下
9
休日のカフェ。天井を見上げるとファンが速度を変えずに回っていた。放心して眺める。昼間からそこまで歩いたわけではないが気だるさが募っていた。すっかり秋めき、街全体が近々やってくるハロウィンを盛り上げようと色気付いていたせいだと思う。
濃い茶色の木の質感とやや暗めの照明がレトロ印象を演出していたゆとりある店内。腰を下ろし、癒しの時間を過ごす。
「やっぱチェーン店とは違うね。なんか落ち着いてる」
向かいから肩を叩くように声をかけられる。
正面を向くと私服をまとった女子生徒が、綺麗な足をこれまた綺麗に揃えて座っている。艶をまとった黒のロングヘアーとちょうどいい化粧がその辺の大学生よりも大人びた印象を作っていた。
「あーそういえば。座席の間隔がそういうカフェより余裕あるせいだろうな」
「確かにそうかも。私がいつも友達と行ってるカフェなんか隣の席超近いもん」
「そのぐらいがちょうどいいだろ。お前たちは」
「もう、子ども扱いしないでよ」
子どもが子ども扱いを嫌がっている。
「でも大人はデートでこんなところに来るんだね」
「いや、大人は飲み屋だな」
「そっか、早く私も先生と行けるようになりたいな。・・・ていうか気になってたんだけど、またそれつけたまんま」
女子生徒が左手を指差してくる。外すのを忘れていた。今更外すのも面倒。
「・・・最近太ったから外そうにも外せないんだよ。あと、先生って呼ぶなって言ってんだろ」
「あっそうだった。幸せすぎて忘れちゃうの」
本当に子どもらしい満面の笑みを浮かべる。こういう関係になる前、年齢の割に大人びた印象だったが。
「この間もさ、自慢・・・」
そう口にした女子生徒の表情は一変して硬直する。
その言動は見逃せなかった。こいつもしかすると。
「お前このこと誰かに話したのか?」
わざと怒気を表に出して女子生徒を責める。
「ちが・・・」
「正直に言え」
「・・・ごめんなさい」
目に見えて女子生徒が萎縮していく。
「他の学校の子だから・・・大丈夫と思って」
「どこの高校だ?」
「綱常の子」
他の高校と言われてましかと思ったが。他校の中では最悪。最もこの付き合いを知られてはいけない人間がその高校にはいる。
「どこまで言った」
「担任の先生と付き合ってるって・・・だけ」
名前は出してない様子なのは不幸中の幸いだ。
黙り込んで煙草に火を点け、金属のライターをぶっきら棒に机の上に放り投げた。フィルターから流れてくる清涼な刺激で動揺を鎮める。
「ごめんなさい。怒らないで。ちゃんと秘密にするよう言ってるから。お願い」
そんなのは全くあてにはならないが、もうどうしようもない。まあ当事者になる前もこういう話は極たまにだが聞いたことがある。単なる噂話でいつも済まされる。大事には至らないだろう。
「もういい。お前、綱常に友達なんていたんだな」
とは言ってみたものの、この子の場合綱常高校に行けなかったのか不思議なほど成績がいい。そういった進学校に友達がいても不思議はない。
「・・・友達じゃないよ。同じ中学だっただけ」
「それで、その子になんか言われたか?」
女子生徒が答えづらそうにカップに刺さったストローをいじくる。
「いいから言えって。怒らないから」
必要のない戸惑いがいちいち癇に障る。
「・・・なんかね。やめたほうがいいって言ってくるの。ほんと余計な御世話」
当事者からしても、一般的な意見だと思う。
「あまりにしつこく言ってくるからさ。嫉妬してるんだよね」
「そう、かもな。でも、もうこのこと他の人間には言うなよ。とくに、あのことは。こんな風に会えなくなるぞ」
「うん」
適当な言葉を投げると、女子生徒の顔にわかりやすく笑顔が戻る。
腕時計に目を移す。外も暗くなっていた。そろそろ頃合いか。
帰宅しようと皮のショルダーバックを肩に掛ける。テーブルの上のトレイを片手で持ち腰を上げた。
「それじゃ、帰るぞ」
「えっもう?」
「ん、どうした?」
「その今日は・・・ないのかなって」
女子生徒が途端に恥ずかしそうな態度をとる。甘い匂いに惹かれなくもないが、御休憩する時間もない。次の予定の内容を考えるとさすがに萎えてしまう。
「これから用事があるんだ。その、今度な」
「そっか。でもあとちょっと。あと五分」
「・・・明日学校で会えるだろ」
「学校じゃあさ、足りない」
「わがまま言うなって」
「・・・はーい」
女子生徒はふてくされつつも、座ったまま手を伸ばしてくる。仕方なく空いているほうの手で優しく引っ張り上げた。体をくっつけてくる。とくに違和感はない。手を繋ぎ、密着して歩く。歩きにくいが最近はこれが普通の状態。
日が落ち、建物の壁の白が灰色に落ちていた。女子生徒と別れ、シティホテルのロータリーを一人歩いていると、光沢をまとった外国車がカーブを描き通り過ぎていく。歩きながらもの思いにふける。
最初に距離が縮まってしまったのは、件の女子生徒がコンプレックスをうち開けてきたことが始まりだった。高校受験に失敗し、第一志望の高校へと通えていない自分への落胆が未だ拭えず、両親に引け目を感じていると。硬く考えすぎている生徒を和らげようと適当に告げた。
「そう悲観するな。公立校のほうが優秀な先生多いんだぞ」
一人の教師として力になりたいと思ったゆえ発言ではない。ほんの冗談。しかし鵜呑みにされ、それから相談を受けること多くなった。
放課後の職員室から生徒指導室へ。相談が長引くと喫茶店。連絡先を教えると、休日まで会うようになった。頼られているとわかりやすく実感できた。久しく感じなくなっていた感覚。いつしか相談されることに癒しを感じるようになる。
そんなある日。一人で晩酌中。いつも一緒に飲んでいるパートナーは予定が合わなかった。そんなとき女子生徒から連絡が来た。それほど飲んだ自覚はない。魔が差しただけだと思う。ただ家を出ていざ会うと、理性が働かなくなる。強く手を握る。最初は引っ張っていた相手の体が、歓楽街に着いたころには離れなくなっていた。
自らの欲求を高校一年生の女子生徒に吐き出したあと、すぐに酔いが覚める。とんでもない裏切りをしてしまった。どう償えば。
自暴自棄になりかけたそのとき。先ほどまで窮屈そうに受け入れていた女子生徒が腰に腕を回してくる。教師に向かって微笑んだ。
「次はもっとがんばるね」
暖かく柔らかい腕が、鎖のように冷たく見えた。
相手の好意というものに気づいたころには距離が縮まりすぎていた。そしてある距離を境に、癒しと悩みが共存することとなる。近づきすぎだということを察する。まずい。周囲にばれたら懲戒免職は免れない。
自らの薬指を見つめる。返事をもらうまで結構待ったが、やっと向こうも受け入れてくれたのだ。気軽にそういうことをできる立場ではないとはわかっている。これ以上は応えてはいけない。そう伝えないといけないと思いつつ、自分の転任もしくは相手の卒業で自然鎮火をすることを願いながら過ごす日々。頭の中で堂々巡りして結局自暴自棄なり、考えることをやめた。
まだ大丈夫なはず。自らが主導権を持ったこの火遊びは魅力的だ。もう少しだけ続ける。もう少しだけだ。もうすぐゴールしてしまうのだし、そうなったら年貢の納めどき。もうこういった火遊びはできなくなる。ゴールしたらけりをつける。絶対に。
婚約者がいることを女子生徒は知っている。さすがに婚約者の情報までは伝えていないが、それでもいいと言われた。本当に都合がいい。ばれなきゃみんなハッピーだ。
待ち合わせ時間にはまだ早かった。場所はこのホテル二階のカフェラウンジ。確か禁煙だった。お互い吸うこともあるのにわざわざ禁煙の場所で待ち合わせるのもどうかと思う。確かに奈々香は昔ほど吸っていないみたいだが。携帯の吸い殻入れも持っていることだし、どこか人のいない場所で一服することにする。入り口を通り過ぎて、人気のなさそうな駐車場へ向かった。
ホテルの駐車場には予想どおり人がいなかった。送迎用のものと思しき車が数台。ここで吸わせてもらう。
煙草を口にくわえる。ライターはどこにしまっただろうか。ポケットを順番に探っていく。
「あっつ!」
叫びにも似た声が先ほど歩いてきた方角から聞こえた。
「わかったから、ちゃんとするって!」
声のほうに目を向けると人影が近づいてくるのがわかった。一度煙草を口から離し手で包む。
真っ直ぐ近づいてくる声の主であろうその人物の容姿を見て面を食らってしまう。キャップを深く被り、目には目元がしっかりと隠れる黒のサングラス。細身の体の割には山賊のような大げさな髭が生えていた。まるで付け髭のようだ。どう見てもホテル関係者のような形ではない。
気味が悪いとは感じつつも、無関心を装い再び煙草をくわえる。しかしこちらの意志とは裏腹にその人物はすぐ近くで立ち止まった。
視線を感じる。渋々目を向けると、サングラス越しに目が合わさった気がした。まだそういう時間には早いが恐らくたちの悪い酔っ払いだろう。すぐにそっぽを向く。
「あの、すいません」
口調は体型と合致している。丁寧とさえ感じたがかえって気味の悪さが増した。無視してライターを探す。もしかしてさっきのカフェに忘れたのだろうか。
「聞こえてますよね。お気持ちわかりますけど、話聞いたほうがいいですよ」
酔っ払いではなく新興宗の教勧誘のようだ。それとも薬でもやっているのか。手の甲を相手に向け払い、立ち去るよう促す。
「だめか。知りませんよ」
そう告げてくると、目の端で捉えていた人影が一歩下がる。何をするつもりなのかと訝しんで、再びその人物に焦点を合わせる。なぜか横を向いて、右手を顔の高さまで上げている。右手の形はでこぴんの構え。新興宗教は色々あるなと思った矢先。その人物は頷き、指を弾いた。
瞬間、くわえていた煙草の先端が拳大の橙色の何かに覆われる。おぼろげな光と熱気が顔を包んできた。自然と目の焦点が目の前の橙色の何かに合わさった。煙草が燃えている。ライターは依然行方不明。そしてその火は想定外の大きさだった。
驚いた拍子、思いっきり煙を吸い込む。煙が肺に入りすぎて思わず咳き込んだ。煙草がくっついた火が足元に音もなく落ちる。反射で避けようとしたが、勢い余って腰砕けになった。
すると火は一度猛々しく燃え上がり、その後瞬時に消えた。煙草も消えた。灰になった。
アスファルトに手をついたまま言葉を失う。何が起きたか見当がつかない。
「こっちとしてもさっさと済ませたいんです。気が変わらないうちに。話を聞かないと今度はあなたが燃えることになりますよ」
目の前の人物がそう告げてくる。今のはこいつの仕業なのか。そのはずだ。他に人影は見えないし見る余裕もない。
「すぐ終わります。私の質問に答えて約束していただければいいんです」
黙ったまま頷く。突然おかしい情報が入り過ぎてそうするしかなかった。
「よかった。それじゃよく聞いてください。えー、八尾立高校、沖原翔吾先生」
その言葉に沖原翔吾はさらに驚かされる。思わず再度頷いて肯定してしまった。何故自分の名前を知っている。無言で問いかけてもサングラスのせいで表情が読めない。ただ顔見知りには思えなかった。
「あなたは婚約中である」
見知らぬ火の変人がプライベートな質問をずばり投げかけてくる。
素直に頷く。間違いはない。
「よし。えっと次に、あなたは二股をしている」
首が止まる。間違いはないが、すぐに頷くことはできなかった。
「質問に答えないと」
でこぴんを目の前でちらつかせてくる。さっきの火はこの指がはじかれた瞬間現れた。そう思うとナイフ同様に恐ろしく見えてくる。
得体の知らない恐怖をとりあえずやり過ごしたほうがいいと思った。ゆっくりと頷く。
「よし。まあ確認しなくてもよかったんですけど。それでは」
その人物は大きく肩で息をし、喋り始めた。
「婚約中のくせに自分のクラスの生徒に鼻伸ばしてんじゃねえぞこのロリコン教師。美波とデートするな。学校でもべたべたするな。もし今後弄ぶような真似をしてみろ。お前なんか殺してやる」
先ほどまでと比べてやや大きな声で告げられる。やけに口調が棒読みだったがそれ以上に気になるのはいまこの人物が話した内容だ。すべて知っていることを理解して戦慄する。
「・・・美波」
やっと自分から出た声は震えていた。
「水戸美波さん、ですっけ。あなたに異性として好意を抱いている生徒のことです」
それも間違いはない。水戸美波は高校一年生。二股の相手。火遊びの相手。どうしてそこまで知っている。
「デートとかはもうしないほうがいいというのは同感ですね。せっかく結婚できるんだから婚約者さん大事にしてあげてください」
黒いレンズから目が離せなくなる。引き込まれそうな恐怖を感じる。
「沖原先生、約束できますよね?」
そう告げ、またでこぴんの構えを相手が見せてくる。
水戸に会えなくなる。厳密には会えなくなるわけではないが、もういままでと同じようには会えない。嫌だ。今はまだ。思考が麻痺してくる。
「約束してくれないと、二人がべたべたしている写真を今日何枚か撮ったので、それが職場に届くことになるかもしれないですよ」
詰んでいる。この世が地獄に感じる。写真は絶対に駄目だ。体に力が入る。いっそこの目の前の変人を組み伏せてしまうか。そんな考えが過る。しかし。
「力尽くで写真を取り返そうと思っても無理ですからね」
呆れた声が聞こえたあと、指が動くのが見えた。真横に火柱が立つ。自分の目線と同じ高さまで上がりまた消えた。体が言うことを聞かない。このような異常と立ち向かうような術がわからない。
「社会的に死ぬ前に本当に死ぬかもしれませんよ」
小慣れた様子のやる気のない口調が人を燃やし殺すという言葉の現実味を増幅させていく。訳がわからない。でもとにかく今この得体のしれない輩に燃やされるわけにはいかない。
「・・・約束、します」
「その生徒の好意に無責任に応えることは?」
「・・・ありません」
「ありがとうございます。約束破ったら・・・ま、そのときは救えない」
目の前の人物はでこぴんの構えを解き、どうしてか腕で円を描く。そのあとすぐに走り去っていった。何が起きたのか皆目わからなかったが、走り去る足跡が二重に聞こえた気がした。
10
「六乃先生そんじゃよろしくねー」
「あっ、わかりました」
返事をして振り返ったときには千石の姿は会議室から消えていた。すぐにプリントを確認しながら部屋の隅に畳まれている長机を並べ始める。普段ああり使われていないせいか、他の場所と比べ埃でくすんで見える。
放課後、あと一時間半後。この会議室で地域の高校の教師が集まって勉強会が行われるとのことだった。思いのほか人数が集まるようだ。
