第2章-5 貴方に贈る言葉
目が覚めたらアカザの顔が真っ先に見えた。
それもそのはずで、私は守られるようにアカザに抱き抱えられて膝の上に乗せられていたから。
「シヅキ?」
私が気づいたのに気づいたのか、顔を覗き込んでくる。
ぼんやりとした明かりがアカザの顔を照らし出していて、それでようやく周囲に小さな光が溢れているのに気づいた。
どこかの深い森の中のようで、見たことはないけれどそれがいつかアカザと共に行き、その後私が沈んだ湖と同じような場所だということが分かる。
言葉にされなくとも私のために来たのだと分かって、嬉しいけれど胸が痛んだ。
「アカザ、大丈夫……?」
こういう場所は私には……特に今の私には僅かなりとも力を与えてくれるけれど、アカザにとってはここにいることが負担になるだろう。
そう思っての私の問いかけにアカザは微かに眉間に皺を寄せてうなる様な声を出す。
「大丈夫じゃねェのはお前だろ」
「私はもうどうもなりようがないもの」
苦笑しながら強張ったアカザの顔に手を伸ばして頬を撫でる。
「……逝かせねェ」
ぎゅっと強く抱きしめられて胸が痛くなった。
それでも言わなければならない。
「もう駄目よ」
辛いとかだるいとかそういう感覚はないけれど、指先から抜けていくように力が入らない。
上手くは言えないけれど、たぶん世界に還るというのはこういうことなのだと思う。
狂った世界の循環の中から正しい世界の循環の中へ。
思ったよりは恐怖を感じない。
このまま世界に溶ければいいのだと本能的な場所が訴えてくる。
けれどそれに抗うように私の中でどこかが焦燥を募らせていった。
「ならなんで戻ッてきた」
怒りを含んだ声に怯えて体を竦める。
反射的に飛び出そうになった謝罪の言葉を飲み込んだ。
「持ち上げてまた地面に叩きつけるためか」
糾弾のようなアカザの言葉に唇の内側をぎゅっと噛み締める。
それでも喘ぐように息を吸い込み、激しい感情に深さを増したアカザの瞳を何とか逃げずに見つめた。
「もう二度と現れないほうが良かった?」
傷つく権利もないくせに、真っ当な非難に傷ついた弱い心のせいで震えてしまう声を情けなく思いながら、叫びだしたいような恐怖をこらえてしばらくの沈黙を待つ。
思い切り顔をしかめたアカザがまた微かな唸り声を発して、ぎりっと微かに歯が擦れ合う音と一緒に私の鼓膜を震わせた。
「--……そういう聞き方は卑怯じゃねェか」
それは婉曲的ながらも否定のようで。
色々なものを押し殺したような低い小さな声で返ってきた言葉に、酷い女だと思いながらも泣きそうなほど安堵を覚える。
「そうね、とても卑怯で身勝手だわ。でも私は謝れないの。だってどれだけ酷いか分かっていても、私はもう一度アカザと会えたことを後悔できないのだもの」
再び出会ってからの日々を思い出して、ふと気づいたことがあってくすくすと笑ってしまう。
「もっと巧くいくと思っていたけれど、私また同じことを繰り返したわね」
初めはアカザを憎んで、けれど惹かれる気持ちを殺すこともできなかった。
結局どんなに体が変わろうが記憶を失おうが本質は同じで、自分は自分でしかないのだと思う。
愚かで卑屈でちっぽけでワガママだ。
取り繕えてもそれが変わったわけではないし、そういう自分を好きだとは思えない。
けれど分かってそう認めてしまえば、不思議と気持ちが少しだけ楽になった。
「気まぐれで多少つれない方がイイ」
苦笑の気配を滲ませた口調がなんだかくすぐったくて、そこに含まれた許す意思にひどく甘やかされていると感じる。
アカザには我慢ばかり強いている気がして、目の奥が熱くなりじわりと目が雫を含むのが分かった。
何度も口にしそうな謝罪の言葉を歯を食い閉めて堪える。
息まで詰めてしまうのを意識をして肺に空気を取り込んで、アカザの腕を辿って探り当てた手に指を絡めるようにして握り締めた。
太くはないけれどゴツゴツとした硬い手は私とはまったく違っていて、何度触れても変わらないその愛しい感触と低い体温に勇気をもらう。
「ビャクレン……アカザの言う『花』の1人に、もう一度アカザに会わせてやろうかって言われた時、もしアカザにちゃんと会えたらたくさん話したいことがあると思うはずなのだけど、どうしても伝えたいことを考えたら1つだけしかなかったの」
「――なんだ?」
握った手を握り返されて、甘えてアカザの胸に頭をもたれかからせた。
「ありがとう」
アカザの目が軽く見開かれる。
口にしてみて自分でもどうしてこんなくだらないことをとも思う。
けれどかつてアカザと一緒にいた頃、私は彼にそんなちっぽけな言葉さえ伝えていなかったんじゃないかと思い至ると、どうしてもそれだけは伝えたくなった。
「貴方と出会ってからの1年は、私にとって初めて『人間』として生きられた時間だった」
堪えきれない涙が溢れてみっともなく声が震えてしまう。
アカザに浚われてから怒って八つ当たりして、ぎこちなくでもちゃんと笑って、アカザのために楽しんで何かを作って、アカザのいない悲しさに苦しんで泣いた。
あんなに感情を揺さぶられて表に出したのは何も分からなかった子供の時以来のことで、アカザと出会って全てが良い方向に動いたわけじゃなく、むしろいくつかは最悪な形になってしまっても、それでも振り返って残るのは感謝と愛しさばかりだった。
けれどもう私がアカザに残せるものといったら、この心くらいしかないから。
だから精一杯、この心の全てをアカザに残したかった。
私を選んでくれて。
私と一緒にいてくれて。
私を守ってくれて。
――…私を好きになってくれて。
「ありがとう」
ひくり、と涙に喉が震える。
こうしている間にもどんどん体からは力が抜けていって、しっかり握っていたはずのアカザの手の感触がよく分からない。
涙のせいだけじゃなく、声を出すのがひどく難しくなっていく。
「あの冬の日に、貴方は私に幸せになれと言ったけれど」
それでも唇を動かして私が残せる最後の言葉をアカザに贈る。
「欠けているものなんてなかった。私はあの時もう、幸せだったの」
ここはだいぶ暖かなはずなのにとてもひんやりとして感じられて、あの冬の日を思い出した。
けれどあの時とは違ってすぐそばにアカザがいて、力の入らない私の代わりに私の手を握ってくれる。
「だから……ありがとう」