2 衣食住の「食」 自給自足と買い出し
ロートホルン城に住むことになったイレーネだが、身分は居候である。
翌朝から早速、イレーネは「自分の事は自分でする」を実践することになった。
朝起きて、また借りた縞模様の木綿ドレスを身に着けたイレーネは部屋を出る。
昨晩、エルオリーセが案内してくれた1階の部屋だ。昔使用人たちが使っていた場所だろうが、一応掃除もされていて寝具も悪くない。居候としては、悪くない部屋だと言えよう。
(殺風景な部屋だけど、我慢するしかないわね。ちゃんと寝られたし・・・でも、洗顔は?)
王都の屋敷にいた頃は、次女が洗面道具と水を運んできてくれたのだ。
(どうしましょ・・・とりあえず、エルオリーセを探すしか無いわね)
朝なので、城主である幽霊男爵は消えている。いたとしても、彼にはどうすれば良いかなんて聞きたくもないイレーネだ。
「エルオリーセ」
厨房にいた彼女を見つけ、イレーネは声を掛ける。どう見ても年下な彼女なら、呼び捨てで構わないと思っていた。幽霊男爵に溺愛されているらしいエルオリーセに、少しばかり嫉妬しているのかもしれないが。
「あ、おはよう、イレーネ」
穏やかに振り向いて返事をしたエルオリーセの方は、また呼び捨てに戻っている。昨晩は『さん付け』をしたが、居候だとはっきしりしたなら、それで良いと思っているのだろう。
「顔を、洗いたいのだけど・・・」
イレーネの言葉に、エルオリーセは仕事の手を止めて頷く。
「井戸に案内するわね」
厨房から庭に出るとそこは裏庭で、城ならどこにでもある井戸が、きちんと手入れされた状態で存在した。見たことはあるが使ったことは無いイレーネは、先ず水を汲むやりかたを教わるところから始めるしかない。
(・・・っ・・・面倒くさいっ!)
たかが水を得るだけで、労力を強いられるのだという事を初めて知る。だが、そうしないと顔さえ洗えないのだ。
「厨房にある水は飲食用だから、顔や手足を洗いたい時は、ここでやってね。はい、これで拭いて。次からは、布も自分で用意して。置いてある場所は、後で教えるから」
『自分の事は自分でする』のは、実は大変なのだと思い知ったイレーネだ。
けれど、それだけでは済まなかった。朝食用の卵を集めに行くと言うエルオリーセに付いて行ったイレーネは、とんでもない目に遭う。
「イヤァ~~! イッ、痛い! やめっ・・・た、助けてぇぇ~~」
ケーーーッ! ケケッ! コケケケーーーーッ!!
けたたましい鳴き声と共に、鶏の猛攻に遭うイレーネ。
城の裏庭の奥に回った時、ふと藪の隙間に真っ白な卵を見つけたイレーネは、気軽にそれを拾い上げた。
その瞬間、直ぐ近くにいた雄鶏が一羽、凄い勢いで何度も跳び蹴りをかまし、激しく突いてくる。
たかが鶏と侮ることなかれ。
イレーネはその場に尻もちをつき、必死に防戦するしかない。
「アルバ!」
それに気づいたエルオリーセが、声を上げた。
ウルフドッグの姿をとっているメタモルファルは、直ぐに駆けて来て状況を見て取ると、雄鶏とイレーネの間に身体を入れる。猛々しく攻撃していた雄鶏は、アルバの姿を認めると少し下がった。
「フッフッフッ・・・・フッ・・・フッ・・・」
頭を下げて鼻を鳴らし、宥めるようなアルバに、雄鶏は胸をそびやかしながらもその場を去ってくれた。
「大丈夫? イレーネ」
苦笑交じりの声に、イレーネは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「何なのよ、アレ!」
「鶏って、結構荒々しいのよね。ここの鶏たちは、半野生だから特に」
真冬以外は庭で、自由に暮らしている鶏たちは、ほぼ自給自足なのだと言う。城の外からやって来る獣たちからの脅威を、守っているのがアルバなのだ。
「鶏たちとはギブアンドテイクの関係で、安全を保障する代わりに、時々卵を貰ってるの。アルバが仲介をしてくれるから、私が取る分には問題ないのだけれど・・・イレーネを、不法侵入の卵泥棒だと思ったんじゃない?」
