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紫闇朱月  作者: もにょん
第1章 少女と妖
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番外編 闇姫様3

「アリー、シャイラ!きなさい!」

 馬車の外から闇姫様の鋭い声が響く。

 呆然としていた意識がはっと現実に戻り、そのまま伸びてきた闇姫様の細い手に腕を掴まれる。

「いや、いやです…!」

「そこにいたら逃げ場もなく殺されるわ!」

 引っ張り出そうとする力に抗うけれど、再び鋭く発せられた闇姫様の声に身体を竦ませる。

 本音を言うならこのまま閉じこもっていたい。

 けど、たぶん闇姫様の言う通りなのだろうと嫌々ながら馬車から外へと降り立った。

 途端に視界に飛び込んできたいくつもの死体に身体が震え、鼻を掠める嫌な鉄錆と生臭さに喉の奥からすっぱいものが込み上げそうになり口元を抑える。

 闇姫様の紫紺色の瞳が私の顔を覗き込んで真っ直ぐに見つめた。

「逃げなさい。できるだけ遠くに。そしてどうにかお父様か陛下に今日のことを伝えて」

「シ、シアネータ様は…?」

「私も逃げるわ」

 ガタガタ震える私に心配する必要はないと言うようにきっぱりと告げ、戦っているサバルティア侯爵家の護衛達にも逃げるよう指示を出す。

 少し離れていても多勢に無勢で皆、傷だらけだ。

 あの壁が破られたらと思うとパニックで頭が働かない私を嘲笑うようにひゅんという風切り音が響く。

 半ば反射的に隣を振り返ると、なんと矢がアリーの肩に突き刺さっていた。

「きゃあああ!!」

 アリーが痛みに蹲るのを視界に映しながら、カクリと膝から力が抜けて地面に座り込む。

 少し位置がずれていたらその矢を受けていたのは自分だった。

 それを頭がはっきり理解する前に再び闇姫様に強く手を掴まれて立たされる。

 結果的にそれが良かったのだと思う。何とか立てた。

「走って!」

 何を考える暇もなくそのまま闇姫様に手を引かれて、アリーと一緒に走り出す。

 向こうから敵がやってくる気配がはっきり感じられた。追い付かれたら殺されるという思いだけが私の足を動かさせる。

 それでも鍛えられた男性の足と怪我人を含む女性の足とでは差が歴然としていて、ぐんぐんと距離が縮まってくるのが分かった。

 私は生まれてこのかたこんなに一生懸命、必死に走ったことなどないくらいに走りながら、唐突にものすごく笑いたくなった。

 事実、苦しくて上がっている呼吸にひきつった笑い声が微かに交じる。

 どうしようもない時に人間は笑うか泣くかの二通りに別れると言うけど、この時初めて、私は笑う方だったのだなと頭のどこか冷静な部分で認識した。

 全部後で思い返して分かったことだけど、この時の私はもちろん何かが可笑しくて笑っていた訳じゃない。

 のしかかる重苦しい空気の圧力に心が耐えられなくて、その拒否反応で聞くに堪えない狂った笑い声がこぼれるのだ。

 生きてきた中でこの時ほど近くに死神の足音を聞いたことなんてなかった。

 死にたくないという言葉が具体的に頭に浮かぶ余裕もなく、狂った笑い声をあげつつほとんど反射で足を動かしていた私は、普通の人が端から見たら立派な狂人だったと思う。

 幸か不幸かその時は周囲に冷静な人間なんていなかったけど。

 いつの間にか空が茜色に染まり始めていた。

 闇姫様がチラリとだけ後を振り返ると、唐突に進路を変更する。

 どこへと思う暇もなく奇跡的に掴まれたままの手を引っ張られ、転びそうになりながら街道をずれて森の中へと分け入った。

 カナル国の天然要塞でもある深い森は、まだ日暮れになりはじめたばかりでもうっすらと闇の気配が漂っている。

 奥に行けば行くほどそれは濃くなり、木々の間隔も詰まってとても走りにくくなった。

 けどそれは追ってくる相手も同じようで、闇姫様に手を引かれるまま茂みや幹などを上手く使って何度も相手の視線を反らす。

 それを繰り返すうちに少しずつ、けれど確実に追手の気配が遠ざかっていった。

「――ぁっ、きゃあ!」

 恐怖の対象が遠のくと余裕が生まれるのと共に、たちまち足が震えて思い切り木の根に足を引っ掛けて転んでしまう。

 痛みに身体を竦ませながらも反射的に身体を捻って後を振り返る。

 もうすでに真っ暗になってしまった森の中に追手の姿は見られず、そこで全身の力が抜けてそのまま土の上に倒れそうになった。

 けれど慌てて私の前に膝を着く闇姫様の姿になんとかそれを堪えて座る。

 一度身体を止めてしまえば、転んで擦れた場所だけでなく走り詰めだった足までガクガクと疲労に震えて痛い。おまけに足も捻ったみたいで、少し動かすだけで鈍く痛んだ。

 全身が汗だくで肌に服が張り付き、渇ききった喉は呼吸をするだけでヒリヒリと痛む。

 隣でアリーも同じように座り込んでいて、私と同じように疲労困憊で俯いている。

 闇姫様が私の脚の状態に気づくと、休憩を取ることに決めた。

 惜しげもなく短剣で自分のドレスを引き裂いて、それを包帯にして私の手当てをする。

 すでにそのドレスはボロボロになっていたけれど、迷いのない行動に今日何度目かの驚きを覚えた。

 さすがに人の手当てなどしたことがないのだろう手馴れない手つきに自分ですると申し出て、闇姫様がアリーに向き直る。

 そして聞こえた手を払う高い音にぎょっとしてアリーの方を振り向く。

「アリー!」

 ガタガタと震えるアリーの肩を掴んで正気に戻そうとするけれど、アリー自身も自分の行動に動揺しているのか落ち着かない。

 とりあえず謝らなくてはと闇姫様に向き直ったけど、振り返った先の闇姫様の姿にぎょっとして謝罪は言葉にならなかった。

「…大丈夫」

 掠れるように小さな声でそう言った闇姫様は、全然大丈夫そうじゃなかった。

 重苦しい夜の森の闇中でははっきりとは分からないけど、昼日中で見たならおそらく慌てるくらい顔色が悪かったんじゃないだろうか。

 追手は追いついてきていないと、まるで自分に言い聞かせるようにも聞こえる風に言う。

 そのいつもよりもなおいっそう張り詰めた気配に、なぜか私は始めてこの人に出会った時のことを思い出していた。

 

 ”それに誰だって泣き場所は必要でしょう”

 

 同時に頭に蘇った声に、ああ、もしかして、と思う。

「…大丈夫。あなたたちは、守るから」

 ぎこちなくこわばった、何とか笑みにも見えなくもない微笑を闇姫様が浮かべた。

「大丈夫よ。私が主人である限り、貴方達を無事に帰すから」

 何とか安心させようとするように大丈夫と繰り返すその声が震えている。

 強い人だ、と思った。

 けど同じように、弱い人だ、と思った。

 私を含めた普通の人と変わらない。普通に怖がったり、きっと泣いたりもするのだろう。

 無性に消えてしまいそうな風情の彼女を抱きしめてあげたくなった。

 けれどそれは、耳に届いた微かな唸り声と闇の中に輝くいくつもの灰色の瞳の訪れに叶うことはなかった。

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