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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

『影が触れるとき』

作者: fox

 本作は、私自身の10代の頃の体験や感情をもとに構成したフィクションです。

 「自分らしさとは何か」「人を好きになるとはどういうことか」という問いを抱えながら過ごした日々を、記憶と想像を交えながら物語にしました。


 切なさや葛藤を忘れずに残しておくこと。

 それが、この作品を書いた大きな理由です。


第一章 影と夕暮れ(前半)


 春の風は、まだ少し冷たい。

 新しい制服に袖を通し、教室に入ったあの日のことを、私はきっと一生忘れない。


 ――ざわざわとした空気の中、担任が名簿を読み上げる。

「佐伯美咲」

「はい」

 すぐ近くで響いた声に、私の視線は自然とそちらへ向いた。


 明るい声。少しだけ緊張を含んでいるけれど、すぐに人を惹きつけるような響き。

 私の斜め前の席で、背筋をぴんと伸ばして返事をした彼女が、後に私のすべてを揺さぶる存在になるなんて、この時はまだ知らなかった。


「雪村結城」

「……はい」

 呼ばれて立ち上がったとき、周りの目が一瞬こちらに集まるのを感じた。

 背が高く、髪は短い。

 中学に入ったばかりの教室で「女子らしい」外見ではない私を、物珍しげに見ている目。


 胸の奥に小さな棘が刺さる。

 けれど、それを悟られないように、私は笑って席に戻った。



 クラスに馴染むのは、思ったよりも難しくなかった。

 私は走るのが速くて、球技も得意だった。体育の時間、誰よりも早くゴールを決めたり、男子と同じようにボールを遠くへ投げられたりする。

 それがきっかけで、すぐに「ユキ様」なんて呼ばれるようになった。


 最初は冗談半分だと思った。

 でも、その呼び名はいつしか「かっこいい女子」という意味を帯びて、クラスで固定されていった。


「ユキ様、ペットボトル開けてー」

「また勝手にそう呼んで……」

「いいじゃん! だって女子で一番力あるし!」


 笑いながらペットボトルを受け取り、キャップを回す。

 簡単に開いたそれを返すと、歓声のような声が上がる。

 私は笑ってごまかすけれど、心のどこかで落ち着かない気持ちが広がっていた。


 ――女の子として「かわいい」じゃなくて、「かっこいい」で呼ばれること。

 それは褒め言葉なんだろうか。それとも……。



 放課後。

 校門を出て、帰り道を歩く。

 夕陽が沈みかける頃、決まって同じ道で誰かと出会う。


「あ、ユキ!」

「……偶然だね」

「ほんとに偶然? 待ってたんじゃないの?」


 振り返ると、ミサキが笑っていた。

 肩にかけたカバンが揺れ、額の汗をハンカチで拭う仕草。

 夕陽を浴びて頬が赤く染まるその横顔に、私は一瞬、言葉を失う。


「え、なに?」

「いや……すごいね、部活終わってからでも元気で」

「そっちだって。毎日走って帰ってるじゃん」


 言葉を交わすたび、彼女は楽しそうに笑う。

 その笑顔を見ると、胸の奥がふわっと温かくなるのに、同時にきゅっと痛むのを感じる。


 ふたり並んで歩くと、夕陽に伸びた影がアスファルトに落ちる。

 私と彼女の影は、時折ふいに重なり合って、また離れる。

 その度に心臓が跳ねて、息が詰まりそうになる。


 影なんてただの黒い形なのに。

 どうしてこんなにも、胸が騒ぐんだろう。



第一章 影と夕暮れ(後半)


