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ヤマダヒフミ自選評論集

フェルナンド・ペソアと世界の終わり

 



 フェルナンド・ペソアという詩人の事を私はよく知らない。それなのに、私は彼をまるで隣人のようによく知っている。


 「彼らのうちでまったくの異邦人として暮らしてきたのに、誰も私の正体に気づかなかった。スパイとして生きたのに、誰ひとり、私ですらも、正体を疑わなかった。誰もが私のことを同胞だと思っていた。生まれた時にすり替えがあったことを誰も知らなかったのだ。」

 

                          (フェルナンド・ペソア「不穏の書、断章」)


 ペソアの「不穏の書」を読んでいると、そこに鬱然とした一人の人物が浮かんでくる。その相貌は私には極めて親しいもので、同時に、彼が世界に対して感じている疎外感も極めて馴染みのあるものに思える。

 

 ペソアの書いたものは、私には一貫して「現代性」を感じる。今で言えば、契約社員とか、派遣社員のような問題で、正社員として組織にしっかり所属しているわけでもなく、フリーターやニートのように、企業から完全に離れているというわけでもない。

 

 ペソアは、本の書き手をベルナルド・ソアレスという自分の分身にあてている。ベルナルド・ソアレスはリスボン在住の「永遠の」簿記補佐である…。


 「ひょっとしたら、私の運命は簿記方のままでいることかもしれない。詩や文学は、たまたま私の額に留まった蝶にすぎず、その美しさのためにかえって私を滑稽にするのかもしれない。」


 「もし私が全世界を手にすることができたなら、私はきっとそれを交換することだろう。ドウラドーレス街行きのチケットに。」


 「ああ、そうなのだ。ヴァスケス社長とは人生なのだ。単調で必然的な人生。命令は下すが、人から知られることはない。あの平凡な男が平凡な人生を体現している。」


 ドウラドーレス街、ヴァスケス社長、簿記方、といういくつかの名詞に注意したい。これらは、ペソアにとって(ソアレスにとって)、世界の全てである。これら平凡で単調なものが世界を支配している。この世界の中で、ペソア一人が居場所がない。そこで、彼は世界から一歩退いた空白に自分の場所を据える。


 この空白も、ドウラドーレス街も、ヴァスケス社長も、簿記方も現在を生きる私達には馴染みのあるものだ。試しに、ドウラドーレス街を自分の街の名に、ヴァスケス社長を自分の上司に、簿記方を自分の職種に当てはめてみるがいい。そこには、全く同じ空間ができあがるはずだ。


 もし、あなたが、この世界でフェルナンド・ペソアその人に出会う事ができるとすれば、彼はどんな相貌を見せるだろうか。私には極めて容易に想像できる。

  

 きっと、こうだろう。ペソアはあなたと会社で顔を合わせると、いつも礼儀正しく、控えめで、おまけに仕事もきちんとできる。上司からの言葉に口答えする事もなく、誰しもが彼を信頼しているし、密かに愛情も寄せている。だが、ペソアという人物はいつも孤独の影が指していて、彼がどんな生活をしているのか誰にもわからない。飲み会に誘っても彼はやんわりと拒否する。あるいはたまにやってくる事はあるが、席の端でぽつねんと一人で飲んでいる。


 私達は彼と会っても、まるで彼がとても大切な物をどこかに置き忘れてきた、魂をどこかに置いてきたという印象を持つだろう。この形態の創始者は思うに、カフカなのだろう。カフカに会った人が、「彼と自分との間にはいつもガラスのようなものが挟まっていた」と話していたのを見た事がある。カフカもペソアも、このガラス一枚隔てて私達と接している。彼の名前は戸籍に載っている。会社にも所属している。勤勉であり、社会的には問題がない。それにも関わらず、彼の心はいつもここにあらず、だ。


 大きな事を言えば、この資本主義の社会において、人間は労働機械という物になり、それは「金」「時間」という数量によって計られる。そこで、この「数」に熱中する子供のような大人達が世界の頂点を占め、それに対して熱意を持てない「詩人」は必然的にそこから疎外される。世界から離れ、自己から離れ、そこで彼は美しい光景を見る。


