第101話「戦いの果てに」
風が変わったのは数時間前のことだった。
ここは遥か遠方、千キロ以上離れたザラハート王国。
王国の兵士たち、システィーン、バルダー、ドゥガルとカリス。ブリシンガーの出撃を見送った者たちが、一歩も動けずに、ただ空を見上げていた。
「また……来るッ!」
バルダーが叫んだ瞬間―地が鳴った。
空が割れ、山の稜線が揺れ、大地の奥底から、何かが軋むような振動が走る。
「これは……」
ドゥガルの額から、滴る汗。
(地殻が……捻じれてる!?)
それすらも戦いの余波に過ぎなかった。
続いて、空から音が遅れて届いた。
ゴオオオオオオオオオッ!!!!!!
空が白く染まり、黒雲が引き裂かれ、稲妻のような衝撃の線が、地平線の先から放たれる。自らの立っている地面がガクンと下がった。
それはまるで、神の刃が空を切り裂いたような痕跡だった。
何度目だろうか。この数時間、彼らのもとには何度も世界が終わる音が届いていた。
「あれが、ブリシンガーの……」
システィーンが、胸元を強く握る。金色の光が、彼方で瞬いた。
そして、急にすべての振動が止んだ。風も、大地の鳴動も、空の裂け目も、全てが、静かになった。
「……終わった?」
誰ともなくつぶやいた、その時だった。システィーンの目が、地平線の上に“何か”を捉えた。
「……あれは……!」
遥か遠く、陽の傾いた空の向こう。
黒く焼け焦げた大地の彼方から―ひとつの影が、ゆっくりと空を渡ってくる。
大きな翼。炎のような傷跡。今にも落ちそうなほど、ふらついた飛行。
だが、確かに彼は飛んでいた。
ゼルグ。
その背には、ぐったりとしたブリシンガーの姿。
服はボロボロで、身体の至る所に深い傷と焼け跡が残っている。彼の腕は力なく垂れていたが、それでも彼は、生きていた。
そして彼を運ぶゼルグも、目の焦点すら合っていないような、限界を遥かに超えた消耗の中で、仲間のもとへ戻ろうとしていた。
「……!」
システィーンが駆け出す。
誰よりも先に、その場から駆け出していた。瞳からは涙が溢れ、言葉にもならない声が喉から漏れる。
「……ブリシンガー……っ……ゼルグさん!」
バルダーも、ドゥガルも、黙ってそれに続いた。
彼らの目の前に、ついに―戦いの果ての英雄が、帰還しようとしていた。そしてその空には、まだうっすらと二人の神の戦士が刻んだ軌跡が、淡く、光りながら残っていた。
大地に、砂煙が舞う。
ボロボロの翼を揺らしながら、空から―ゼルグが、墜ちるようにして着地した。
ドゴォォン……ッ
足がもはや支えにならず、着地の瞬間、膝をつき、肩から落ちるように地に伏した。
その表情は、苦悶と疲労に歪みながらも、どこか誇らしげだった。
「……無事に……連れてきたぞ……」
その背からブリシンガーがそっと地面に滑り落ちる。確かに、胸はわずかに上下していた。
「生きてる……!!」
バルダーが叫んだ。
システィーンが駆け寄り、しゃがみ込む。震える手でブリシンガーの手を握り、その脈のかすかな鼓動を感じた瞬間―
「……よかった……っ……!ブリシンガー……!」
頬に涙が一筋、ふた筋と伝う。だがそのとき―
「……早く……手当てを……」
ゼルグが、かすれた声で言った。真っ赤なはずの彼の顔色は白く、目の焦点も合っていない。それでも、必死に顔を上げ、まだブリシンガーの方を見ていた。
「……我も…こいつも致命傷ではないが…早く」
それだけを言い残し―彼は静かに、そのまま崩れるように倒れた。
ズシン、と音を立てて大地に横たわるゼルグ。その巨躯も、今や限界を超えていた。
「ゼルグ!」
全員が彼の元にも駆け寄る。彼はブリシンガー程の大きな傷を負っていないが、それでも回復には時間がかかる程の負傷はしていた。
次の瞬間、巨竜の姿だった彼の身体がゆらりと変化し、人間の姿―紅の髪をした青年の姿へと戻る。
そのあまりに儚い姿に、周囲からざわめきが起きた。
システィーンは懸命に魔力を集中させ、震える手で、彼の傷口に応急の回復魔法を施す。
その隣で、倒れたゼルグにも手をかざす。
彼女の掌から、柔らかな光が広がる。生命の糸を繋ぎ止めるような、祈りにも似た癒しの魔法。
周囲にいた仲間たち―バルダーやドゥガル、避難していた人々も、声を飲みながらその様子を見守っていた。
そんな二人の様子を受け、駆けつけてきたヤシーンが兵士全員に司令を出す。
「医療班!救護班!彼らを一刻も早く医療室へ!」
彼の号令とともに、衛生兵たちが慌てて担架と魔力封式を抱えて駆け寄る。
ブリシンガーは慎重に担架へ乗せられ、ゼルグの人間の姿も、手厚く包まれるように搬送されていく。
ブリシンガーとゼルグを乗せた担架が、光魔封式で補強された浮遊搬送台に固定され、魔導装置を使って素早く拠点の医療棟へと運ばれていく。
その後ろをシスティーン、バルダー、ドゥガルの三人が黙って付き添っていた。
誰も言葉を発せず、ただ、必死に歩幅を合わせて追いかけていた。
