第1章-6 さらに冬を経て2
残酷な描写が出てきます。15歳未満の方、生理的に嫌いな方はブラウザを閉じて下さい。
気がついたらいつの間にか自分の部屋にいて、ひとりで畳の上に座っていた。
ずっとアカザに返す言葉が出てこなかった。
以前の私なら、きっとアカザ側の事情なんて知らないと、そっちの勝手な言い分だと突っぱねられたと思う。
でも今の私には出来なかった。
それをするには私の心がアカザに近づきすぎている。――アカザの消滅を恐れるほどには。
それでも故郷を見捨てるのかと問われれば、それにも頷けないのだ。
虐げられ続けた記憶ばかりでも、愚かの極みだという自覚さえあっても、私はカナルを捨てられない。
人から蔑まれる理由があるからこそなおさら、私はあの国とその土地に暮らす人を守るように徹底的に教育されて育った。
そしてあの森を、湖を、遠くに見える山を、街を、私は確かに今も愛している。
――私を愛さなかった父も、また。
それは私の核であることを、離れた今だからこそ強く感じている。
それを守るために、どうすればアカザを止められるのだろうと考えた。
アカザだけを止めてもあまり意味はないのかもしれないけれど、たぶんアカザがいないだけでもとても戦況は変わるのだと確信している。
真っ先に思いついたのも真っ先に却下したのも、『色仕掛け』という手段だった。
大抵のことはこだわりがないアカザが、自分のことは例外的に気に入って傍に置いているようだというのは分かっているけれど、それでも自分の存在がこんな大きなことに対して効力があるとはあまり思えなかった。
それに実際に留まって欲しいというようなことを言ったけれど、あれは婉曲的に断られたんじゃないだろうか。
他にもずっと起きていてアカザが出かけようとしたらしがみついて止めるとか、扉の前に座り込みをするとか、馬鹿らしい上にたぶんひょいっとあの力などで…悪くすればそれさえも使わずに…どけられて終わりな気がする案が頭の中を巡る。
どうすればアカザがカナル国に行かないようにさせられるだろう。
ここにいる私が出来ることではたぶん、それが一番カナルへの助けになる。
アカザがいなければ……いなくなれば。
考え至った方法に愕然として、思案しているうちに深く暗い淵に落ちかけていた思考が現実に舞い戻った。
それと同時にゾッと背筋を這い上がる感覚に自分の両腕を抱きしめるように腕を回した。
ひどく静かな邸内の沈黙が身体に重くのしかかる。
おぼろげな記憶を探ると、そういえばアカザはまた出かけてしまったのだと思い出した。
傍に転がっていた珊瑚の帯飾りを微かに震える手で拾い上げる。
そういえば初めて会った頃には、いつでもアカザを殺そうとチャンスを狙っていた。
何かを贈ったり贈られたりするようなことは考えも付かなかった。
季節の移ろいとともに変わってしまったものが胸を締め付ける。
私はどうすればいいのだろう。
今までも飽きるほどに繰り返してきた問いに、やはり答える声はない。
***
アカザがいないことに胡坐をかいて、数日は抱えた問題を棚に放り投げていた。
アカザは本格的に冬になる前に攻め込むと言っていたから、もうそれほど時間はないと知っていたけれど。
寒冷なカナルは春と夏が非常に短く、だらだらと秋が続いていたかと思うと初雪を境に急に一瞬で氷が出来るほど寒くなって本格的な冬に入る。
そうなれば2メートルを越す雪に埋め尽くされて、とてもじゃないけれど戦どころじゃなくなる。
だから冬に入るとそれが天然の守りになって戦を避けられるのだけれど、アカザのような人じゃない者達にもそれが通用するのかは分からない。
こちらでも経った数日のうちに風が随分と冷たくなった。
ちくちくと針を動かして衣を縫っているうちに今日も日が暮れてしまい、手元が見えなくなってきたので針山に針を戻して縫いかけの衣を畳む。
雨戸を閉めて外と遮断されれば、アカザに使役されている…正確に言うとアカザの知り合いが屋敷に施した術によって使役されているらしい…精霊が、部屋を温めてくれているので寒さは感じない。
けれど考えすぎたのとずっと締め切っていたために頭がぼんやりしていて、それを追い払おうと立ち上がり庭に続く扉と雨戸を開いた。
途端に流れ込むひんやりとした空気に火照った肌を撫でられ、心地よさにため息が零れる。
けれど空を見上げてその目に映ったものに、僅かに緩んだ気持ちがまた強張った。
「あれは…」
ほんの僅かに太陽の残滓を残す濃密な紫の空に、いつものように丸い月が2つ浮かんでいた。
けれどその色はいつもとまったく違う色に染まっていた。
金色が混じったような鮮やかな朱色は毒々しく、けれど華やかで…月の色としては珍しいけれど、その色がごく最近まで身近にあったことを思い出す。
「――シヅキ」
ぼんやりとその月を見ていると、唐突に呼ばれて驚いて視線を庭に戻す。
いつのまにかそこに立っていたアカザはべったりと何かに濡れて、いつもに増して真っ赤だった。
「アカザ…ッ!?」
「…そこにいろ」
反射的に沓脱石に下ろしかけた足をアカザに止められて、戸惑いながらその姿を見つめる。
風に微かに混じる鉄錆と腐臭が混じったような臭いに、アカザの身体を濡らすそれが色水などではなく血液なのだと知らされた。
怪我をしたのだろうか。アカザが人と同じように赤い血を流すのかは分からなかったけれど。
近づきたいけれど近づかせない雰囲気を放つアカザの姿に、深くなってきた闇に苦労しながら視線を這わせていると、アカザの右手の辺りにあるものに気がついて目を見開いた。
それなりに大きくて歪に丸く、そこから伸びている糸束のようなものをアカザが握って持っている。
「アァ…これか?」
それに気づいたアカザが陰鬱に口の端を吊り上げて軽く右手を振り上げると、その球体が虚空に弧を描いて庭に落ち、鞠のようにテン、テン、と軽く数度ほど土の上を跳ねて、ごろりと私の傍に転がる。
薄暗闇に浮かぶその球体からは土と血に汚れた亜麻色の糸がたくさん生えていて。
中央辺りにはまった二つの青い色彩は、記憶にあるのとまるで違うもののように何も映さず、ガラス玉のように私の方に向けられていた。
美しく気高く、高慢ささえ華にしてあの人の側にいた人の…。
厭われても憎いとは思わなかった。愛しいとも、思えなくなっていたけれど。
それでもいつかわずかでも、認めてくれればと思っていた。
「――お義母様…?」
かすれた声に被さるようにアカザの声が響く。
「伝言だ」
涙が出ない自分は薄情なのかと考えながら、もう人だったものの一部になってしまったソレから視線を上げる。
「誰、の…?」
「お前の父親から」
アカザの返答に現実に引き戻されるのと共に、肌寒いくらいの気温なのにザワリと悪寒が走り抜けた背中に冷や汗が浮かぶ。
それに気付いたように微かにアカザが笑い声を立てた。
「まだ殺してネェよ。――戻って来い、と」
伝えられた言葉に知らずに体が震える。
繋がって欲しいと願いながら、繋がることはないと思っていた細い細い糸が……繋がってしまった。
無数に伸びてくるその糸に体が囚われていく錯覚を感じながら、もう悩む時間もないのだと、悩む間に失われた命があると突き付けられた氷のような現実に、私は声もなくその場に座り込んだ。