第1章-4 まずは夏3
森の木々から視界が開けた先には湖が広がっていた。
湖といってもそれほど大きくはない。ところどころに小川が繋がっていてそこから水が流れ込んだり逆に流れ出したりしている。
湖を渡ってきて冷えた風がひやりと心地よく頬や首筋を撫でて通り過ぎる。
湖面は闇に沈んで重く真っ黒になっているはずなのだが、今はそこが無数の小さな光に満たされていた。
「何…これは…」
湖から浮かび上がるようにふわりふわりと小さな小さな、私の小指の爪ほどの大きさの光が空に向かって上っていく。
ちょうど真円を描く双子月の光に交じり合うかのようにほのかな青みを帯びた光は周囲に散らばり、微かな風に波打つ湖面の反射に増幅され小さな湖と空の間を満たして昼のように輝かせていた。けれど昼の太陽の下では決してない、ひっそりとした神聖な何かがそこに凝っている。
美しいもの、綺麗なもの、素晴らしいと思えるものにはこれまでも何度となく見てきた。
けれどそういったものを見て怖いと思ったのは初めてだった。
魂が吸い取られそうに美しいがゆえに恐ろしい。なのに視線がそこから外せない。
魅入られるという言葉はきっとこういうことなのだろうと、しばらく経ってから知らず零れた感嘆のため息とともに納得する。
「精霊の卵…いや雛だな」
すぐ傍で紡がれた声が私の問いかけに対する返答なのだと気付くのに一瞬の間を必要とした。
ようやく視線を目の前の光景から引き剥がしてアカザの方を見る。
アカザは私にちらりと視線だけ寄越してまたすぐに目の前の光景へと視線を移した。
「多くはねェが世界中にたまァにこういう場所がある。『光』の…あァ、言っても分かんねェか。簡単に言やァ湧き水みたいに、大陸の地面の下に走ってる力の道と地面が近い場所から溢れてくるんだ。お前みたいなただの人間が視認できるほど強く湧き出るのは、大抵は周囲の生き物の生命力が強まってる時期の満月の夜…ここの場合は夏で今日ッてことだ」
私のほうを見ないまま面倒そうに説明をしてくれる。
こんなに綺麗な光景を見ているのにどことなく不機嫌そうな顔が不思議で首を傾げたけれど、気づいただろうその仕草には答えは返ってこなかった。
変わりに私を抱き上げていない方の空いている手を緩く持ち上げて光の一角を指差す。
そこに視線を移すと溢れ出ていた光が虚空に解けるように消えていくところだった。
「大抵はあんな風に形を保てねェまま消える。ただいくつかは近くの動植物に混ざって魔付きや精霊付きと呼ばれるようになッたり、ぶつかり合って巧く融合して精霊なんかになる。その中でもごく稀にいい依代に巡り会ったり、よっぽど巧く融合して大きくなッた奴らなんかがそこそこの自我を持つ。はっきりと高度な自我を持つのはさらにその中でもごく一部だァな」
「――…あなたもこんな場所から生まれたの?」
自然に唇から零れ落ちた疑問にアカザがちょっと驚いたように眉を上げて、私をまたちらりと見て面白そうに口の端を持ち上げる。
「いや…俺は違うが……珍しィな」
「…?」
「俺のことなんてどうでもいいんじゃねェの?」
言われて怒るよりもギクリとした。
「何となくよ」
不機嫌そうに言い放って誤魔化すと、「ふゥん?」と嫌味な相槌が返ってきたけれどそれ以上は突っ込まれずにほっとした。
なぜだか分からない。ただ何となく知りたくなくて、胸の奥に微かに引っかかったトゲを無視をする。
再びぼんやりと目の前の景色に見蕩れていたが、ふとアカザの視線を感じて眉を潜めた。
「…何?」
「ちったァ元気になッたか?」
問い返されてその内容にちょっと驚き目を瞬かせる。
――ひんやりとした風が肌に気持ち良かった。でもそれだけじゃなくて、意識するとだるかった身体がいつの間にかだいぶ軽くなっていることに気づく。まるで呼吸ごとに取り込むこの場に満ちた何かが身体に活力を与えているように。
「酔う奴もいるンだが、お前は気の容量がでかいみてェだかンな」
大丈夫だろ、と言いながら苦笑を浮かべた。
ふとその時、先ほどアカザが湧き上がる光に向けて浮かべた嫌そうな顔が思い返される。
そして軽く電撃に撃たれたような衝撃が身体の中を駆け巡った。
「――アカザ」
軽く身体を捩って、できるだけ正面からアカザの朱金の瞳をじっと見下ろす。
同じようにじっと見返してくる禍月の双眸に、微かに声が震えそうになって1つ息を呑んだ。
「…好きでもないのにここに来たのは、私のため?」
――アカザは答えなかった。
ただ柔らかく微笑んで帰るかと呟いた。
どうしてそんなことをしてくれるの。
どうしてそんなに優しい目で私を見るの。
いくつもいくつも浮かんでくる問いかけは喉に詰まって声にならない。
「…あなたなんて大嫌い」
「知ってンよ」
再びアカザの歩く振動に揺られながら、押し出すように紡いだ言葉に飄々とした返事が返ってくる。
なぜだか胸が詰まってひどく泣きたくなった。
なぜだか考えてこんな風に損得もなく自分の都合を押してまで私を気遣ってもらったのは初めてだったことに気付く。
「…ッ」
自覚したとたんに湧き上がる感情に留める間もなく涙が頬を滑り落ちた。
寂しい。
とても寂しい。
自覚などしたくなかった。けれど優しさに触れて自分の中にある気持ちの悪い浮遊感の正体がそれであることに気付いてしまった。
「――寝とけ」
静かにアカザが手を伸ばして私の頭を自分の肩に押し付けさせる。
それがまたさらに涙を溢れさせた。
どうして初めて触れた優しさがこの妖なのだろう。
逆恨みと分かりつつも憎らしさが募る。
「…あなたなんて大嫌い」
アカザの肩に強く額を擦りつけながらもう一度嫌いと繰り返す。
アカザの苦笑の気配がした。
宥めるように背をたたく手に、少しだけ自分の中で漂っていた浮遊感が薄れたような気がした。
独りがいいと思っていた少女は、恨み憎み怒って泣いて生々しい感情を知っていく。