 夏が近づくにつれて、空気が少しずつ熱を帯びていった。

 教室の窓から差し込む光は強くなり、校庭では部活動の声がよく響く。



体育祭 ― 声援と複雑な心


 中学一年、最初の大きなイベントは体育祭だった。

 私の出番はリレー。選手に選ばれるのは嬉しいはずなのに、心は複雑だった。


「ユキなら絶対速いでしょ!」

「女子じゃ勝てないよ、男子相手でも大丈夫そう!」


 そんな声に囲まれるたび、胸の奥に妙な居心地の悪さが広がる。

 褒められているのに、なぜか苦しい。


 迎えた本番。

 トラックを駆け抜ける風の感触は気持ちよかった。

 抜き去った瞬間に湧き起こる歓声は、耳に刺さるほど大きかった。


「ユキ様ーっ!」

「かっこいいー!」


 ゴールを切ったとき、応援席で手を振っているミサキの姿が目に入った。

 彼女は声を張り上げて、私の名前を叫んでいた。

 心臓が跳ねる。汗が頬を伝うのは、走ったせいだけじゃなかった。


 でも同時に――

(私が“かっこいい女子”だから、彼女は笑ってくれるんだろうか?)

 そんな疑問が、胸を締めつけて離さなかった。



テスト勉強 ― 机を並べる距離


 夏休み前の期末テスト。

 放課後の教室で、友達数人と一緒に残って勉強会をすることになった。


「ユキ、ここ空いてる?」

 ミサキが私の隣に腰を下ろす。机をくっつけると、ほんの数センチの距離。

 シャーペンの走る音、ページをめくる音がやけに大きく響いた。


「ここ、わかんないんだよね」

 ノートを差し出される。彼女の指が私の手に触れた瞬間、心臓が跳ねる。

 すぐに引っ込めたけど、頬が熱い。


「……ここは、この公式を使うんだよ」

「あ、なるほど! ユキって教えるの上手だね」


 笑顔で見上げられると、目を逸らしたくなる。

 なのに、逸らせば逸らすほど、気持ちがばれてしまう気がした。


 その日、家に帰ってからノートを開いても、書かれた数字はまったく頭に入らなかった。

 思い浮かぶのは、机の上で重なりかけた影と、笑顔の彼女だけ。



夕暮れ ― 影が触れる


 夏の終わり。

 部活帰りのミサキを待つようにして、私はまた同じ道を歩いていた。


「偶然だね」

「ほんとに? 最近よく会うよね」

「そうかな……」


 夕陽は低く、影は長く伸びていた。

 並んで歩く影が、ふいに重なる。

 まるで、影と影が口づけを交わしているみたいに。


「……あ」

 ミサキが小さな声をもらした。

 そして恥ずかしそうに笑って言う。


「影が、キスしてるみたいだね」


 その一言で、世界が止まった気がした。

 足音も、蝉の声も、夕暮れの風も、すべてが遠くに引いていく。


「……そうだね」

 やっとの思いでそう返すと、ミサキは笑った。

 何も知らない、無邪気な笑顔で。


 私の胸の奥で、言葉にならない痛みが広がった。

 どうしてこんなに苦しいのか、その時の私はまだわかっていなかった。


 けれど――

 影が重なった一瞬の光景は、心に深く焼きついて離れなかった。



第二章 影と囁き



夏休みの気づき


 中学二年になった。

 夏休みの部活終わり、グラウンドに沈む夕陽を見ながら汗を拭いていたときだった。


「ねえユキ、あんたって男子っぽいよね」

 同級生の女子が何気なく言った。


「そうかな」

「うん。背高いし、声も低いし、男子と混ざってても違和感ないもん」


 笑いながら返したけど、その言葉が胸に残った。

 男子っぽい。

 “ぽい”じゃなくて、もしも本当に男子だったら――。


 そんなことを考え始めた自分に驚いた。

 どうして私は女の子が好きなんだろう。

 どうして私は“女子”でいることがこんなに苦しいんだろう。


 答えは見つからなかったけれど、夏の暑さよりも心の熱の方がずっと厄介だった。



ミサキの噂


 秋。

 教室に流れてきた噂が、私の心を揺さぶった。


「ねえ、ミサキってさ、隣のクラスのサッカー部の田島と付き合ってるらしいよ」

「えー、やっぱり? この前一緒に帰ってるの見た!」

「田島って、ユキと顔の系統一緒だよね」


 胸が冷たくなる。

 聞きたくなかった言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


 放課後。

 いつもの帰り道、偶然を装ってミサキと歩いた。

 だけど、口から出るのは当たり障りのない言葉ばかり。


「最近、部活大変そうだね」

「うん、走ってばっかり。でも楽しいよ」


 笑う彼女の横顔は変わらないのに、私の心の中はざわついていた。

 その横顔が、誰か別の男子と笑い合っている姿が頭に浮かんでしまう。


(似てるって言われるのに……どうして私じゃだめなんだろう)


