第100話「赦しの空」
天地が震える。空は赤黒く裂け、地は何度も崩れ、それすらも“戦場”として吸収された。
それでも、二人は立っていた。
金色の神威を纏うブリシンガー。黒灰の怨念を燃やす器・アイゼンヘイム。その剣と剣が交差するたびに、衝撃で惑星の位置が僅かにずれる、大陸が軋む。
空間が破ける。視界が乱れる。人の言葉が通じない神の次元。
その中で、ブリシンガーは確かに感じていた。
押している。
一瞬ごとに、器の剣速が鈍り、反応が遅れる。アイゼンヘイム本人ではないからだ。剣には“魂”がない。それは、どこまで強化されても模倣の域を出ない。
そして、ブリシンガーは語る。
「お前は、確かに強い。だが…“彼”ではない。だから……俺の剣には、届かない!!」
神速の回転を伴った斬撃が、器の胸部を切り裂く。黒鉄が砕け、おびただしい量の血がそこから吹き出る。
どれほど強大な生物であろうと、何回も繰り返し死ぬぐらいの致命傷。器が膝をつきかけた、その瞬間だった。
この壮絶な戦場から少し離れた場所で倒れていた竜が一人。
「……まだだ……」
意識を失って倒れていたザイオスが、朦朧とした意識の中で、魔力の一部を狂った器へと送り込んだ。
「我ら竜族は…たとえ手段が歪んでいようとも…神に…逆らうために、生きている…!」
その魔力は、遠距離からアイゼンヘイムの器へと流れ込む。身体が再生し、オーラの質量が何倍も膨張。
「……くれてやるわけじゃない」
「だが、神を倒す力になるのなら……今だけは、貴様に賭けてやる……!」
ドクンと空間が鳴る。
周囲の大気が逆流し、地が震える。ザイオスの身体から、ドラゴン族の膨大な魔力が押し込まれる。
「この一撃で……ブリシンガーを……打ち砕け!!」
彼に力を分け終えたザイオスは、再び気を失った。
裂けた鎧が再生し、砕かれた剣が再構成される。その力は、先程までとは明らかに格が違った。
ザイオスの魔力が加わった今、器はかつてのアイゼンヘイムすら超える、災厄そのものへと変貌を遂げる。
巨大な剣を握り直し、再び両足で地に立つ。その姿は、最初にブリシンガーと相対した“地獄の騎士”の記憶を超える。
「…………」
言葉はない。だが、全身から滲み出る圧力が、この一撃がすべてを終わらせるものだと物語っていた。それを感じ取ったブリシンガーが構える。
「……来い。お前が全てを乗せた一撃なら、俺もすべてで応える」
二人の剣士が、最後の構えを取った。
周囲の空間が沈黙する。誰もが、音を出すことすら許されない領域。空が金と黒に分断され、まるで宇宙がその剣撃のためだけに存在していたかのような、絶対の構え。
「グオオオオオオオオオオ!!!」
アイゼンヘイムがこの世ならぬ雄叫びを上げ、真っ黒なオーラが彼の剣に集中し始める。
風が吹き荒れ、大気中に稲妻が走る。大地がまるで自壊するかのように揺れる。
ブリシンガーも最後の一撃を準備する。
身体から発する金色の光を全て剣に宿らせる。
それぞれの力を宿し、二人はお互いをキッと睨む。
そして金と黒の衝突が、世界そのものを貫いた。
衝撃で地球が大きく、ズン!と横に鈍く仰け反る。
潮が反転し、火山が爆発。天候が狂い、地球から発せられた衝撃で、月も震える。
激しい光と突風、地震を伴う天変地異を引き起こした二人の一撃の余波が静まる。
イシュカンダル帝都から遥か離れた場所で戦っていた場所では、まるで巨大隕石が衝突し、地球を貫通せんばかりの巨大なクレーター。その中心に二人はいた。
結果は―引き分け。
両者、お互いを背に剣を振り抜いたまま動きを止め、崩れ落ちた。
剣が地に突き刺さり、二人の戦士―ブリシンガーと器アイゼンヘイムは、それぞれの意思と誇りを刻んだまま、崩れ落ちた。
世界を覆っていた凄絶な戦いの轟音が消え、ただ風だけが吹いていた。神域の戦いの余波に晒された王都は、ほぼ壊滅状態だった。
そこに、満身創痍の姿で、一人の影が、瓦礫の山を踏みしめて現れた。
ゼルグだった。
