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手綱と絆 ~追放された元公爵令嬢は気性難  作者: 甲斐 雫
第1章 ロートホルン城

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2 衣食住の「食」 自給自足と買い出し

 ロートホルン城に住むことになったイレーネだが、身分は居候である。

 翌朝から早速、イレーネは「自分の事は自分でする」を実践することになった。


 朝起きて、また借りた縞模様の木綿ドレスを身に着けたイレーネは部屋を出る。

 昨晩、エルオリーセが案内してくれた1階の部屋だ。昔使用人たちが使っていた場所だろうが、一応掃除もされていて寝具も悪くない。居候としては、悪くない部屋だと言えよう。


(殺風景な部屋だけど、我慢するしかないわね。ちゃんと寝られたし・・・でも、洗顔は?)

 王都の屋敷にいた頃は、次女が洗面道具と水を運んできてくれたのだ。

(どうしましょ・・・とりあえず、エルオリーセを探すしか無いわね)

 朝なので、城主である幽霊男爵は消えている。いたとしても、彼にはどうすれば良いかなんて聞きたくもないイレーネだ。



「エルオリーセ」

 厨房にいた彼女を見つけ、イレーネは声を掛ける。どう見ても年下な彼女なら、呼び捨てで構わないと思っていた。幽霊男爵に溺愛されているらしいエルオリーセに、少しばかり嫉妬しているのかもしれないが。

「あ、おはよう、イレーネ」

 穏やかに振り向いて返事をしたエルオリーセの方は、また呼び捨てに戻っている。昨晩は『さん付け』をしたが、居候だとはっきしりしたなら、それで良いと思っているのだろう。


「顔を、洗いたいのだけど・・・」

 イレーネの言葉に、エルオリーセは仕事の手を止めて頷く。

「井戸に案内するわね」


 厨房から庭に出るとそこは裏庭で、城ならどこにでもある井戸が、きちんと手入れされた状態で存在した。見たことはあるが使ったことは無いイレーネは、先ず水を汲むやりかたを教わるところから始めるしかない。

(・・・っ・・・面倒くさいっ!)

 たかが水を得るだけで、労力を強いられるのだという事を初めて知る。だが、そうしないと顔さえ洗えないのだ。

「厨房にある水は飲食用だから、顔や手足を洗いたい時は、ここでやってね。はい、これで拭いて。次からは、布も自分で用意して。置いてある場所は、後で教えるから」


『自分の事は自分でする』のは、実は大変なのだと思い知ったイレーネだ。

 けれど、それだけでは済まなかった。朝食用の卵を集めに行くと言うエルオリーセに付いて行ったイレーネは、とんでもない目に遭う。


「イヤァ~~! イッ、痛い! やめっ・・・た、助けてぇぇ~~」

 ケーーーッ! ケケッ! コケケケーーーーッ!!

 けたたましい鳴き声と共に、鶏の猛攻に遭うイレーネ。


 城の裏庭の奥に回った時、ふと藪の隙間に真っ白な卵を見つけたイレーネは、気軽にそれを拾い上げた。

 その瞬間、直ぐ近くにいた雄鶏が一羽、凄い勢いで何度も跳び蹴りをかまし、激しく突いてくる。

 たかが鶏と侮ることなかれ。

 イレーネはその場に尻もちをつき、必死に防戦するしかない。


「アルバ!」

 それに気づいたエルオリーセが、声を上げた。

 ウルフドッグの姿をとっているメタモルファルは、直ぐに駆けて来て状況を見て取ると、雄鶏とイレーネの間に身体を入れる。猛々しく攻撃していた雄鶏は、アルバの姿を認めると少し下がった。

「フッフッフッ・・・・フッ・・・フッ・・・」

 頭を下げて鼻を鳴らし、宥めるようなアルバに、雄鶏は胸をそびやかしながらもその場を去ってくれた。


「大丈夫? イレーネ」

 苦笑交じりの声に、イレーネは顔を真っ赤にして怒鳴った。

「何なのよ、アレ!」

「鶏って、結構荒々しいのよね。ここの鶏たちは、半野生だから特に」


 真冬以外は庭で、自由に暮らしている鶏たちは、ほぼ自給自足なのだと言う。城の外からやって来る獣たちからの脅威を、守っているのがアルバなのだ。


「鶏たちとはギブアンドテイクの関係で、安全を保障する代わりに、時々卵を貰ってるの。アルバが仲介をしてくれるから、私が取る分には問題ないのだけれど・・・イレーネを、不法侵入の卵泥棒だと思ったんじゃない?」

