あの人のお酒
ここら辺はいくつかのバーや飲み屋が並んでいる。本当に酒好きのために、各種の酒を飲ませる店から、料理もいろいろ食わせる店もあるし、静かな曲を聴きながらゆっくり飲むのがメインの店がある。
そういう中で、カクテルを飲ませるのがメインの店があった。メニューがカクテルしかないのは、割と珍しいだろうと思う。
中井は30才になる会社員だが、一見でこの店に飛び込んで以来ファンになって通っている。ただ、つまみも無いし、ほかに何もない。ただただメニューか、メニューに無いものもあるが、とにかくカクテルしか注文できるものが無い。
この店のカクテルは、客がリクエストした『味』を作り、出してくれる。そして、彼はいつも同じものを一杯だけ頼む。
「初恋をひとつ」
店員がシェイカーにいくつかの酒や果汁を入れたりして、シェイクしグラスに注ぎ、中井の前へ静かに滑らせる。それをすぐさま、サッと一口飲む。
「んー。やっぱり少しだけちがう」
店員は苦笑いを浮かべて、中井はカクテルの残りを一息に飲んでしまった。
「初恋の味って、みんな、ちがうものなんだねえ。……だいぶ前に、一度、俺の思う初恋にすごく近いのを作ってくれた人がいたんだけど、あの人も、近い味が作れたのがなぜかその一度切りだった。あの人もこの店やめちゃったね。残念だったなぁ」
ある夜、中井がまたバーを訪れた。
カウンターについた中井に、店員が、いつものように『初恋』を前提に、注文を取ろうかと思うと、中井は、今日はちがうことをいった。
「初恋の味ばっかり求めていたけど。最近、恋自体の味を忘れて来た気がするから、きょうは『これが恋だ』って言うのを一杯もらおうかな」
「承知しました」
店員は微かに口元に笑いを浮かべて中井の話を聞いていたが、軽く頷いてグラスを用意し始めた。
少しして、心待ちに『恋の味』を待っていた中井の前に彼が考えてもいなかったものが出されて来た。ウィスキーのロックだった。
下部に厚みがあり、けれど周りは薄い華奢な感じのロックガラスだった。その中に大きな一塊の、どこかの山脈を思わせる形の氷がそびえている。そのグラスの中へウィスキーが氷の山脈の上部が見える程度に注がれている。
「これが恋なのかい」
中井はグラスを差し出した店員に尋ねたが、店員は何も答えないどころか、両手を開いて見せ、軽く肩をすくめた。彼はベテランの店員だが、『恋』そのもの味は、彼にも難しいものなのかも知れなかった。
中井はグラスに口をつけた。ふだん彼が口にしない、強い香気と意外な甘さを感じた。これを一杯、飲み切るには、このグラスと、長く繋がって、緩く抱えていなければならなかった。だが、時間を掛けて飲んでいると、氷が溶け出して味が変わっていった。時々、フッと不可思議な香りも感じた。
「あ~、なんだか胸にストンと落ちたり、染みこんだりする」
「そうですか」
中井がある女性との結婚を決めたのは、それから3ヶ月後だった。




