第1章-1 彼女の事情1
残酷な表現が含まれる場合があります。
また完全なハッピーエンドしか受け付けない方には不向きな内容となっております。
小雨の降る庭を窓辺でぼんやりと見つめながら溜息をつく。
待ち人はすでにここ、サバルティア侯爵家の居城に到着していて、この部屋に向かってきていると先ほど連絡を受けた。
とはいえ城内は広い。
先に足を向けた父である当主の部屋は城の最深部にあるから、離れになるこの館まで辿り着くのに今しばらくかかるだろう。
いつもはひっそりとしている最低限しか手を入れられていない私の寝起きする離れの館は、来客の予定が決定してから戦争のような慌しさで整えられた。
先ほどからぼんやりと見ている小雨の降る窓の外にも、庭師が身命をとして整えた美しい庭が広がっていて一見の価値がある。
だがその庭を眺めていると嫌なことを思い出して再び溜息がこぼれた。
***
「闇姫様が若様に呪いをかけようとされたんだって」
そんな通りすがりの囁きに息を止めたのはいつのことだったか。
闇姫様とは私の宵闇のような瞳や黒髪をさして付けられた渾名のようなもので、魔の刻といわれる夜の暗示でもあり、畢竟わたしのことを人外だと示す蔑称だった。
もちろん侍女が私の前でそれを使うことはないが、自分がどう思われているのか感じ取れるくらいには成長していた頃だったと思う。
「ええ!?でも闇姫…シアネータ様はこの離れから出られないはずじゃ…」
「衛兵の目を盗んで抜け出したみたい。奥様と侍女が目を離した隙に近づいて毒草を投げつけたとか」
「ひどい!いくら継母の子供だからって、若様には罪はないじゃない」
「ほら、やっぱり前の奥様が呪いの儀式で授かった子供だっていうから…」
私がすぐ傍の茂みにいることになんてまったく気づかずに花咲く、メイド達の勝手な噂話に唇を噛み締める。
反論の言葉が一瞬で頭の中を無数に駆け巡って、けれど一瞬の後に空虚な気持ちが胸を覆い尽くして立ち上がりかけていた体が脱力する。
自分に弟が生まれたと聞いたのは使用人たちの話を聞いた日よりそう前でない日のことだった。
『新しいお母様』という人がやってきた時もとても不思議な気がしたが、自分に兄弟ができたと聞かされた時はもっと不思議な気がした。
『新しいお母様』が私のことを好きではないのは初めて顔を合わせた時から分かっていた。
家族になる人だと聞かされていたからとっても楽しみにしていたけれど、『新しいお母様』の顔を見たときに仲良くするのは諦めた。
『新しいお母様』は笑っていたけれど、その目が語る感情が私を嫌って恐れているメイド達と同じだったから。
お父様も私とはあまり会ってくれない。
会うことがあっても、決して私の顔をちゃんと見ようとしない。
けれど新しく家族に加わったという弟はどうだろう。
私を恐がらないだろうか。嫌わないだろうか。私の瞳を見ても、笑ってくれるだろうか。
想像するとひどく浮き足立つような気分になった。
生まれてくる日を指折り数えながら、あまり部屋の外に出してもらえない自分がどうしたら会いにいけるか一生懸命考えた。
いつも私を閉じ込めておけていると思っている衛兵だけれど、実際にはこどもにしかわからない、使えないような抜け道というのがいくつかあった。
以前に犬か猫を飼っていたのかこの離れの部屋の壁や扉には、そういった動物が出入りするための穴がいくつか作られていた。
そのほとんどは今は綺麗な装飾を施した板やタイルなどで覆われて閉じられいるけれど、私はその中で弱くなっていた板が外れる場所を見つけていて、たまにそこを使ってこっそりと外に出ていた。
メイド達の噂話を聞いたのもそのせいだ。
だから自分の住む侯爵城のどこに何があるのかくらいは分かる。
弟のいるだろう場所も見当が付いた。
