2 父親はどっちだ?
イレーネとノイが、ロートホルン城の真上に来た時は、丁度太陽が半分ほど沈んだところだった。
〈あれ?・・・イレーネ、ここから先は進めないよ。見えない壁があるみたいで〉
もうすっかり飛行に慣れたダークペガサスは、空中でホバリングするように止まって伝えて来る。
「え?・・・」
眼下に見えるロートホルン城は、最後に見た半壊の様子が夢かと思うほど、元通りの美しい姿になっている。
「・・・スラルヴィオお爺様のお陰かしら。ナラン陛下のお陰かもしれないけど」
オリビエの居城を、可及的速やかに修復できるよう尽力すると言っていた魔族の2人である。どうやらイレーネ達が城に戻る前に、すっか元通りになっていたようだ。
「お城が元に戻って、昼間の透明障壁が復活したってことかしら。でも、以前は普通に通れたわよね、私」
ある意味、魔獣のようなダークペガサスであるノイのせいかもしれないが、とりあえずイレーネは門前に降りる。
そしてイレーネだけで通ろうとしたが、ノイと同じように弾き返された。
「・・・どういう事?」
頭を捻っている間に、太陽は完全に没した。
その瞬間、感じていた微かな圧力がスゥっと消え、イレーネとノイはすんなりと中に入ることが出来るようになる。
「魔力の大きさが原因とか?確かに私は、以前よりずっと魔力が増えたと思うけど・・・」
独り言のように呟いて玄関前に来ると、いきなり扉が開いて、オリビエが飛び出して来た。
「イレーネ! やっと来た!ずっと、待っていたんだ」
そう叫んで彼女の腕を掴み、引っ張ってゆくオリビエに驚く。
「あ、ゴメン・・・ずっと連絡できなくて・・・」
慌てて弁解するイレーネだが、それにしても何故こんな風にされるのか解らない。
「エルオリーセが、衰弱してしまった。私とアルバでは、どうにも出来ないんだ」
オリビエは、口早に説明した。
オリビエらがロートホルン城に帰ってきた時、城はもう半分以上修復が進んでいた。
以前と同じように生活が出来る状態になっていたので、日々元通りになりつつある城の中で、イレーネ達はどうしているかと語り合いながら、穏やかな生活を送っていた。
けれどひと月前ごろから、エルオリーセが少しずつ体調を崩していった。
そもそも彼女は、人型のメタモルファルであり、およそ人間の病には罹ることはない。風邪もひかず、怪我をしても回復は早い。しかも、『癒しの獣』としては充分に能力を発揮できるアルバが傍にいる。
それなのに、エルオリーセは頻繁に吐き気をもよおし、食欲が減退していった。
オリビエは勿論、アルバも慌てる。
体力の衰えは、アルバがある程度何とか出来るが、彼女の症状はどんどん重くなり、今は水を飲んでも吐くような状態だという。
「入るぞ」
オリビエは小さく声を掛け、寝室のドアを開けた。
〈やっぱりイレーネだったね。エルオリーセは、今は落ち着いているよ。会いたがっていたんだ〉
アルバが伝えて来ると、イレーネは小さく頷いてベッドに駆け寄った。
「エル・・・」
彼女の顔は、青白いを通り越して、土気色になっている。肌も普段の艶やかさが無く、乾いた感じだ。水を飲んでも吐く、と言うのは本当なのだろう。
「・・・イレーネ、来てくれて・・・ありがとう」
エルオリーセは、呟くような声で言い、ふわっと笑顔を見せた。
けれどイレーネは、ザっと彼女の様子を見ると、顎に手を当てて考え始めた。
(エルは病気にはならない筈だし、そうすると病気じゃないのに吐き気が起きるって・・・え?・・・ちょっと待って)
まさか、と思うイレーネだ。
以前、エルオリーセから聞いた事がある。
メタモルファルは千年を生きるといわれる長寿の生き物で、寿命を迎えると世代交代を行う。基本的に性別は無いが、パートナーと反対の性を取って、新しい個体として生まれる。
つまり、エルオリーセは先代のメタモルファルが世代交代した時に、先代が定めた最初のパートナーが男性だったという事だ。そしてアルバは、最初のパートナーがエルオリーセだったので、雄の犬型メタモルファルになった。
見た目が女性や雄だというだけで、基本的に一生の中で子を為すことは無いと、彼女は言っていた筈だ。
(でも・・・万が一ってコトもあるし、確認してみないと)
イレーネは、とりあえず口を開いた。
「オリビエ、レモンとか柑橘系の果物ってある?」