 面白そうに言うエルオリーセに、そう言う事は先に言って置いて欲しいと思うイレーネだ。それでも気を取り直して立ち上がり、スカートをパタパタと叩いた。背中に鶏の足形がくっきりと付いているのは、ご愛敬だ。

 軽く咳払いをして誤魔化したイレーネは、ふと疑問に思ったことを尋ねてみる。

「・・・仲介って・・・アルバは、鶏と話せるの?」


 幾つかの卵を集めながら、エルオリーセは気さくに答えた。

「メタモルファルは、動物との親和性が高いの。相手にもよるけど、心話(テレパシー)で意思を通じることも出来るわ」

「ふぅん・・・結構凄いのね」

 見直したようにアルバを見るイレーネだが、メタモルファルの方は素っ気なく横を向いてしまった。それはまるで、お前に褒められても嬉しくない、とでも言いたげだった。



 朝食は、昨日の朝とは違って、ちゃんと2人分の料理が出来た。

 身体を動かした後の食事は、本当に美味しい。イレーネは、これほど美味しく朝食を食べたことは無かったが、それでもふと浮かんだ疑問を口にする余裕はある。

「・・・ねぇ、いつも食べるのは2人だけだけど、アルバや男爵はどうしてるの?」

 いささかお行儀は悪いが、モグモグと口を動かしながら尋ねる。ここではマナーに煩い者はいないから、良いだろうと思う。

「男爵は幽霊だから、食事は必要ないし、アルバは屋敷の外で獲物を獲って食べているから大丈夫よ」

 ああ、成程と思うイレーネを、エルオリーセは食事の手を止めてジッと見た。


「凄く綺麗な髪の色ね。昨日の朝から、思っていたけど」

 素直な笑みを浮かべて言う彼女の言葉に、イレーネはパァッと明るい顔になる。


(久しぶりに、褒められたわ)

 イレーネは胸を張って、堂々と答えた。


「朝焼け色って言われていたわ。『朝焼け色の髪の公女』って呼ばれていましたのよ」


 オレンジがかったサーモンピンクの豊かな巻き毛は、イレーネの自慢だった。

 公爵令嬢だったころは、毎日必ず誰かから賛辞を受けていたほどだ。


 コロッと気分を変えたイレーネは、尊大な仕草で髪をかき上げる。

 そんな様子を見ながら、エルオリーセは唇を笑みの形に作り、黙って頷いていた。


 朝焼けは天気が崩れる予兆、って言うのは、わざわざ言わなくても良いわね。

 と、思いながら。



 その日は一日中、料理や掃除洗濯などについて、ひたすら教わり続けたイレーネだった。

 一番衝撃的だったのは、アルバが山で獲って来た野生の鶉2羽を、夕食用に処理すること。頭を落として血抜きをした後の鶉を渡されて、羽毛を全て毟り取るという作業だった。


(何で、私がこんな・・・惨いことを・・・)

 真っ青な顔で、それでも頑張るイレーネに、エルオリーセが言う。

「命をいただくのだから、無駄には出来ないのよ。羽も利用するから、丁寧にむしってね」

 無益な殺生にならないように、と言う彼女のポリシーが解る。

 イレーネも何となくそれを理解して、これが夕飯の『鳥のソテー』になるのだからと自分に言い聞かせて作業を完遂した。

 夕飯で、彼女の食欲が落ちなかったのは、肝が据わっていると言えるのかもしれない。



 それから、数日が経った。

 イレーネは失敗しながらも、少しずつ居候生活に慣れて来る。そしてそんな中、幾つか解ったことがあった。


 幽霊男爵オリビエ・ローレンス・ロートホルンに関しては、姿を見せるのは日没から夜明けまでの時間だけ。日中決して出てこないのは、幽霊なら当然だろうけれど、律儀に陽が沈むと同時に姿を現す。

 どうやら少しでも長く、溺愛するエルオリーセと一緒にいたいからだろう。

 日没前に夕食を済ませ、後片付けを終えると、イレーネは自室に戻る。2人の邪魔はするなと言われていたからだが、邪魔をしたらどうなるかを思い知らされたからでもある。


 その日、イレーネは自室に戻ろうとして、エルオリーセから借りていた本を返そうと思い立つ。『豚なら食べれるひと皿の料理』という人を馬鹿にしたようなタイトルの料理本だが、薄いのでもう読み終わっていた。