面白そうに言うエルオリーセに、そう言う事は先に言って置いて欲しいと思うイレーネだ。それでも気を取り直して立ち上がり、スカートをパタパタと叩いた。背中に鶏の足形がくっきりと付いているのは、ご愛敬だ。
軽く咳払いをして誤魔化したイレーネは、ふと疑問に思ったことを尋ねてみる。
「・・・仲介って・・・アルバは、鶏と話せるの?」
幾つかの卵を集めながら、エルオリーセは気さくに答えた。
「メタモルファルは、動物との親和性が高いの。相手にもよるけど、心話で意思を通じることも出来るわ」
「ふぅん・・・結構凄いのね」
見直したようにアルバを見るイレーネだが、メタモルファルの方は素っ気なく横を向いてしまった。それはまるで、お前に褒められても嬉しくない、とでも言いたげだった。
朝食は、昨日の朝とは違って、ちゃんと2人分の料理が出来た。
身体を動かした後の食事は、本当に美味しい。イレーネは、これほど美味しく朝食を食べたことは無かったが、それでもふと浮かんだ疑問を口にする余裕はある。
「・・・ねぇ、いつも食べるのは2人だけだけど、アルバや男爵はどうしてるの?」
いささかお行儀は悪いが、モグモグと口を動かしながら尋ねる。ここではマナーに煩い者はいないから、良いだろうと思う。
「男爵は幽霊だから、食事は必要ないし、アルバは屋敷の外で獲物を獲って食べているから大丈夫よ」
ああ、成程と思うイレーネを、エルオリーセは食事の手を止めてジッと見た。
「凄く綺麗な髪の色ね。昨日の朝から、思っていたけど」
素直な笑みを浮かべて言う彼女の言葉に、イレーネはパァッと明るい顔になる。
(久しぶりに、褒められたわ)
イレーネは胸を張って、堂々と答えた。
「朝焼け色って言われていたわ。『朝焼け色の髪の公女』って呼ばれていましたのよ」
オレンジがかったサーモンピンクの豊かな巻き毛は、イレーネの自慢だった。
公爵令嬢だったころは、毎日必ず誰かから賛辞を受けていたほどだ。
コロッと気分を変えたイレーネは、尊大な仕草で髪をかき上げる。
そんな様子を見ながら、エルオリーセは唇を笑みの形に作り、黙って頷いていた。
朝焼けは天気が崩れる予兆、って言うのは、わざわざ言わなくても良いわね。
と、思いながら。
その日は一日中、料理や掃除洗濯などについて、ひたすら教わり続けたイレーネだった。
一番衝撃的だったのは、アルバが山で獲って来た野生の鶉2羽を、夕食用に処理すること。頭を落として血抜きをした後の鶉を渡されて、羽毛を全て毟り取るという作業だった。
(何で、私がこんな・・・惨いことを・・・)
真っ青な顔で、それでも頑張るイレーネに、エルオリーセが言う。
「命をいただくのだから、無駄には出来ないのよ。羽も利用するから、丁寧にむしってね」
無益な殺生にならないように、と言う彼女のポリシーが解る。
イレーネも何となくそれを理解して、これが夕飯の『鳥のソテー』になるのだからと自分に言い聞かせて作業を完遂した。
夕飯で、彼女の食欲が落ちなかったのは、肝が据わっていると言えるのかもしれない。
それから、数日が経った。
イレーネは失敗しながらも、少しずつ居候生活に慣れて来る。そしてそんな中、幾つか解ったことがあった。
幽霊男爵オリビエ・ローレンス・ロートホルンに関しては、姿を見せるのは日没から夜明けまでの時間だけ。日中決して出てこないのは、幽霊なら当然だろうけれど、律儀に陽が沈むと同時に姿を現す。
どうやら少しでも長く、溺愛するエルオリーセと一緒にいたいからだろう。
日没前に夕食を済ませ、後片付けを終えると、イレーネは自室に戻る。2人の邪魔はするなと言われていたからだが、邪魔をしたらどうなるかを思い知らされたからでもある。
その日、イレーネは自室に戻ろうとして、エルオリーセから借りていた本を返そうと思い立つ。『豚なら食べれるひと皿の料理』という人を馬鹿にしたようなタイトルの料理本だが、薄いのでもう読み終わっていた。