 ペソアの夢の中には、アルチュール・ランボーが「イリュミナシオン」で魅せためくるめく世界、きらびやかな映像というものが出てくる。また、それはドストエフスキーの描く人物が、夢の中で見る美しい光景に似ている。彼らはいずれも、人間性を喪失、世界から疎外され、その空白の中、極度の真空状態において美しい夢を眼前に見る。真空は真空のままである事ができないから、彼らの現実性の喪失には「夢」が貫入してくる…。


 「これが、不滅に死んでゆくこの夕闇の平穏な美しさの前で、私が感じたことだ。私は澄み渡った深い空を見上げる。ぼんやりとしたバラ色のなにかが、雲の影のように、羽の生えた遠い人生の融和しがたい産毛が、浮かんでいる。目を下ろすと、河には、水が静かなさざ波を立てて流れ、もっと深い空からやってく青を反映しているかに見える。」


 こうした光景は、詩人の才能の所産でもなければ、想像力の発達の為に生まれたのでもない。ただただ彼の喪失の結果生まれたものだ。彼が現実に対して目を閉じると、そこにやむなく夢が降りかかる。彼はただそれを見たに過ぎない。


 天才と呼ばれる現象は、ペソアにとっては己自身ではなかった。彼にとって天才は「ヴァスケス社長」であり、この極めて汎用な人物こそが「天才」であり「王」であるのだった。


 この世界はいつの間にか、小さなドウラドーレス街そっくりになっていて、無数のヴァスケス社長が頂点に立ち、喚き、それに憧れる小ヴァスケスがいて…その裏で密かにペソアと呼ばれる男は原稿用紙に何かを書き付けていたのだった。ペソアはこんな事も言っている。


 「おそらくある日、理解されることだろう。私が誰にもまして、今世紀の解釈者という生来の義務を全うしたことが。そしてそれが理解されたとき、同時代の人びとに私が理解されず、無関心さと冷淡さの只中で不幸に生きたのはなんとも残念であったと書く人もいるであろう。そしてその時代にそんなことを書く者は、私をいま取り囲む人たちと同じ様に、未来の時代の私の同族たちへの無理解を示しているのだ。というのも、ひとは、すでに死んでしまっている祖先たちからしか学べないからだ。」


 私にはドウラドーレス街と、簿記方、ヴァスケス社長、フェルナンド・ペソアという詩人は、彼が感じていたように永遠であるような気がする。本の巻末において、池澤夏樹という作家が奇妙な自分語りをしているが、彼は「私をいま取り囲む人たち」であって、ペソアとは似ても似つかない。池澤夏樹という人はどちらかと言えば、ヴァスケス社長であり、また、世界(ドウラドーレス街)にとってはそれで十分なわけだ。


 この今の瞬間も、世界は、ヴァスケス社長のものであって、凡庸なものであり、凡庸なものが支配した世界であって、フェルナンド・ペソアと呼ばれるような存在は相変わらず簿記方で、ひっそりと夕暮れ時に原稿用紙に向かい合っているだろう。この世界の有様が、私達をして一つの宗教とさせた。私達が、現世に生きる事を絶対視し、自分達の生、その卑俗さを世界の頂点にお仕上げたために、詩人は中央部分から疎外される事になった。


 そういう場所において、今日のペソアは我々にとって不可視の場所で、何やら不思議な文章を書き綴っている事だろう。彼の言葉に出会う事ができるのは、彼の死後においてであろう。そうやって、私達は彼に報いているのだろうか? 生きている間、彼に示した非情さの取替えとして? …いや、それは問う事はできない。彼が、あらゆる愛情を拒否したのもまた確かであっただろうし、世界がどうであろうと彼がフェルナンド・ペソアであった事は疑いない。


 いずれにしろ、我々は世界の外側で、彼と出会うのだが、その出会いそのものもまた世界の裏側に隠れてしまって、それはあらゆるメディアには記載されない事実であるに違いない。しかし、その場所でこそ、我々は彼を見つけ、心を通わす。世界にはドウラドーレス街でもヴァスケス社長でもない場所があるが、それを一体どんな言葉で言えばいいのだろう? 私は…何も言う事ができない。なぜなら、私自身がペソアの同族であると僭称する事は、それによって彼の同族ではないものになる事だから。






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