(次はもう少し、マシな料理本を借りたいわ)

 そう心の中で呟くイレーネだが、豚もそっぽを向くような料理を作った事実は確かだ。


「・・・エルオリーセ?」

 厨房にいなかった彼女を探して、恐怖の一夜を過ごしたあの部屋のドアをそっと開けた。あれ以来、一度もポルダーガイスト現象には遭遇していないし、その原因も解っているから、今はもう普通の部屋だ。

 居心地よく設えられてている部屋は、男爵とエルオリーセ、そしてアルバの生活の中心で、居間のように使われている。


 何の気なしに部屋に入った途端、目に飛び込んできたのは濃厚なキスシーンだった。

「あっ・・・こ、これは失礼を致しましたわ」

 思わず宮廷作法の言葉を掛けたが、目元を隠す扇は持っていない。仕方なく、持っていた本を顔の前に翳す。『豚なら食べれるひと皿の料理』を。


 けれど次の瞬間、幽霊男爵はパッと立ち上がり、ソファーやテーブルを通過してイレーネの前に立った。

 流石は幽霊。家具など通り抜けられるし、壁だって同然なのだろう。

「邪魔はするな、と言ったはずだ!」

 冷ややかな怒りが、とにかく恐ろしい。

「・・・す、直ぐに出てゆきますので・・・」

 ごめんなさい、が直ぐに出てこないのは、つまりは言いなれていないからだろう。

 だが次の瞬間、身体が動かなくなり床から数センチ引っ張り上げられた。


(・・・・ひえっ・・・)

 声も出せないイレーネに、幽霊男爵は酷薄な笑みを浮かべて告げた。


「ポルダーガイストを覚えているか?あれは全部、私がやっていることだ。その気になれば、お前の首をへし折ることも出来ると覚えておけ」


 重い鎧さえ動かせるくらいのパワーがある、という事だ。意のままに、相当の重量がある物体を動かせる力がある。

 イレーネは流石に真っ青になって、必死にコクコクと頷くしかない。


「オリビエ・・・やり過ぎ」

 エルオリーセの声でようやく解放されたイレーネは、脱兎のごとく居間から逃げ出したのだった。



 そして、メタモルファルであるアルバの事も、少しずつ解って来た。

 イレーネが居候となってから暫くは、常に警戒している態度で、短時間城の外へ狩りをしに行く時以外は、彼女を見張っていた。

 けれど今は、とりあえず危険はないと判断したのか、警戒態勢は解除している。全く友好的では無く、半ば無視している状態だ。

 イレーネとしては、メタモルファルという獣に対する興味もあって、エルオリーセに尋ねてみたことがある。


「ねぇ、エルオリーセはアルバの飼い主になるの?」

 エルオリーセは微かに笑って、穏やかに説明をした。

「いいえ、そういう関係じゃないわ。メタモルファルは、自分でパートナーを決めるの。決めたらずっと、そのパートナーのために力を使うの」

「・・・力?」

「ええ、『癒しの獣』って言う国もあるわ。そうね、この国だと『癒す者』の能力と同じようなものかしら。聞くところによると、『癒す者』の力は対象が人間だけだけど、メタモルファルの力は、多分全ての動物に有効だと思う」

「ええっ!」


 獣、と言うか魔物に、自分と同じような、いやそれ以上の能力があるとは思いも寄らなかった。イレーネとしては、何だか自分の存在価値が低くなったような気がする。そうでなくとも、シュバルグラン王国の貴族女性が持つ『癒しの力』に関しては、さほど能力が高くないと自覚してもいるのだ。

(これじゃ、居候からのランクアップが、ますます難しくなったじゃないの)

 溜息をつくしかない、イレーネなのだ。


 そしてエルオリーセに関しては、一番近くにいる存在であるにも関わらず、解らないことが多かった。

 幽霊男爵に溺愛され、メタモルファルに愛されている彼女に、嫉妬するような気持もある。けれど、エルオリーセには様々なサポートを受けており、苛立ちをぶつけるような事さえ出来ない。

 軽い嫌味や我儘さえ、上手にあしらわれている気もした。

(何かこう・・・エルオリーセって、凄く大人って感じがするのよね)

 自分より2つ3つ年下ではないかと思うが、雰囲気からして老成していると思う。

 そもそも、彼女が何故、このロートホルン城にいるのかも解っていない。


(でもまぁ、そのうち解るでしょう。今のところ、放り出されるような感じでもないしね)

