第12話「夕暮れの距離」
昼の光が少しだけ傾きはじめていた。それまで彼らは、大量の物品や食べ物を村人たちから与えられ続けていた。
村人たちはそれぞれの仕事に戻り、落ち着いた空気が広がっている。けれど、システィーンの心は、ずっとざわめいていた。
(今しかない……!)
彼らの後ろを歩きながら、胸の奥で何度も覚悟を決めた。足を止めて、勇気を振り絞り、少し声を強く出す。
今これを言わなければ、これから先、こんな機会は二度とない。
「……あの!よ、よければ……!少しだけ、この村をご案内してもいいですか……?」
ブリシンガーが静かに振り返る。その銀の瞳に見つめられた瞬間、心臓が跳ねた。
「……案内?」
「は、はい!あの、せっかくいらしたので……よかったら、少しだけでも……!」
噛まずに言えたのが奇跡だった。バルダーがちらりとブリシンガーに目をやり、次いでシスティーンに視線を向けてくる。そして一呼吸置いて:
「……悪い、俺はちょっと用があるから、先に宿に戻ってるわ」
「え?」
システィーンが目を見開くと、バルダーは背を向けて手をひらひらと振った。
「お前らで勝手に回っとけ」
言い捨てるようにして、バルダーはあっという間に路地へと姿を消した。
(え、ええええええっ!?)
突然、伝説の男と、ふたりきり。鼓動が爆発しそうだった。
(ど、どどどうしよう……)
あまりのことに頭の中で語彙が迷子になりかけたが、ブリシンガーは変わらず静かだった。
「……案内を頼もうか」
その一言に頷いたものの、二人きりになったことの現実が、じわじわとシスティーンを追い詰めていた。
何を話せばいいのか、何から始めるべきか、心の中は大混乱だった。
喉の奥が乾く。鼓動が耳の内側で響いてる。けれど彼女は、精一杯の勇気で口を開いた。
「……あのっ、こっちです。こっちが村の市場で……あ、今日はもう終わってますけど……」
思わず説明が早口になる。
「でも、焼きたてのパンとか、手織りの布とか、すごくいいんですよ。えっと、それで……あ、こっちには……」
言葉が詰まりかける。
(なに言ってるんだろ、私……)
自分でも分かるくらいテンパっていた。けれど彼は、何も言わず、ただ横を歩き続けていた。
時折、彼女の言葉にわずかに頷く。たまに短く「そうか」や「いいな」と言う。
それだけだが、それは決して冷たさではなかった。どこか奥底に暖かさが宿る一言だった。
それでも沈黙が怖くて、彼女はまた必死に話す。
「……あっちには、子どもたちがよく遊んでる広場があって……あの、全然関係ないですけど……その、なんていうか……!」
「……安心する風景だ」
ぽつりと、彼が言った。その声があまりにも自然で、そして深い。
ふと、彼女は思った。
この人はたぶん、話すのが嫌いなんじゃない。
その静けさの奥に、何かがある。
語るには重たすぎる記憶。
それが、彼の中には確かにあるのだと、彼女は感じていた。
誰よりも多くの人を見送って、
誰よりも、深く孤独を知っている。
だから、言葉が少ない。
そんなことを考えながら、ついまた早口になる。
「そ、それで!この先に見えるのが神殿なんですけど、そこから見る空が本当にきれいで、私、子どもの頃からよく……」
ふいに視線を感じて、顔を向けた。ブリシンガーが、彼女を見ていた。そしてほんの一瞬、微かに、口元が緩んだ気がした。
(……え?)
それは微笑と呼ぶには小さすぎて、でも確かに笑っていた。
「よく話すな、お前は」
「へっ!?あ、ご、ごめんなさいっ、うるさかったですか……!?」
慌てて両手を振って否定するように弁解すると、彼は「……悪くない」と呟いた。
そのたった一言が、彼女の一日をまるごと照らすほど、嬉しかった。
茜色の光が長く影を落としていた。
風が静かに草を揺らし、村の一日がゆっくりと終わろうとしている。
その柔らかな時間の中で、システィーンは一度深呼吸をして、最後の問いを口にした。
「……あの、ブリシンガーさん」
彼が振り返る。
「その……明日の朝の訓練……また、見に行っても……いいですか?」
少しうつむき気味にそう言う彼女に、静かな間が降りる。やがて、彼の声が返ってきた。
「……見たいのなら、来ればいい」
ぶっきらぼうに聞こえる言葉だったが、突き放すような口調ではなかった。
だが彼は一歩、歩みを止め、少しだけ視線を横に流して言葉を継いだ。
「ただし、一人で森に入るのは危ない。一緒に行くぞ」
システィーンは、はっと顔を上げた。その顔に、言葉では表せないほどの驚きと、喜びと、そして微かな照れが混じる。
「え……あ、はいっ、はい!」
答えながら、心臓が跳ねている。
(い、一緒に……!?一緒に行くって、それって……!)
