第10話「システィーンの尾行」
翌朝。
その静けさの片隅で、システィーンは早くから身支度を整えていた。
昨夜、彼女は宿のそばを通りかかった時、中から偶然二人の会話を耳にした。
「明日の朝も変わらずやるぞ。村の外れにある広場を使う。惰性にだけはなるな、バルダー」
「……わかってる。お前の目覚まし訓練、もう慣れた」
あの二人は、毎朝の訓練を欠かさないらしい。
(……村の外れの森の、広場……)
どうしても気になった。何気ない話。
けれど、その言葉の端々に、ただ者ではない気配が滲んでいた。
それにあの男の姿が、どうしても頭から離れなかった。
だから、彼女は家を出た。ファルデン村に一軒しかない宿の方向へ向かう。
その宿の軒先に、システィーンは朝早くから立っていた。
姿は木陰に隠している。
手には小さな籠。村の朝市に行く途中を装っているが、目的は明らかに別だった。
(……まだ、出てこない)
訓練。それも、森の奥で。どこか別世界の気配を纏ったふたりの男。
彼らが何をしているのかを見てみたいと思った好奇心。彼女の憧れる外の世界の住人というだけでも、非常に興味をそそられるものだった。
その時―軋む扉の音がして、二人が姿を現した。
先に出てきたのは、黒髪の少年。腰に剣を背負い、まだ少し眠たげな顔をしている。
そしてその後ろから、銀髪の男が、無言のまま歩み出てきた。
朝日が彼の髪に触れた瞬間、それは淡い光を纏ったかのように煌めいた。
システィーンは、思わず息をのんだ。
(……)
彼らは村の表通りには向かわず、裏道を抜けるように森の方角へと歩いていく。その背を、システィーンは静かに追いかけた。
足音を立てないよう、距離を保ちながら。
道端の草むらに身を寄せ、物陰に隠れながら。
(見つかってはいけない。……けど、もっと知りたい)
森の奥、朝露に濡れた草を踏みしめ、やがて木々が開ける。
そこには、誰も使っていないはずの小さな広場があった。
枝を払った簡素な円形の空間。システィーンは、そのさらに奥。枝葉に隠れる小高い岩の陰に、そっと身を潜めた。
(……ここで、何を……)
ふたりは既に対峙していた。
バルダーは木の幹に寄りかかりながら、やや不満げな顔でブリシンガーを見ている。
「……で、今日もまた枝か?」
ブリシンガーは無言で地面に落ちていた一本の枝を拾い、試すように振る。
「剣の形をしていれば十分だ」
「お前、これで俺を圧倒してることを忘れてないからな。ただの木の枝で……」
「枝を使っているだけマシだろう。足だけを使おうか?」
システィーンは、陰で思わず口元を押さえた。
二人のやり取りは淡々としているのに、不思議と息が詰まる。
「力は、腕に宿るものではない」
ブリシンガーは、静かに足を広げ、呼吸を整えた。
「心を整え、気を巡らせ、呼吸を合わせる。そのすべてが、“斬る”という行為に結びつく」
「……気合いだけじゃ勝てない相手もいるんだが」
「だからこそ、日々鍛える。魂の芯に触れるために」
その言葉に、バルダーは小さく鼻を鳴らしながらも、剣を構えた。
ふたりの距離がゆっくりと縮まり、空気が変わる。
一歩、また一歩。互いの間合いを計るように歩き出す。
バルダーが先に踏み込んだ。低く構えた体勢から、鋭く地を蹴り、剣を突き出す。
(……す、すごい)
岩陰からその様子を見つめていたシスティーンは、息を呑んでいた。
これは“遊び”じゃない。
殺気も怒気もない。けれど、彼らの動きには明確な「術」があった。
システィーンの手が、葉の縁をわずかに震わせていた。
視界は釘付けだった。
体は冷静を保っているはずなのに、呼吸だけが妙に浅くなっている。
剣が空を切る音と地を抉る足運び。それは、今まで彼女が知っていた「訓練」などではなかった。
村の護衛隊の稽古風景では木刀で軽く打ち合い、数手の型をなぞる程度の温和なやりとり。時には笑いながら休憩し、手加減し合うことが当たり前だった。
けれど、今、目の前で繰り広げられているのは、別世界のものだった。
(これが、本当の……“戦い”……?)
村で暮らしていた彼女にとって、それはまるで物語の中の描写だった。
現実には存在しないと、そう思っていた“世界”が、今この場所で、目の前で、生きていた。
恐怖ではなかった。
畏怖と、衝撃と、どこか言葉にできない感動。
「—はあああああッ!!」
バルダーの渾身の叫びとともに振るわれた、魔法と融合した大技。
空気が鳴り、広場に衝撃が走る。だがそれすらも、淡くいなされる。風が止まり、空間に静寂が訪れた。
(人間……?本当に……?)