 イレーネは、居候生活に馴染んできていた。



 そんなある朝、朝食を食べながらエルオリーセが言った。

「イレーネ、今日は買い出しに行くから、一緒に来て」

「えっ! いいの?」

 城の秘密を知っている人間として、口封じを免れた居候の身分としては、ある意味外に出られない状況だと思っていたイレーネだ。

「買い出しに行くって言ったら、連れて行けってオリビエが言ったの。日中、好き勝手に城の中をうろつかれたくないって」


 エルオリーセとアルバが買い出しに行ってしまったら、日中は出て来れない幽霊男爵とイレーネの2人きりになってしまう。その気になれば、いくらでも逃亡できるわけだから、監視の意味でもあるのだろう。


「あ、そう言う事ね。解ったわ」

 久しぶりに外へ出られるのは、確かに嬉しくもある。イレーネは素直に嬉しさを表した。


 イレーネの服装は、縦じま模様の平民服。エルオリーセは、鹿革のズボンと深緑色の上着だった。同じ色のキャスケットを被る姿は、採集職の少年のように見える。

 そしてエルオリーセは、思い出したようにポケットから、古く色褪せた赤いリボンを取り出して、イレーネに差し出した。

「これ、使って。やっと見つけたの。髪は縛っておいた方が、イイでしょ?あちこち引っ掛けると、痛むしね」

 自慢の髪が痛んだりするのは嫌だと思うイレーネは、頷いて受け取り、綺麗な朝焼け色の髪を後ろで束ねる。けれど、ありがとうの言葉は出てこない。この程度のプレゼントでは、お礼を言うほどの価値は無いと思っていた。


 2人は城を出て裏手に回ると、茂みの中にある洞窟に入る。

「・・・何で、洞窟?」

 松明を持つエルオリーセの後に続き、おっかなびっくり歩くイレーネは、こんな場所を歩くのも初めてだ。

「ロートホルン城の、隠し通路の一部よ。古い城には、必ずあるわ。城の地下からも来れるけど、こっちの方が楽なの。麓に出るには、一番近道だしね」


 最初の日に、ここを使わなかったのは、秘密の抜け道的存在だからだろう。

 という事は、それを教えても良いくらいには信用されたのかもしれない。それは嬉しいことだが、足元不案内でイレーネはただ息が上がってゆく。


「・・・ここから先は、自然にできた鍾乳洞ね。ヒカリゴケも生えているし、歩けるように細い道が出来ているから歩きやすくなるわ」

 中程度の規模の鍾乳洞は、小さな流れや鍾乳石もあって、幻想的な光景だ。けれど、それらを楽しむ余裕は、イレーネには無かった。


 やがて鍾乳洞から細い脇道に入り、ほどなくして出口に着く。生い茂った蔦をかき分けて外に出ると、そこはもう山の麓だった。蔦が出入口を隠しているので、知らないものはここに道があることさえ解らないだろう。