ブリシンガーの姿は―それほどまでに、痛々しかった。
全身に焼け焦げた痕。断裂した筋肉。出血は既に止まっていたが、その傷の多さが戦いの激しさを物語っていた。
ゼルグもまた、人の姿に戻ったその身に無数の裂傷と打撲痕を刻み、生きているのが不思議なほどに見えた。
「どれだけ……無茶を……」
バルダーが、誰にともなくつぶやいた。拳を握る手が震えていた。ドゥガルは眉をしかめながら、何も言わずにただ足を速めた。
そしてシスティーンは、ブリシンガーの担架のすぐそばに立ち、ずっと、彼の手を握っていた。その瞳には涙があった。だが、それでも微かに微笑んでいた。
「ありがとう。帰ってきてくれて……」
搬送された先は、王城地下の高位医療棟。最も安全で、最も機密性の高い治療区域。
そこに、二人はそれぞれ別室に安置された。
だが―驚くべきことが起きたのは、彼らの身体がベッドに落ち着いてから、数分後だった。
「……これは……回復魔法の効果じゃない……」
担当の医療魔術師が、絶句した声を漏らす。
「傷が……もう塞がってきている!?ありえない……!」
ブリシンガーの胸にあった斬撃の痕は、通常であれば致命傷であり、完治に数ヶ月を要するはずだった。
既に皮膚が再生し始め、破壊された筋繊維が、目に見える速度で自己修復していた。
ゼルグの方も同様だった。
「こっちは……骨折していた肋骨が……繋がってる!?一体、どういう……」
誰もが、信じられなかった。それは魔法でも薬物でもない。
彼ら自身の“回復力”が常軌を逸しているのだ。
「神に創られた戦士としての、プログラムだな」
後ろからカリスが現れる。それに振り向く全員。
「ゼルグも、ドラゴンとしての圧倒的な生命力がこれを可能にしている。何れにせよ、この世の理をつくづく外れた者だな」
それを聞いた一行が、安堵の表情を見せる。
それでも、彼らは目を覚まさなかった。それだけ疲労していたということだった。だからこそ、システィーンは、その傍を決して離れなかった。
寝台の横に椅子を置き、一日中、彼の手を握ったまま。何も言わず、ただ、彼の呼吸を、脈を、温もりを見守り続けていた。
バルダーはその様子を黙って見つめ、ドゥガルは医療班と共に必要な物資の手配に奔走していた。
そして―時が、静かに過ぎる。それから、数日が経過した。
医療棟の一室。ブリシンガーとゼルグの寝台には、変わらぬ静けさが流れていた。
彼らの身体はすでに完璧に修復されていた。皮膚の裂傷も、筋肉の断裂も、骨の損傷も、まるで戦いなどなかったかのように癒えていた。
だが彼の瞳は、まだ閉じたままだった。
「外傷が完全に回復しているのに……なぜ……」
医療班の誰もが首をかしげた。魔力の乱れもない。生命力も安定している。
だが、二人は、目を覚まさない。
部屋には、昼夜問わず、システィーン、バルダー、ドゥガルの三人が交代で見守っていた。
「……もしかして、精神的な疲労が限界だったんじゃ……」
バルダーがベッドの端でつぶやく。
「長い眠りの中であの戦いを、まだ思い返しているのかもな」
ドゥガルの言葉に、システィーンはそっと頷く。
彼女は毎日、ブリシンガーの手を握りながら語りかけていた。静かに、優しく、まるで眠っている彼の心に届くように。
「大丈夫……待ってるから。いつでもいい。目覚めるその日まで、私たちはずっとここにいるから……」
その静けさが続く中―隣から、突如として微かな咳の音が聞こえた。
「……ッ」
その声に、システィーンの肩がぴくりと動く。
「……今の……!」
バルダーとドゥガルも立ち上がる。彼らは一斉に視線を横のベッドへ移す。
そこには、ベッドに横たわったまま、ゆっくりと上体を起こしかけている男の姿があった。
ゼルグ。
その瞳が、うっすらと開かれていた。まだ焦点は定まっていない。
全身に包帯を巻いた状態で息も浅く、傷の痛みに顔をしかめている。
「……戻った……のか……」
その声が確かに、生きている証だった。
「ゼルグさん!!」
システィーンが最初に駆け寄る。その後ろから、バルダーとドゥガルも続く。
「ようやく……目ぇ覚ましたか、化け物め……!」
バルダーが言いながら、拳をぎゅっと握る。その目には、嬉しさと安堵が滲んでいた。
「寝過ぎだ、お前。おかげで心配したんだぞ」
ドゥガルが苦笑混じりに肩をすくめる。
システィーンは、静かに彼の手を握った。
「あなたが……ブリシンガーを、連れ戻してくれたんですね。ありがとうございます、ゼルグさん……本当に、ありがとう……!」
その手は微かに震えていたが、確かに、感謝と喜びに満ちていた。
ゼルグの瞳が、少しだけ開ききる。
そして、すぐ隣のベッドにまだ眠ったままのブリシンガーの姿を見つける。
「……アイツは……」
「まだ……目を覚ましていません」
システィーンの言葉に、ゼルグは短く息を吐いた。
「最後の最後で、また格好つけやがって……」
だが、その言葉には毒はなかった。むしろ、無言の敬意がにじんでいた。