六乃は出ないが、他の教師よりまた暇に見えたのだろう。準備を頼まれてしまった。以前頼まれた煙草の見張りも問題無しとして既に調査の打ち切りが伝えられている。現にあの校舎裏では火が起こることはもうなかった。
最近こき使われすぎて疲れがたまっている。別にこき使われること自体は特段構わない。疲れの原因はその依頼主だとわかっている。千石ではない別の依頼主。
「六乃ちゃん」
噂をすれば。入り口から生徒の声。一度視線を向ける。最近衣替えし、冬服になったお団子ヘアの女子生徒の姿を確認し、すぐに目を外す。そして無視する。
「おーい、燃やしちゃうぞー」
ここ一ヶ月ほど何度も耳にしたフレーズ。無害というわけではないが一応害は少ないとわかると、恐怖を感じなくなってしまった。蜜蜂のようなもの。慣れとは恐ろしい。ただ無視しすぎると向こうのブレーキが壊れる。ずっと無視していたら一度、授業中に手に持っているチョークを燃やされたことがあった。教師の奇声と生徒たちの沈黙。約一名の生徒は笑いをこらえていた。体で隠れて生徒からは見えるはずはないのだが迂闊だろう。ばれて困るのは向こうなはずなのに。
不本意だが入り口に立っている日谷木の相手をする。
「この間ので用は済んだろ」
「またガス抜き、じゃないや、練習付き合って。三十分で許すから」
「今は本当に忙しいの」
「何してんの?」
「先生たちの会議の準備」
「一人で?かわいそうだから手伝ってあげる」
「いい。吹奏楽部の練習あるだろ。真面目にやらないと上達しないぞ」
「遠慮しない遠慮しない」
日谷木がずかずかと会議室に入ってきた。この生徒は言うことを聞かない。
「・・・そこのプリント見て、人数分そこのパイプ椅子広げて」
最初に組み立てた長机に置いたプリントを指差す。
「はーい」
「あと、学校では六乃、先生、な」
「いい加減慣れてよ。私からしたら六乃ちゃんって全然先生って感じしないし。あっうちのクラスの女子はみんなもう六乃ちゃん呼び。私広めといてあげたから。違うクラスだけど、新井とかは陰で六乃って呼び捨てにしてるよ」
完全に舐められてしまっている。仕方ない、ことはないのだけれど。
「つか六乃ちゃん聞いてよ。新井のやつ何かと話しかけてきてさ」
無言で渋々と準備を再開する。
「しかもいちいち下ネタ振ってくるんだよ。空気読んで合わせてるけどさー。最近面倒くさいつーか、飽きてきたっていうか。がきだよね。それでね————」
くだらないラジオ番組だと思って聞き流す。沖原を脅すのを手伝えばお役ご免だと思っていた————
人を燃やす練習。そうファミレスで告げられた次の日から、その練習とやらに付き合わされるはめになった。B棟校舎裏のあの火遊びも元々練習の一環だったらしい。
練習場所として校舎裏を選んでいた理由は意外と多かった。大前提で放課後人が来ない。確かに用務員さんが散歩していたのも午前中。その他、人の動きが把握できるため校外に比べて安心感がある、早い時間から始められるので火の明かりが目立たない、目撃された場合人物を特定しやすい、といった理由。当初はどうして校内でと内心思っていたが、それを聞いて納得してしまった。彼女が油断してコンクリートの側溝に焦げ跡などつけなければ、そのまま二人とも、少なくてもこちらは平和な日々を過ごせたはずだが。
一応目がつけられているため練習場所を考え直す。煙草捜査の都合で自由に出入りすることが黙認される調理実習室に変更された。
「ここなら火が出ても不思議じゃないね」
ガスコンロを見て嬉々として喜ぶ日谷木の顔は忘れられない。それは言い過ぎだと説得したが、気軽にこき使われる要因の一つとなる。偶々選んだのに運が悪い。余りに大きい火を出すとスプリンクラーが発動する恐れがあることは忠告した。
その後は日谷木の都合で呼び出されては、職員室の裏紙をかき集め、調理実習室へ。元々職員室での付き合いを控えていたせいか、不思議に思って突っ込んでくれる教師は皆無。
人を燃やす練習というものには初めこそ構えていたが、たいしたものではなかった。丸めて投げた紙を日谷木が燃やす。灰が大量発生しないか心配だったが、日谷木の火は紙くずを空中で包み綺麗に焼失させる。帰りに掃除する際、灰はほとんど落ちていない。
紙くずを燃やすだけで練習になるのかと訝しんだ。ただ、飽きもせず火を出す日谷木の様子を眺めていると練習は二の次で、いわゆるガス抜きなのだと察する。現に練習など必要ないほど、日谷木はでこぴんで対象をピンポイントに撃ち落していく。今まで抑圧されていたものを気兼ねなく出す喜びがあったのかもしれない。そのうち教材片手に紙を投げたり、燃やす対象を紙飛行機にしてみたり。廊下の足音にこそ注意は払うが、適当に相手をするようになるまでそう時間はかからなかった。
一度、紙くずを体につけられ反復横とびをさせられ続けたことがある。服に引火するからやめようと言うと、火は日谷木の意思で自由に消すことができるとカミングアウトされる。それでもその次の日はさすがに逃げた。以来反復横とびはない。
一つだけ特段気になっていたことを聞いてみる。あの校舎裏の日一番の疑問。はぐらかされるか、勘違いか、そのどちらかだと思った。
「お前の体は燃えないの?」
馬鹿らしい質問を受けた日谷木はにやけ顏で片手を上げる。空き缶ほどの火を出したかと思うと、もう片方の手の甲を炙り始めた。五秒ほど火にくぐらせた手の皮膚は、火から離したあとも全く変わりない滑らかな質感だった。
「お風呂入るのと変わらないよ」
理屈はわからないが感覚はわかった。火事に巻き込まれても平気だと言い張っていたので、煙を吸って死ぬぞと伝えると顔が引きつっていた。
そんな非常識を見せつけられる生産性のない日が続いたある日。日谷木が久しぶりに無表情で切り出してきた。
「燃やしたい人がいるの」
とある日の調理実習室。その日は火を出されなかったので、日谷木の上手いのか下手なのかわからないトランペットの練習を聞きながら授業の予習をしていた。何のために呼ばれたのかと疑問に思っていたが、火を出してほしいわけではないので、そのまま放置していたときのこと。裏紙に手を伸ばす。
「んじゃ鶴でも折るから待ってなさい」
「・・・そうじゃない」
手が止まる。反復横とびか。
「・・・勘弁してくれ」
「そうじゃなくて!練習してたでしょ。目標の相手がいるの」
標的がいたことを、一応本当に練習だったことをそのとき初めて知った。
「誰か聞いていい?」
「ロリコン教師」
「・・・やっぱり俺のことか?」
「六乃ちゃんじゃないやつ」
「何先生?」
「沖原って名前」
そう言った日谷木は座っていた丸椅子から勢い良く立ち上がると、正面を睨みつけてでこぴんの素振りを始める。
沖原。聞いたことがない。そんな名前の教師は綱常高校にはいない。
記憶を辿っていると日谷木が続ける。
「やお高の教師」
「八尾立高校・・・。公立校だよな。別の高校の教師か、どおりで記憶にないわけだ」
「そいつがね、いい歳こいて私の親友の美波を誑かしてんの。あーイライラする」
「そのつまり、教師と生徒が付き合ってるってこと?教師男、生徒女?」
「教師男、生徒女!」
よっぽど頭にきている様子。
「生徒はお前と同じ高一?」
「当たり前じゃん」
相手が卒業するまで我慢すればいいのに。
教師と生徒の恋愛。本当にあるのかというのが率直な感想。噂くらいなら聞いたことはあった。世間的な印象は良くないだろうし、保護者の気持ちを考えるといい気分はしないだろうが、断固悪いことではないと思う。気持ちが通じ合ったプラトニックな関係なら一応不法行為ではない。
ただ性行為をしてしまった場合、話は別。県の教育委員会の定めでは、児童と性行為をした教員は合意の有無問わず免職されることになっている。青少年保護育成条例に違反すると判断されれば逮捕もありうる。子どものほうは学校によっては自主退学させられる、なんてこともあるとかないとか。
その沖原とかいう教師はどうなろうと正直どうでもいい。しかし日谷木はせっかく殺らない宣言をしているのだ。その宣言が撤回される事態は避けておきたい。説いて意味あるかどうかわからないが、一応伝えておく。
「気持ちはわかるけどな。本人同士がセッ、いやその、えー真面目に付き合ってるなら、友達としたら応援、でなくても黙って見守っ————」
話を遮るように日谷木がこちらに向けて指を弾く。
頭一つ分前に小ぶりのかぼちゃ程の火が現れた。目をつぶって暗闇の中暑さを我慢する。黙ってやり過ごす。
暑さが消えた。目を開ける。日谷木と目が合う。睨まれながら続ける。
「当事者以外が人の色恋に邪魔するのは野暮だぞ。男だったらぼこぼこにされる」
当事者でもぼこぼこにされたことはあるが。
「できない」
「何で?」
「二股してんの!その糞教師!」
それまた旺盛なことで。中々自分に忠実な教師。ただその関係が二股であると日谷木が知っているということはその相手の生徒の方も。確認する。
「その話誰から聞いた?」
「美波本人だけど」
女子高生は容赦なく喋る。沖原とやらもかわいそうに。
「ということはその子は二股覚悟でその先生と付き合ってるわけだろ」
「・・・そう」
日谷木が手を下ろす。落ち着いたかも。先生風吹かせても大丈夫そうだ。
「だったらまあ沖原先生は燃やさなくてもいいんじゃないか。二股が悪いってのは確かに正論だと俺も思うぞ。ただ人の幸せイコール正解とするなら、正論は必ずしも正解じゃない」
日谷木はそっぽを向いて丸椅子に座り込む。思い直してくれたようだ。人を燃やすか燃やさないかだったら、前者がいいに決まっている。
すると日谷木が一段と暗い声で呟いた。
「婚約者がいるんだって」
「は?」
「だから婚約者がいるの、その沖原ってやつ。婚約者と自分の教え子との間で二股」
「それは・・・燃やしたほうがいい、かも」
「でしょ。美波はそれでもいいらしいけど」
いまもしこの場に沖原がいたら救えそうにない。消し炭になるのを黙殺し、手を合わせるだけだ。
その水戸という生徒も生徒だ。さすがに婚約者がいる相手は引きなさいとしか言いようがない。日谷木が応援できないのは当然だ。さっき正論だの何だの説いたこと恥ずかしくなってくる。
「そんなやつと上手くいっても美波が幸せになるわけないじゃん」
そうとは限らないのが世の中だが、今は日谷木の気持ちを尊重し黙る。
「その婚約者さんも、誰だか知らないけどかわいそうだしさ。多分その人は、二股知らないだろうし」
意外に優しい。知人ならまだしも、その赤の他人のことまで心配しなくてもいいと思う。
「何とか沖原と美波だけでも離したいんだけど、上手いこと思いつかないんだよね。表沙汰にはしたくないじやん。私が面と向かって火で脅しても秘密がばれるし。んーやっぱこっそり完全焼失させるしかないのかなー。できるかなー」
さらりと恐ろしいことぬかす。可能だから心配だ。
ただ要は考えようだ。この問題を解決すれば日谷木はもう練習が必要なくなる。つまり解放される。日谷木は人殺しをしなくて済むし、その見知らぬ婚約者とやらは何も知らないまま傷つかずに結婚できる。一石三鳥。男の本性を知らぬままの婚約者に関しては多少気の毒な気もするが。
不思議と案がすでに浮かんでいた。この案なら日谷木に危害はかからないはず。億劫ではあるが、自らの平穏を取り戻すため一肌脱ごう。
「日谷木、俺が火を出そうか」
「・・・はあ?」
「俺がその沖原ってやつを脅す」
「包丁でも持つの?警察呼ばれたら終わりじゃん。私と違って凶器丸見えなわけだしさ」
そんな婚約者と少女を誑かしている人間が警察を呼んでも自分の首を絞めることになると思うが、そのリスクは確かにないわけではない。
「そこでお前の出番」
「結局?私、六乃ちゃん以外に秘密ばれるのは嫌だよ。変装とかしても万が一ってこと・・・あるし。女子高生って背格好とか声でなんとなくわかるじゃん。そしたら・・・」
不安そうな表情を見せる。脅迫者の容姿が何らかの形で水戸に伝わってしまえば、日谷木が疑われる可能性もある。気持ちはわかる。
「お前は俺と沖原が見える位置で隠れておけばいい。変装した俺が合図を送るから、そしたら適当に沖原を炙れ。火傷させない程度に」
日谷木が静かになる。理解し始めたみたいだ。案外早い。
「合図は、そうだな、やっぱりこれかな」
でこぴん二回振ってみせた。でこぴんを構えたまま日谷木を見る。
「一回やってみるぞ。でこぴん準備」
日谷木は無言で手を挙げる。
「それじゃ・・・よし、そこのガスコンロ」
いくつか並んでいる調理台。その端にはガスコンロが備え付けられている。
一番手前に見えるガスコンロを顎を動かして示す。
日谷木が頷いてガスコンロに手を向けた。二人の視線と手が同じ方向に向くのがわかる。
「せーの」
自分のタイミングで指を弾いてみた。若干遅れてだが、ほぼ同時にガスコンろに橙色の火が灯る。モデルガンで遊ぶような感覚。
「そうそう。これなら俺が火を出してるって沖原は勘違いするだろ。脅迫者がお前だって思われることはないまま沖原を脅せるぞ。目の前でいきなり火の手が上がるのは本当に怖いからな」
日谷木はしばらくガスコンロ見つめたまま黙り込んだ。わかってないのか。はたまた単に不採用なのか。
思い出したように口が開く。
「やるじゃん。六乃ちゃん」
「六乃、先生、だろうが」
その注意に対する反応はなかった。面倒なことにしてしまったが仕方ない。
その後、休日に沖原たちがデートをするという情報は日谷木があっさり水戸本人から仕入れてきた。恋は盲目。沖原は気の毒だと思ったが、まあ水戸は友達思いの友達を持って幸せだと思った。
当日変装セットとカメラを携えて二人で尾行。楽しくも何ともなかったが、燃えるような瞳で写真を撮っていく日谷木を見て何となく一人にするのは危険だと思った。沖原たち二人がラブホテルに入ろうとしたら躊躇なく沖原を殺しそうな気がしてならない。その際は普通に沖原の肩を叩いて百十番。それでいい。
夕暮れどきにやっと沖原が一人で人気のないところ足を運ぶ。いざ変装し、自分の出番になると二の足を踏んだが、久しぶりに燃やされて、強制出動。滞りなく脅迫は終わった。
近くで見た沖原は高身長のモデル体型。顔は決して彫りが深いわけではないが一重が似合う二枚目だった。二股していると聞いても何ら違和感ない容姿。浮気はもてる人間しかしない。
今思い返してみると本当に怖がっている様子だった。自業自得だが、一番気持ちがわかるのは脅迫者本人というのは皮肉なことだと思う。あとのことは沖原の改め次第。約束を破ったら、表面上は沖原は燃やされてこの世から消えることになっている。八尾立高校に写真を送ることを日谷木が頑なに渋る。友達が矢面に立つからと。でもそのときが来たら構わず送りつける予定。死ぬよりは免職のほうが沖原もましだろう————
