第2章-4 真実へと至る3
湧き上がった怒りに意識がクリアになる。
「私の父は人間だわ」
触れられていた手を払いのけて鋭く言い放つ。
ビャクレンと名乗ったその人は全く痛そうな顔もしていないのにふりだけは痛そうに払われた手を空中で軽く振った。
「それは半分正しく半分間違っている。お前の器を形作るのは確かに人の肉体だが、お前の魂の気を整えたのは私だよ。神依りの娘は同族や王統の直系でなければ気が安定せず子を成しにくい。人でない者の血が混じるからな。だがお前の母はどうしても夫の子を望み、神依りの一族の存続を望んだ私がそれに応え、私の力の欠片を繋ぎとしてお前は母の胎へ宿った。だからお前は私の娘だ」
嘘だと言いたいのに、この人が嘘をついていないことがなぜか分かる。
目の前のビャクレンと私がどこかで繋がっているのだということが、この空間ではひどく強く感じられて唇を噛んだ。
「だから何だというの?私を育てたのは貴方じゃない。今更何をしにきたの」
負け惜しみのように言い放ちながら、また涙が零れ落ちる。
「神だとか巫女だとか、そんなものなんて知らない。私が欲しいのはそんなものじゃない」
振り返ってみれば私は、いつもどこかに私の居場所が欲しいと思っていた。
何か自分に出来ることがあれば、自分が存在していてもいいような気になれるかもしれないと。
ほんの一年と少し前ならもしかしたらこの人の話にも多少の興味を引かれたかもしれない。
でももう今は、それではだめになってしまったのだと改めて分かった。
アカザの傍がいい。
アカザの隣でなくては嫌だ。
「ではお前は何を望む」
「――…もう一度アカザに会いたい」
「会ってどうする?お前は見放されたのだろう?」
「それでも……ッ!会いたい……伝えたいことが、伝えなくちゃいけないことがあるの」
「聞く耳も持たないかもしれない。拒絶されるかもしれない。それでも?」
無言のまま頷く私を見下ろしているビャクレンの瞳が、哀れなものを見るように傲慢な光を宿す。
「もう一度会わせてやろうか」
驚きに目を見開いてその人を見つめると楽しそうにくすくすと笑いながら私に手を伸ばしてくる。
ひんやりとした指先が優しく、けれど甚振るように私の頬を撫でていく動きにゾクリと背筋が震えて嫌な汗が噴出した。
「今お前は生と死の狭間にいる。もっと正しく言うのなら、体からほとんど抜け出した魂を私の力で補強して、一時的に留めているに過ぎない。お前はもうほぼ立派な死人だ。神依りの一族が人以外の要素を持っているとしても、体を無くしては魂も長らえられない。――ただし、何事にも例外というのはあるのだよ」
「例外……?」
相手の意図を探ろうと慎重な声で尋ねる私に、ビャクレンはまたおかしそうにかすかに喉を振るわせる。
「そう。今、お前を留めているのは私の力だ。本来ならこれは世界の理に反することだが、私とお前の間には縁がありお前の魂は私の力に対して拒絶反応が薄い。留められるのならその結びつきを強めてやればいい。ただしそのままのお前では駄目だ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「より私に近い形にお前の体を作り変える。だが本来そうでないものを無理やり違う形にするのだから、相当な苦痛を味わうだろうし長い年月も必要だ。長く私と離れて生きることも出来ない。それに成功したところで、恐らくお前は記憶を失うだろう」
「記憶を?なぜ?」
「世界の記憶と矛盾するからさ。繰り返すがお前は今、もうほとんど死人だ。世界からは省かれるべきもので、それが生き返れば世界の理が乱れる。世界を誤魔化すためには世界から『シアネータという存在はがいた』という痕跡を消さなくてはならない」
私の顔から手を離したビャクレンは、その手で今度は私の手を取って引き上げた。
