第2章-1 再会3
小さな滝壺から勢いよく流れ落ちる水が涼やかに飛沫を上げ、澄んだ水がそのまま小川となり緩やかにうねりながら一帯を流れていく。
その水によってそこら中で咲き誇る花々の香りで、まるでその地は霞がかかったかのようにも感じられるかもしれない。
楽園を体現したようなその地にある、小川から水が流れ込んだ白蓮が咲き乱れた大きな湖の中央には、岸から橋がかけられて繋がれた瀟洒な東屋があり、その中のベンチに腰掛けながら1人の貴人がぼんやりと気だるげにくつろいでいた。
「接触したか」
ぽつりと呟く声と共に、小さく笑い声が零れた。
「悪趣味ですこと」
傍に控えていた女が、咎めるような声と視線を主たる貴人に向ける。
ニヤリと口の端を吊り上げた貴人は堪えた様子もなく優雅に少しだけ首を傾げた。
その拍子に白い絹糸のような長く美しい髪が肩を滑り落ち、衣擦れに似た音を立てながら陽の光にキラキラと銀色に輝く。
「心外だな。私は多少、手を貸したに過ぎない。選び、行動しているのはあくまであちらの意思だ」
「不必要に下界に干渉しないという我々の不文律はどうなさいますか」
「あれらはすでに人ではない。それに先に盟約を歪めたのは人間側であろうに。ここから……よりにもよって私の園から花を盗み出したのもな」
従僕たる女は主の言葉に何かを言いかけて、けれど諦めたように口を閉ざしてため息をついた。
ふい、と女から目をそらした貴人は、明るい光に輝くように咲き誇る花々を見つめて目を細める。
「私は見たいだけだよ。もしやり直せるのなら、人間は本当に間違わずにいられるのかを」
「ならばせめて記憶に手出しせず、ただ見ていれば良いものを」
「なぁに、それはそれ。私も楽しめなければあまりにつまらない。それに恋とか運命にはスパイスというものが必要なのだろう?」
楽しそうな貴人と再びの溜息をこぼす従僕、2人の女の声は当然地上に届くことはなく、天上の花園にひっそりと響いて消えた。
***
誰かが自分のことを探していると耳にしたのはそんなに前のことじゃない。
うろうろと色んな場所を……時には大陸の間を越えて渡り歩く生活をしているから、顔見知りはそれなりに多いし、大抵の噂話は同胞から伝わってくる。
だから、数年前くらいから俺のことを探している人外の女がいるって言う話も自然に耳に入った。
自分が清廉潔白だなんて爆笑するようなことは言わねェから、別に自分を探している……それも穏やかならざる様子で……というのは別に珍しい話でもない。
いつもなら記憶にも留めない程度の、そんなつまらない話だ。
ただ、伝え聞いた女の容貌がそのつまらない噂話を俺の記憶の片隅に留めさせた。
漆黒の髪と雪白の肌、それから……宵闇のような深い深い紫の瞳。
聞いた時に感じたチリ、と胸の奥で何かが焦げ付くような感覚を覚えている。
それはとても覚えのある痛みだった。
今は遠い昔になってしまったある満月の日、降り注ぐ月光を遮るほど深い森に覆われた山の中を進む女の姿を見ていた。
求めて奪いつくそうとして、けれど奪えなくて。
本能に逆らってまで手放したのに、結局全て捨て去れずに惨めに様子を見に行った夜。
ほっそりとした華奢な身体が終着点である湖に足を進めた時、喉奥から悲鳴のような制止の声が飛び出しそうになった。
けれど、その瞬間にどうしようもなく愚かな欲が出た。
どうしたってきっと紫月は自分の手には入らない。
そうしていつか誰か別の男が紫月の隣に並んで幸せになるのかもしれない。
それを望んだはずなのに、考えると手当たり次第全てを壊したくなるような衝動に襲われた。
――だから……手に入らないのなら、いっそ誰のものにもならないように滅びればいい。
俺の見ている目の前で紫月は湖に沈んだ。
その瞬間に俺は例えようもない愉悦と内臓を全て抉り出されるような苦痛に同時に満たされた。
もう終わったのだと思っても、じりじりと乾くことのない傷跡を引っかかれるようにずっと続いてきた何とも言いがたいその気持ちは、普段は忘れていられるのに何の拍子もなく時折舞い戻って俺にどうしようもない苛立ちを感じさせる。
例えば、気付くと束の間の恋人に紫月の影を探している時。
例えば、紫月の好きそうなものを目にした時。
例えば、雑踏の中で紫月と似たような声を聞いた気がした時。
あれから100年以上も過ぎているのに記憶の中に蘇る姿は髪の一筋まで鮮明で、振り返ればすぐ傍に少し怒った顔をしながら俺を睨みつける紫月がいそうな錯覚さえ覚えさせた。
何度か戯れの恋をしてみても、どれほど時間が経っても、褪せてはくれなかった。
だから紫月に似た人外の者がいると聞いて、暇を持て余していた時に会いに行ってみようかと気まぐれを起こした。
少し似ている程度だろうと思っていた。
だから目の前に予想以上に紫月に酷似した人外の者が現れた時、怒りで頭の奥が強く痺れた。
柄にもなくメルヘンチックに例えれば、大事にひっそりと仕舞い込んでいた宝物にベタベタと手垢を付けられたような気持ちになった。
目の前の女もそいつを作った奴も、どうやって地獄の苦痛を上回る死を与えてやろうかと思い、瞬時に頭の中にその方法が幾通りも駆け巡った。
けれど、投げつけられた見覚えのある小さな輝きを目にした時、これまで感じたこともないような驚愕で身体が動かなかった。
それから気がついたら夢中で抱き寄せて腕の中に強く拘束していた。
腕に返ってくる抵抗の力さえも甘く思えて、髪に顔を埋めると水とかすかに涼やかな花の香りがする。
何かが満たされたような気がした瞬間、けれど紫月の問いかけで現実に引き戻された。
――見捨てた俺が今更、紫月に手を伸ばす権利があるのだろうか。
――殺す、というほど憎まれているのに。
自嘲の笑みが口の端に浮かんだ。
けれど、どう誤魔化したって俺はそういう人物で、そういう存在だから。
だから素直にそのまま自分の欲を口にした。
「お前が沈むのを、見てたから」
紫月の瞳が大きく見開かれるのを見ながら、微かに喉を嫌な笑いが震わせる。
「沈んでいくお前をただ見てた。手に入らないのなら沈めばいいッて思ッたかンな」