「ちょっと六乃ちゃん聞いてんの?」
ちょうど準備が終ると思ったら。ほぼほぼ聞いていないことに気付かれる。
「聞いてる。えーと、新井と仲いいんだな」
「まー同中だからね。あっ気になる?」
面倒くさい。日谷木のおかげで捗りはしたが無視する。最後に机と椅子が綺麗に揃っているか確認していく。
「気になるんだ。あのさっ————」
「六乃先生お疲れ様です、ってあれ?終わってる」
入り口に目を向けると音無がいた。壁に手をかけ、会議室内全体を眺めている。一頻りすると目が合った。
「手伝おうと思って来たんですけど。もしかして」
「そ、もう終わり」
「そうですか。本当すいません」
音無が日谷木に視線を移す。
「日谷木さんも手伝ったのかな?ありがとう」
「六乃ちゃ、六乃先生がどうしてもっていうから、です」
悪気なく嘘をつく。特段おかしいことでもないからいいが。
「おーいたいた」
続いて廊下から男の声が聞こえた。磨りガラス越しにシルエットが、入り口付近に立っていた音無に近づいて止まる。聞き覚えのない声だった。
音無が振り返ってシルエットを見上げている。
「えっ早いね。勉強会までまだ時間あるよ」
音無の知り合いのようだ。いつも耳にする彼女の口調より軽い。
「いや顔見れるかなーと思って。場所この部屋?」
「そっ、もう準備してくださってるから荷物置いておけば」
「そうだな」
音無が部屋の中に入る。その後ろに続いて男が入ってきた。顔を確認して思わず身構えてしまう。見たことがある顔だった。
男は目を合わせてくると、音無を小突く。
「同僚?紹介してよ」
「あー、うん」
二人が歩いてきて目の前で止まった。
「先生、こちら八尾立高校の沖原先生です」
音無が手のひらをを沖原に向けた。続いて手のひらをこちらに向ける。
「こちらいつもお世話になってる六乃先生」
動揺しながらも沖原と目を合わせた。間違いなくつい最近脅しに脅した婚約二股ロリコン教師。まさか音無の知り合いとは思わなかった。つい最近恐怖に引きつっていたその顔は、今はやましいことなど無さそうな爽やかな笑みを浮かべている。面の皮はだいぶ分厚いようだ。
「えっと・・・初めまして。六乃と申します。今日は勉強会、でしょうか?」
初めましてではない。一応わざと声色を低くしてぎこちなく喋る。
「沖原と申します。そうなんです。ちなみに申し上げると」
沖原が音無を見つめる。次の瞬間嬉しそうに告げた。
「この人の婚約者でして」
その言葉を聞いた瞬間、自分の表情が把握できなくなる。念のため確認する。お願いだから勘違いであってほしい。音無を指差す。
「この人ってその、音無先生の、婚約者?あなたが?」
「はい」
綺麗な顔をしている。何も考えず浮かれているのが手に取るようにわかる。
音無と目を合わし無言で尋ねる。本当なのか。
「すいません、こんな唐突に。そういう紹介はまだ誰にもしてないんですけど」
音無が恥ずかしそうに俯く。婚約者として紹介をするつもりはまだなかったようだ。
「い、いや、この人が婚約者。噂はかねがね。へー・・・めでたい。おめで、とう」
尻すぼみで声が小さくなってしまった。素直に祝えない。
二人の後ろに日谷木の姿があった。口が半開き。魂が抜かれている。
すると日谷木は急に電源が入ったように会議室から一目散に出て行く。多分頭の中が整理できず、その場でじっとしてられなかったのだと思った。
「あっ廊下走らなーい」
音無が振り返って呼びかける。
ただ混乱した日谷木の耳には入らないだろうと思った。足音が止まることなく消えていく。
「女子高生には刺激が強かったのかな?」
沖原がニヒルに笑いながら笑えない冗談を口にする。
11
地区勉強会があった日。沖原の婚約者が音無ということを知ったあの日から数日が経った。昼休みの調理実習室で日谷木の練習に付き合う。電気をつけていない室内は、全体的に薄い影をまとっていた。
六乃は今までで一番素直に日谷木の招集に応じた。裏紙のくずを二人でもやもやとしながら次々燃やしていく。ただ何もしてないよりは気が紛れる。教室でも職員室でも四六時中しかめっ面で過ごしている気さえしていた。吉永に言われた通り、損な役回りをさせられている。厄介事には巻き込まれたくないはずなのに。
「六乃ちゃんどうすんの?」
日谷木が口を開く。どうやら我慢できなくなった様子。
「六乃先生な。・・・どうするって?」
「音無先生に、その、教えないの?」
「お前の友達の水戸美波、はさ、沖原とはもうべたべたしてないんだっけ?」
「私もあれから美波にあんまりたくさん会えてないんだよね。忙しいみたいでさ。でも急にデートしてくれなくなったとか、学校でも話せなくなったとかは言ってたよ。それはちゃんと聞いた」
「一応沖原も約束は守ってるわけか。こっちが脅迫したおかげだけど」
はっきり伝えていないところを考えると、逃げて自然消滅を狙っているのだろう。この際方法に注文をつけるつもりはない。でもそれがまた状況をややこしくしている。沖原がまだ二股を続けていれば音無に迷わずちくってしまうが。
「まあ水戸と切れているなら、二人は表面上幸せな結婚できるわけだからいいんじゃないかな」
「不公平じゃん」
日谷木が眉間に小さなしわをつくって呟いた。
「不公平?」
「美波は二股のこと知ってて沖原を好きだったけど。音無先生は知らないで沖原を好きなんでしょ。実際知らないかどうかはわからないけど、かわいそうだよ。うん。教えたほうがいい、と思う。私音無先生好きだし」
「でもそしたら沖原と水戸がより戻すかもしれないぞ」
「それは嫌だ」
「お前なあ・・・」
そうは言っても日谷木の気持ちは理解できた。手に持っている写真を眺める。体を密着させた二人の男女がそこには写っていた。沖原の顔はしっかり把握できる。これを音無に見せれば、しかし見せるべきなのか。知らないほうが幸せってこともある。余計なお世話をしてもしょうがない。
投げていた裏紙は尽きてしまった。練習が止まる。二人同時にため息をつく。
「教えたほうがいいってのは先生も正論だと思うぞ。ただ正論が正しいわけじゃない」
「またそれだ。じゃあやっぱ教えないの?」
「考え中」
「もっとすぱっと決めてよ。男らしくない」
「男ってのは慎重だから」
「優柔不断なだけじゃん!なーもういい!」
日谷木は調理実習室を早足であとにした。いっそのこと、教えに行かないと燃やす、くらい言って貰えばよかったかもしれない。腹を括ることができる。
言いたいわけではない。余計なお世話だ。誰もとくにしない。
ただ言いたくないわけでもない。沖原への妬みなのか。音無への同情なのか。日谷木への共感なのか。わからない。
考えているだけでは何も変わらない。行動すると変わってしまう。同僚の憂鬱な顔を見るのはできれば避けたい。この問題、追い込まれないと結論が出せないという自覚がひしひし明確になっていく。すこし前ならこんなことに時間を費やすはずなかった。馬鹿馬鹿しい。
五分ほど経って廊下から足音が聞こえてきた。調理実習室の前で止まる。燃やすゴミでも調達してきたのだろうか。丸椅子に脱力して腰掛けたまま、反応しない。
「くつろいでるわね」
声を聞いて思わず体に力が入る。来客は吉永だった。奇妙なものでも見るかのような表情で入り口付近に立っている。
「うわっ」
勢いよく立ち姿勢を正す。無防備なところを見られて恥ずかしくなった。それと同時に日谷木がいなくなったあとでよかったと冷や汗をかく。
「そんなに強張らなくてもいいのに。あっもしかして起こしちゃった?」
吉永が惚けた調子で質問をしながら調理実習室に足を踏み入れた。
「いえ寝ていたわけでは」
「そうなの?ここ六乃先生の仮眠室って話になってるけど。そういう場所、この学校の先生はみんな確保してるし」
そんな理由で黙認されているとは思わなかった。随分寛容な職場。教頭の千石の人柄のおかげなのかもしれない。
「疲れているときってどうしてもあるし。でも職員室で堂々と突っ伏して寝ているところを生徒に見られるわけにもいかないじゃない?でも言われてみれば、職員室から離れてるから仮眠には不向きかもね、ここは。あっ、そういえば」
そう呟いて、吉永が部屋の窓側へ歩いていく。
「煙草の吸い殻が見つかったって話が前にあったじゃない。その場所ってここから見えるの?千石先生に聞いても知らないって言われたのよね」
吸い殻が落ちていたという話になっているのか。実際は焦げ跡だがそれはあえて言うものではない。
「あっ、窓開けて下に見える空き地が、そうです」
「ふーん。結局何だったのかしらね」
吉永が窓を開け、下を眺める。涼しげな風が舞い込んでくる。
何だったかは教えられない。生徒の一人が火が出せると教えても、それこそ誰も得しない。その前に信じてもらえないだろうが。
それにしても吉永がここに来た用件が思いつかなかった。調理実習室にいることを予想したのなら、わざわざ足を運ばなくても内線一本で呼び出せば済むはず。面と向かって話さないといけない重要な話はないと思う。
「あの吉永先生はどうしてここに?」
後ろ姿の吉永に問いかける。話題を逸らすためにも聞いておく。
「ん?世間話しに来たのよ。六乃先生と」
「えっ・・・」
予想外の答えに思わず声が出る。益々わからない。
「いけないかしら?」
「そ、そんなことは、ないですけど」
「ならよかった。んーいい風。このところだいぶ涼しくなってきたわね」
そう言ったきり吉永は話しを振ってこなくなった。沈黙が続く。どういうつもりか推し量れない。不思議と気まずいとは思わないが、体がそわそわし始める。こちらから話題を振るか。しかし話題といっても目下の二股問題が頭にこびりついている。早くこの汚れを消して元に戻りたい。
吉永の大きく見える華奢な背中を見つめる。吉永は静かに髪をなびかせていた。いっその事試しに聞いてみるか。昼休みが終わるまでまだ十分時間はある。この問題に解答はないとわかっているが、一つの回答をもらえる可能性がある。
「吉永先生」
「何でしょう」
「相談したいことが、全く仕事に関係ないことなんですけど」
「また随分と珍しいわね。どうぞ」
言葉を選びながら話す必要があると思った。自分の頭を整理し話し始める。
「あの、私の知り合いで近々結婚をする女性がいまして」
音無だということをできるだけオブラートに包む。
「その相手の男というのがだらしない人間でして。婚約中に二股かけたり。その二股相手が高校生だったり。・・・その高校生とは、プラトニックな付き合いだったとかも確証はなくてですね。で、結果的には、男はそのままその知り合いを選んだようなんですけども」
途中で床を見つめてしまった。慣れていないことをしていると思う。
「知り合い本人は気づいてないと思うんです。婚約相手がそういう、火遊びって言ったらいいですかね、していたのは。もう過ぎたことなんです。それでも野暮な話なんですけど、周りでは教えたほうがいいって言う人間もいて」
窓を閉める音がほんの微かに聞こえた。空気の流れが静まる。
「・・・教えたほうがいいと思いますか?」
先ほどまで聞こえなかった時計の針が進む音がやけに耳に入る。
「六乃先生はどうしたいの?」
質問が返ってきた。どうしたい。光沢をまとった床を見つめながら今一度自分に問いかける。早くこの問題を悩みから解放されたい。それ以外には。
ふと映像が浮かぶ。音無が泣いている姿。いい気分はしない。
「・・・正直わからないんです。行ったり来たりで。ただ知らないほうが、そのまま幸せ、なのかなと。破談になるのは本人も嫌でしょうから」
「・・・そうね。私も、あなたの立場だったらわからないわ」
「そう、ですか」
「当事者たちとの距離によるところもあるわね」
「です、よね」
それはそうだ。吉永の返事で人に甘えてしまっていることを自覚する。甘えるセンスは持ち合わせてないというのに。恥ずかしい。
「でも、言っては欲しいわよ」
「・・・言って欲しい?」
聞いてすぐに理解ができなかった。床から目を離し、吉永の方を向く。
吉永は窓の縁に寄りかかるように立っていた。やや下を向きつつも、どこか遠くを見つめるような眼差しをしている。
「そ、もし私が、あなたじゃなくてそのフィアンセの立場だったら、その話は聞いておきたい。六乃先生に限らず、赤の他人からでも。野暮だなって思うかもしれないけど、親切だなとも思うしね」
「・・・辛く、ないですか?」
「そりゃ辛いでしょうよ。知らないほうが幸せっていう意見も賛成よ。夫婦になるからって秘密を全部さらけ出す必要もないと思うし」
「でしたら」
「でもその男のそれは秘密であると同時に裏切りでもあるわけじゃない?」
「ええ、まあ」
「相手の裏切りを知らないまま得られる幸せは私はいらないかな。自分に合った別の幸せを探す」
そう口にした吉永は薄く微笑んだ。
「なる、ほど。・・・幸せの形は一つじゃないですもんね」
「そうそう。それに、六乃先生がその知り合いに二股のこと教えたって婚約破棄になるとは限らないわよ。案外早めに消化できていい結婚になるかも」
その意見を聞いて面を食らう。その結果は頭になかった。
「えっ、そういうものですか?」
「そうよ。あなたが口にしたんじゃない。幸せの形は一つじゃないって。要はそういう駄目なところをひっくるめてその相手が好きか・・・いえ少し違うわね。その相手と結婚したいかどうかよ。欠点がない相手なんていないでしょ」
吉永の言葉が腑に落ちてくる。
「そんなところかしら。参考になった?」
「あっはい」
「それは何より。にしても不思議ね」
「不思議?」
「いえね、なんでみんなバツイチの私にそういう恋愛関係の相談してくるのかなと思って。いや、バツイチだからこそなのかな」
「あっすみません!」
「だからすみませんはいらないって。本気で小言言ってるみたいになるじゃない」
吉永は控えめにそう呟くと、近づいてきて背中を軽く叩いた。
放課後。自分自身に追い込まれていた。日谷木の元練習場、B棟校舎裏には校舎の外の自動車の音がたまに聞こえてくるだけ。空き地の地面をじっと見つめる。雲が時折影をつくり、地面を暗くした。腕を組み、下唇を噛みしめる。いまさら迷いが増幅してきた。
「あの、六乃先生?」
顔を上げる。気まずそうにこちらを見つめている音無がいる。先ほどからずっといる。ここにいる理由はわかっている。職員室で声をかけて連れてきたから。
「・・・その、お話があるんですよね?」
「あっうん。ごめん。もうちょっと。もうちょっとだけ待って」
