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2『絶対に離れるな』

 翌日、私は新郎サイレンを徹底的にストーキングすることにした。


 初夜すら断られた以上、何か一つでも彼に気に入られる要素を手に入れなければ、早々に追い返されてしまうと考えたからだ。


 伯爵級とは思えないほどボロボロな屋敷の中、出勤しようとする彼を物陰から見つめていると、背中に目でも付いているのだろうか、彼が振り向いた。




「も・ど・れ」




 と短く鋭く言った。声は聴こえなかったが、唇は読めた。


 私は、ふるふると首を振る。




 すると彼は、『しっしっ』と手を振った。


 私は首を振る。




 彼は腰のポーチから木簡と羽ペンとインクを取り出す。器用にも片手でインク瓶のフタを開き、




『戻れ』




 と書いた。


 私は首を振る。




 はー……っとこれ見よがしにため息をついた彼は、




『絶対に離れるな』




 と書いてくれた。










   ◇   ◆   ◇   ◆










 そうして今、私は馬に揺られている。


 簡素なドレスを着ている私は当然、がばりと脚を開けない。


 私は馬に横座りになり、手綱を握るサイレンに抱きかかえられる形となる。


 抱擁されている、とも言えるだろう。




 彼の腕は太く逞しい。


 分厚い軍服の上からでも、筋肉の形がよく分かる。


 私は彼を見上げる。


 170センチの私がこんなにも見上げるのだから、彼は190かそれよりも背が高いことになる。


 短く刈り上げた赤髪と、同じく燃えるように赤い、けれど今は覇気を失ってしまった瞳。


 英雄・【勝ち鬨】サイレンと呼ばれていたころの面影はない。




 顔の造形は全体的に厳つい。


 が、綺麗に髭をそり落とした顔はどこかあどけなさも残しており、可愛げを感じる。


 大型犬のような雰囲気。


 サイレンはいくつだったか。


 私よりも3つか4つ、上だったはずだ。




 彼と目が合った。


 が、すぐに逸らされてしまった。










   ◇   ◆   ◇   ◆










 連れてこられたのは領都サイラスから馬で小一時間ほどの場所。


『魔の森』に対して城壁を構築している場所だった。


 魔物たちの潜むあの恐ろしい森は実質、魔王国の領土。


 ここが我らが王国の最前線というわけだ。




 日は高い。


 たくさんの職人たちが石材を積み上げ、コンクリートのようなもので接合している。


 だが、壁はあまりにも未完成で、馬上からは魔の森が丸見えだ。


 魔物は日が高い間は活動しない。


 が、だからといって絶対に魔物が出てこない保証もない。


 職人たちを守るようにして数十人の騎兵が配置されているとはいえ、職人たちは不安でたまらないだろう。




 ……あれ?


 私は違和感を覚えた。


 壁には数百名もの職人たちがいる。


 が、実際に手を動かしているのは数十人ほど。


 彼らはみな、ベテランのように見受けられる。




 手持無沙汰にしているのは、年若い――恐らくはお弟子さんやお手伝いさんのような存在なのだろう。


 そんな彼らが、ただ突っ立って、ヒマそうにしているのである。




『彼らは?』下馬した私は、与えてもらった木簡と羽ペンでもってサイレンに問う。『なぜ手伝わない?』




『私が集めた』とサイレン。『だが、どうやら失敗だった』




 あっ、そうか。


 指示をしようにも、声が届かないから指示ができない。


 仕事を教え込もうにも、言葉がなくては教えられない。


 ならば筆談すれば良いのでは? とも思ったが、こんな、いつ魔物が来るかもしれない場所で悠長に筆談し、弟子を育てるような奇特な職人はいないだろう。


 そんなヒマがあるならば、自分で手を動かした方がずっと早い。




 声。


 そう、声だ。


【沈黙領】サイラスでは、ありとあらゆる声が、音が伝播しない。


 魔の森の向こうにいる【沈黙の魔王】ノイジーによる呪いの所為で、ありとあらゆる音が奪われてしまっているからだ。


 つまりこの地では、あらゆる生物が『聾』同然なのである。


 捨てられるようにして嫁がされた地で、図らずも私は、私のハンディキャップがハンディキャップにならない場所に来ることができたのだ。




 私は若干、気分が良くなった。


 ここでは私は、弱者として虐げられずに済むからだ。


 だが、元々耳が聴こえていた人々にとっては、不便極まりないだろう。


 現に今、せっかくの人手が無駄になってしまっているのだ。




 私は観察を続ける。


 職人たちはみな、ひどく忙しそうにしている。


 あっちに行ったりこっちに行ったり。


 工具置き場に工具を取りに行き、工具が枯渇していることに気づいては、工具をそばに置いたまま別の作業に取りかかっている職人の肩を叩いたりしている。


 あちこちで険悪なムードが生まれてたり、ケンカ寸前になって軍人に仲裁されたり。


 その周囲では、弟子・お手伝いが居心地悪そうに突っ立っている。


 ……何というか、地獄のようなコミュニケーションロスだな。


 声掛け一つで簡単に解消できそうなあれこれが、絶望的に嚙み合っていない。




 声。


 声さえ届けられれば。




 ……ん?


 そうだ、あるではないか。


 私には、『声』が!

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