「えっ・・・いや、城にはないけど、外にならどこかに生っているかも・・・」
「じゃぁ、とりあえず2~3個用意してちょうだい。それとアルバ、少しくらいなら離れてても大丈夫よね?お湯を沸かして来て。人肌くらいの温度にして、飲めるようにしてね。後、洗面器かバケツ、それと布ね。後、ノイが庭にいるから、そっちもお願い。で、私が良いと言うまでエルと2人きりにしてちょうだい。女同士で、話があるから」
「解った。ノイは、新しく作った厩に案内しておこう。急いで、採って来る」
〈用意が出来たら、廊下で待ってるね〉
そそくさと部屋を出て行った1人と1匹を見送って、イレーネは傍の椅子に腰を下ろした。
「率直に聞くわね。エルは、妊娠するような心当たりはある?」
「えっ!」
エルオリーセとしては、驚くより他はない。確かに身体は女性の造りをしているが、そもそもメタモルファルの本質は無性体なのだ。
「だから、念のため聞くんだけど、エルって・・・その・・・生理とかってあるの?」
「・・・一応・・・身体は普通に人間の女性だから、あるにはある・・・けど、コントロールできるから・・・」
体力が落ちているエルオリーセは、弱々しくはあるが、しっかりと答えた。
「旅とか・・・色々と不都合がある時は、止めてる・・・」
(何て便利なの!メタモルファルって)
思わずそう思ってしまったイレーネである。
世の女性たちなら、皆、同じように思うところだろう。
「だったら、子どもを身籠る可能性はあるんじゃない?」
「・・・でも、今まで一度もそんな事は無かったし・・・それは、私がメタモルファルだから、人との子供を身籠ることは無いということだと思うけど」
そこでイレーネは、ふと気づいた。
(オリビエが幽霊だから?・・・あ、でも)
更に、別の事も気づいて気になってしまった。
「ちょっと気になったんだけど・・・エルって・・・その・・・今まで何人くらいの・・・その・・・どのくらい、男性経験があるの?」
「・・・・・は?」
何でここで、そんな質問が出て来るのか。
「だ、だから・・・何人くらいかな・・・って」
「それ、いきなり聞くの?」
「だって・・・エルは、沢山経験があるのかと思って・・・私は・・・まだゼロだからっ!」
最後はやけくそで叫んだイレーネだが、その声は廊下で待っていたオリビエの耳に届いてしまった。
(・・・これは意外・・・一応ウィンにも伝えておくか)
レモンを両手で1個ずつ握ったまま、オリビエは突っ立っていた。
「沢山って・・・」
溜息と共に呟いたエルオリーセに、顔を真っ赤にしながらイレーネは答える。
「エルはもう何百年も生きてるんだから、百やそこらはあるんじゃないかと・・・」
「・・・夫は、5人。夫以外とは、無し」
エルオリーセは、色情狂じゃあるまいし、と苦情交じりに言った。
「え?・・・・それだけ?・・・ええと・・・それでも夫が5人って、凄いと言うか・・・」
イレーネの言葉に、エルオリーセは窓の外に視線を投げて答えた。
「それだけ、見送ってきたのよ」
イレーネは、ハッと気づいた。
多くの人に愛されて生きて来た彼女は、その人の数だけ、その絆の数だけ、別れという悲しみを経験してきたのだ。自分が取り残されるという、寂しさと共に。
「ゴメン・・・ごめんなさい。考え無しで」
俯いてしまったイレーネに、エルオリーセは穏やかな笑みと共に口を開いた。
「イイの、気にしないで。それより、話を戻しましょ? 可能性は、否定できないってコトでしょ?」
「あっ、そう。そうね・・・でも、もうオリビエたちも待ってると思うから、先に少し試してみるわ」
イレーネは、廊下にいるであろうオリビエとアルバを室内に呼んだ。
先ずは換気、とイレーネは寝室の窓を開け放った。
室内には、少しでもエルオリーセの気分が落ち着くようにとの配慮なのか、アロマ効果がある香が焚かれている。イレーネは、それも全て片付けた。
清々しく新鮮な空気が室内に流れ込むと、枕の上のエルオリーセの表情が緩む。そんな匂いの無い空間で、イレーネはオリビエが採って来たレモンの1個を真っ二つに切り分けた。
「エル、この匂いはどう?」
鼻先に切ったレモンをそっと差し出すと、爽やかな香気が立ち上った。
その様子を見て、オリビエは微かに眉を顰める。
(酸っぱい匂いだが、吐き気は大丈夫なのか?)