吉永の話を聞いてとりあえず音無に話しておくことにした。完全に見切り発車だとは自覚していたけれど。それでも教えようと思った。ジャーナリズムに目覚めたのか、自分が楽になりたいだけなのかは未だ不明。どうせ後者だと思う。
ただいざ一緒に職員室から出ると、中々に足が止まらない。無言のまま歩き続け、職員室から物理的にはるか離れたこの校舎の隅まで歩いてきてしまった。言われた通りの優柔不断。情けない。でもこれは、人の幸せを壊すであろう行為。いまにも怖気づいてしまいそうになるのは仕方ないとは思った。週刊誌の記者に畏敬の念が湧いた。よくこんな面倒くさいことを平気でできる。
状況を客観的に見ると、まるで好きな子に告白する前の高校生。告白するというのはある意味間違いないが。そんないい告白ではない
どうせ上手いこといかない、やめたほうがいい。頭の中で言葉が響く。自らを責め、問い詰める。音無との距離間などもう把握できなくなっていた。
でも、それでも。余計なお世話だと嫌という程理解している。これで音無との距離ははるか遠くに離してしまうかもしれない。でもそういうのには慣れている。もうこれ以上考えるのはそれこそ無駄だ。
おもむろに一度、でこぴんを自らの額に打つ。
「痛」
ぼやきのように漏れた低い声。音無は恐らく痛々しく観察しているはず。でも迷いを弾けた気がした。
「音無先生じつは————」
「ごめんなさい」
意を決した瞬間腰を折られる。目の前に見えるのは頭を下げている音無。
「えっ・・・」
彼女が謝った。気のせいではないと思う。何故。
まだ何も伝えていないのに。まるでふられているような状況。
頭を振る。きっと音無は愛の告白をされると誤解している。純粋な告白をしようとしているわけではない。婚約している人間に挑むほど恋に盲目になる年齢でも関係でもない。
「違う違う違う。そういうつもりではなくてね」
「いえ私が悪いんです。もっと早く申し出ようとは思っていたんですが、その、言い出せなくて」
それはそれで酷なことだと思う。不思議な状況のおかげでやや冷静になった。
「いや、普通は言われてから、どう答えるか決めるものだから」
「いえ教育者として駄目でした。それに六乃先生にも気を使わせてしまって」
気を使わせて、言われた言葉に違和感を感じる。気を持たせて告白させてしまった、という意味の謝罪だと思った。でもわずかにずれがある。聞き違いだろうか。
「気を、使わせて?気を、持たせて、ではなくて?」
「・・・ええ。気を、使わせて、ですけど」
聞き違いではない。音無は告白されると誤解しているわけではないみたいだ。だとしたら余計に分からなくなる。どうして謝る必要がある。
「えーっと、うん。気を使ってないと言えば、嘘になるけど」
「やっぱり・・・。私に言いたいことがあるのに言えないでいるからですか?」
「・・・はい。そう、です」
思わず後輩に敬語を使う。読心でもされているかのよう。そういう類はもうお腹いっぱい。それに読心できたら二股されたりしなさそうだと思うけれど。
「すみません。私事でお手数をお掛けしてしまって」
「・・・まさか音無先生、俺が何を伝えようとしているのかわかるの?」
「見当はついています。実際に見たんですよね?」
まさかとは思ったがまさかである。確かに二股現場は見た。わざわざ尾行させられて。
音無は婚約者の二股を知っているということか。にわかには信じられない。ただ今の口ぶりでは当人も同じような二股現場を見たのだろうか。だとしたら随分と残酷な話だと思うが。
「現場を見たは見たけど。えっと誰かから聞いたの?」
日谷木がすでに伝えてしまっているとか。行動派のあの生徒ならありうる。
しかし音無は首を横に振った。
「何となくは気づいてはいたんです。あの調理実習室で話した日から」
女の勘というものか。でもあの頃はまだ音無の婚約のことは知らなかったはずなのだけれども。
「この人見たんだろうな、知ってるんだろうなって。あれから六乃先生、様子が変でしたし。だいたいポーカフェイスだったのに、急に私に対する返事がぎこちなくなったというか。今日呼ばれたのもこの校舎裏ですし」
ぎこちなかったのは日谷木の行動に気を張っていたから。校舎裏は関係ないと思う。しかし結構な期間二股を容認していたことになる。
「大変お時間も取らせてしまって。本当に申し訳ありませんでした」
音無が再び頭を下げた。
それにしても色々な幸せがあるものだとしみじみ思う。音無は二股を許している様子。その上で沖原と結婚しようとしている。
よくよく考えれば無理もない。沖原は公務員で、イケメン。この間挨拶した様子だと、人付き合いも得意そう。いい門構えの物件。欠陥はあるけれども。いやそれこそ、その欠陥をものともせず気に入ってしまえば、どんな物件でも住みたいと思うもの。
音無には生真面目なイメージも持っていたが、こういう点には寛大。ある種の男からしたら至高の相手である。そんな秘密を抱えながらも今部外者に逆に気を使って謝罪している。懐が深く掘られ過ぎて危ない気もしないこともないが、それももう関係ないこと。これで頭の中の汚れもやっと落ちる。二股のことを元々知っていたわけだし、気を使う必要も全くない。
「そうか。全部わかっているなら俺から言うことは何もないよ。まあ元から部外者なんだけどさ。ごめんね。お節介だった。今後どうするかとかはよくわからないけど。あとは二人で、そのがんばって。応援するから。ほら頭上げて」
「はい。・・・二人?」
言われた通り頭を上げた音無はわずかに困惑した表情を浮かべていた。
「・・・うん、二人。あっ厳密には三人か」
「三人?六乃先生、何のこと言っているんですか?」
「えっ君の婚約者のの二股のこと。知ってるんでしょ?」
太陽が雲に隠れたせいか、景色がゆっくりと灰色に染まっていく。しかと向き合う音無の顔も、その変化に合わせて陰っていくように見えた。
「二・・・股?私が六乃先生に謝っているのは、その、煙草のことです・・・」
煙草。一体何のことかがわからない。何故煙草の話が出てくる。
「煙草?」
オウムのように首を傾げて音無に聞き返す。
「ここで煙草を吸ったっていう問題が前あったじゃないですか」
「あったよ」
「あれ、私なんです」
「・・・は?」
「私ここで煙草吸ったんです。この校舎裏で。昼休みに一度だけ、煙草を吸ってしまって。職員室で問題になって」
放心状態のまま音無が続ける。口元がまるで動かない。それでも声ははっきりとこちらまで届いてくる
「吸ったのは私だってすぐに名乗り出せなくて。六乃先生にそのせいで無駄な手間を取らせてしまって。だから申し訳ないと思っていて。それでも言えなくて。今日はそのことで呼ばれたのかと・・・」
身体中の血の気が引いていく。誤解をしていたのはお互い様だった。
訪れたのは二人の大人が絶句した空間。想定外の落ち方のせいかジャーナリズムが急速に冷やされていく。隅のほうに残っていた選択肢を自然と手にとっていた。一旦退却。
「そっか。そうだったのか。いや、ちょっと驚いたけど、全然気にしないで。あっ用事思い出したな。ごめん。職員室戻るね、俺」
内心後ろ髪を強く引かれながらも、その場を立ち去るために足を動かす。早足で前に立っていた音無を横切ろうとしたとき。
「痛」
左の二の腕に圧力が生まれ、反射的に声が漏れる。足が止まる。おずおずと振り返る。
音無の手に腕が捉えられている。爪に塗られた透明のマニキュアが淡く光る。決して逃がさない、腕に伝わる力がそう物語っている。こちらに合わせようとしない目は、どこか熱を帯びていた。
「二股って何ですか?」
聞いたことのない後輩のドスの効いた声。校舎裏の影が深くなる。
12
職員室の雰囲気は一見いつもと変わらない。それでも何かが違って見える。何が違うかはわからない。ただ違って見える原因はわかる。六乃の精神状態がとても平穏とは言えないものになっていたから。頭の中の汚れを落とそうと思ったのに、結果はもっと汚れただけだった。だから言わんこっちゃない。
先日、知っていることを音無に白状した。恋敵が八尾立高校の生徒だということも。ただ日谷木の名前は出さなかった。それは不要だと思った。
日谷木から受け取っていた写真も渡した。校舎裏で次第に曇っていく後輩の表情。伝え終わると彼女は静かに告げてきた。
「先に戻っていてもらえませんか。私は・・・もうちょっとここにいます」
生気が感じられない。何故知っているのかと聞かれれば偶然見かけたと答えようと考えていた。しかし質問は飛んでこない。衝撃でそこまで頭が働かなかったのだと思う。意気消沈する人の姿を目の当たりにする。
何を口にすればいいか、わからなかった。一番上にあった言葉を口にする。
「そう、何かあったら・・・」
途中で口にするのをやめる。ただただ罪悪感が体にまとわりついてくる。思わず目を背け、その場をあとにした。職員室へと戻る足は鉛のように重かった。告げたことを思いっきり後悔している。悲しませたことが申し訳なかった。こういう気持ちにならないためにも控えめな人付き合いをしてきたのに。台無し。
日が暮れたあと。音無は職員室に戻ってきた。そしてすぐさま荷物を持ち、職員室をあとにする。誰とも目を合わせず、誰にもお疲れ様も言わず。
その去っていく姿をただただ目で追っていく。金曜日のその日は、日谷木の火を見た日より眠れなかった。一番嫌な思いをしているのは音無本人なのに情けない。
休日明けの月曜日の朝礼の際、千石が校舎裏の煙草について話題にあげる。
「その件で音無先生からお話が」
そう振られると音無がその場に立ち、頭を下げた。
「申し訳ありませんでした————」
音無が校舎裏での喫煙を自白する。わずかにざわつきはしたが、とうに話が打ち切られていた問題。生徒ではなかった確認できたという安堵感もどことなく流れる。音無が始末書を書くことで煙草の件は片付くため、とくにその場でそれ以上掘り下げられることもなかった。
朝礼のあとのわずかな時間。音無に声をかけようか迷っていた。歳が近いだけで、元々よく話す間柄でもない。かける言葉もまとまらない。実のところ休日はその言葉探しに費やしていた。でも見つからない。
結局都倉がすぐに音無を呼び出していた。椅子に座った都倉が、恐縮そうに立っている音無を見上げて話しかけている。
気になって近くを通る際に耳を傾けた。
「ルールを破るときは理由が必要だからな————」
そう低い声で都倉は音無に言って聞かせているのが聞こえた。喫煙するなら喫煙所でするように、そういう内容だと思う。目つきはいつも生徒に向けられている険しいもの。ただ不思議と威圧感は感じない。一種の禊なのだと思った。
とりあえず切り替えて授業に向かう。
そうこうしているうちにあっという間に時は経ち放課後を迎える。音無に話しかけることはなかった。理由は、とくになし。昔と変わらぬ意気地のなさを見せる自分。もうそういう性分なのだろう。久々に自己嫌悪で心を冷やす。情けない気持ちと体を癒すため、初めて本当に仮眠するため調理実習室の鍵を拝借した。仕事もまだ残っているので、そこまで長い時間眠ることはできないが。
調理実習室に一人入る。電気は消したまま。窓の開きを調節し、ちょうどいいそよ風を誘う。人に見られたときのことを考えると、さすがに仰向けになって寝るわけにはいかないと思った。時計を確認し、丸椅子に座る。白い調理台の上に上半身を突っ伏した。腕に伝わる冷たい感触。いざ準備が整うと思った以上に心地よさを覚えた。ゆっくりと意識が途切れていく電源が落ちていく。
その感覚を止めるように引き戸が動く音が聞こえた。眠りに落ちる手前の状態ながらも意識が働く。今は本当に勘弁してくれ。心の中で土下座する。吉永や音無が一度来たことがあったが、ここにくる人物はほとんど日谷木と決まっていた。仮眠をするなら別の場所だったと反省した。どうせ起こされるのだろうなと諦めつつ、狸寝入りを決め込む。生徒に寝ているところを見られるのは駄目なこととはわかっている。でもこの生徒なら構わない。情けないところはもういくらでも見せている。
引き戸が静かに閉まる音。そのあとは音が鳴らなかった。もしかして寝ている姿を見て帰ったのだろうか。予想外の気遣いに感心する。考えると普通の行動なのだが人によって印象が変わるものだと思った。
「・・・六乃ちゃん」
日谷木の声。控えめな、まるで耳元で囁くような口調で呼びかけられる。帰ってはいなかった。足音は聞こえていなかったのだが。忍び足でもしていたのか。起こさないよう気遣いするのはいいが、中途半端だと思った。
名前を呼ばれたせいか意識を引き戻されていく。どうするか。目を覚ましてはいるが、本当に目を覚ますか迷う。この間のように、むしろこの生徒の練習に付き合うことで気が紛れるかもしれないが、ただ裏紙は今日は持参していない。起きて職員室に戻り持ってくるのはさすがに面倒な気がする。
そうこう考えているうちにすぐ近くで足音が鳴る。うつ伏せになっていて、視界は真っ暗だが何となくすぐ隣に日谷木の立っている気配感じた。仮眠を取ることを諦める。
起きて適当に相手でもしようかな。そんな考えが芽生え始めたとき、頭の方に違和感を感じる。髪の毛。微かな感触。気の所為か、風の所為か。どちらも違う。確かに触られているとわかる。断定はできないが指で摘んでいるみたいだ。痛くはない。優しく指先でいじられている。起こそうという意思のない触り方。何がしたいのかさっぱりわからなかった。高校生から見たらただのおっさん。そのおっさんの髪の毛をそっと指で転がす。楽しいわけがない。
その後も日谷木は糸を縒るように髪の毛を触る。ただ無言で。どんな表情しているのかは気にならないこともなかった。でも狸寝入りを続けることにした。起きるタイミングを見失ったから。そのうち飽きるだろう。暗闇の中で無抵抗に心を委ねると、再び電源は落ちていき、意識は途切れた。
次に目がさめたときには部屋に電気が付いていた。瞬きをしながら目を凝らし、時計を確認する。四十分ほど経過していた。思いのほか寝てしまった。
「あっ起きた」
違う調理台に日谷木が座っていた。日谷木がシャープペンシルを片手にノートを広げている。勉強しているみたいだ。何もここでやらなくてもいいと思ったが聞きたいことでもあるのだろうと思った。見当はつく。
「何か用?」
目をこすっていると欠伸が漏れてきた。
「・・・生徒に堂々と寝てる姿見られて、第一声がそれってやばくない?」
「もう気絶したところ見られてるから」
「あーなるほど。いやさ、二股のこと。どうかなーっと思って」
「教えたよ」
「へー・・・えっ教えたの?」
日谷木がシャープペンシルを落とし、室内に音が響いた。
「何で驚くんだよ。教えたほうがいいって言ってた側のくせに」
