パンドラの舟(後編)
お前なら――どうする?
1.
私は――希望などではなかった。
むしろ逆だ。
私の⾏くところ、悉くに病魔が追いかけてくる。
何故――私に。
何故――私が。
虚ろの箱を持つ⼿に⼒が籠もる。
私を救ってくれた⼈は――
私が齎した厄災によって。
ぐらにつあを彷徨っていた。
2.
話を聞いていた天元は――
明らかに眠そうだった。
おい、聞いているのかと問うと、瞑⽬したまま聞いてるよと返された。
その――常陸のトルエンだかに書いてあるのとほとんど同じ内容なんだろ、何が問題なんだ。
やっぱり聞いていない。
疫病だよ、その不思議な⾈と⼥が来訪した直後、常陸の国で疫病が蔓延した、との記録があるんだ。
――そんな記録は、これまでの史料にはなかった。
記録にないからって、なかったわけじゃないだろ、と天元は⾔った。
今回⾒つかったのも他の史料の類型、と⾔っていたな。
つまりそれ以外にもわんさとあるわけだ。
イレギュラな記載があるのが残ってても、おかしかないだろ。
まあ、それはそうだ。
意図的に疫病の記録を削除したケースもあるだろう。
だが、と私は続ける。
まあいいさ、これがイレギュラな記録だとして、だ。
本当にその⼥が、疫病を流⾏らせたのかな――
だとしたら、その⾈は――
私の言葉を遮るように、天元が呟く。
その女が意図的に送り込まれたのだとしたら――
疫病を撒き散らすための、⽣物兵器だろうな。
天元は、さらりと物騒なことを言った。
3.
私の住んでいた街は――地獄と⾔ってよかった。
路傍には息絶えた⼈々が重なるように倒れ、埋葬もままならない。
それでも死者を弔おうと近づいた者は――
皆病魔に冒された。
⼈々は怯え、家屋に引きこもった。
残り少ない食糧を巡って諍いがあちこちで起こった。
病に効果があるという魔除けが――法外な価格で取引されていた。
皆――病に対する恐怖で如何かしていた。
そんな中にあって、私は――
何故か病魔の⼿にかからなかった。
どれだけ患者に寄り添おうと――
どれだけ亡骸に触れ扱おうと――
私は燃えるような熱も出さなければ、突き刺すような喉の痛みに⾒舞われることもなかった。
そしてある⽇――
私は司祭をはじめとした⼈々に告げられた。
私が希望である、と――
4.
そんな大袈裟な――
天元が呟いた⽣物兵器という⾔葉に、私は半笑いでそう⾔うよりなかった。
だいたい兵器だとして、狙いがつかなさすぎるだろ。
ふらふら海を漂って――下⼿をすればそのまま藻屑となるかもしれない。
最悪放った場所に戻ってくる可能性もある。
そんな迷⼦みたいな兵器があるか――
まあそうだな、⽣物兵器というには、あさっての場所に着弾――いや、漂着するかもしれねえしな。
たしかに⼼許ないわな――
天元はあっさり⾃説を引っ込めた。
やはり真⾯⽬に考えてはいないようだ。
だが――狙いなんかどうでも良かったのかもしれん。
天元は、また呟くように⾔った。
どこかに辿り着くことさえできたら――
タイフォイド・メアリとしての役割は果たせることになる――
メアリー・マローン――
19世紀にアメリカはニューヨークへ移住してきたアイルランド⼈の⼥性だ。
彼⼥は、先天的に――腸チフスの耐性を獲得していた。
ニューヨークで調理関係の職を得ていた彼⼥に、⾃らの特性を理解してもらうのには⼀悶着あったらしいのだが――
最終的には、メアリーは平穏な⽣活のうちに⽣涯を終えたとされる。
そのメアリーと、虚ろ⾈に何の関係が――いや。
待て天元。
それじゃ何か。
その、漂着した⼥性は――
疫病への耐性があったと――
私がそう⾔うと、天元はもともと⼤きい⽬をさらに丸くした。
そりゃそうだろ。
疫病が流⾏ったんだろ。
で、その⼥が原因と仮定するんだろ。
耐性持ってなきゃ――死んじゃうだろ。
いや、そりゃそうだが――
そうだ、あれだ、何のためにはるばる海を越えてやって来たんだ。
耐性があっても病原体は存在してるわけだろ。
やはり無差別に送り込まれた――
⼈を⽣物兵器扱いするんじゃないよ、失礼な奴だな。
天元が呆れたように⾔った。
いや、お前が⾔い出したんだろうが。
ただまあ、無差別に送り込まれたってのは、ひょっとしたら当たってるのかもな――
天元は、やはり⾯⽩く無さそうに呟いた。
5.
⼥の⾏⽅は――
結局判らず仕舞いだった。
状況から考えるに、あの不思議な⼥が疫病を齎したとも解釈できるわけだが、確たる証拠があるわけでもない。
それに――疫病騒ぎでそれどころではなかったのも事実だ。
左陣の病は、ようやく快⽅へと向かっていた。
悩みの種であった味覚と嗅覚の変調も、ようやく無くなりつつある。
結局――
何だったのであろうな、此度の騒ぎは――
そう左陣が呟くと、⽞冬は腕を組んで渋い顔をした。
⽣薬の類が、効いたというわけでもなさそうだ。
結局の所、流⾏病と同じく――
⾃然に消えていったと考えるよりあるまい。
⾃然に――か。
命を落とした者も⼤勢居たが――
罹患しつつも⽣き延びた者は、みな左陣と同様に快⽅に向かいつつあるようだった。
もしもだ、⽞冬殿。
あの――⼥が疫病の原因であったとして――
⼀体何が⽬的でやって来たのであろうな。
そう左陣が問うと、⽞冬は⾸を捻りながら⾔った。
さて――私には皆⽬――
⼥がいなくなってしまった今、その答えは判りそうになかった。
あの奇妙な⾈も、再度海に帰したところ――今度はうまく潮の流れに乗ったのか――
⼆度と浜辺に漂着することはなかった。
誰も乗っていない虚ろなる⾈は――
今頃どこを揺蕩っているのでしょうな、と⽞冬は⾔った。
6.
