聞いたシスティーンは、顔を伏せて、暗い声色で話す。
「……でも……今日断られてしまったの」
父と母が少し驚いたように目を見開いた。
「ブリシンガーさんに。旅は危険すぎるからって……私が穢れていないから巻き込みたくないって」
そんな娘を見て、母は静かに立ち上がってそっと手を握った。
「……それは、あの人たちが優しいからだと思うよ」
「……え?」
「本当に優しい人ほど、無理はさせたくないと思うものよ。きっと、あなたのことを気にかけてくれているんだよ」
そう言って、母はふわりと微笑む。
「でもね―あなたが真剣で、まっすぐにもう一度想いを伝えれば、きっと聞き入れてくれるはずだよ」
父も、静かに頷いた。
「お前の目を見れば、どれだけ本気かわかるさ。あの男も、きっと気づいてる。……焦らず、しっかり自分の道を見つけなさい」
システィーンの目が潤む。
「……ありがとう。私、もう少しだけ……がんばってみる」
母がそっと彼女を抱きしめる。
「無理はしちゃダメよ。優しさを忘れずに、でもちゃんと、自分も守るのよ。めいっぱい世界を沢山見てきて、成長して、ちゃんとあの人達の役に立って、活躍して戻って来るのよ」
「……はい……!」
窓の外には、赤い夕日がゆっくりと山の向こうへ沈んでいく。その光に照らされながら、システィーンは心に行く覚悟を、静かに、でも確かに固めていた。