「そうだけどさ、六乃ちゃん日和ってたし、音無先生はいつもと変わんないし。まだ話してないのかなって」
音無も休日で切り替えたのか。はたまた沖原とすでに何か話したのだろうか。それにしても鋼の精神力。尊敬の念が湧く。
「で、どうするって?」
「知らん。教えたあとは音無先生と口は利いてないから」
「何で?あっ・・・嫌われたの?」
「かもな」
「だからふて寝してたんだ。どんまい。慰めてあげようか?」
日谷木はいたずらする前の小学生のような意地悪な表情を浮かべた。
「いらん。それじゃふて寝も終わったことだし職員室戻るか。ここ閉めるぞ」
丸椅子から腰を上げると、体全体が硬く感じた。精一杯伸びをする。
「私来たばっかなんだけど」
「仕事残ってるんだよ。それに来たばっかって言うほどでもないだろ」
「え?何でわかるの?」
「俺の髪いじって遊んでたろ」
「うそっ!起きてたの?」
日谷木が目を丸くし、急に顔を背けた。
「いやまあ、ほとんど寝る寸前だった」
「その、あとは?」
怒られるようことでもしたのだろうか。念のため聞いておく。
「あと?覚えてないけど。他に何かいたずらでもした?」
「・・・何もしてない」
「言えよ。別に腹立てたりしないのわかるだろ」
「何もしてない」
日谷木こちらも見ずに躊躇なく静かに指を弾く。
一瞬で同時に全てのガスコンロに火が点火される。ざっと十二口。日谷木の感情を表現するかのような強火。室内の温度か小さく上がったように思えた。
「・・・何でそっちが怒る」
「・・・別に怒ってない」
火がこれまた同時に収まった。日谷木は相変わらず顔を背けたままだった。
その後職員室に戻ると仕事が捗った。仮眠する前よりも体が軽く感じる。まだ心に引っかかりは残っているのはわかったが、リフレッシュはできたようだ。休息は大事だと改めて実感する。後回しになっていた書類が片付いていく。仮眠したせいで一時間の遅れはあったもののそこまで遅くない時間に済ませておくべき仕事は終わった。
ふと自分の席から腰を上げ、その場に立つ。音無がいるかどうか、職員室全体を見渡す。理由なくくまなく見渡す。音無の姿はない。合唱部の活動に出ているのかも。職員室に戻ってくる可能性もある。時計を確認する。どの程度にが合唱部が終わるかはわからないが、授業の予習でもしながら待ってみることにした。何故待つかは不明だが。
刻一刻と窓の外の景色が黒に染まっていく。職員室から人影が一人また一人と減っていく。
「めずらしいな、この時間まで残ってるのは。戸締り担当じゃないだろ」
しばらく時間が経ったあと都倉がシェイカー片手に声をかけてきた。
「あっはい。違います」
「だよな。そろそろ担当の先生たちが見回り行くことになってるから。お前今日はもうやることないだろ。ぐだぐだな残業ほど阿保くさいものはないぞ」
そろそろ帰れということか。最後にもう一度職員室を見回す。音無は見当たらない。早い時間に帰っていたのだろうか。今の勢いに身を任せたかったのだが仕方ない。明日また頃合いを見計らって声をかけよう。
「わかりました。お先に失礼します」
都倉に頭を下げ帰り支度をし、職員室をあとにする。
そうして油断していると下足箱でばったり音無に遭遇した。幸か不幸かわからない。ばちりと目が合う。面と向かうのはあの校舎裏以来。純粋に気まずさを肌に感じる。でも挨拶くらいはしないと不自然。
「音無先生、お疲れ様」
「お疲れ様です」
音無の様子は普段と変わらなかった。でもそのあとが続かない。会話が入り口の前で止まる。よくよく思い返してみると、謝る、聞く、励ます、自分がそのどれをするのかも決めていなかった。三つの入り口の前でどこに入るか立ち往生する。
音無は表情を変えずに下足をロッカーから取り出し、履き替え始める。吊られて下足を取り出し、履き替える。会話をする雰囲気が消えていく気がした。
とりあえず挨拶はできた。随分と低い及第点。でもこの一歩からまた元の距離を探っていけたらと思った。
「六乃先生、帰りは電車ですよね?」
靴を履き替え終えた音無が不意に訪ねてくる。目を向けると何食わぬ顔で靴の爪先で地面を軽く叩いている。
「あ、そうだけど」
「それじゃ、駅まで一緒ですね」
「え、あ、そうだね」
虚を突かれたかたち。気まずくはないのだろうかと思いながらも、下足箱を二人並んであとにする。
学校の正門を出て駅まで歩いていると、バス乗り場に何人か生徒を見かけた。気だるそうにベンチに腰掛け会話している。傍には大きなエナメルバッグ。
「運動部の子って、本当荷物多いですよね」
「ん?ああ、どうなんだろうね」
「あれ?六乃先生運動部でしたよね?学生の頃」
「バスケ部だった」
「あーそっかバスケ部か。でしたらそんなに持ってくる物なさそうですね」
「そう着替えくらい。シューズは置きっぱなしが多いし」
本当に至って普通の話題を投げてくる。誰かと二人で歩く帰り道は久しぶりだ。いつもは他の先生より早く帰る。
「じゃあ私の学生時代のほうが重たいもの持って学校行き来してたなー」
「合唱部って荷物あるの?」
「私、中学の頃は合唱部ですけど高校は違うんですよ」
「中高そうなのかとてっきり、顧問してるから。高校何やってたの?」
「軽音です。ギター背負って登校してたんですよ。部活というか同好会みたいなものでしたけど」
「運動部より大変そうだ、それ。というか意外」
「よく言われます」
微笑む音無。その横顔を見ると疑問しか浮かばない。どうして沖原はこの人だけでは満足できなかったのか。すれ違いか、飽きが来たのか、魔が差したのか。それは本人にしかわからない。本人すらもわからないかもしれない。
沖原に関する話は振らないほうがいいと思った。気にはなるが。余計なお世話はもう十分だ。これ以上抉りたいとは思わない。
その後も適当な話をした。だが駅が近づいたところで音無が足を止める。
音無に目を向けたまま一、二歩前に進んだあと立ち止まった。目が合うと音無から質問が飛んでくる。
「そういえば、どうやって知ったんですか?私の婚約者の浮気」
急に目の前に地雷を置かれた。むしろこちらを見つめながら堂々と置いている。とりあえず前もって用意していた答えを担ぎ出し、踏む。
「・・・沖原、さん。紹介してもらったでしょ、地区勉強会のときに。それであのあと街で偶然見かけて」
「それで、写真を撮って私に見せたと。いい趣味とは言えませんね」
やはり内心怒っていたのだと思った。それはそうだ。基本は知らないほうが幸せなのだから。でも謝るなら今なのだろう。
「ごめん」
「・・・どうして謝ってるんですか?」
「いや、本当に悪趣味なことしたと。音無先生今も嫌な思いしてるだろうし・・・」
「それは・・・」
音無は出しかけた言葉を抑え、黙りこむ。口を片手で覆い、何かを考え込む。
罰があるならしかと受けよう。人付き合いに悩むのは懲り懲り。禊が欲しい。
「六乃先生、次の土曜日一日空いていますか?」
「あっ、はい」
「じゃあ私に付き合ってください」
どうやら禊は休日に行われるみたいだ。
13
キャリーバックを転がす外国人、落ち着いた空気をまとった老夫婦、土曜日というのに商談をしているビジネスマン。ホテルのラウンジから見える人々はいつも会う辛気臭い学校関係者とは違う種類の生き物に思えた。六乃は新品のような清潔さが保たれたソファーに深く腰を埋め、理由なく眺める。
二人掛けのソファー。両手を組み親指を無意味に回転させる。落ち着かない。隣には誰もいない。向かいの同じソファーにも誰もいない。四人席に一人。幸い混んではいないので気にする必要はなかった。聞き耳を立てただただ待つ。待ち合わせをしているわけではない。
目の前のテーブルの上には、とりあえず頼んだブレンドの珈琲。手を解き、薄い陶器のカップの持ち手に指をかける。いつの間にか減り、あとわずかになっていた。ほんの一口すすりながら、テーブルの端に置いてある二つ折りの革製の伝票ケースに目をやる。そこそこにいい値段がしたが普段飲んでいるものとそこまで違いがわからなかった。
「すまん!」
背中の方から謝罪が聴こえてきた。先ほどから同じ言葉が同じ男の声で何度か飛んできている。焦燥が表に出た情けない声。ホテルという大人の空間の静寂の中では五月蝿いとは言わないまでも少々目立ってしまっていた。
しかし、最初はこの情けない声につられて興味本位で眺めていた他のテーブルの客たちも、飽きたのだろうか、空気を読んだのかはわからないが、とくにそのテーブルに目を向けることはない。
「ただな、まじで違うんだって」
「何が違うの」
とあるカップルがただならぬ様子で会話をしている。今はこのカップルの話し合いが終わるのを大人しく待っているところ。
「いや、だから・・・誰にどう聞いたか知らないけど、二股なんかしてない。お前がさっき話したような関係じゃないから」
「じゃあどういう関係」
「・・・ただの教師と生徒だよ」
「じゃあ何でさっきから謝ってんの」
女の声は氷麗のように冷たく、鋭い。いつも聞くこの人物の声はもっと優しく温かい。それほどに怒りがこみ上げていることがよくわかる。
「その、お前に嫌な思い・・・させたから」
「・・・信じていいの」
「当たり前だろ。だって俺たち・・・婚約してるんだぞ」
その返事は悪手だと思った。女は質問をしているわけではない。これ以上こちらの胃を縮ませないでほしい。
「これ」
「・・・何だよ、これ」
女が証拠となる写真を見せたのか、男の声が詰まって聞き取りづらくなる。
「それこっちのセリフだから。どう見ても手繋いでるわよね」
「いや、あの、他の生徒比べたら少しだけ仲がいいかもしれない。この写真のときも偶々、はずみ、そうはずみでこうなっただけで」
「少し、だけ、仲が、いい」
恐らく四枚ほど追加。日谷木が撮った写真は腐る程ある。どれも男を容易に追い詰められる代物。いい加減諦めるよう心の中で勧める。
「あ、えっと・・・」
「これとか肩に手なんか回しちゃったりして。歩きにくくない?あーでも私のときも最初はこんな感じで歩いてたっけ。いざはたから見ると寒いね」
「・・・あの火の・・・変人はお前の知り合いか?」
その話を今してもふざけていると思われるだけだろう。冷静ではない。
「は?何わけのわからないこと言ってんの?おちょくるのも大概にして」
「あ、いや」
男の声が止まる。先ほどまで必死に泳いでいたがとうとう息がもたなくなったのか。水に沈んだまま戻ってこなくなった。
「・・・正直に言ってよ」
音無の声。氷麗がわずかに溶けた気がした。ただどこか、言うことを聞かない子どもに言い聞かせるような呆れを感じる。
「・・・すまん。すま————」
沖原の声が聞き取れなくなる。諦めがソファー越しに伝わって来た。
音無は背中合わせのかたちですぐ後ろのソファーに座っている。背もたれで区切られているが距離は近い。その音無の向かいには沖原は腰を下ろしている。
二人が今どういう絵になっているか想像をすると、氷麗の先端に触れるような感覚が胸をちくりと刺激してくる。蓋を開けてみれば想像したより疲れる禊だった。駅前で佇む音無の姿を思い出す————
「今度の土曜日に婚約者と会うんです。六乃先生もついてきてもらえませんか」
音無が意外な言葉を口にした。いつも話すときと変わらない口調で。
思わずたじろいてしまう。部外者がその場に、人の人生が大きく左右するであろう現場に同席するのはさすがにおかしいと思った。言われた当初は、これ以上首は突っ込まない、と下手な遠慮をしようとする。
とはいえ、それでは事実を伝えた身としても無責任すぎる。結局ついていくことが禊になるのか疑問を持ったまま、甘んじて従うことに。
詳しく聞いてみると、同席はしなくていいとのことだった。近くの違う席に座っていてくれるだけでいいとのこと。肩の荷をいくらか下ろしてもらえた。
では何故ついていく必要があるのかと尋ねると、真顔で告げてくる。
「誰か知っている人がいるって意識がないと、何するかわからないので・・・私」
そのときの音無の表情を見て誰かに似ていると思った。よくよく考えてみると商店街で燃やそうとしてきた日谷木の表情と同じだと気づく。
そのあとも音無は、原稿でも読むかのように流暢に話し始める。
「この間六乃先生にお話をうかがったあと考えたんですよ、休日。色々と。今後のこと。もう信じられないですよね。婚約してるっていうのに。お互いの家族が集まる顔合わせの食事会ももうすぐあるんですよ。ほんっとありえない。それであの男に電話して。まだ一緒に住んでるわけではないので。いつもお茶するホテルのカフェラウンジがあるんですけど、そこで休日会うことにしまして。あっそのときの電話もいたーって普通の調子でした。どういう神経してるんですか?あの男は。今日うち来ないの?って誰が行くと思います?こっちが何も知らないと思って、ずけずけと。そのときまであいつ問い詰めるのもどっちかの自宅のほうがいいのかなって思ってたんです。けど絶対ぐだぐだになるじゃないですか。だから結局ホテルにしたんですけどね。で、公共の場で暴れるのも何ですし、私のストッパー役は共通の友達に頼もうと最初は思ったんですけど。それも嫌だなーと思ったんですよ。気使わせちゃうじゃないですか。だからその言い方悪いかもしれませんけど六乃先生がちょうどよくて。もう事情ご存知ですから。仲良い友達にはもう言ってるんですけどね。絶対別れろって言われちゃいましたよ」
息継ぎをする様子も見せず話す音無に呆然として、気まずい話を気まずく感じる余裕もない。そのあと血走った瞳の音無と目が合う。
「・・・なるほど」
率直にそれしか言葉が出せなかった。そのあとも気の利いた返事など思いつかない。職場の後輩に見事にびびってしまったとある駅前での夜————
そして今に至る。音無の決断はまだ聞いていない。ただ音無の左手に婚約指輪をはまっているのは確認できた。
「本当に好きなのはお前だけだって」
沖原の声がまた聞こえ始めた。なけなし力を振り絞るようにして喋りだす。
沖原の言葉に対する音無の返事はない。
「ちょっと優しくしたらあっちが急に言い寄ってきたんだよ」
「いや勝手に突っ走ってるの見てるとかわいそうでさ」
「ちょっとデート、みたいなことしかしてない。その・・・やっては・・・ないから」
「相手は高校生だし。がき相手に本気になるわけないだろ」
「もう相手にしてない。ちゃんと学校でも突き放してるよ」
「あっもしかして俺の仕事のこと心配してるのか?」
「その女子生徒にはしっかり口止めしてるし大丈夫なんだよ」
「それにもしそいつが他の人間に喋っても、職場の連中には婚約の話はしてるし誰も信じないって。その生徒の妄言ってことで片付けるから」