幽霊だが五感はある彼だが、酸っぱい匂いを嗅いで口の中に唾液が溜まるようなことは無い。
「・・・・いい匂い・・・すっきりするような気がする」
エルオリーセの言葉に頷いて、イレーネは言った。
「レモンの果汁を、少し舐めてみて?」
黄色の果物に口を着けたエルオリーセは、チュッと瑞々しい果汁を啜った。
「・・・あ・・・美味しい」
そして彼女は、両手でレモンを持つと、果肉を食べるようにして果汁を全て飲んだ。
〈・・・大丈夫?エルオリーセ?〉
心配そうに尋ねるアルバに、彼女は微笑んだ。
「うん、吐き気は起きないみたい」
その場にいた全員が、ホッとしたその時、外から朗らかな声が聞こえた。
「お~~い、来たぞ~~」
それは、予定よりもかなり早く到着したウィンの声だった。
「ウィン、随分早かったな。早くても、夜明け前ごろだと聞いたんだが」
扉を開けて出て来たオリビエがそう言うと、ウィンは如何にも嬉しそうに答える。
「ああ、こいつはリバティって言うんだが、思っていたよりずっとイイ馬でな、真っ暗な山道も全く危なげなく登ってくれたんだ」
「そうか、皆待ってたから良かった。ちょっと待ってくれ」
オリビエは玄関横に建つ建物の扉を開けると、中に向かって声を掛ける。
「ノイ!ウィンが来た。すまんが、リバティの面倒を見てくれ」
ノイはスタスタと出て来て、ウィンの愛馬を厩の中へ招き入れる。
「新しく作った厩なんだ。君とイレーネの愛馬にとって必要だと思っていたのでね。後はノイに任せておけばいい。とりあえず、一緒に来てくれ」
オリビエは、これまでの事情を説明しながら、彼を城の中へと案内した。
「これで、全員揃ったわね」
イレーネは場を仕切る雰囲気で、口を切った。
「結論から言うわ。エルオリーセはの症状は、悪阻よ」
「ツワリ?」
オリビエに、その知識は無い。
〈つわり?・・・それって、妊娠初期の?〉
アルバにあるのは、聞いた事がある程度の知識。
「ハァッ⁉ 妊娠してるってコトか?・・・誰の子?」
ウィンはそれなりに知っているが、そうなるとつい疑問が口を割って出て来てしまう。
イレーネは、説明した。
昔、聖別院付属の学院にいた頃、『癒し手』としての勉強の中には、いわゆる産婦人科で必要とされる知識の講義もあった。様々な症状や状況に対して、どのように関わるかが必要とされていたのである。
イレーネは決して勉学に熱心だと言うわけでは無かったが、どちらか言えば実践より座学の方がマシだった。
今回の『悪阻』についても、教わったことはある。必死に思い出して、エルオリーセの状態に照らし合わせ、その結論に至ったと言うわけだ。
「ポタジェ村で親しくなったマイカさんって、村のお産婆さんなんだけど、話を色々と聞いたりもしてたのよ。だから、それなりに解るんだけど、エルの吐き気や匂いに敏感な事や、酸っぱいものが好きになるって言う事は、典型的な悪阻の症状だと思う。ただ悪阻って、個人差があるのよ。エルは、重症なタイプだと思うわ」
男性陣は、ただ頷くしかない。
けれどやはり、ウィンとしてはお腹の子の父親が気になるところだ。
(どっちだ?・・・メタモルファル同士っうことならアルバだろうけど、夫婦同様の生活ということならオリビエだろうし・・・)
こっそりと伺い見れば、オリビエもアルバも、揃って俯いている。
「・・・白状してもらおうか?」
この際、悪役になってもイイから、とウィンは1人と1匹を寝室から引きずり出した。
「さて、説明してもらおうか?」
居間のソファーに腰を下ろしたウィンが口を切ると、2階からイレーネもやって来る。
「エルは、もう1個のレモンを食べてるから大丈夫。看護人として、私も聞く権利はあると思うのよね」
男性経験なしでも、産婦人科の看護士は出来るという事か。
両親を前にして、娘を妊娠させたのはどっちだ!と糾弾される男2人の図のようだ。