(次はもう少し、マシな料理本を借りたいわ)
そう心の中で呟くイレーネだが、豚もそっぽを向くような料理を作った事実は確かだ。
「・・・エルオリーセ?」
厨房にいなかった彼女を探して、恐怖の一夜を過ごしたあの部屋のドアをそっと開けた。あれ以来、一度もポルダーガイスト現象には遭遇していないし、その原因も解っているから、今はもう普通の部屋だ。
居心地よく設えられてている部屋は、男爵とエルオリーセ、そしてアルバの生活の中心で、居間のように使われている。
何の気なしに部屋に入った途端、目に飛び込んできたのは濃厚なキスシーンだった。
「あっ・・・こ、これは失礼を致しましたわ」
思わず宮廷作法の言葉を掛けたが、目元を隠す扇は持っていない。仕方なく、持っていた本を顔の前に翳す。『豚なら食べれるひと皿の料理』を。
けれど次の瞬間、幽霊男爵はパッと立ち上がり、ソファーやテーブルを通過してイレーネの前に立った。
流石は幽霊。家具など通り抜けられるし、壁だって同然なのだろう。
「邪魔はするな、と言ったはずだ!」
冷ややかな怒りが、とにかく恐ろしい。
「・・・す、直ぐに出てゆきますので・・・」
ごめんなさい、が直ぐに出てこないのは、つまりは言いなれていないからだろう。
だが次の瞬間、身体が動かなくなり床から数センチ引っ張り上げられた。
(・・・・ひえっ・・・)
声も出せないイレーネに、幽霊男爵は酷薄な笑みを浮かべて告げた。
「ポルダーガイストを覚えているか?あれは全部、私がやっていることだ。その気になれば、お前の首をへし折ることも出来ると覚えておけ」
重い鎧さえ動かせるくらいのパワーがある、という事だ。意のままに、相当の重量がある物体を動かせる力がある。
イレーネは流石に真っ青になって、必死にコクコクと頷くしかない。
「オリビエ・・・やり過ぎ」
エルオリーセの声でようやく解放されたイレーネは、脱兎のごとく居間から逃げ出したのだった。
そして、メタモルファルであるアルバの事も、少しずつ解って来た。
イレーネが居候となってから暫くは、常に警戒している態度で、短時間城の外へ狩りをしに行く時以外は、彼女を見張っていた。
けれど今は、とりあえず危険はないと判断したのか、警戒態勢は解除している。全く友好的では無く、半ば無視している状態だ。
イレーネとしては、メタモルファルという獣に対する興味もあって、エルオリーセに尋ねてみたことがある。
「ねぇ、エルオリーセはアルバの飼い主になるの?」
エルオリーセは微かに笑って、穏やかに説明をした。
「いいえ、そういう関係じゃないわ。メタモルファルは、自分でパートナーを決めるの。決めたらずっと、そのパートナーのために力を使うの」
「・・・力?」
「ええ、『癒しの獣』って言う国もあるわ。そうね、この国だと『癒す者』の能力と同じようなものかしら。聞くところによると、『癒す者』の力は対象が人間だけだけど、メタモルファルの力は、多分全ての動物に有効だと思う」
「ええっ!」
獣、と言うか魔物に、自分と同じような、いやそれ以上の能力があるとは思いも寄らなかった。イレーネとしては、何だか自分の存在価値が低くなったような気がする。そうでなくとも、シュバルグラン王国の貴族女性が持つ『癒しの力』に関しては、さほど能力が高くないと自覚してもいるのだ。
(これじゃ、居候からのランクアップが、ますます難しくなったじゃないの)
溜息をつくしかない、イレーネなのだ。
そしてエルオリーセに関しては、一番近くにいる存在であるにも関わらず、解らないことが多かった。
幽霊男爵に溺愛され、メタモルファルに愛されている彼女に、嫉妬するような気持もある。けれど、エルオリーセには様々なサポートを受けており、苛立ちをぶつけるような事さえ出来ない。
軽い嫌味や我儘さえ、上手にあしらわれている気もした。
(何かこう・・・エルオリーセって、凄く大人って感じがするのよね)
自分より2つ3つ年下ではないかと思うが、雰囲気からして老成していると思う。
