第1章-3 森と月と闇3
王都の間近までは一本道なのだからまっすぐに街道を進めば次の宿泊予定だった村に辿り着く。
けれど怪我人と自分ではろくに走れない人を引っ張って、怪我をしているとはいえ大の男達から障害のない道でのかけっこに勝てるはずがない。
途中で迷わずに街道を外れて森の中へと足を踏み入れる。
初夏は日が長いといっても太陽はもう落ちてきていて、それほどしないうちに森は闇に沈み始める。
夜の森がどれほど危険かは分かっているけれど、それよりも明確な危険が傍にある現在ではとてもそれを斟酌している余裕などない。
小枝に引っかかってドレスの裾にたくさんのかぎ裂きを作っていく。
薄い靴下に包まれているだけの足は、すでに土に汚れて鋭い小石で怪我をして血が滲んでいた。
結い上げていた長い髪が解けて乱れ、汗にじっとりと濡れた額や項に張り付いて気持ちが悪い。
幼少時の森歩きの経験が多少は役に立っているものの、細かく道を選んで逃げているような余裕ももちろんない。
ただ必死に足を動かしていなければ狂いそうだった。
「きゃあ!」
後で上がった悲鳴と共に唐突に腕にかかる加重に倒れそうになるのを何とか堪える。
振り向くと木の根に足を引っ掛けて転んだらしいシャイラが座り込んでいた。
「大丈夫!?」
慌てて自分も傍にしゃがみこむと、シャイラが顔をしかめて足をさすっていた。
「捻ったみたいです…」
立ち上がろうとして痛みを感じたのか、怯えたように首を竦めた。
見れば隣のアリーも座り込んで肩の苦痛に呻いていた。
私もひどい格好になっていると思うけれど、2人も私に負けず劣らず髪も服も乱れていた。
特にアリーは服に血が滲んでいてひどい。痛みと失血に耐えながらよくここまで一緒に走ってこれたと思う。
けれど一度立ち止まると3人とも、忘れていた疲労がどっと全身に襲い掛かってきて立ち上がれなくなる。
荒れた呼吸が喉に張り付くようで、乾いた喉がヒリヒリとして小さく咳き込んだ。
完全に撒いたわけではないだろうけれど、すぐ近くには追っ手の気配は感じられない。
じっと澄ました耳に自分達の呼吸音とざわりと梢が風に揺れる音と鳥の声が届くけれど、それ以外はシンと静まり返っていて近くを見るのにも苦労するような重い闇が身体に圧し掛かってくるようだ。
「手当て、しましょう」
荒れた呼吸が少し落ち着くのを待って、隠し持っていた懐剣を取り出す。
休憩が必要なのは仕方ないけれど、いざという時のためにとにかく動けるようにならなくてはどうにもならない。
鞘にも柄にもゴテゴテと装飾を施した素人目に見ても実用的ではないと分かる懐剣だけど、一応はちゃんと刃が付いている。
抜き出せば微かに闇の中に銀色に輝く刃の先をボロボロの自分のドレスに宛がい、引き裂く鋭い音を響かせて布を切り取った。
重い腰を上げて近くの地面を探すと、適当な枝を見つけてそれを拾い上げる。
怪我をしないように小枝を刃で落とそうとすると、懐剣で少し指を切ってしまって眉を潜めた。
じわりと滲んだ鮮やかな鮮血を舐め取り、まずシャイラの足を取る。
シャイラは靴を履いていたけれど、その足もむちゃくちゃに走ったせいで血豆がいくつも潰れていた。
本で読んだ程度の知識でさっきの枝を添え木にして布を足に巻きつけるけれど、なかなかうまくいかない。
「あの、自分でやります」
私の行動に戸惑っていたシャイラがおずおずと申し出て、不恰好ながら何とか手当ての体裁を整えた。
「アリー、アリー…大丈夫?」
一息つく間もなくアリーに向き直り、そっとその肩に触れる。
「――ッ!!」
その途端、アリーがびくりと身体を大きく震わせて私の手を払いのけた。
ジンと手に走る痛みにびっくりする。
「ぁ…ぅ……ッ…」
アリーが口を開きかけて何かを言おうとしては言葉にならないままヒクリと喉を震わせる。
ガタガタと震えながら私を凝視する瞳に浮かぶ感情に強く胸を突き刺されるような気がした。
恐怖と怒りと嫌悪の眼差し。
その全てが私に向かっているわけじゃないと分かっていても、すっと襲い掛かってくる虚脱感に飲み込まれそうになる。
「…大丈夫。近くにはまだ追っ手はいないようだから…大丈夫。夜が明けるまで隠れて、それから…」
気力を振り絞って宥めようと紡ぐ言葉が途中で途切れてしまう。
それから?それから、どうすればいいのだろう。
襲ってきた人たちは陛下の命令だと言っていた。嘘だと突っぱねたけれど、私は本当に嘘だと言い切るだけの確証がない。
私に頭を下げた陛下の眼差しと言葉を信じたいと思う。でも同じくらい疑ってもいる。
かといって、領地に戻っても受け入れてくれるかなど分からない。
自分があそこで厄介者だったという自覚はある。お父様はともかくお義母様は今回の件に加担していてもおかしくない。
どこへ行けばいいの?