途切れ途切れで沖原の一人喋りが続いた。下手な鉄砲数撃てば当たるといった様相。氷麗を一気に撃ち落そうとする。耳を汚すような沖原の言葉たち。けれど必死さが伝わって来る。音無を失いたくないという執念を全面に感じる。彼の今の言動は間違った選択肢ではないと思った。むしろ感心さえする。自身が大切な人と離れそうになったとき、ここまで闇雲になることはできなかった。この男のように格好つけず、熱くしがみつけば、心が凍ってしまうこともなかったのかもしれない。
沖原が弾を撃ち尽くした。再び二人の間に沈黙が訪れる。
「・・・そう」
音無が口を重々しく開く。どちらかを選んだみたいだ。
「もうあやまらなくても大丈夫。わかったから」
継続を選んだか。今となっては決して意外ではない。沖原の安堵する表情が浮かんでくる。
案の定沖原の生き返った声が聞こえてきた。
「よかった。よかった!ちゃんとこれからは大事にする。愛して————」
「これ、返すね」
遮るように放たれた音無の声。何を返したかはわからない。でも想像はつく。
音無の出した答えは、男たちが最初に過ぎった答えの逆だった。
「・・・嘘だろ?」
「嘘じゃないよ。別れよ。私のことはもういい。せめてその子を大事にしてあげて」
沖原は絶句する。弾を込めようにも、銃本体が衝撃で壊れてしまったのか。
「それじゃあね」
そう聞こえたかとと思うとすぐに音無の姿が視界に入ってきた。
音無は何かを振りほどくように歩きながらテーブルに置いていた伝票ケースを掻っ攫い、ヒールの音を鳴らしながら足早に会計の方へと去っていく。左手には伝票ケースが二つ握られていた。金属が光を反射する様子は確認できない。
突如訪れた閉幕に呆気に取られてしまう。しかしすぐに我に返って気配を殺しながら振り返り沖原の様子を確認する。
あれだけ決死の言葉で引き止められなかったのが受け入れられないのか、沖原はテーブルを見つめ停止していた。追いかけないのか。心の中で問う。
音無のほうを向くと会計を済まし出口に向かっていた。
一人にしたほうがいいのか。追いかけたほうがいいのか。追いかけるべきははたして誰なのか。全く結論が出ないうちに、体が勝手に音無のあとを追い始める。追いかける途中勢い余って大学生ほどの女にぶつかってしまう。一言謝罪を述べたが相手は無言で歩いていった。気にせず音無を再度追いホテルを出た。
車のライトが目立つ時間。車道と反対側に目を向けると音無が無言で隣を歩いている。賑わい溢れる大通り。どこに向かって足を進めているのかわからないが、とりあえずお供する。一人にするとそれこそ何をするかわからなそうだった。
ふと前方に古めかしい歩道橋が目に入る。導かれるように音無が階段を登っていく。今度は後ろをついていっていると、音無は歩道橋の真ん中で立ち止まった。歩道橋から飛び降りたりはさすがにしないよな。わざわざ歩道橋を渡る人間は、今のところ他にはいないよう。
「本当はですね」
音無が呟き始める。いつもの声色に戻っていたように思えた。
「許そうと思っていたんですよ。まあ、一応もう切れてるらしいですし。それにいいところもあるんですよ」
返事や相槌はいらない雰囲気だったのでただその後ろ姿を見つめる。
「でも駄目でした。駄目ですよ。自分の生徒あんな風に言っちゃ」
音無が頭上を見上げる。雲のない真っ黒な夜空が頭上には広がっていた。
「あの辺りで、もういいやって。この人とは結婚しないって決めちゃいました。知らなかったな、追い詰められるとあーなるとは。知らないほうが幸せですね」
音無が大きく肩で息をする。
「でも知らないって怖いことだとも思います。あのまま結婚してたらと思うとちょっとぞっとしちゃいますし。全然気づかなかったなー」
段々と声が掠れて聞こえてくる。ゆっくりと、ゆっくりと。
「それにしても最後の私の台詞はないですよね。その子のこと大事にしてあげてって、我ながら寒いですよ。二股かけられといて。あんなナルシストの男みたいな捨て台詞言うとはなーあー・・・えっと・・・ああ駄目だ・・・」
声より音に近い言葉を出し切ったあと音無は下を静かに向いた。大粒の雫が輝きを放ち、乾いた鉄に落ち、染み込んでいく。
他の人はこんなときどうしているんだろう。かつての問いを思い出す。人の別れに立ち会ったその日、その自問に対しての一つの回答を見た。
ぼろぼろに崩れ切った姿が目の前に写っている。ださくて、気持ち悪い、救えない。そう思っていた姿。だからこそ失い、再び拾うことを拒否し続けた。でも今は、格好良く、綺麗で、救いたい。そんな感情が湧いてしまっている。
気のせいだと否定せずにはいられない。しかしその輝きを邪魔しないよう、立ち尽くしたまま見惚れる。
「六乃先生、色々とありがとうございました」
化粧がやや滲んだ音無が無理やり微笑みそう告げてくる。礼を言われる立場ではないのに。やはり真面目すぎると思う。
後日。一つの記事に目を奪われる。公立高校教師の懲戒免職の記事。高校一年生と不純な男女交際をしていたことが相手生徒の保護者の訴えで発覚したとの内容。沖原の名前がそこにあった。
「私のせいですかね」
職員室で脈絡なしにぽつりと呟く音無を慰めようとあたふたする。
「冗談ですよ」
そう笑い飛ばした後輩の目は紛れもない寂しさを帯びていた。
14
「やってらんないでず」
活気に満ちた店内。目の前でジョッキを置く鈍い音が鳴る。
「せっかくこっちが、いい格好して、大事にしろって、言ったのに、もう!」
顔を赤に染めた音無が鼻声で唸った。ジョッキから手を離さない。今日もハイペースでビールを飲み干している。この飲みっぷりを初めて見たときは心配になったが慣れとは恐ろしいもの。この目が据わった飲んだくれの状態に入るのもそろそろ頃合いと思っていた。
その隣では吉永が何食わぬ表情で座っている。手元には空きそうなジョッキ。
「ずいぶん優しいこと言ったのね。私だったらもっと罵詈雑言浴びせてるわよ」
「そうすれば、・・・よかったれ、です。あーよくなかった!・・・私」
「男を見る目がなかっただけじゃない。女あるあるでしょうよ」
「そうかも、しれませんけどっ」
音無がまたジョッキを担ぎ上げ、勢いよくビールを喉に通していく。
六乃はあの沖原の一件以来こういった光景を見る機会が増えてしまった。仕事終わり。綱常高校から二駅ほど離れた大衆居酒屋。自分と吉永、音無、そして今となりで仏頂面で板わさを摘んでいる都倉の四人。元々女性陣二人と都倉は通勤電車の路線が同じらしく飲む機会がしばしばあったとか。基本的に二軒目には行かず、一軒目で程よく飲んで帰ることが多い。
ある日突然その会に音無から誘われた。同僚と飲むのは普段は避けていた。そのときも同様に断ろうとも過ぎったが、音無への後ろめたさからなし崩しで参加してしまった。その後も気分に差し支えがないときは混ざっている。
「吉永先生、次何にします?日本酒とかどうですか?」
都倉がメニューをとり、ドリンクメニューの欄を覗く。
「お、いいわね。採用。六乃先生も飲む?」
「あっはい。いただきます」
その返事を聞いてか、都倉がメニューを胸に押しつけてくる。
「じゃあ適当に好きなの頼め。何でもいい」
「わかりました」
小洒落た名前がいくつか並んでいた。とくに好きな銘柄などないので迷ってしまう。店員が来たら適当に決めよう。
「すいません」
片手を挙げて店員を呼ぶと、店員が待つようジェスチャーを送ってくる。
「私も・・・日本酒いっちゃおうかな」
音無がやけっぱちにそう呟いた。まだビールは残っている。
「あなたは今日はやめときなさい。明日も仕事あるんだから」
吉永は肩を叩いて音無をなだめる。絵に描いたような先輩と後輩だと思った。
「しこたま飲んで、早く・・・何もかも忘れだいんです」
「まあ気持ちはわかるけど、それはあまり良くないわよ。何もかも忘れるのは良くない」
その吉永の言葉が引っかかった。酒にちょうどよく酔ってきた頭がやや冷める。
「え、だって・・・顔とか思い出すの嫌ですもん。ずっと・・・背負えない」
音無が目に見えてふて腐れる。
「顔なんかは忘れちゃっていいわ。あなたの場合相手も相手だしね。そのうち嫌でも時間が解決してくれるわ。ただね」
吉永が空になったジョッキを見つめて続ける。
「自分がその人を好きだったっていう事実は白紙にしちゃいけない。誰かを好きだった気持ち自体を忘れちゃったら、それこそ次いいかなって思った人も素直に好きになれなくなるわよ」
店内の喧騒が一瞬きこえなくなる。音無に向けた言葉なのに胸に響く。心当たりがあった。最後に誰かを好きになったのはいつだったか。思い出せない。
「人との出会いの方が大切に思われがちだけど、人との別れも同じくらい大切だと思うの。たとえその別れが良くも悪くもね。別れてもどうせ次あるんでしょ、くらいの軽い気持ちに慣れすぎたら、そのあとの出会いも軽く見ちゃうようになる。それは嫌でしょ?」
魚の小骨が喉に引っ掛かったような気分になる。酒の量が足りないせいだろうか。まだわずかに残っていたビールを流し込んで無理やり流す。
「吉永先生」
音無がうっとりした目で吉永を見つめたあとそっと抱きついた。
「染みます!一生づいていきまず」
「はいはい。何か語り過ぎちゃってるわね。飲み過ぎてるのかしら。とにかく、誰かを好きだった事実を忘れず、次また他の誰かを好きになれるようがんばりなさい」
吉永から体を離した音無は上機嫌な笑顔だった。酔っ払いは振れ幅が激しい。
「はい!合コン、行きます。行きまくります!」
「うんうん。まあ、その調子でいいかな。一回離婚している私だって、また結婚してもいいと思ってるんだから」
「えっ」
吉永以外の三人の声が重なる。正直意外だった。他の二人も同じだろう。
「何で全員驚くのよ。その、いい人がいればよ。失敗してるとはいえね、千石先生の幸せそうな様子なんか見てると結婚もまるっきり否定をする気にはなれないし。あそこにかぎっては奥さん出来過ぎだと思うけどね」
「それは言えてますね」
そう口にした都倉の表情ははどことなく嬉しそうだった。
店員がやっと注文を聞きに来る。前掛けと鉢巻姿。繁盛しているので仕方ない。
「えーっと、出羽桜ってやつを熱燗で二合。お猪口三つで」
「出羽桜なら冷のほうがいいぞ」
都倉が呟くように口を挟んできた。
「あっはい。すみませんやっぱ冷で」
その次の日は二日酔いになってしまった。頼んだ日本酒が案外飲みやすかったせいかもしれない。午後になってある程度収まったが、仕事の前の日は気をつけなければ。他の三人はけろっとしていた。
仕事が片付いた夕方。体の調子も万全ではないことも踏まえて、早々に帰宅することにする。下足箱で靴を履き替えて外に出ると、空には夕焼けが広がっていた。思えば日が落ちてないうちに帰ることが少なくなったように思える。バスケ部にも以前よりは顔を出すようになっていた。徐々にだが何かと要領が悪くなっていっている気がしないこともない。
「六乃ちゃん」
正門を通り過ぎたところで呼び止めれる。振り返ると日谷木が駆け足でやってきた。足を止めていると息使いが荒くなった日谷木が横に並ぶ。思えば要領が悪くなったのはこの生徒に近づかれたときからだった気がする。もうすっかり普通の女子生徒にしか見えなくなった。
「六乃、先生。何回言わすんだ」
「ふーっ、そっちこそしつこい。そういう男は嫌われるよ」
「・・・また練習か?」
付き合ってもいい。帰っても特別何かがあるわけでもない。
「いや、今日はいいや。六乃ちゃん今日具合悪そうだから」
「え、何でそう思うんだ?」
意表を突かれた。気付かれたこと、気遣われたこと、その両方に。
「だって朝も、授業中もずっとお腹さすってたから。食べ過ぎ?当たりでしょ」
正確には飲み過ぎ。しかし生徒の前で二日酔いとは言えない。
「まあ当たり」
練習がないということならやはり帰ろう。引き続き帰路につく。
「やっぱり!すごい私。ていうか六乃ちゃんそんな食べてると太るよ」
「ほっとけ」
「ますます生徒から人気なくなっちゃうじゃん」
「・・・ほっとけ」
「そうやってふて腐れるの良くないよ」
そう言って友人に向けるような無邪気な笑顔を向けて日谷木はついてきた。駅までの道には生徒や通行人が少なからずいる。変な噂がたっても困るのだが。
そんな思いをよそに日谷木が真面目な顔つきで話してかけてくる。
「そういや沖原、くびになったって言ってたじゃん」
「ん?ああ」
日谷木には、沖原が生徒との交際がばれて免職されたことだけを口頭で伝えている。ニュースなんてあまり見ていないだろうと思っていたし、世間にも特別大々的に取り上げられていたわけではなかった。
案の定伝えたとき、日谷木は初耳だったよう。沖原、水戸、二人の関係はよりが戻ったものなのか、引き続き手を出していたものなかは結局謎。そんなことを気にせずに沖原を燃やすと怒鳴り散らすかと思っていたが、それはいらぬ心配だった。日谷木は水戸をひどく心配していた。
「・・・学校の先生と生徒が付き合ったら絶対くびになるわけ?」
「そうとは限らないけど・・・」
いわゆる清い交際であれば一応問題はない。現に教え子と結婚する教師だっている。ただきっと、そういう本気の交際している場合でも結婚するまで隠し切るのだろうなと思った。そして生徒が大人になって再会して付き合い始めたことにする。例えどれだけ誠実であっても、在学中の子どもに手を出していたと知られれば職場で肩身が狭くなる。学校側もそんな教師を抱えていても何のメリットもない。どうにかして首を切るかもしれない。そんなリスクまで抱えないといけない交際に手をだす神経は理解できない。
教えておいたほうがいいことがあるとはいえ、恋愛のどろどろとした部分に踏み込んだ話を生々しく異性の生徒に教えるのははばかられる。生徒からセクハラで訴えられれば、それこそ減給か戒告。他の先生丸投げするしかない。
「ま、詳しくは女性の先生に聞きなさい」
「何で?」
「そういう恋愛関係の話は女性の先生が話す決まりになってる」
「・・・何か嘘っぽい。ま、いいや。絶対ってわけじゃないなら」
「何でそんな沖原のことが気になるんだ?」
「え、いや、あんなやつのことは気にならないよ。自業自得じゃん。たださ」
日谷木が深くため息をつく。
「美波に全然会えなくなっちゃったんだよね。連絡しても返事返ってこないし。相当へこんでるんじゃないかなーっと思ってさ。あーあ、こんなことになると思ったから引き離したのに。もういまさら言ってもしょうがないけどさ」