そもそも、彼女が何故、このロートホルン城にいるのかも解っていない。
(でもまぁ、そのうち解るでしょう。今のところ、放り出されるような感じでもないしね)
イレーネは、居候生活に馴染んできていた。
そんなある朝、朝食を食べながらエルオリーセが言った。
「イレーネ、今日は買い出しに行くから、一緒に来て」
「えっ! いいの?」
城の秘密を知っている人間として、口封じを免れた居候の身分としては、ある意味外に出られない状況だと思っていたイレーネだ。
「買い出しに行くって言ったら、連れて行けってオリビエが言ったの。日中、好き勝手に城の中をうろつかれたくないって」
エルオリーセとアルバが買い出しに行ってしまったら、日中は出て来れない幽霊男爵とイレーネの2人きりになってしまう。その気になれば、いくらでも逃亡できるわけだから、監視の意味でもあるのだろう。
「あ、そう言う事ね。解ったわ」
久しぶりに外へ出られるのは、確かに嬉しくもある。イレーネは素直に嬉しさを表した。
イレーネの服装は、縦じま模様の平民服。エルオリーセは、鹿革のズボンと深緑色の上着だった。同じ色のキャスケットを被る姿は、採集職の少年のように見える。
そしてエルオリーセは、思い出したようにポケットから、古く色褪せた赤いリボンを取り出して、イレーネに差し出した。
「これ、使って。やっと見つけたの。髪は縛っておいた方が、イイでしょ?あちこち引っ掛けると、痛むしね」
自慢の髪が痛んだりするのは嫌だと思うイレーネは、頷いて受け取り、綺麗な朝焼け色の髪を後ろで束ねる。けれど、ありがとうの言葉は出てこない。この程度のプレゼントでは、お礼を言うほどの価値は無いと思っていた。
2人は城を出て裏手に回ると、茂みの中にある洞窟に入る。
「・・・何で、洞窟?」
松明を持つエルオリーセの後に続き、おっかなびっくり歩くイレーネは、こんな場所を歩くのも初めてだ。
「ロートホルン城の、隠し通路の一部よ。古い城には、必ずあるわ。城の地下からも来れるけど、こっちの方が楽なの。麓に出るには、一番近道だしね」
最初の日に、ここを使わなかったのは、秘密の抜け道的存在だからだろう。
という事は、それを教えても良いくらいには信用されたのかもしれない。それは嬉しいことだが、足元不案内でイレーネはただ息が上がってゆく。
「・・・ここから先は、自然にできた鍾乳洞ね。ヒカリゴケも生えているし、歩けるように細い道が出来ているから歩きやすくなるわ」
中程度の規模の鍾乳洞は、小さな流れや鍾乳石もあって、幻想的な光景だ。けれど、それらを楽しむ余裕は、イレーネには無かった。
やがて鍾乳洞から細い脇道に入り、ほどなくして出口に着く。生い茂った蔦をかき分けて外に出ると、そこはもう山の麓だった。蔦が出入口を隠しているので、知らないものはここに道があることさえ解らないだろう。
「こっち」
エルオリーセは、少し歩いた先の崖下の空き地にイレーネを導いた。そこにも同じように蔦に隠された洞穴があり、中には荷車が1台置いてある。
「アルバ、お願いね」
荷車を引っ張り出すと、エルオリーセは傍らのメタモルファルに声を掛けた。
軽く頷いたアルバの全身が、淡い光に包まれて輪郭がぼやける。
そして次の瞬間、ウルフドッグが立っていた場所に1頭のロバが現れた。
ロバに姿を変えたアルバが引く荷車の隣で、イレーネは不満そうに呟く。
「乗せてくれたって良いのに・・・」
車輪が付いていれば、それは常に自分が乗るものという認識の、元公爵令嬢である。
けれどエルオリーセは、聞こえないふりで黙って歩き続けた。
これも、鍛錬で教育w
2時間ほど歩くと、小さな村に着いた。
長閑な田園風景の中にある村は、小さいながらも治安が良さそうで、のんびりとした空気に包まれている。
「スレーブ村よ。食料品なんかの買い出しで来る村の1つ。今日はここで、調味料と小麦粉を買う予定」
