桔梗(ききょう)
妻と死別して、九年が経ちました。
連日の猛暑日に倦んでいた夏の朝だった。
早朝に目覚めた友明は「うん」と伸びをしながら、ガラリとベランダの窓を開けた。
寝惚けた顔を涼やかな風が、ひやりと撫でて、吹き過ぎていく。
おもむろに、カレンダーに目をやる。
ー八月七日ー
妻を見送って、もう、九年目の朝。
男やもめの生活にも、いつしか慣れてしまった。
いつものように、起き抜けのコーヒーを淹れる。
一人暮らしの家に、仏壇はない。
居間の一隅に設えられた小机に、ぽつんと置かれた写真立ての中で笑む小さな妻の顔。
昨日、仕事帰りにスーパーの惣菜売場に寄って帰る途中、神社の朱い鳥居の横に、花売りが店を広げていた。
何気なく、目に止まった、薄紫の可憐な花。
「あぁ、妻の好きだった…」
思わず知らず、手に取っていた。
「おおきに、三百円になります。」
藍染めの前掛けをした五十がらみのおやじが、声を張る。
ポケットをまさぐり、代金を渡して、おやじに尋ねた。
「この花、何て花やったかな。」
「桔梗ですわ。もうすぐ秋やね。」
と答えると、陽気なおやじは、くしゃりと笑った。
帰宅して、妻の写真立ての横に買い求めた桔梗の鉢をコトンと置いた。
その可憐な姿が、窓から入る涼やかな風に揺れている。
友明は、早朝のコーヒーをゆっくりと飲みながら、その姿を眺めている。
妻の小さな写真の横で、妻の好きだった桔梗の花が、小さく震えた気がした。
猛暑の最中、早朝にふと感じた涼風をモチーフに書いた掌編です。
暑い日々に、涼を感じていただけますように。
ご一読ありがとうございました。
作者 石田 幸