沖原は結局脅しを何とも思っていなかったのだろうか、それとも音無に別れを告げられたショックで自暴自棄になってしまったのだろうか。本人しか知るところではないが、今となってはこちらが野暮なことをしなくても遅かれ早かれこういう後味の悪い結果が訪れていた気がしてならない。
水戸も辛い思いをしているだろうが、男運が悪い女は世の中にはたくさんいるらしいし、大事なものを忘れず、たくましく生きてもらいたい。
「時間が経ったら、また向こうから連絡が来ると思うぞ。大丈夫さ」
「うん。あとさ、その、音無先生は元気?」
「よくわからんけど、まあ、だいぶ吹っ切れたんじゃないか。職員室で変に同情されてるところは見ないし。元々婚約の話はあまり大っぴらにはしてなかったみたいだから。仕事も相変わらず丁寧にやってる」
目下の気になる点はそこだけ。早く元気になってくれると気楽だ。
「・・・何でよくわかんないの。よくしゃべってんじゃん、最近」
「そうか?というかいつまでついてくるんだ、お前」
「別についてってないし。駅に行ってるだけー。自意識高すぎー」
そうからかってきながら日谷木は笑い声を上げた。その表情を見ていると、この生徒から解放されることは卒業までないのだろうなと思った。
渡ろうとする横断歩道の信号が目に入る。急いだら間に合うが急ぐ気にもならなかった。ペースを変えずに歩く。
「彩芽」
背中から小さく日谷木の名前を呼ぶ声がした。他の生徒だろうか。振り返って確認する。
四、五歩後ろに見慣れない制服の女生徒が佇んでいた。綱常高校の生徒ではない。
「あれ、美波!」
隣で嬉しそうな声を上げた日谷木がすぐに女子生徒に近づく。
美波という名前に心臓が反応して一度大きく鼓動した。水戸美波。面と向かうのは初めてだ。この目の前の子がそうなのか。
沖原とのデートを尾行した際は水戸は私服姿で背中まで伸びた髪をナチュラルに下ろしていた。今日は黒く艶をまとった髪を束ねた制服姿。すぐに気づかなくても無理ないと自分に言い訳をする。
いざ間近で見ると猫ような大きな切れ長の目と通った鼻筋が印象的な美人だと思った。しっかりと化粧もしているが違和感は感じない。日谷木と並ぶと日谷木が本当に芋くさく感じるほど大人っぽい。
「どうしたの?超びっくりしたー。偶然?じゃないよね。返事くれないから心配してたの。よかった」
「・・・先生がさ、学校やめさせられた」
そんな嫌でも重くなる話題をわざわざ路上でしなくても。それほどまでに気が沈んでいるということか。
これ以上この話を聞くのもそれこそ野暮。空気を読んですぐに立ち去ろうとしたが、渡ろうとした横断歩道の信号は赤になっていた。仕方なく無関係を強調してその場に立ち往生する。
「あっうん・・・あの、そのことね。ちゃんと話聞くよ。そうだ、またファミレスでも行こうよ。パフェ食べよ」
横目で見ると、日谷木が水戸の袖を掴んで優しく引っ張っている。
「最後に会ったとき言われた。全部お前のせいだ、って」
水戸が今にも倒れそうな声ではっきりと呟く。
耳を疑った。どこまで落ちていけば気が済む。救えない。
「そんなわけないじゃん!えっとファミレスは、この近くだと」
「いや私が悪いよ。だってさ」
水戸が袖を引っ張る日谷木の手をそっと払った。
「あんたが言いふらしたんでしょ」
「え」
日谷木の動きが固まるのが見えた。無関心を装っていたが思わず顔ごと二人の方へ向いてしまう。さらに耳を疑った。冗談でも言っているのか。無関心でいられなくなる。
「あんたにしか言ってないんだから。あんたがちくった。そうに決まってる。だからあんたに話した私が悪い」
喋り続ける水戸が冗談めかして笑う様子はない。
「どれにちくったの?うちの学校?親?警察?ま、どれでもいいけど」
「ちが・・・」
日谷木は思わぬ友人の言葉に動転したのか返事に戸惑っていた。
日谷木は交際を止めようとはしたものの、別に言いふらしたわけではない。むしろ表沙汰にならないよう努力していた。水戸のためを思って。
穏やかではない。介入するべきか迷う。ただ、今大人が入ると余計ややこしくなる恐れもある。キャットファイトが始まったわけでもない。
「最初に私が先生との付き合い話した頃から、偉そうに説教くれてたもんね」
引き続き水戸は冷たい目で日谷木に畳み掛ける。
「つかさいつからあんた、私より上になったわけよ。ほんと腹立つ」
「私は・・・その」
「そんなに私が不幸になるの見たいの?でも残念」
水戸は嘲るように鼻で笑ったあと人形のように済ました顔を作った。
「おかげで先生はどこぞの女か知らないけど別れたわけだし、先生が帰ってきたとき、わかってあげれるのは私だけ。あーあとさ」
冷たい目がこちらに向いた。睨まれているわけではないが敵意がはっきりと伝わってくる。
「そいつ教師でしょ。学校から一緒に出てくるの見たし。あんたさ、人に散々言っておいて自分は何楽しそうにしちゃってんのよ。どんな神経してるわけ?」
駄目だ。もう我慢できない。色々と視野が狭くなって言い過ぎている。さすがに歩み寄って一方的な口喧嘩を仲裁しようと思った。
「あのな、君————」
「うっざああい!」
声をかけた途端、そのことを拒絶するように水戸が突然叫んだ。声が周囲に鳴り響く。他の通行人の視線が即座に水戸に集中する。
しかし水戸は何事もなかったように落ち着き払っていた。そして日谷木に目を戻す。
「・・・彩芽、最後によく聞いてね」
水戸は急に表情を綻ばせて微笑む。
「二度と友達面して私に近寄んなこの裏切り者」
軽い口調で日谷木を見据えてそう告げた。はっきりと鮮明に。
「あーすっきりした。今日これ直で言いに来ただけだから」
ありのままを口から吐き出した水戸はすぐさま横を駆け抜けて、すでに信号が青になっていた横断歩道を渡っていく。
その後ろ姿に呆気にとられたあと、ふと日谷木に目を戻した。
日谷木は去っていく友人を目で追うこともなく、そのままに固まっていた。
「大丈夫・・・か?」
大丈夫じゃないのはわかっているがそれしか言葉が見つからなかった。返事はない。反応すらない。
その日から日谷木が声をかけてくることはなくなった。
15
放課後の職員室。六乃は自分の席で黙々と提出された文理選択の進路調査票に目を通していく。将来行きたい学部の候補と文理の選択が一致していないものもちらほら。どれほどの生徒がこの薄茶色の再生紙と真剣に向き合っているのかはわからないが、一応大事なことなのでとりあえず今度忠告はしておこう。
日谷木から解放されて数日が経っている。平穏が戻ってきた。職員室での会話や部活動に顔を出すは以前より増えたけれど、無理はしていない。マイペース。はるか年下の人間に、昼休みや放課後突然呼び出されたり、燃やされたり、こき使われることはなくなった。物足りないなんて思っていない。自分から調理実習室に足を運ぶことなどはこれからもうない。仮眠は封印した。
授業中に問題を振ったときくらいしか日谷木の声を聞くことはなくなった。思い起こすと目も合っていない気がする。嫌いになったったとか、怖いとか、煙たいとかそういうわけではないのだけれど、日谷木にはこれ以上近づかないほうがいい、と頭の中で木霊させた。会話するたび日谷木は水戸の言葉を思い出す。だからこの距離感を保ったほうがいい。そう考えている。
気が散っていることに気づく。鬱陶しい。気分転換しようと、机の引き出しを開け自腹で購入しているインスタント珈琲の瓶を取り出す。そして職員室の奥にある給湯室に足を運んだ。流し台と、冷蔵庫が一つ置いてある、大人が三人入れば窮屈に感じるほどの部屋。給湯室というより給湯スペース。
流し台の隅に置いてある高齢者の家で見るようなポッドの中身を確認すると、お湯はほとんどなかった。浄水をいっぱいに入れ直し、お湯を沸かす。
水切りラックに置きっぱなしにしていた自分のマグカップを流し台に置いた。目分量でインスタント珈琲の粉を適当に入れる。
沸くまでその場で待つ。席に戻って仕事をしておけばいいものを、堕落して惚ける。物足りないなんて思っていない、なのにどうしてかしっくりこない。すでに非日常が日常に変わってしまっていたのか。今感じている平穏は非日常になってしまったのか。いやいずれまた知らぬうちに慣れるはず。
「あら、お湯ない?」
入り口に吉永立っていた。手には珈琲パックのついたマグカップ。
「さっき入れたので、沸くまでもう少しかかるかと。ここ置いといてください。沸いたら持っていきますよ」
「お、気が効くわね。お言葉に甘えて・・・そういえば」
置いていたマグカップの隣に吉永が手に持っていたマグカップを並べる。
「ちょっと前だけど、日谷木さん、調理実習室の前で見たわよ」
どうしてわざわざそんなことを伝えてくるのかと思ったが、自分が日谷木の担任だからなのかと思うと納得した。
「・・・何でそんなところいるんでしょうね」
「わからないわ。けれど随分と物思いに耽ってたわよ。近頃他の子といるところ見ても表情が硬いし。あの子結構笑う子じゃない?悩みでもあるのかしら。まあ悩みのない生徒、というか人間のほうが少ないでしょうけど」
「何かあったら・・・相談しに来るでしょう。便りがないのがよい便りとも思いますし。信じて見守るのが大人、だと」
それを聞いた吉永は予想が当たったときのようなしたり顔を浮かべる。
「確かにそうだけどね・・・ちょっと聞いちゃおうかしら。六乃先生は見守るって言葉、どういうイメージを持っているの?」
「イメージですか?」
「ええ、抽象的で構わないわよ」
ときどき困る質問をしてくる。見守る、見守る、見守る。言葉を頭で反復する。公園で遊んでいる子供を見つめる親の映像が浮かんだ。
「そう、ですね。離れた位置で、口を出さず、見つめる・・・信じる。そんな感じです、ぱっと浮かんだのは」
「なるほどね」
「間違ってます?」
何となく不安になって尋ねてみると、吉永が体の前で手を横に振った。
「間違いじゃないわよ。それに正解不正解を指摘したいわけじゃないわ。あなたの意見を聞きたかったの。答えは一つではないでしょうし。ただ、私のイメージした見守るとは違うところがあるのも確かね」
「そう、ですか」
「見守るってね。必ずしも離れたり黙ったりする必要はないと思ってる、私は」
言われてもすぐには吉永の言っているイメージが思い浮かばない。
「・・・相談がないか、聞き出したりってことでしょうか?」
「んーそれ教材会社の営業みたいね。そこまで直接的だと、さすがに私の見守るの意味から外れてくるかしら」
そう言うと吉永は両手を組み、こちらに手のひらを向け腕を伸ばす。そして手を離し、一気に脱力した。
「もっと肩肘張らずに声をかけるイメージ。例えば・・・天気の話でもいいわ。よくする他愛のない会話。でもそういう会話が意味のないようで意味あるのよ。困ったとき、案外そういった話のついでに相談したりすることもあるでしょ?」
吉永が調理実習室に来た日のことをふと思い出す。
「・・・世間話をするのも見守るのうちの一つってことですか」
「ん、まあそんなところかな」
若干とぼけて、吉永は給湯室から職員室へと戻っていった。
お湯が沸いた。二つのマグカップにお湯を注ぐ。湯気が立ち上っていく。
片手に粉の入った瓶。もう片手で二つのマグカップの取手を握り、慎重に、しかし無心で自分の席へと戻る。一度机にマグカップを二つとも置き、吉永のものを渡す。
「どうぞ」
「ありがと」
会釈しつつ机の引き出しに瓶を片付け、腰を下ろそうと椅子に手をかけた。しかしすぐに静かに手を離した。頭では座ろうとしているのに、何故か座る気になれなかった。湯気を放つ入れ立ての珈琲。顔をしかめながら一度すすり、机の上に置く。広げていた書類を片付け、参考書だけ手に持った。
「吉永先生」
「ん?」
「仮眠してきます」
「そ、いってらっしゃい」
静かな声が背中を押してくる。調理実習室の鍵を慣れた手つきで手に取り職員室を出た。
B棟の二階。廊下を進んでいく。窓の外を覗くと、今日は絵に描いたような運動日和だ。放課後のグランドには色とりどりの運動着を身にまとった生徒たちが寒空の中思い思いに動いている。ついつい歩きながら眺めていると、蛍を見ているような錯覚がした。初めての感覚。どうかしていると思い目を外す。
調理実習室の前の廊下には本当に日谷木がいた。肌寒いなか窓を開け、外の景色を遠い目で眺めている。典型的なもの思いの耽り方。すぐ横の壁に立てかけてあるハードケースに手をかけようとする素振りも見せない。
「トランペット吹かないのか?」
声をかける。別に授業中にも同じようなことをしているはずなのに、随分前に会った気分だった。ただ返事は返ってこない。会釈どころか一瞥さえももらえない。反応がないことに困ったが、そこまで期待していたわけでもない。
「そういやトランペットって重いのか?今考えてみると持ったことないかも。・・・そうだ。ちょっと持たせてくれ」
持っていた参考書を脇に挟んで抱え、様子を伺いながらハードケースに手をかける。
「おーい、ケース開けるぞ、黙ったままだと。いいのか?」
相変わらず日谷木からの反応はない。戸惑いながらも引き下がらない。ハードケースを開ける。トランペットが鈍い光を放っていた。片手で持ち上げる。
「やっぱりそこまで重くないのな」
トランペットを口の高さまで持ち上げて構えてみた。吹き口は空洞になっている。両手で持っているのにやや重みが増したように感じた。
「あーでも、ずっとこの態勢で吹くとなると案外きついかも・・・吹いたら怒るか?」
吹く気なんてさらさらない。しかしこれでも相手をしてくれない。
「なんてな。冗談冗談。マウスピースだっけか、ついてないし・・・」
独り言が寒々しく廊下の床に落ちる。無言でトランペットをケースに片付けた。そして胸のポケットから拝借していた調理実習室の鍵を取り出した。
「えーとまあ、ここ開けるから、勉強でもトランペットの練習でも、それに・・・例のガス抜きで構わないから、やるときは中に入りなさい。その、あれだ、あんまり風に当たってると風邪引くから」
そう告げ、大げさに音を立て調理実習室の鍵を開ける。中に入るとこれまた懐かしさとも言える気持ちが湧いた気がした。そこまで久しいわけではないはずなのだけれど。
毎度のように丸椅子を用意して腰をかける。入り口は開けたままにした。
日谷木は中々室内に入ってこなかった。思春期の娘を持った父親の擬似体験をしていると思った。切ないものだ。とりあえず、リビングで新聞でも読んでいるかのように教材研究でもして待ってみる。
単純に嫌われているのかもしれない。元々日谷木が絡んできていたのも、こちらが秘密を知っていて気を使わなくて済むのが大きな理由だと思っている。