男2人とは、幽霊と犬型のメタモルファルだけれども。
神妙な態度のオリビエとアルバだったが、やがてオリビエの方が口を開いた。
「最初から、正直に話す。それは私が、スラルヴィオ殿から『憑依』を教わったことで始まった。それまで私は、物体や生き物を通過することは出来ても、そこに留まって操れることは出来なかった。けれど、憑依することで、それが出来るようになったんだ」
オリビエは俯いて、それでもしっかりと話し続ける。
「生き物に憑依する場合、相手に意思が無いことが前提条件になる。つまり深く眠っている時とか、意識不明の状態の時なら出来るということだ。そんな事を、エルオリーセとアルバに話したんだ。そうしたら、メタモルファルには自己強制睡眠という能力があると言われた」
生命の危機的状況になった時、意識的に深い睡眠状態になって、救助を待つ時などに使われる能力だと言うが、そうでなくても必要ならば、どんな場所でも眠ることが出来るという。
「だから、私は・・・アルバに頼んだ。私に変身してもらって、自己強制睡眠状態になってくれないか、と・・・」
それはつまり、自分と同じ肉体になってもらって、幽体の自分が憑依するという事なのだ。
ウィンとイレーネは、ただ唖然とするしかない。
そこでアルバも、伝えて来た。
〈僕とエルオリーセは、考えた末、オリビエの望みを叶えることを了承したよ。僕にとってエルオリーセは、多分生涯唯一人のパートナーになると思うけど、人型と犬型の違いはあるし、本質的には無性体だから、お互いの間に恋愛感情は無いんだよ。端的に言えば、メタモルファルは、パートナーが幸せならば、それだけで自分も幸せっていう生き物だから〉
(・・・何、これ?)
(え?・・・これって、3Pってヤツに入るのか?・・・いや、違うか?)
説明して貰っても、混乱気味のイレーネとウィンだ。
やがてオリビエは、独り言のようにポツポツと話し出した。
「私はずっと、彼女が我慢しているのではないかと思っていた。彼女は今までの人生の中で、何度も愛する相手と愛を育んできている。そのことを私は全部知っているし、彼女も私の愛し方に不満は無いと言ってくれた。それでも・・・私は、ずっと・・・人間のように愛したいと思い続けていたんだ」
どれほど強大な魔力を持っていても、幽霊では出来ないことはある。
愛すればこそ、相手と1つになって歓びを共有したいと思うのは、当たり前の想いなのだ。
けれど、それはどうしてもできない。
そんな時、間違っているのかもしれないが、方法と同意があれば可能であると気づいてしまった。
イレーネとウィンは、漸く気づいた。
これも、1つの愛の形なのかもしれない、と。
やがてウィンは、意識的にサラリと言葉を口にする。
「そっか、解った。そうすると、エルオリーセのお腹にいる赤ん坊の父親は、アルバってコトで良いのか?」
オリビエは、涙や汗もそうだが、身体から体液を分泌することは無い。そうすると、変身して深く眠ってはいても体がアルバなら、そう言う事になるのだろう。
けれどイレーネは、パッと立ち上がって、きっぱりと言った。
「違うわ!オリビエとアルバ、両方が父親よ。私は、そう思う!」
理屈なんて、どうでもいい。
オリビエもアルバも、エルオリーセを心から大切に思っているのだから。
その結果、こうなったのなら、両方とも父親でイイじゃないか、と。
一瞬面食らって、呆けたような顔になった幽霊とウルフドッグだが、何故か不思議と安堵したような気がする。そんな彼らに、ウィンは笑って言った。
「父親の責任が半分ずつになった、とか思うなよ。まあ、色々とイレギュラーだけど、それでもおめでたいことなんだしな。パパの愛情も2人分ってコトで」
話に決着がついたところで、一同はエルオリーセの寝室へ戻る。
「さて、落ち着くところに落ち着いたら、先ずは『おめでとう、エル』!」