 影は並んで歩いているのに、距離は遠かった。



冬 ― 自分を責める夜


 寒い冬の夜。

 布団に潜り込み、暗闇の天井を見つめながら考えてしまう。


(私はおかしいんだろうか)

(女の子が好きなんて、言えるわけない)

(ミサキに伝えたら、嫌われる)


 枕を抱きしめて目を閉じても、眠れない。

 静かな夜に、心臓の音だけがやけに大きく響く。


 影が重なったあの夏の夕暮れを思い出す。

 キスをしていたのは影だけで、私じゃない。

 ――届かない想いが、そこにはっきりとあった。



卒業式 ― 言えないまま


 三年の三月。

 桜の花びらが舞う中で迎えた卒業式。


 体育館で歌った合唱は、涙で声が震えた。

 でも、それは歌のせいじゃない。

 心の奥で「伝えられない言葉」が溢れていたからだった。


 式が終わって校門を出ると、ミサキがいた。

 いつものように笑って「ユキ、一緒に写真撮ろう」と言う。

 並んで撮った写真。

 私と彼女の影はアスファルトに伸びていたけれど、触れることなく並んでいた。


「高校行っても頑張ろうね」

「……うん、頑張ろう」


 言いたい言葉は喉まで出かかっていた。

 ――好きだよ。

 でも、声にはならなかった。


 影はまた、そっと離れていった。



第三章 影と変化



高校入学 ― 新しい制服の違和感


 桜が咲き、制服に袖を通して高校に入学した。

 けれど、渡されたのは女子の制服。紺色のスカートに白いブラウス。


 鏡の前に立ったとき、胸の奥にざらりとした違和感が広がった。

 似合っていない。

 “自分じゃない”誰かを無理やり着せ替え人形のようにしたみたいで、息苦しかった。


 学校では「かっこいい女子」というポジションがそのまま続いた。

「ユキ、男子よりイケメンじゃない?」

「背が高くてかっこいいよね!」


 笑って返すふりをしたけれど、心の中は悲鳴を上げていた。



気づきの瞬間


 図書室で偶然目にした一冊の雑誌。

 そこに「トランスジェンダー」という言葉が載っていた。


 ページをめくる手が止まる。

 生まれた性と、心の性が一致しない人。

 その人たちがどう生きているか、どう悩み、どう乗り越えようとしているか。


 活字が、真っ直ぐに自分の胸に突き刺さった。


(……これ)

 やっと言葉を見つけた気がした。

 ずっと正体のわからない「私は変なんだ」という不安。

 でも、そうじゃなかった。そういう存在が、確かにいるんだ。


 気づいた瞬間、視界が滲んだ。

 声にならない涙が、頬を静かに伝った。



先生への相談


 翌週。

 勇気を振り絞って、担任の先生に呼び出しを願い出た。

 放課後の静かな職員室。机越しに先生と向かい合うと、心臓が破裂しそうに速く打った。


「あの……私、ずっと自分のこと、女の子としては違うなって感じていて……」


 先生は驚いた顔をしたけれど、すぐに真剣に頷いた。

「……話してくれてありがとう。君にとって、とても大切なことなんだね」


 私は続けた。

「男子の制服を着たいんです。スカートは、もう無理で」


 沈黙の後、先生は言った。

「すぐに全てが変わるわけじゃない。でも、できることを一緒に探してみよう」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 初めて「理解される」という感覚に触れた気がした。



制服の変更


 数週間後。

 学校の許可が下りて、私は男子の制服に袖を通すことができた。

 ブレザーの肩幅がしっくりくる。

 ズボンをはいたとき、身体がようやく「自分」に追いついたような気がした。


 クラスメイトはざわついたけれど、次第に慣れていった。

「ユキ、やっぱ男子のが似合う!」

「最初からそうすればよかったじゃん」


 軽口に混じる本音。

 笑われても、今度は胸の中で自分を責める声はしなかった。

世界は想像よりも優しかった。



ホルモン治療を決意


 病院でカウンセリングを受け、医師と話し合った。

 体が変わっていくのは怖かった。

 でも、それ以上に「変わらないこと」の方が怖かった。


(ミサキに……会いたい。今度は“私”じゃなく、“僕”として)