湧き上がった疑問にしばらく思考が止まる。
全方向から押し潰されそうな錯覚に喘ぎ、溢れそうになる何かを寸前で食い止めて音がなるほど強く歯を食い締めた。
「…大丈夫。あなたたちは、守るから」
我ながら根拠のない無責任な言葉だと思う。
疲労は3人平等としても、これ以上走れないだろう2人は足手纏いだ。
もともと押し付けられた侍女でもある。思い入れもなくていなくなっても困ることなんて、ない。
それでも…
「大丈夫よ。私が主人である限り、貴方達を無事に帰すから」
アリーとシャイラの両方を交互に見て、ぎこちなく慣れない笑みを浮かべてみせる。
誰が認めなくても誰にも必要とされなくても、こんなにボロボロでみっともなくてそれらしくなくても、私は貴族の娘として生まれて育ってきた。
そして嫌々でも引き受けたのなら上に立つ者としての誇りにかけて、この2人は私の保護下に置かなければならない人達だ。
今の私に確かに残されているのはその矜持だけだ。
ここで逃げればその矜持さえ自分で潰してしまうことになる。だからここで1人逃げるわけにはいかない。
とにかくアリーの矢を抜くべきかと悩んでいると、なぜか驚いたように私を見ていたシャイラがはっとしたように私の背後を指差す。
「シ、シアネータ様…」
慌てて振り返ると、グルル…とくぐもった唸り声が上がる。
急いで周囲を見回すと、そこかしこから同じような唸り声が聞こえた。
ほのかな月明かりにぼんやりと浮かび上がる黒灰色の毛並みと冷たい灰色の瞳。
おそらく血の臭いに惹かれて集まってきたのだろう、十数体の野生の狼たち。
いくら考え事をしていたとしてもすっかり取り囲まれているのに気づかなかったことに内心で自分を罵る。
アリーとシャイラを近くの木の幹に押し付けるようにして背中にかばう。
抜き出したままの懐剣を構えて息をつめて周りを取り囲む狼たちを睨みつけた。
「…来るなら来なさい!けれど私の侍女に手出しはさせないわ!」
威嚇というよりも自分を鼓舞するために声を張り上げる。
心臓が破れそうに速く脈打っていた。自分が食べられている間に2人が逃げ出せる隙はあるだろうか。
私の大声に警戒しつつ、狼たちが飛び掛るタイミングを計っている。
周囲が一触即発の緊迫感に包まれたその時、ふわりと目の前の闇が揺れたような気がした。
「助けてやろうか?」
唐突に響いた、気だるげな低い男の声。
驚きに見開いた私の瞳に飛び込んできた、毒々しいまでの紅い色。
どこから現れたのか分からないまま1人の男が私の前に立ち、面白そうに朱金の瞳を私に向けていた。
加速する閉塞感と縋り付く矜持。
彼女にはそれしかなかった。
そう生まれつき、そう生きることしかできなかった。
ようやっと出会いました!でもまだ出会っただけ…orz
次もできるだけはやく更新できるように頑張ります。
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