力にそって立ち上がると初めから高いと分かっていたその人の身長が、思ったよりもさらに高いことが分かる。
おかしなことに私は半分死んでいるはずなのに、その人がかすかに身動きするたびに涼やかな水と甘い花の香りを私の鼻腔が感じ取る。
「記憶は世界の記録とそこに生きるものの痕跡。記憶が戻るたびに偽りは剥がれ落ち、お前という存在は次第に世界から異質なものとして拒絶されて壊れていく。あるいは私の力に浸食されて魂が崩壊するのが先か。どちらにしても分の悪い賭けだ」
受けるのが馬鹿のように言いながらも、その提案に私が強く揺れているのを分かっていて楽しんでいるようだった。
「だがそれを受け入れるのなら、この種は私が生かしてやろう」
「種……?」
唐突に何のそぶりもなくビャクレンの手が伸びて私の腹部に触れた。
「う、ぁ……ッ!!!」
何をするのか疑問を口にする前にずぶりとビャクレンの手が私の下腹部に沈み込み、痛みはなかったものの襲い掛かる内臓を掻き回されるような強烈な気持ち悪さにうめく。
脂汗を滲ませながら反射的に逃れようとする私の体を、腕を掴んでビャクレンが捕らえた。
入っていった時とは逆に、慎重にゆっくりと腹から抜かれていくビャクレンの手にビクビクと反射のように体が震える。
唐突に離されたビャクレンの手の支えに、力を失った私の体は重い音を立ててビャクレンの足元に転がった。
けれどその痛みよりも先に、心臓を握りつぶされたような悪寒に青褪める。
ひどく重たく感じられる体を身じろがせほとんど目線だけでビャクレンを見上げて、その手に輝く淡い桃色の弱弱しい光を目にした途端に悲鳴のような声が無意識に口を飛び出た。
「返してッ、私の……ッ!!!」
「返したところでこのままではただ消えていくだけだ」
必死に伸ばした私の手を避けるように退いて軽やかに紡がれた言葉に反論の言葉を失う。
「私なら生かせる可能性がある。その後どうなるかは知らんがな」
ビャクレンが優しく撫でるように手のひらに乗る小さなその光に触れると、わずかに光が輝きを増したことに悔しさで息が詰まった。
「さて、どうする?」
高いのか低いのかよく分からない、けれどとても美しく響く声が優しく問いかける。
ビャクレンの元で育つということは、アカザの障害になるかもしれない。
それでも、私に他に選ぶ道なんてなかった。
アカザに会いたかった。
ビャクレンの手の中の小さな光を消したくなかった。
「――お願い、私をアカザに会わせて……」
消え入りそうな私の声に、叶えてやろうと残酷にビャクレンが囁いた。
***
水の冷たさに手足がしびれる。
もうすでに肺の中までいっぱいになっているはずの水が、少しの振動で体の中で揺れ動くのがひどく気持ち悪い。
けれどそれ以上に体に巻きついた植物から注ぎ込まれる力の波動に上げられない悲鳴を上げてもがいた。
僅かな綻びを割り侵食してくる大きく遠慮のない乱雑な力に、魂が砕け散りそうになって繰り返し何億回と頭の奥が真っ赤に染まる。
それとともに乱暴に剥ぎ取られていく記憶の欠片たちに涙が溢れた。
壊れそうになりながら全てを変えられていく恐怖を永遠かと思えるような長い時間耐える。
その中で繰り返し紡いだただ1つの名前が私の魂を留めてくれた。
ほとんどの記憶がなくなってもそれだけは奪わせないように、抱きかかえるようにして大事に大事に自分の中で守る。
そうしていつしか深く眠るように水の中で過ごし、どれくらいの時間が過ぎたのかも分からなくなった頃、私は唐突に目覚めていた。
久しぶりに水の中から出ると体はひどくだるくてうまく動かなかった。
そして何もかも分からなくなった私の目に、暗闇に禍々しく浮かぶ赤く染まった月が映る。
「――……探さなくちゃ」
切なくて苦しくて涙が溢れた。
――伝えたいことがあるの…………