イレーネはベッドに駆け寄って、エルオリーセの頬にキスをした。
そう、先ずはそこからだ。
子どもを身籠るという事は、どんな場合でも天の恵みであり、おめでたいことなのだ。何故なら、新しい生命には、何の罪もない。
「ありがとう、エルオリーセ。ただただ嬉しいよ」
オリビエは、彼女の唇に優しいキスを落とす。その瞳には、優しく純粋な想いが溢れていた。
〈エルオリーセ、おめでとう。僕も嬉しい。これからも頑張るから〉
アルバは、キスをするようにそっと鼻先を押し当てる。
「良かったな。おめでとう、エルオリーセ」
ウィンも、満面の笑みで言葉を贈った。
「そうなると、これから忙しくなるわね。先ずは、エルの体調回復だけど、パパになるオリビエとアルバは、酸っぱい果物を採ってきてちょうだい。お爺ちゃんは、お使いに行ってね」
イレーネは、ウィンを指さす。
「は?・・・俺か?」
「さっきの話し合いじゃずっと、妊娠した娘の父親みたいだったじゃないの」
イレーネに指摘されて、確かにそうだったかもしれないと思うウィンだ。だがそうなると、イレーネは母親みたいではないかとも思う。
けれど流石にそれは言えず、ウィンは苦笑いで留めた。
「ま、イイさ。で、お使いって?」
「ポタジェ村の、マイカおばさんのところに行ってくれない?手紙を書くから、返事と必要な品を貰って来て欲しいの」
村の産婆であるマイカに、助言などが必要だと判断したイレーネだった。
出来ることを手分けして、それぞれが動き出す。
イレーネはエルオリーセに付き添って、知識を総動員し、良いと思われることは全て行う。
「ねぇ、エル。吐いちゃってもイイのよ。水は口に含むだけでも、微量は吸収されるし、飲んだ分が全部出ちゃうわけでも無いの。吐くまいと堪えて体に力を入れるくらいなら、無理せず出しちゃって」
刺激が少ない微温湯を、少しずつ飲ませては、そう言って甲斐甲斐しく世話をする。
以前では、考えられもしなかった行動だ。
けれど今は、汚いとか臭いとも思わずに、後始末が出来る。
ウィンは、ポタジェ村のマイカから、小さな壺と手紙、そして何種類かの薬草と食材を貰って来た。
レシピ付きの食材は、オリビエが調理した。
匂いが上がらないように冷ました米の粥の上には、壺に入っていた真っ赤な果実らしいものが乗っている。
「ああ、これ。マイカおばさんの家で、味見させてもらったことがあるわ。果実を干して塩漬けにしたものらしいけど、滅茶苦茶酸っぱいのよね。でも悪阻の時って、美味しく食べられたりするみたいよ」
そして出来上がった料理は、ちゃんとエルオリーセの胃に納まった。
アルバはエルオリーセの傍らで、ひたすら彼女の体力回復に努める。
オリビエも、夜間だけではあるが、酸味のある果物を探しに行ったり、眠る最愛の人の傍で、城の書庫から探し出して来た医学書や育児書を読んだりしている。
買い出しはウィンとリバティ、そしてノイが受け持った。
最初は山道を上り下りしていたが、イレーネが洞窟の抜け道を教えると、ノイもリバティも難なく狭く暗い道を通れるようになる。
そんな日々が続き、やがてエルオリーセは酷い悪阻の時期を乗り越えた。
ホッと一息をついたイレーネだが、これからもやることはあると思っている。
「ねぇ、考えたんだけど、これから先はここにいるより、ポタジェ村の近くにいある家に移った方が良いわ。妊娠中に何かアクシデントが起きたりすることもあるし、出産も私ひとりじゃ対応しきれないと思うの。勿論、メタモルファルの秘密は守らなくちゃいけないと思うけど、それには充分注意して、誰かの助けを求めたい」
誰か、とはマイカのことである。
妊娠・出産・育児どころか、男性経験さえ無いイレーネとしては、不安しかない。
それを訴えると、男性陣は頷いてくれた。エルオリーセも、申し訳ないとは思いながらも、確かに不安ではあるから同意する。