同じ場所で、買い出しを続けているわけでは無いらしい。覚えられたりすれば、幽霊城に住んでいると言う秘密が、どこからバレるとも限らないからだろう。
「田舎の村ねぇ・・・見たことは何度もあるけど」
イレーネは、つまらなそうだ。
公爵令嬢時代、旅行などでこういった村は何度も通過したことがある。馬車の窓から見る程度だが、面白そうなものは全くなかった。
エルオリーセは、ロバのアルバと荷車を置いて、1軒の食料品店に入ると、手早く買い物を終えた。そして丁度昼時なので、昼食をとってから帰ろうと提案する。
確かに空腹を覚えていたイレーネに、否やは無かった。
テラス席もある1軒の食堂は、村人と数少ない旅人が利用する鄙びた佇まいだった。
エルオリーセは、店の前に荷車とロバを待たせ、イレーネをテラス席に座らせて中に入る。そして直ぐに、丸いパンに総菜を挟んだ物と柑橘系の飲み物を2人前持って帰って来る。
「結構美味しいから、食べて。帰りは登りになるから」
酸味のあるドレッシングで和えた野菜と、薄く切ったソーセージが数枚入ったパンは、豪華では無いが確かに美味しい。ライムらしい味と香りがする飲み物は、薄いが量はたっぷりあった。
「・・・エルって呼ぶことにするわ」
パンを食べながら、イレーネが唐突に言った。
「え? 私のこと?」
「そうよ。エルオリーセって、長いし」
どう見ても平民にしか思えない彼女が、貴族風でエレガントな名前なのが、何となく気に食わないイレーネだった。色々な点で劣等感しか感じない相手に、無意識にマウントを取りたかったのかもしれない。
「そう? 構わないけど・・・それじゃ、私も縮めて呼んだ方がいいかしら? 『イレ』とか『イーネ』とか『イネ』とか」
(何よ、それ! イレーネは長くないじゃない)
ムッとするイレーネだが、エルオリーセが上げた候補はどれも酷いと思わざるを得ない。
『イレ(入れ)?』『イーネ(いいね)?』『イネ(稲)?』
どれも却下よ、言いかけた時、ふいに後ろから声が掛かった。
「なぁ、アンタ。『朝焼け色の髪の公女』じゃねぇか?」
声の主は、旅の傭兵風の若い男だった。
無造作に刈り上げられた固そうな黒髪と、日焼けした肌。黒い眼は意志が強そうで、悪い男には見えない。けれどイレーネは、自分の髪を掴んでバッと立ち上がった。
その様子を見て、エルオリーセは何かを察して同じく立ち上がる。
「イネさん、行こう」
咄嗟に本名で呼びかけない方が良いと思ったのだが、出た呼びかけはそれだ。
けれど、それに文句を言っている場合では無い。大急ぎで席を立って荷車に戻る2人の背中に、男の声が投げかけられた。
「アンタ、探されてるぜ。手配書は出てないが、金品を盗んで逃亡したって話で・・・」
城へ帰る途中、エルオリーセは自分のキャスケットをイレーネに渡した。事情は知らないが、その髪の色を晒して歩かない方が良いと判断したのだ。イレーネは黙って髪を帽子の中に押し込んだが、そのままずっと何も話さない。
洞穴の前まで来ると、荷物を降ろす。買って来た小麦粉の袋は大きくて、それが3つもあった。
荷車だけを洞穴に入れると、アルバは再び変身をする。
今度は、巨大な鷲の姿だ。
「荷物が多い時は、アルバに運んでもらうの。来た道を担いで運び上げるのは、大変でしょ?」
大荷物は空輸してもらって、アルバには先に帰って貰うと言うわけだ。
イレーネはあからさまにホッとして、エルオリーセと2人で洞窟に入り、坂道を登り始めた。
洞窟内の濡れた石段を歩きながら、イレーネはずっと考えていた。
俯きがちに歩く彼女を気に掛けながら、エルオリーセは松明を掲げて先を歩く。アルバがいない今は、気をつけなければいけないと思っていた。
けれど、懸念していた通り、イレーネは足を滑らせてしまう。
「・・・あっ!」
その瞬間、エルオリーセは松明を捨てて、イレーネに手を伸ばした。
イレーネの方も、咄嗟に手を伸ばしたお陰で、何とか掴むことが出来たエルオリーセだが、流石にその体重を支えて引き上げることは出来ない。
ズザザザザッ!