 その思いが背中を押した。

 注射の針が刺さったとき、全身が震えた。

 けれど同時に、未来へ向かって踏み出した実感があった。



文化祭 ― 再会


 秋。

 クラスの友人に誘われて、他校の文化祭に行った。

 校門をくぐった瞬間、人混みの中で見慣れた横顔を見つける。


「……ミサキ」


 胸が強く鳴った。

 彼女は笑っていた。

 そして、その隣にはひとりの男子が立っていた。


 ふたりの影が寄り添うように重なっていた。

 私の影は、人混みの中で揺れて、遠くにあった。



第四章 影と揺らぎ



再会の衝撃


 文化祭のざわめきの中で、目が合った。

 ミサキが気づいた瞬間、彼女の瞳が大きく開かれる。


「……ユキ?」

 その声には驚きと戸惑いが混ざっていた。


「久しぶりだね」

 笑ってみせたけれど、心臓が破裂しそうに速く打っていた。

 声は少し低くなり、輪郭も変わり始めている自分。

 あの頃とは違う「僕」を、彼女はどう見ているんだろう。


「……変わったね」

「そうかな」

「うん。すごく、変わった」


 その瞬間、隣にいた男子が彼女の肩に自然に手を回した。

 ミサキは一瞬だけ身体を強張らせ、それから笑顔を作った。

 私の胸の奥に、鋭い棘が刺さる。



揺れる心


 その日の帰り道。

 夕暮れに伸びた影を見つめながら歩いた。


(彼女は、彼の隣に立っている)

(影もちゃんと、寄り添っている)