そしてエルオリーセの体調が安定した頃合いを見計らって、全員で夜のうちに移動する。
皆、妊婦を気遣って、ボウルに張った水を零さないくらいの慎重さで、彼女を運んだ。
イレーネとウィンの家は、さほど大きくは無いが、4人と1匹が暮らすには充分な広さがあった。
周囲にはなだらかな丘が連なり、草原と林が美しいコントラストを見せている。
穏やかな田園生活の中で、イレーネは主に家事担当として暮らしていた。今はもう、伯爵令嬢だった頃の面影さえ無い。毎日せっせと身体を動かし、暇があれば魔術の練習などもして、妊婦であるエルオリーセを気遣いながら、充実した時間を過ごす。
そんなある日、乾いた洗濯物を取り込んで、大きな籠を抱えたイレーネが家に入ろうとした時、狩りから帰って来たウィンが声を掛けた。
「おい!帰って来たぜ~~」
「ああ、お帰りなさい。首尾はどうだった?」
「そりゃもう、バッチリだぜ。鶉が5羽と、ついでにアケビと山菜も採って来たぜ」
「お疲れ様。それじゃ、夕飯の支度をしないとね。・・・・ああ、明日も良いお天気だわ、きっと」
仲の良い夫婦のような会話の最後に、イレーネは緩やかな風にそよぐ草原を眺めて言う。
「ああ、そうだな・・・」
ウィンは足を止めて、彼女の視線を追った。
「毎日穏やかで、忙しいけど楽しくて・・・何か、イイなって思うわ」
イレーネは足元に籠を置き、傍らの石の上に腰を下ろした。そして顎を組んだ両手の上に置きながら、遠くを眺めて呟く。
「愛って、良いなって思うの。家族愛も恋愛も、隣人愛も友愛も、愛と言うのは全部良い物なんだなって」
ウィンは、少々面食らった。いきなり『愛』について語りだしたイレーネに軽く首を傾げながらも、自分も腰を下ろす。
「近頃何となくだけど、気づいたのよね。ふわっと胸の中が暖かくなって、嬉しくなる瞬間が結構あるのよ。それで、そう言えば今まで・・・私が伯爵令嬢だった頃は、そう言う事って無かったんじゃないかなって」
一番近しい肉親は、父親だったが、親子愛とは縁がない生活だった。
恋愛に関しても、厳しく制限されていたので、胸がときめくような経験さえ与えられずにいた。
「お父様は、私を王妃か王弟妃にしたかったのよね。だから、スキャンダルはご法度だったんだと思うわ。価値を下げるようなことは、徹底的に排除するよう、次女や世話係にきつく言っていたのよ。でも私は、伯爵令嬢として、それは当然なことだと思ってた」
(男性経験ゼロってのは、だからか)
オリビエから聞いていた事だが、ウィンはここで納得した。
(それにしても、コイツって親からも周りからも、愛情みたいなモンは教えられずに育ったってことか)
そう思えば、伯爵様の御令嬢というのも、可哀そうなものかもしれないと思ってしまう。
ウィンの胸に、愛しさと微かな切なさが沸き上がる。
無意識のうちに腕を伸ばし、イレーネの肩を抱き寄せたウィンは、ごく自然に唇を合わせた。
(・・・・?・・・何だ、こりゃ・・・)
ウィンは驚いて現実に戻った。
イレーネは、きちんとキスに応え、いや寧ろ見事なテクニックで官能的な口づけを披露している。
「・・・え?どうしたの?急にやめちゃって。折角上手なキスを、味わっていたのに」
蠱惑的な瞳でそんな事を言うイレーネに、ウィンの頭の中は疑問符で埋め尽くされる。
「大丈夫よ。ウィンのキスは、上手だわ」
「・・・慣れてるんだな」
「そうね、キスまでは許されてたから。尤も、途中で止めさせられることも多かったけど、それでも沢山の殿方とキスはしたわ」
「・・・あ・・・そう・・・」
ウィンは、こっそりとため息をついた。
この男性経験ゼロだと宣う元伯爵令嬢は、キスの経験値は豊富で、達人の域にまで達しているのかもしれない。
このアンバランスな状況を、どう受け止めればよいか、暫し考え込むウィンであった。