そう思ってしまうほど、二人の動きは、常識の枠を超えていた。村に生きる者として、ここまで“違う”存在を見たことがなかった。
(あの人たち、やっぱり、ただの旅人じゃない)
自分は、何を見ているのだろう。どうして、こんなにも目が離せないのだろう。
システィーンの視線は、もう彼らから一瞬たりとも離れなかった。
地面が裂けるほどの踏み込み、木の葉が巻き上がる風圧、剣が振るわれるたび、空気が唸りを上げる。
「行くぞ、ブリシンガー!!」
バルダーが叫ぶ。呼吸を整え、両足に力を溜め、一気に踏み込んだ。
「—はあああああッ!!」
その剣が振るわれた瞬間、空間が震えた。地を裂くような衝撃。
大地を割きながら一直線にブリシンガーを目がけて走る。
だが—
「……悪くない」
ブリシンガーはわずかに枝を構え直すと、枝の大ぶりの一つで巨大な風の衝撃波を発し、バルダーの斬撃を相殺した。
大地を揺らす大きな衝撃が周囲を木霊した後、嘘のように風と音が鳴り止んだ。大地に残ったのは、裂け目だけだった。
静寂。息を呑むような、異様な静けさ。バルダーは膝をつき、肩で息をしていた。
その顔には敗北ではなく、達成感が浮かんでいた。
そしてブリシンガーは、淡く笑っていた。
「ようやく“剣”になってきたな」
システィーンは、ただ、茫然とそれを見ていた。
彼女の中で何かがゆっくりと崩れ落ちる。
(あの人は……)
最初はただの旅人だと思った。少し変わった雰囲気を持つ、銀の髪の男。けれど、あの枝が剣を封じた瞬間、空間が切られたような一撃を相殺した瞬間、“ただの旅人”という仮面は、音を立てて砕けた。
(……やっぱり、そう。間違いない)
幼い頃に夢中になって読んだ、埃を被った古い英雄譚。その中に登場する、不死の戦士。
ブリシンガー・ヴァルディア。
その名が、まるで誰かに囁かれたかのように、心の中に響いていた。
システィーンはまだ身を潜めたまま、動けずにいた。
そのときだった。
—ざり。
わずかな気配。足音。森の奥から、何かがこちらに向かってきていた。
(……え?)
身をひそめた茂みの奥、視界の端でそれが蠢く。黒い毛並み。異様に膨らんだ腹。
赤く濁った目が、低く唸りながら彼女に向かって迫ってくる。
魔物—名も知らぬその獣は、森の奥から流れ込んできた何かのはぐれ種か。
牙を剥き、低く咆哮しながら、身を低くした—次の瞬間、跳んだ。
「——ッ!」
恐怖が喉に詰まったその一瞬。
目の前に、“銀色”が舞い降りた。
風と共に、彼は現れた。
気づいたときにはもう、彼が“いた”。銀髪が朝日を浴びて揺れ、外套の裾がなびく。
そして、たった一つ。わずかに足を滑らせ、片手に持った一本の枝を、静かに横に払った。
世界が、一度だけ“間”を空けた。
次の瞬間、魔物の咆哮が途中で途切れた。大きな体が空中で弾かれたように吹き飛び、地面を転がり、遠くの木に激突する音だけが遅れて響いた。
動かなくなった魔物を見下ろし、彼は何も言わなかった。そのすべてが、ひとつの動きの中に収まっていた。
助けることも、仕留めることも、身を守ることすら。彼にとって、それはすべて当然のことかのように。
「お前は昨日の……怪我はないか?」
短く、彼が振り返る。その瞳が、深く、静かに彼女を見つめていた。システィーンは、腰を抜かしてペタッと地面に座り込み、ただゆっくりと首を縦に振った。言葉が出てこなかった。
「……ここは危険だ。戻れ」
それだけを言って、彼は魔物が吹き飛んだ森の奥に視線を戻した。
何の詮索も、叱責もない。ただ、必要なことだけを伝えただけだった。
ブリシンガーはすでに彼女に背を向け、動かなくなった魔物を確認していた。
その背に言葉はない。ただ、静けさだけが残っていた。と、そのとき。
「……無事だったんだな、よかった」
少し離れた木陰から、低く落ち着いた声がかかった。システィーンが振り向くと、そこには黒髪の少年バルダーがいた。彼もまた、その一部始終を見ていたらしい。
「見ていたな?」
システィーンは息を整えながら、かすかに頷く。
「……はい」
バルダーは彼女の顔を見て、少しだけ眉をひそめた。
「驚くのも無理はない。あんな動きは常人では無理だからな」
苦笑するように言ったその口調には、気安さと優しさが混じっていた。
「……ありがとうございます。助けてくれて……」
ようやく言葉を絞り出せた。小さくそう言ったシスティーンに、バルダーは淡々と答えた。
「俺じゃない。助けたのは、あいつだ」
彼は、ブリシンガーの背を見ながら、ぽつりと呟く。
「……ついてきたってことは、あんた、あいつが気になるんだろ?」
バルダーの言葉にシスティーンは、言葉に詰まりながらも、否定できなかった。
残るのは、倒れた魔物と、朝の光。
そしてただ一人、息もつけずにその光景に縫いとめられた少女と、何事もなかったかのように背を向ける男だけだった。