 自分の影は一人分、寂しく揺れていた。

 けれど、その夜。

 SNSに届いた通知に、心臓が跳ねた。


――《今日、久しぶりに会えて嬉しかった》


 送り主はミサキだった。


 画面に浮かぶ文字を何度も読み返す。

 指先が震えて、返信を打つのに時間がかかった。


――《私も。いや、僕も、すごく嬉しかった》


 送信してから、布団の中でいつまでも眠れなかった。



影が語ること


 秋が深まり、葉が赤く染まる頃。

 放課後、駅前のカフェでふたりきりになった。

 彼氏のことを聞くつもりはなかったのに、言葉が漏れてしまう。


「……あの人と、うまくいってる?」


 ミサキは少しだけ目を伏せた。

「うん。優しい人だよ。でも……」


 そこまで言って、ストローを弄ぶ指が止まった。

 沈黙の間に、窓の外で街灯がともる。

 歩道に映る人々の影が揺れる。


 その中に、私とミサキの影も並んで映っていた。

 ふたりの影は、ほんの少し重なりかけていた。


「ユキ……君は、君なんだよね」

 彼女の声が震えていた。

「男子とか女子とか、そういうのじゃなくて。私の知ってるユキは、ユキなんだよ」


 その言葉は温かかった。

 けれど同時に、どうしても触れられない透明な壁の存在を突きつけられる気がした。



触れない影


 冬の夜。

 イルミネーションを見上げながら並んで歩いた。

 クリスマスを前にした街はきらびやかで、人々は笑い声に包まれていた。


 街灯の下、私とミサキの影がアスファルトに落ちる。

 一瞬、影と影が触れ合う。

 あの中学の夏と同じように――キスをするみたいに近づいて。


 でも今回は、影は重ならなかった。

 触れる寸前で止まり、揺れながら寄り添うだけだった。


「ユキ……」

 ミサキが名前を呼んだ。

 けれどその声は、最後まで言葉にならなかった。


 凍える風が吹き抜け、影は細かく震えながら伸びていった。

 ――それが私たちの答えだった。



第五章 越えられない線



変わっていく体


 冬休みが明ける頃、鏡の中の自分に違和感を覚えるようになった。

 肩幅がわずかに広がり、声はさらに低くなった。

 胸の膨らみを抑えるバインダーをした時、呼吸が苦しくなるほど安堵を覚えた。

 ――やっと、近づいている。

 本当の自分に。


 でも、そのたびに浮かぶのは彼女の顔だった。

 ミサキは今の僕を見て、どう思うのだろう。

 「変わったね」と言った彼女の瞳を、何度も夢に見た。



揺れるミサキ


 春を前にした夕方、また二人で歩いた。

 彼氏と別れたと風の噂で聞いたけれど、真偽は分からない。

 勇気を出して尋ねると、ミサキは曖昧に笑った。


「……私ね、ユキといると楽しいんだ」

「そう?」

「うん。昔から、そうだった」


 その声は、震えていた。

 でも彼女は続ける。


「でもね、どうしても怖いの。もしこの気持ちに名前をつけたら、私……壊れちゃいそうで」


 その告白は、僕を突き放すようで、同時に抱きしめるようでもあった。



越えられない線


 桜が咲き始めた頃。

 駅のホームで、並んで電車を待った。


 ホームの向こうに落ちる影は、以前よりも近くにあった。

 でも、それでも――最後の一歩が踏み出せない。


「ユキ……」

 ミサキが小さく名前を呼ぶ。


「僕はね、ミサキに、ちゃんと伝えたいことがある」

 心臓が破裂しそうだった。

「僕は……女の子じゃないんだ。本当はずっと、自分は男なんだって思って生きてきた。怖くて言えなかったけど……今は言える。僕は、僕なんだ」


 ミサキは唇を噛みしめたまま、何も言わなかった。

 ただ瞳が、揺れていた。


 電車が入ってきて、ホームがざわめく。

 その音の中で、ミサキが小さな声で言った。


「……ありがとう。ユキがユキでいてくれて」


 電車が視界を遮り、彼女の姿は消えた。

 残されたホームには、ふたつの影が並んで落ちていた。

 影同士は触れそうで、やっぱり触れなかった。



最終章 影の向こうに



春風の中で


 高校三年の春。進路の話が本格的に始まった頃、久しぶりにミサキと会った。

 お互いの制服は少し色褪せて、袖や裾には思い出が染み込んでいるように見えた。


「もうすぐ卒業だね」

 ミサキが笑う。その笑顔は、昔のままだった。


「うん。早かったな」

 声が低くなり、顔つきも変わった自分に、彼女はもう驚かなくなっていた。

 僕が「僕」としていることを、自然に受け止めてくれていた。



揺れる距離


 歩道に並んで歩く。

 西日が長い影をアスファルトに落とす。

 僕とミサキの影は、寄り添うように揺れながら伸びていく。


 一瞬、重なりそうになった。

 でも、ミサキは歩幅を少しだけずらした。

 影は触れずに並んだまま、遠くへ伸びていった。


「ユキ」

 彼女の声は、少し震えていた。

「君が前に言ったこと……嬉しかったよ。ユキがユキでいてくれること、それが一番なんだって思う」


 胸が熱くなった。

 でもその言葉には、どこか「線」の存在が滲んでいた。

 越えたいのに、越えられない線。



未来へ


 別れ際、駅の階段を降りていく彼女を見送った。

 春風が髪を揺らし、影が斜めに伸びる。

 その影は、最後まで僕の影と触れ合うことはなかった。


 だけど、不思議と涙は出なかった。

 代わりに、胸の奥で小さな火が灯っているのを感じた。


――僕は、僕として生きていく。

――たとえ影が重ならなくても、この想いは確かにあった。


 西日に溶けていく影を見つめながら、静かに心の中で呟いた。


「ありがとう、ミサキ」


 その声は風に溶け、彼女には届かなかったかもしれない。

 けれど確かに、自分自身には届いていた。




 思春期に感じた戸惑いと痛みは、今も私の中に生き続けています。

 けれど振り返れば、それらは「恥じるもの」ではなく、「自分を形作った大切な欠片」だったのだと感じます。


 本作を通して残したかったのは、ひとりの人間が揺れながらも自分を探し続けた記録です。

 読んでくださった方の心のどこかに、少しでも響くものがあれば幸いです。

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