「こっち」

 エルオリーセは、少し歩いた先の崖下の空き地にイレーネを導いた。そこにも同じように蔦に隠された洞穴があり、中には荷車が1台置いてある。

「アルバ、お願いね」

 荷車を引っ張り出すと、エルオリーセは傍らのメタモルファルに声を掛けた。


 軽く頷いたアルバの全身が、淡い光に包まれて輪郭がぼやける。

 そして次の瞬間、ウルフドッグが立っていた場所に1頭のロバが現れた。


 ロバに姿を変えたアルバが引く荷車の隣で、イレーネは不満そうに呟く。

「乗せてくれたって良いのに・・・」

 車輪が付いていれば、それは常に自分が乗るものという認識の、元公爵令嬢である。

 けれどエルオリーセは、聞こえないふりで黙って歩き続けた。

 これも、鍛錬で教育w



 2時間ほど歩くと、小さな村に着いた。

 長閑な田園風景の中にある村は、小さいながらも治安が良さそうで、のんびりとした空気に包まれている。

「スレーブ村よ。食料品なんかの買い出しで来る村の1つ。今日はここで、調味料と小麦粉を買う予定」

 同じ場所で、買い出しを続けているわけでは無いらしい。覚えられたりすれば、幽霊城に住んでいると言う秘密が、どこからバレるとも限らないからだろう。

「田舎の村ねぇ・・・見たことは何度もあるけど」

 イレーネは、つまらなそうだ。

 公爵令嬢時代、旅行などでこういった村は何度も通過したことがある。馬車の窓から見る程度だが、面白そうなものは全くなかった。


 エルオリーセは、ロバのアルバと荷車を置いて、1軒の食料品店に入ると、手早く買い物を終えた。そして丁度昼時なので、昼食をとってから帰ろうと提案する。

 確かに空腹を覚えていたイレーネに、否やは無かった。



 テラス席もある1軒の食堂は、村人と数少ない旅人が利用する鄙びた佇まいだった。

 エルオリーセは、店の前に荷車とロバを待たせ、イレーネをテラス席に座らせて中に入る。そして直ぐに、丸いパンに総菜を挟んだ物と柑橘系の飲み物を2人前持って帰って来る。

「結構美味しいから、食べて。帰りは登りになるから」

 酸味のあるドレッシングで和えた野菜と、薄く切ったソーセージが数枚入ったパンは、豪華では無いが確かに美味しい。ライムらしい味と香りがする飲み物は、薄いが量はたっぷりあった。


「・・・エルって呼ぶことにするわ」

 パンを食べながら、イレーネが唐突に言った。

「え? 私のこと?」

「そうよ。エルオリーセって、長いし」

 どう見ても平民にしか思えない彼女が、貴族風でエレガントな名前なのが、何となく気に食わないイレーネだった。色々な点で劣等感しか感じない相手に、無意識にマウントを取りたかったのかもしれない。

「そう? 構わないけど・・・それじゃ、私も縮めて呼んだ方がいいかしら? 『イレ』とか『イーネ』とか『イネ』とか」


(何よ、それ! イレーネは長くないじゃない)

 ムッとするイレーネだが、エルオリーセが上げた候補はどれも酷いと思わざるを得ない。

『イレ(入れ)?』『イーネ(いいね)?』『イネ(稲)?』

 どれも却下よ、言いかけた時、ふいに後ろから声が掛かった。


「なぁ、アンタ。『朝焼け色の髪の公女』じゃねぇか?」

 声の主は、旅の傭兵風の若い男だった。


 無造作に刈り上げられた固そうな黒髪と、日焼けした肌。黒い眼は意志が強そうで、悪い男には見えない。けれどイレーネは、自分の髪を掴んでバッと立ち上がった。

 その様子を見て、エルオリーセは何かを察して同じく立ち上がる。

「イネさん、行こう」

 咄嗟に本名で呼びかけない方が良いと思ったのだが、出た呼びかけはそれだ。

 けれど、それに文句を言っている場合では無い。大急ぎで席を立って荷車に戻る2人の背中に、男の声が投げかけられた。

「アンタ、探されてるぜ。手配書は出てないが、金品を盗んで逃亡したって話で・・・」



 城へ帰る途中、エルオリーセは自分のキャスケットをイレーネに渡した。事情は知らないが、その髪の色を晒して歩かない方が良いと判断したのだ。イレーネは黙って髪を帽子の中に押し込んだが、そのままずっと何も話さない。


 洞穴の前まで来ると、荷物を降ろす。買って来た小麦粉の袋は大きくて、それが3つもあった。

 荷車だけを洞穴に入れると、アルバは再び変身をする。

 今度は、巨大な鷲の姿だ。

「荷物が多い時は、アルバに運んでもらうの。来た道を担いで運び上げるのは、大変でしょ?」

 大荷物は空輸してもらって、アルバには先に帰って貰うと言うわけだ。

 イレーネはあからさまにホッとして、エルオリーセと2人で洞窟に入り、坂道を登り始めた。


 洞窟内の濡れた石段を歩きながら、イレーネはずっと考えていた。

 俯きがちに歩く彼女を気に掛けながら、エルオリーセは松明を掲げて先を歩く。アルバがいない今は、気をつけなければいけないと思っていた。


 けれど、懸念していた通り、イレーネは足を滑らせてしまう。

「・・・あっ!」

 その瞬間、エルオリーセは松明を捨てて、イレーネに手を伸ばした。

 イレーネの方も、咄嗟に手を伸ばしたお陰で、何とか掴むことが出来たエルオリーセだが、流石にその体重を支えて引き上げることは出来ない。

 ズザザザザッ!