翼は破れ、血に染まり、息も絶え絶え。だが、彼は倒れたブリシンガーのもとまで、這うように、重い足を引きずって歩いていた。
「……ブリシンガー……」
彼の声は、かすれていた。その瞳には、焦りも怒りもない。ただ、同胞の戦士を救いたいという一心だけがあった。
ゼルグは膝をつき、そっとブリシンガーの身体を肩に担ぐ。それだけで、骨が軋む音が聞こえそうなほど、彼の体は限界にあった。
だが、構わず言う。
「生きろ……ブリシンガー……お前がいなければ、終わらない……」
その姿は、かつてのドラゴン族の誇りではなかった。だが今だけは―誇りよりも、友情が勝っていた。
彼を担ぎ、ザラハート方面へと弱々しく飛んでいった。
爆風が過ぎ去ったあとの、あまりにも静かな戦場。
崩れた神殿の中。亀裂の走った石床の隅で、一人、男が倒れていた。
カイム・フェレン。
アイゼンヘイムの右腕。忠義を貫き、執念を抱え、誰よりも長く戦い続けた男。
彼の呼吸は浅く、腹部の傷からは止まることのない血が流れていた。
だが、その顔は、不思議と安らかだった。
(アイゼンヘイム様。私は……貴方を支えたくて、貴方の剣で在りたくて、貴方の意志を信じて、ここまで来たはず)
彼の剣は、正義のためでも、悪のためでもなかった。
ただ「主の意志」だと信じて振るい続けた。
だが―その先にあったのは、果たして本当に“正義”だったのだろうか?
(……何人の命を奪ってきた?)
自分に問う。
指は到底足りない。記憶も、途中から曖昧だ。数千、いや、数万を超える命を、奪ってきた。
それが本当に必要だった命だったかと問う。
(……違う)
(その多くは、勝手に選んだ犠牲だった……)
胸に、重い鉄塊のような痛みが落ちる。今、身動きすらとれぬ身体の中に、ただ静かに罪が染み渡っていく。
(こんな私に……生きる資格などあったのか……?)
(この手で、数多もの命を絶っておいて……)
その重さを背負って生きたつもりになっていただけだった。
血が喉を満たす。痛みはない。ただ、鈍く、重い。
「……ああ……何一つ、正しく出来なかった……ただ、主との約束を守った“つもり”でいた……」
「だが、今ようやく……間違っていたと……言える」
それが、彼にとっての贖罪だった。
誰かに赦されるのではなく―自分の過去を、否定することすら覚悟して、認めること。最後に残ったのは、アイゼンヘイムの姿を騙る、呪いの器。
その剣は、彼のものではなく、ただの破壊。ただの怨嗟。
ただの、空っぽ。
それを止めることも、できなかった。
(……それでも)
彼は見た。
金色の軌跡。剣を掲げ、最後まで立ち続けた男。
ブリシンガー。
あれほど憎んだ相手。主を斃した神の剣。だが、最後の最後で、自分を助けようとした。主を模した器と戦い、カイムの言葉に耳を傾け、自分が倒れた時に怒ってくれた。
ブリシンガーの剣には、あったのだ。あの人がかつて持っていた、誇り、意志、覚悟、そして慈しみ。
カイムは、薄れゆく意識の中で呟いた。
「あの人が……最後に、お前に敬意を見せたのは……やはり……間違いじゃなかったんだな……」
自分の剣は主の影に、しがみついていたに過ぎなかった。
「……だが……お前の剣には……希望がある……」
その口元に、ほんの僅かに笑みが浮かぶ。それは、生涯で一度も他人に見せたことのない―騎士としての鎧を脱いだ、静かな人の表情だった。
指先の感覚が、消えていく。遠くで風の音がする。
最後に彼が見たのは―どこまでも澄んだ、空。
今までの真っ黒で魔力が宿っている空ではなく、戦いで全てが吹き飛ばされ、燦々とした太陽が降り注ぐ真っ青な空。
それは、一度たりとも見上げる余裕のなかった“空”。
「…………ああ……ようやく……届いた……」
それが、彼の最後の言葉だった。
目を閉じる。呼吸が止まる。
カイム・フェレン。
地獄の騎士の最後の一人は、ただ、静かに散った。
だが、その胸には確かにあった。主への誇りと、最後に得た赦しの光。
それは、英雄ブリシンガーと、かつての英雄アイゼンヘイムの戦いの果てに残された、たった一つの贖いの証だった。