もちろん、そういう意味ではないとわかっている。彼はきっと純粋に、安全を考えて言っただけ。
でも、それでも”一緒に行く”と言ってくれた。
胸の奥に、ひときわ大きな光が灯った。ブリシンガーは軽く頷き、何も言わずに歩き出す。その背を見つめながら、システィーンはそっと呟いた。
「……また明日、ですね」
—そんな中。草陰、木の影、小道の曲がり角。
そこには、“見守る”という名目で完全に見張っている村人たちの姿が、いくつも潜んでいた。
「なんか、いい感じになってない……?」
「ていうか、システィーンがあんなに取り乱してるの、見たことない……!」
小声のざわめきが、笑いを含んで交わされる。
誰もが知っているシスティーンは、穏やかで、誰にでも優しく、どんな相手にもまるで聖職者のように接する。
それが今、赤くなった頬を手で覆い、何度も言葉を噛んで、男の一言一言にびくびくして、しまいには、「い、一緒に行くんですか!?」と裏返った声を出している。
「システィーンが……あんなに……!」
「落ち着け……!平常心を思い出せ……!」
若い娘たちが口元を抑え、老婆たちが目を細め、男衆までが「おぉ〜〜〜」と微笑ましい視線を送る始末。
そのうち誰かが小声で言った。
「……で、あの銀髪の男、結局何者?」
「なんか有名な冒険者みたいよぉ……」
「……そりゃ冒険大好きシスティーンが取り乱すわ」
「明日の朝も訓練を見に行くんだって」
「……デートでは?」
「いや訓練見学だろ」
――――
ファルデンの宿では夜の帳が下り、蝋燭の灯がゆらゆらと壁を照らしている。その淡い光の中、ブリシンガーは部屋の隅で村人達から貰った剣の手入れを終え、静かに窓の外を見やった。月の光が、まだ村の屋根を照らしている。
ふぅ、とひとつ息を吐くと、誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
「……見られていたな」
背後から声が返ってくる。
「やはり気づいていたな」
バルダーだった。
椅子にふんぞり返っていた彼は、口元を緩めながらブリシンガーを見ている。
「あれだけ村人が影に潜んでたら、流石にわかる。……なんなら、最初から顔が三つくらい見えていた」
ブリシンガーは流し目でバルダーを見る。
「やけに多かったな」
「当たり前だ。この村の看板娘があれだけ慌てたんだから」
ブリシンガーは何も言わない。だが、バルダーは続ける。
「で? どうだった?」
「……何がだ?」
「とぼけんなよ。村の案内をされていた時のことだ。楽しかったか?」
少しの間。ブリシンガーは、視線を外したまま、小さく答えた。
「……悪くはなかった」
それを聞いたバルダーは、フッと小さく笑った。
「それは、ブリシンガー語では“けっこう楽しかった”って意味だな?」
返答はなかった。だが、蝋燭の揺らめくその光の中で、ブリシンガーの表情がほんのわずかに緩んだことを、バルダーは見逃さなかった。
――――
システィーンの部屋は、両親と同じ家の二階にある小さな屋根裏部屋だった。
木造の床に、手織りの絨毯。窓の外には満月がのぼり、部屋の中はほんのりと銀色に染まっている。けれど、その美しさを堪能する余裕は、今の彼女にはなかった。
ベッドの中、毛布をかぶってぐるぐると転がる。
「ど、どうしよう……!!」
布団の中で叫ぶように、けれど声は出せず、ひたすら枕を抱きしめてバタバタと足をばたつかせる。
(わ、私……あんなに慌てて……あんな声出して……!)
(そ、それに“一緒に行くぞ”って……言われた……!明日の朝、一緒に……!?)
布団に顔を埋めて、再び転がる。
「むりむりむりむり……っ!!」
顔が熱い。胸がうるさい。どうしてこんなに、彼の一言一言に振り回されているのか、自分でもわからない。
(だって、だって……“あの人”だよ!?)
物語としてしか知らない存在が、今、目の前にいて—
しかも、自分の話をちゃんと聞いてくれて、
危ないからって一緒に行くって言ってくれて、
しかも、たまに……ほんの少しだけ、笑ってくれて—
「うあああああ……!!」
また布団に顔を埋める。
叫び声を押し殺すように枕をぎゅううっと抱きしめて、ジタバタ転がる。
(明日……ちゃんと顔合わせられるかな……)
(でも、会いたい……絶対、行きたい……)
その想いだけは、ぶれることなく胸の中に残っていた。だから彼女は、最後にひとつだけ、静かに呟いた。
「……明日も、ちゃんと笑ってくれたらいいな……」