と、音を立てて、2人は鍾乳石の斜面を滑り落ちた。
大した高さは無かったが、イレーネを庇ったせいで、エルオリーセは左腕に裂傷を作ってしまう。
「だ、大丈夫っ⁉」
深緑色の上着が裂け、血が滲んできていた。
「うん・・・大丈夫。鋭い岩があったから、引っ掛けちゃった。とりあえず、上に上がりましょ」
腕を押さえてはいるが、痛みは堪えられているらしい。イレーネはホッとして、這うように斜面を上がった。
「私に任せなさい。ちゃんと『癒しの力』はあるんだから」
狭い道に上がると直ぐに、イレーネはエルオリーセの左腕に手をかざす。ここで名誉挽回とまではいかないが、役に立つことを見せておきたかった。
「えっ・・・あっ、ちょっと待って」
慌てたように言うエルオリーセに構わず、イレーネは集中して怪我の治療を始めた。
けれど、いきなり怪我人は身体を強張らせ、声を上げる。
「っう!・・・ぅあぁっ!」
「えっ! な、何で?」
彼女の左腕は、真っ赤に腫れ上がり、鮮血が噴出していた。
「何で? どうして?」
イレーネは狼狽した。
(久しぶりだったから? 確かに少し下手だけど、このくらいの傷なら治せるはずなのに)
オロオロしながら手を引いて呆然とするイレーネに、エルオリーセは痛みを堪えながら、何とか笑顔を作った。
「大丈夫・・・だから。直ぐに・・・アルバが来てくれる・・・安心して」
涙目のイレーネに、エルオリーセは優しく言った。
「メタモルファルは・・・離れていても、パートナーの状態が・・・解るから」
イレーネは、それでも、少しでも何とかしたくて、被っていたキャスケットを脱いだ。
ただ、エルオリーセに与えてしまった苦痛を何とかしたいとしか考えていない。そして髪を縛っていたリボンを解き、彼女の傍にしゃがみこむと、上腕部にそれを巻いた。
「少しでも、血止めになるから・・・」
イレーネが学生時代を過ごした聖別院付属の学院では、『癒しの力』の修行以外にも、応急手当の方法も教える。力及ばず完全に治癒できなかった場合の代替処置だ。イレーネはその授業も苦手だったが、それでもある程度の知識はある。
一所懸命思い出しながらリボンを縛るイレーネに、エルオリーセが呟く。
「リボンが、汚れてしまうわね」
イレーネは反射的に答えた。
「古ぼけたリボンなんて、惜しくは無いわ」
けれどそれは、エルオリーセが探し出してくれた物なのだと思い出す。
「・・・・・・」
黙ってしまったイレーネに、そうねと呟いて薄っすら笑ったエルオリーセだ。けれどイレーネは、キュッと唇を噛み締めてから、絞り出すように言った。
「でも・・・痛い目に遭わせてしまって・・・ごめんなさい」
エルオリーセは、一瞬目を見開いた。
初めて聞いた、イレーネの『ごめんなさい』だ。
「イレーネ、気にしないで。貴女は、知らなかっただけだから」
「え?」
何を知らなかったのか、と問い返す前に、道の上の方から、アルバが全速力で駆け下りて来た。
『癒しの獣』は、パートナーに駆け寄ると、優しく傷を舐める。痛みと出血は直ぐに抑えられ、ウルフドッグはその大きな背にエルオリーセを乗せて、坂道を静かに上がった。
イレーネはその後ろから、借りているキャスケットをギュッと胸に抱きしめて、黙々と歩いた。
居間のソファーにエルオリーセを降ろしたアルバは、彼女の左腕に鼻先を寄せて、状態を確認する。その傍で、イレーネは眉を顰めて立ち尽くしていた。
「エルオリーセっ!」
その時、男爵が姿を現す。日没になっていたらしい。
居間に漂う微かな血の臭いと、ソファーにいるエルオリーセの様子に気付くと、彼女の名を叫んで一足飛びに駆け寄った。
「大丈夫かっ!」
イレーネは身も縮む思いで、何とか言葉を絞り出す。
「あ・・・あの・・・」
幽霊男爵の纏う空気が、一瞬で変わった。
白皙の美青年幽霊は、怒りと腹立たしさ、そして悔しさが入り混じったオーラを爆発させる。
「目障りだ! 出ていけっ!」
イレーネの身体が、突き飛ばされたように後ろへ弾かれる。そして足元に、陶器の水差しが飛んできて砕け散った。
イレーネは、後も見ずに部屋を飛び出して行った。