だから弟が生まれていろんな人が弟のお祝いに来てお城が騒がしくなって、みんな忙しそうにしている隙に部屋を抜け出した。
けれどすぐに弟のところに向かわずに、まず城の裏手にある森にいった。
弟にお祝いをしてあげたかったから、花を摘みにいったのだ。
もちろんお城の庭には森で咲く花よりも綺麗で見事な花がいくらでも咲いている。
でも勝手に摘んではいけないと言われていたし、頼めば切ってくれるだろうけれど部屋を抜け出したのがばれてしまう。
だから森に行った。
森の花は小ぶりで慎ましやかなものが多かったけれど、その代わりいくら摘んでも文句を言われない。
早く戻らなければ抜け出したのがばれてしまうから、急いでなるべく綺麗なものを小さな篭いっぱいに詰め込んで弟のところに向かった。
森を歩き回って疲れていたけれど、胸ははちきれそうに高鳴っていて疲れは気にならなかった。
弟のいる部屋にはいろんな人が出入りしていたけれど、そのうち弟を休ませると寝室に連れて行かれた。
そっとそのあとを付けて弟の周りから人がいなくなる隙をじっと待ってから、慎重に弟の眠っている小さなベッドに近づく。
初めて見る弟はなんだかつぶれたサルみたいな顔をしていた。
小さくてくしゃくしゃで、あんまり可愛くないことにがっかりした。
でも大きくなったら普通になって、一緒に遊んでくれるかもしれない。
「はじめまして、私はあなたのお姉さまよ」
すやすやと眠る弟に笑いながら話しかけて、籠の中に摘んだ花がベッドに降り注ぐように篭を逆さにした。
花の雨みたいで綺麗だと思ったのだ。
でも唐突に弟が目を覚まして泣き出した。
たぶん驚いたのだと後で分かったけれど、そのときはこっちの方が驚いて慌てた。
混乱しているうちにその弟の泣き声に戻ってきたメイドに発見されて、お母様が慌てて部屋に入ってきて弟を私から守るように抱き上げると、カンカンに怒って私を睨みつけてくる。
「私の子に何をしようとしたの、この悪魔!」
憎悪さえ込められたその声に打たれて私は大きく目を瞠って立ち尽くした。
あまりの衝撃に違うという声も出てこない。
必至に頭を左右に振って否定しようとしたけれど、すぐにやってきた衛兵に囲まれて有無を言わさずに自分の部屋に連れ戻された。
しばらくの間は警戒が強まっていたけれど、それがじきに緩んだ頃にすぐにもう一度抜け道を探して抜け出す最中に召使たちの話を聞いた。
私はただ弟と仲良くしたかっただけなのに。
ただ弟を祝福したかっただけなのに。
どうして解ってくれないの。
どうして勝手な理屈で私を決め付けるの。
否定しか聞こえてこないその場から逃げ出すように私は駆け出した。
***
外が雨のために薄暗いせいでガラス窓がまるで鏡のようにぼんやりと私の姿を映す。
ほとんど陽を浴びたことのない白い肌。
闇のように深い黒髪。
女性としては肉の少ない痩せた体。
そしてその瞳の色は宵闇のようだと言われる紫…人外の者と呼ばれる特殊な能力を持った魔物だけが持つ色。
母親の命を吸い上げて生まれた母殺しの魔物だと言われて育った幼少期には碌な思い出がない。
かといって今もそれほどいい思い出はないけれど。
弟の誕生から10年以上がたち、18歳になった。
貴族としては16歳か17歳が結婚適齢期で、私はやや出遅れた感じになりつつも、屋敷の離れで絶賛引きこもり生活を送っていて、このまま嫁き遅れになってこの離れでひっそりと生きていくだろうことが容易に想像できていた。
けれどその予想は数日ほど前に唐突に破られた。
そして今日たった今、その原因となった人物の訪れに振り返り、扉の前で深々と淑女の礼をとり出迎える。
この国で誰よりも尊く気高い場所におられる方を。
「――ようこそお越しくださいました、クラウス陛下」