無差別に送り込まれた――
仮に天元の⾔うとおりだとすれば、わからないのはその理由だ。
特定の地域や国を害する⽬的でなければ、なぜ疫病に耐性を持つ者を――
俺たちの体は、⽇々様々な病原菌と戦っている――出し抜けに天元はそう⾔った。
⾃らの抵抗⼒だけで⾜りなければ、ワクチンや種痘で補うしかないんだがな。
そんなものが、ほいほい扱える時代でもなかったんだろう。
となれば――多少荒っぽいが――
そこまで天元が⾔ったとき、私は思わず顔を上げた。
獲得免疫――
天元は、やはり⾯⽩く無さそうに⾔う。
ある地域なり、国なりが――疫病で壊滅の憂き⽬にあったとする。
そこに――耐性を持つ者が現れた。
このまま⺠が滅ぶのを待つか、それとも、耐性を持つ者に命を繋ぐか――
お前なら――どうする?
そう天元に問われて、私はほんの少しだけ――答えに詰まった。
7.
私は⼀⼈、異国の⼭を駆けていた。
離れたところに――
⼈から、離れた所に――
だって私に近づく者は――
疲労と空腹で、とうとう私は――その場に倒れ伏した。
近づいてくる誰かの気配に、絶望を感じながら――
8.
もちろん上⼿くいく保証なんてないさ。
というか、こりゃもうほぼほぼ博打だぜ。
上⼿くいったらもうけもんの――
⾃棄っぱちさと、天元は嘯く。
じゃあ、その⼥は――全滅の危機に瀕したどこかの国か地域から、種を残すために送り出されたのか。
だとすれば、虚ろ⾈どころか――
⽅⾈だ。
お前の⾔うとおり、免疫の獲得も狙ってたのかもな。
当時の人々がそこまでの知識を持っていたか知らんが――経験則としては知ってたんじゃないか。
⽣き残った者は――より強靱になる、と。
だからその⼥は、そいつの⽣まれた地域だけじゃなく――
結果的に⼈類全体の希望だった、と⾔えなくも――ないな。
天元はそう⾔いながら――なにやら記号の描かれた紙切れを取り出した。
古⽂書の記録によると――2⽉の初めか。
いや、旧暦だから――
天元はなにやらぶつぶつと呟きながら、紙に線と点を打っていく。
これは――占星術か。
そう⾔えば、天元が占術を⾏うところは初めて見る。
天元は――虚ろ⾈漂着事件が起こった時の、吉凶を判じているのだ。
やがて⼿を⽌めた天元は、ぽい、と机にペンを放り投げた。
ふん、⽉が合にあり――阿合は――太星と燎原か。
だったら――
⼤きな変⾰の予兆あり、といったところだな。
それは――
当たっているのでは――
そう思った時、天元と⽬が合った。
此奴――笑っている。
ほら、当たりに⾏っただろ――
私は悔しさを隠すため――紙コップの⽔を飲み⼲した。
10.
何⽇も看病をして――その⼈がぐらにつあを抜けたのは、それから更に数⽇が過ぎたころだった。
⾔葉は通じなかったが――あのときの笑顔はよく覚えている。
判るのは表情くらいで、何を⾔っているのかは解らなかった。
だから、彼がその時⾔った⾔葉が――
ずっとここにいればいいじゃないか、という意味であるのを知ったのは――
⼀緒に暮らすようになってから、随分経った後のことだった。
11.
ところで――
虚ろ⾈の話は複数ある、と⾔っていたな。
机の上の紙をくしゃりと丸めながら、天元が⾔った。
すると――
最後の希望とされた⼥性は、何人も居たんだろうな――
天元の⾔葉を聞いて私は想像する。
不思議な形をした虚ろなる⾈――
虚ろの中には、厄災と希望が積み込まれていた。
希望とされた⼥性には――あるいは過酷な運命が待ち受けていたかもしれないが――
病を乗り越えたその先に、連綿と続く⽣命の⽊。
その⽊は、これからも伸びていくのだろうか。
近年、世界を震撼させた疫病をも乗り越えて――
そういえば。
虚ろ⾈に乗せられた⼥性は、みな奇妙な箱を持っていたという。
そして、それを誰にも触れさせなかったと――
おそらく、⼥性が持っていた箱に⼊っていたのは――
患者の遺体の⼀部か、⾝につけていた⾐服か――とにかく病原体にまつわる何か、だろうな―
私の⾔葉を継いで、天元はやはり⾯⽩くも無さそうにそう⾔った。
死の病を撒き散らす、開けたら最後のパンドラの箱ってわけだ。
だが――
大トリの希望が箱を持ってたんじゃ、パンドラの⽴つ瀬がねえな――
占星術師・笹⽬天元はそう⾔って――
ようやく苦笑ったのだった。