 と、音を立てて、2人は鍾乳石の斜面を滑り落ちた。


 大した高さは無かったが、イレーネを庇ったせいで、エルオリーセは左腕に裂傷を作ってしまう。

「だ、大丈夫っ⁉」

 深緑色の上着が裂け、血が滲んできていた。

「うん・・・大丈夫。鋭い岩があったから、引っ掛けちゃった。とりあえず、上に上がりましょ」

 腕を押さえてはいるが、痛みは堪えられているらしい。イレーネはホッとして、這うように斜面を上がった。


「私に任せなさい。ちゃんと『癒しの力』はあるんだから」

 狭い道に上がると直ぐに、イレーネはエルオリーセの左腕に手をかざす。ここで名誉挽回とまではいかないが、役に立つことを見せておきたかった。

「えっ・・・あっ、ちょっと待って」

 慌てたように言うエルオリーセに構わず、イレーネは集中して怪我の治療を始めた。

 けれど、いきなり怪我人は身体を強張らせ、声を上げる。


「っう!・・・ぅあぁっ!」

「えっ! な、何で?」


 彼女の左腕は、真っ赤に腫れ上がり、鮮血が噴出していた。


「何で? どうして?」

 イレーネは狼狽した。

(久しぶりだったから? 確かに少し下手だけど、このくらいの傷なら治せるはずなのに)

 オロオロしながら手を引いて呆然とするイレーネに、エルオリーセは痛みを堪えながら、何とか笑顔を作った。

「大丈夫・・・だから。直ぐに・・・アルバが来てくれる・・・安心して」

 涙目のイレーネに、エルオリーセは優しく言った。

「メタモルファルは・・・離れていても、パートナーの状態が・・・解るから」


 イレーネは、それでも、少しでも何とかしたくて、被っていたキャスケットを脱いだ。

 ただ、エルオリーセに与えてしまった苦痛を何とかしたいとしか考えていない。そして髪を縛っていたリボンを解き、彼女の傍にしゃがみこむと、上腕部にそれを巻いた。

「少しでも、血止めになるから・・・」



 イレーネが学生時代を過ごした聖別院付属の学院では、『癒しの力』の修行以外にも、応急手当の方法も教える。力及ばず完全に治癒できなかった場合の代替処置だ。イレーネはその授業も苦手だったが、それでもある程度の知識はある。

 一所懸命思い出しながらリボンを縛るイレーネに、エルオリーセが呟く。

「リボンが、汚れてしまうわね」

 イレーネは反射的に答えた。

「古ぼけたリボンなんて、惜しくは無いわ」

 けれどそれは、エルオリーセが探し出してくれた物なのだと思い出す。

「・・・・・・」

 黙ってしまったイレーネに、そうねと呟いて薄っすら笑ったエルオリーセだ。けれどイレーネは、キュッと唇を噛み締めてから、絞り出すように言った。


「でも・・・痛い目に遭わせてしまって・・・ごめんなさい」


 エルオリーセは、一瞬目を見開いた。

 初めて聞いた、イレーネの『ごめんなさい』だ。

「イレーネ、気にしないで。貴女は、知らなかっただけだから」

「え?」

 何を知らなかったのか、と問い返す前に、道の上の方から、アルバが全速力で駆け下りて来た。


『癒しの獣』は、パートナーに駆け寄ると、優しく傷を舐める。痛みと出血は直ぐに抑えられ、ウルフドッグはその大きな背にエルオリーセを乗せて、坂道を静かに上がった。

 イレーネはその後ろから、借りているキャスケットをギュッと胸に抱きしめて、黙々と歩いた。



 居間のソファーにエルオリーセを降ろしたアルバは、彼女の左腕に鼻先を寄せて、状態を確認する。その傍で、イレーネは眉を顰めて立ち尽くしていた。


「エルオリーセっ!」

 その時、男爵が姿を現す。日没になっていたらしい。

 居間に漂う微かな血の臭いと、ソファーにいるエルオリーセの様子に気付くと、彼女の名を叫んで一足飛びに駆け寄った。

「大丈夫かっ!」


 イレーネは身も縮む思いで、何とか言葉を絞り出す。

「あ・・・あの・・・」

 幽霊男爵の纏う空気が、一瞬で変わった。

 白皙の美青年幽霊は、怒りと腹立たしさ、そして悔しさが入り混じったオーラを爆発させる。

「目障りだ! 出ていけっ!」


 イレーネの身体が、突き飛ばされたように後ろへ弾かれる。そして足元に、陶器の水差しが飛んできて砕け散った。

 イレーネは、後も見ずに部屋を飛び出して行った。



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