第2章-2 代償1
屋敷に戻ってきてから本格的な夏へと移り変わった。
気まぐれに森から連れてきてから適当に整えてシヅキに明け渡した部屋の中で、その部屋の主のシヅキは気候の変化に負けて熱を出し、布団に包まって荒い呼吸を繰り返している。
その眠っていても分かるほどぐったりとしているシヅキを見下ろしながら、弱いなと思う。
俺や俺の同胞に比べて人間がか弱いことは疑いようのねェ事実だが、それにしてもシヅキは本当に脆弱だ。
本人にその自覚がないのか時に結構な無茶をやらかすのがまたやっかいだった。
ちょっと見ただけで分かるほど明らかにシヅキは上流階級の人間で、恐らく屋敷の奥底に閉じ込められるようにして生きてきたはずだ。
しかも明らかに日光に弱そうな白い肌の人種で、浴びたこともないだろう強い夏の太陽の下を延々と歩き続けることを毎日繰り返せば、守られて生きてきたひ弱な人間がどうなるかわからねェもんだろうか。
まァ、溜めこんだ疲労の一部は俺のせいだっつー自覚はあるが。
ただの馬鹿なのかと思えば頭の出来は悪くねェ。
試しに筆の使い方を教えるついでで色々な国の言葉を教えてみれば砂が水を吸うように覚えたし、諦めの悪さで逃げ出す方法を探り続けているのだから考えることが苦痛な人間でもなさそうだ。
教えたうちのいくつかの言語は基礎をすでに学んでいたという。
カナルの貴族子女に対する女性教育がどの程度のモンなのかもちろん俺は知らねェが、シヅキに与えられたその水準が恐らく並み以上なンだろうということは何となくわかる。
見てわかる事実だけを上げていけば大事に守られて甘やかされて育った人間なンだろうが、シヅキからはそういった満ち溢れた愛情に触れて育った人間の匂いがあまりしねェ。
つらつらと取り留めもなく考えながら見下ろしていたシヅキの頬を涙が伝う。
ずいぶんとうなされていると思ったら、夢見が悪いのだろうか。
流れた涙を手のひらで拭ってやると、瞼が震えてぼんやりとした紫紺色の瞳がその下から現れる。
「お父様……?来てくれたの……?」
熱に掠れた声が乾いた唇から零れる。
まだ完全に眠りから覚めていないのか、ここにいない……恐らく父親だろう、その姿を探して涙と眠りにけぶる瞳を小さく左右に動かしていた。
「ごめんなさい……役に立てなくてごめんなさい……ちゃんと戻ります……だから、嫌わないで」
嫌わないで、と繰り返しながらまた涙を頬に伝わせる。
体調不良の辛さから少しばかり幼児退行しているのかもしれない。
溜息を呑みこみながらそれをもう一度手のひらで拭ってやり、シヅキの顔を覗き込むように軽く身を乗り出して自分の姿をその眼に映させる。
「俺はお前の親父じゃねェよ」
俺の声に不思議そうに瞬いた目がようやく焦点を結ぶ。
そしてきゅっと眉間に皺を寄せると自分に触れていた俺の手を払いのけた。
「出て行って」
精一杯睨んでいるンだろうが、熱のせいでやっぱり力がない。
「俺が俺の屋敷でどこにいようと俺の勝手だろ」
指図は受けないと突っぱねると布団に手をついて上体を起こし、俺のほうへと身を乗り出して平手を振り上げた。
ふらふらしている病人の女の平手なンか別に痛くもかゆくもないが、大人しく叩かれる趣味などまったくないので振り下ろされたその手をあっさりと掴む。
「…ッ、何なのよ!」
割れた声で叫ぶように言いながら自分の手を取り返そうともがくが、離したところでまた振り下ろされるのが目に見えているのでそのまま離してやらない。
「どうして邪魔するの!?どうしてこんなことばかりなのよ!」
喉が痛むのだろう、掴まれていない方の手が自分の喉に伸びてそこを押さえる。
「努力すればするほどどうしてこんなことになるの!?自慢の娘になろうとしたわ!認めてもらえるように言われたことはすべてこなした!隔離されるように育っても冷たい態度を取られ続けても文句など言わなかった!道具のように譲渡されても、私が求められる場所があるならと従った!他にどうすればよかったというの!?」
掴んだシヅキの手が逆に俺の手をきつく掴んで手の甲に爪を立てられる。
溜まりに溜まった鬱屈を放つような声が部屋にわぁんと反響し、叫んだ代償に背中を丸めて思い切り咳き込んでいた。
「――……みんな嫌い……大嫌い」
ひとしきり咳に苦しめられると癇癪も通り過ぎたのか小さな声でそう呟いて項垂れ、ヒクリと喉を震わせながら泣き始める。
まるで小さな子供みたいなその姿に正直うんざりしながら溜息を零した。
「なら俺が殺してきてやろうか?」
俺の発した言葉にシヅキが顔を上げて涙に濡れた目を驚きに瞬かせる。
「認めてもらえなくて恨んでいるんだろ。殺せば多少すっきりするんじゃねェか」
ついでにこいつも放り出してきてやろうかと思っているうちに、シヅキの顔が青ざめていく。
力が抜けかけていた俺の手を握る手に再び力が籠もる。
「やめて」
掠れた声を振り絞りながら緩く頭を左右に振る。
「違う……殺してほしいんじゃない、殺さないで。お願い、殺さないで……」
すがるように必死に俺の手を握りながらさっきよりも苦しそうに涙を零す。
「自分の意向で誰かが殺されるのが怖ェか?」
多少嘲るように笑いながら言うと、シヅキはまた弱く首を横に振った。
「死んだら、もう会えない。もう愛してもらえない……」
細いもう片方の手が俺に伸びてきて、ぎゅっと胸のあたりの服地を握りしめる。
「――恨んでるんだろう?」
「違う……愛して欲しかっただけ。――愛を受け入れて欲しかっただけ」
ふらりと傾いだシヅキの体を反射的に抱きとめた。
零れる温かな涙が胸に沁みこむ。
嗚咽を零しながら溢れ続けるその涙に三度手のひらで触れた。
それはまるで行き場のない想いが溢れているようだと思った。
体調不良なのに無理をしたせいで意識も朦朧としているだろうに、俺を行かせないためにだろう、しっかりと俺の手に爪を立てるくらい強く手を握りしめている。
それはどれくらい強くてまっすぐな感情なのだろうかと思った。
こんな感情を向けられるのはどんな気持ちになるンだろうか、と。
気を失うように俺の腕の中でまた眠りに落ちたシヅキの体を抱き寄せて髪に顔を埋める。
シヅキはきっと、大事に思う者には愛した以上の愛を返そうとするだろうと疑問もなく思えた。
現状、俺は言い訳のしようもなく身勝手にシヅキに我慢を強いている。
それでもシヅキはいつか俺を赦すだろうか。
こいつを満たしてその心を俺だけに向けさせられたら、どんな気分になるのだろう。
――……チリリと体の奥で警告を発するように俺の核が疼いた。
その痛みに顔を顰めてから笑いたくなる。
「ミイラ取りがミイラだな……」
じわりと襲いかかる倦怠感に自嘲の色を含んだ声が出た。
世界に定められた俺の役割がどんなものかなンて問うまでもなく分かっている。
それに逆らえばどうなるかも。
だが構わねェと思った。
それで俺が消えてもこいつの心が欲しい。
初めはただの気まぐれだった。
だがこの夜、逃れようもなく俺は紫の月に囚われた。
虐待されて保護施設に預けられたこどもの多くが虐待した親を求めて夜泣きするそうです。
そして帰ったら殺されるという施設の先生の説得にも応じず家に戻る子供もいるとのこと。親権者が求めて子供が応じた場合、施設関係者にそれを阻止することは難しいそうです。
死地と分かっていて、求めても無駄だと分かっていて、それでも愛を求めて親を愛して、家に戻るこどもの純粋さと強さと愛情深さはどれほどのものなのでしょうか。
惰性で大人になりずる賢くなった分、諦めを覚えてしまった私には本当にはうまく描けないような気がしながら書きました。