端なく職員室の机の上に置いてきた珈琲を思い出した。長丁場になりそうだし持ってくることにする。日谷木は珈琲は飲むのだろうか。
「日谷木ー。お前珈琲とか飲むかー?」
部屋の中から大声で呼びかけてみる。無音が続く。調理台に参考書を置き、ゆっくりと丸椅子から腰をあげる。
「先生一度職員室に戻って珈琲持ってくるけど、お前がもし飲みたいなら、入れてきてやってもいいぞ」
入り口に向かって歩き出す。ここにもポットくらいありそうだったが、物色するのも面倒。非効率だが職員室で入れて持ってこよう。
「ここに持ってくるまでに冷めてるだろうから、アイスになるけど————」
入り口を出て日谷木が立っていた方へと顔を向ける。窓は閉められ、ハードケースは消えていた。日谷木の姿はない。またしても独り言になってしまった。足音は聞こえなかったな。
さすがに少々胸に響いて立ち尽くす。それでもこうなる予感は薄々していた。鬱陶しかったのだろう。それはそうだ。ここにも、当分顔を出さないだろう。
でもそんなことは関係ない。明日からは休み時間の廊下でも何でもいい。不自然にならない程度に声をかけていこう。いや今まで散々付き合わされてきたことだし、多少不自然くらいでいいか。
そんな考えを巡らしつつ日谷木がいた場所と反対の方向を向いた。
「うわ!」
反射的に叫びを上げる。誰もいないと思って油断していた。人がいた。
日谷木がハードケース抱え、俯きつつ立っている。
「いるなら、返事、しろよ・・・じゃないな返事したくないならしなくてもいいから、えっと、何だ、いますっていう気配をだな」
慌てているのか無茶苦茶なことを言ってしまう。
「えーっと・・・あっ珈琲、欲しいのか?」
床を見つめたままの日谷木を観察する。
「いらない」
ぼそぼそと無愛想な声が聞こえた。第一関門を突破できたようだ。
「そうかそうかいらないか。あのな、先生の分だけすぐに持って戻ってくるから中に入ってなさい。まあ本当は教室以外の部屋は生徒だけにするっていうのは正直良くないけど、特別に許可するから。ほんとにすぐ戻ってくるしな、俺。そうだ、紙も忘れないようにしなきゃな。ガス抜き付き合ってやる。待ってろ」
途端に口が滑り出し、職員室へ必要なものを取りに行こうとする。
「戸締りしていいよ」
日谷木が口にした。勢いに水を差されるかたちになる。ようやく反応し始めたと思ったが、気乗りはしていないようだ。しかし日谷木はそのあとに続けた。
「・・・そのね・・・ついてきて、欲しいところがあるの」
「どこ?」
「・・・やお高」
八尾立高校。その場所に行く理由は聞かなくても、だいたい察することはできた。かの友人に会いに行く。どういう内容かはわからないが、何らかの思いを伝えに。
「一人で・・・行かなきゃって、会いに行かなきゃって、わ、わかってるんだけど、何か・・・上手くいかなくて。駄目なのはわかってるから」
日谷木が掠れて消え入りそうな声を絞り出してくる。
「だから・・・でも・・・忙しくなかったらでいいから。途中までついてきてくれると。直接話すのは二人きりで、その、がんばるから」
そう口にしたあと、床を見つめてまた黙り込んでしまった。
聞き終わって黙っていると無性にじれったくなってきた。いつも見せていた威勢のいい態度はどこにいったのか。我慢が上手くいかない。おもむろに中指を弾いて日谷木の髪の生え際にぶつける。
「たっ」
頭を押さえた日谷木はようやく顔を上げる。きょとんとした顔をしていた。
「何下手くそな遠慮してんだ」
調理実習室入り口を閉めて、鍵をかける。
「顧問の先生にはちゃんと帰ること言っとけよ」
「今日は自主練の日だから、だい、じょうぶ。・・・ついてきてくれるの?」
「そりゃそうだろ。お前についてきてって言われたんだから。まあ、その、忙しくないし。・・・行くよ」
そのあとは時間の流れが速かったように思える。
すぐに二人で学校を出て、電車で水戸が通う八尾立高校に向かった。外は夕暮れどき。アポ無しなので会えるかどうかはわからないだろうなと思った。しかし日谷木が言うには水戸は吹奏楽部なので帰りが遅い可能性は十分あるとのことだった。ちなみに同じ中学の吹奏楽部で一緒だったことが仲良くなったきっかけだと聞いた。
八尾立高校の前に着き、燻んだ茶色の煉瓦で作られた正門が見える位置で待つことにした。先日見た水戸の制服と同じ格好をした生徒が不定期に出てくるたび、心臓が小さく痛む。正直なところ関係ないはず。なのにどうしてそうなるかは不明。自分ですらこうなのだから、日谷木の気持ちは計り知れなかった。
その当人はこれ以上なく強張った顔。えずきを我慢しているようにも見える。一言も発さない。
その姿を見ていると段々と水戸には出てきてほしくなくなってくる。
日が落ち、出てくる生徒の顔が認識し辛くなってきたころ。
「あ」
日谷木から声が吐息のように漏れる。
正門の方に目を凝らすと確かに水戸を確認できた。他の生徒を二人楽しそうに引きつれて、こちらではなく違う方向へと歩いていく。
日谷木は動けないでいた。無理することはないと思った。ここまでやってきただけでも合格だと思う。
「また今度でもいいんだぞ」
引き止めるつもりで言った言葉だった。
ただ日谷木は首を横に振ってその言葉を振りほどき、歩いて去っていく水戸を追い、走り始めた。
日谷木の姿を見送る。小さくなっていく背中が心を揺らしてくる。
日谷木が立ち止まった。水戸を含めた集団も立ち止まる。しかし一人の生徒がすぐにまた動き出すのが見えた。水戸のようだった。他の八尾立高校の生徒もその後に続く。止まっていた日谷木も、わずかに間が空いたがまたその集団を追っていく。祈るような気持ちでアスファルトに目を下ろし、その場で待つ。
それから十五分ほどだろうか。靴が擦れる音が聞こえた。そばで止まった。
顔を上げると満面の笑みの日谷木が戻ってきていた。目が合う。
「もう友達じゃないからさっさと死ね、って言われちゃった」
日谷木はあっさりとした口調でそう口にした。
ある二人の女の子の友情はこうして幕を閉じた。
16
「最初に火が出たのはさ」
通学鞄を大げさに降りながら前を歩いていた日谷木がふいに喋りだした。
六乃はその斜め後ろを黙々とついていく。河川敷を挟んで流れている北九川に沿って二人で歩く。
北九川は見下ろす。五十メートルほど幅がありそうな立派な川だ。星のない夜空を写して、水面は音を立てずに揺らめいている。河川敷はボール遊びも十分可能な広さだった。
日谷木が帰宅するときいつも通る道らしい。川の奥を眺めると窓明りの点いたマンションが連なっている。家までとは言わないが、近くまで見送ることにした。半ば強引に。人気のない夜道がどうこうなどではなく、単純に、はいさようなら、という気にはなれなかった。
「保育園でままごとしてたときなんだよね。キッチンのおもちゃあるじゃん。所々光ったりするやつだったんだけど。一人で遊んでてさ。そのときコンロのところの仕掛けをいじったら、ボッ、て。自分の頭の中で想像してた通りにちっちゃーく火が燃えてるわけよ。びっくりしてさ、消えろ、って思ったらすぐ消えてくれた」
そういえば本人が体質に気づくきっかけは聞いたことがなかった。どう相槌を打てばいいのか考える。
考えているうちに日谷木は続ける。所々にため息を挟みながら。
「でもすぐにもう一度見たくなってね。試してみたらまた点いて。んで消して。その繰り返し。煙が小さく出たり、ちょっとずつ焦げていくのを見たり、触っても熱くないのが面白くなってね、つい誰かに見せたくなった。それで火がついてる状態で先生を呼んで、見せたの。そしたら先生血相変えちゃって。すぐにバケツ持ってきておもちゃに水をおもっきしぶっかけた。私はそれにびびっちゃってさ。呆然。んで先生がめっちゃ怖い顔して問い詰めてくるわけ。どうしてこうなったの!って。正直に答えた。コンロのところいじってたら火がついた、ってね。それ以上は聞かれなかったよ。そりゃ園児が放火したなんて思わないもん」
それはそうだ。実際につける瞬間を見たわけではないのだから。全て目にした人間でさえ最初はぴんとこなかった。
「次の日園で、スーツ着たおじさんが先生に平謝り。先生が私の親に平謝り。子どもながらに、大問題で、いけないことだったってのはわかった。けど、おもちゃのせいじゃないよなーなんて思っててさ。だから周りに誰もいないとき、どきどきしながら自分の手の中で念じみたの」
日谷木が自分の鞄を持っていないほうの手を掲げ、覗き込むように眺める。
「案の定、描いた通りに火がついた。いやー確信しちゃったよね、火が出せちゃうって。そのときからこそこそ手遊びみたいな感覚で火出すようになった。いたずらしてるようなスリルも味わえたし。そこまでこの体質が悪いもんとは考えてなかったな」
そう口にして、手から目を離した。鞄の振りが緩やかになる。
「でも小学校のときにね、この体質が病気みたいに思うきっかけがあったの・・・。いつかは覚えてないけど男子が二人、教室で殴り合いの喧嘩始めちゃってさ。まあガラスなんかも割れて、その二人がほどほどの怪我して終わった。理由は知らないけどいきなりかっとなったんだって。それで私、怖くなったんだ。その喧嘩してた男子がじゃなくて。もしさ、私がかっとなるまでもやもやしたらどうなるんだろう、って思っちゃったわけ。で、完全に火を暴発させるイメージしか浮かんでこないのよ、これが」
日谷木は川の方へ一度目を向け、すぐにまた前を向く。
「そう考えるとやばいやばいやばいって焦っちゃってさー。それから私は頑張って幸せに過ごしてないと、そうでないと周りを不幸にするって考えるようになった。そう自分がどんどん脅してくるの・・・馬鹿だよねー」
声の音量が上がる。投げやりになっているは十分伝わってきた。
「で結構色々とがんばるようになってね。綱常受かったのもその影響かなー。でもがんばってるとちょくちょく嫌なことがあるから、ガス抜きがてら火は出すように心がけるようにしてたわけ。そうしてたら何となく、もやもやすることがあっても暴発しないんじゃないかなーとか思ったりなんかもしてたの」
腕を振る動きが大げさな動きに戻っていく。
「ただ沖原のときにさ、やっとこの病気扱いしていた火が、誰かのためになるときが来たっと思ってね。しかも親友・・・のため。あの頃はテンション上がってたなー」
日谷木は足を進めながら一度綺麗に一回転をした。そして勢いそのままに歩いていた道から外れ、河川敷へと坂を下っていく。足首ほどの高さの草むらを、足早に踏みならし離れていく。駆け下りていった勢いが河川敷に降りると段々と収まっていく。道と川のちょうど中間あたりで日谷木は立ち止まった。握っていた鞄を足元に落とし川を眺め始める。
引き戻す理由もないのでとくに急がず後を追った。下りるにつれて、川のせせらぎが耳に入るようになる。足音をたてて追いつき、二、三メート隣で止まってみた。横顔をみる。表情ははっきりとはわからない。
「で結果がこのざま。だっさ」
日谷木は川を見つめたまま、そう言って鼻を鳴らす。
「今日、その・・・美波に会うまでもさ、そーとーもやもやしてたのに、火が暴発するどころか出そうとも思わないの。んで今、私史上最高にへこんでるわけ!私より不幸な人はそりゃどっかにいるだろうけどさー。なのに何で何もおこらないかなー。いや拍子抜けしちゃった」
乾いた笑い声が流されていく。
日谷木が制服の左袖を折り始めた。灰色の手首が露わになっていく。
「・・・あーもう何もかも空回った。自分が嫌だわ。きも。しんど。・・・今ならリストカットするやつの気持ちわかるかも。あー死にたい」
消え入るように呟いたあと、右手の中指を左手首にぶつける。左手首に橙色のリスバンドが浮かんで燃える。火を見つめる少女の目はどこか冷たい。
辺りを見回した。とりあえず目に見える範囲には誰もいない。胸をなでおろす。そして相当落ち込んでいるなと思った。
間が空く。川のせせらぎを聞くだけの時間。悪くはないけどこのままでもしょうがない。間を埋めるつもりで話すことにした。
「・・・あんまり自分を責めるのも良くないぞ、一番悪いのは沖原がいいかげんだったからだし。死にたいとか・・・まあそういうときってあるけどな、やめとけ。案外ぎりぎりで死にたくないって思うもんだから」
「何か経験者は語るみたいだね」
「どっかの誰かさんに殺されかけたから」
「うける・・・。そっか。つか何マジになってんの」
そう笑い飛ばして日谷木は手首に巻きついていた火を消した。再び表情がはっきり見えなくなる。
「ギャグだって。たいしたことないし。全部すぱっと忘れちゃうから」
誰かさんと同じようなことを言っている。今日は忠告できる人間がいない。
「・・・何かそれも良くない、らしい」
思わず口を滑らせてしまった。
「良くないって何?しかも、らしいって」
日谷木が目を合わして尋ねてくる。
「いや、まあ」
中途半端に匂わしてしまいばつが悪い。受け売りだが一応伝えておこう。
「・・・これはまあ、聞いた話だけど。大切な人と別れるときに、全部をなかったことにするのは良くないんだと。その人を大切に思った気持ちというか事実は、ちゃんと次の出会いにも持ち越したほうがいいらしくてさ」
日谷木から目を離し足元の草むらを見つめる。
「そうしないと新しく出会った人をどう大切にしたらいいかわからなくなるんだよ。どうせすぐいなくなるだろ、とか。上手くいかないだろうな、とか。くだらないイメージばかり過るようになる。別れを軽く見るようになったら、出会いも軽く見るようになっちゃうんだろうな。で、そんなリセット繰り返していると、そのうち両方見られなくなる」
不思議と余計な口が止まらい。
「・・・付き合い長い知り合いに一人心当たりがいてな」
せめて自分だということを隠しながら話そう。
「別れのたびに何もかも白紙にしてきた人間。その人は今、できるだけ誰かと関わりたくない。最後に人を好きになったのがいつかわからない。そういう拗れたこと言う大人になってる」
こう口に出してみると、やっぱりろくな大人じゃないな。
「人を傷つけるのは人だけれど、人を幸せにするのもまた人みたいでさ。だからそいつは、不幸とは言わないけれど幸せとも言えない日常を過ごしている。それは悪いことではないから満足はしているけど、最近はもったいなかったなとも思ってる、あっ、思ってるらしい。おすすめはできない生き方、そう、聞いてるからさ、・・・俺はお前にはそうなってほしくない・・・なんてな」
恐らく言いたかったあろう言葉がやっと出た気がした。考えすぎかもしれないが、日谷木には自分のように拗れた人間にはなってほしくない。
「そいつさ、子どものころは人との付き合いが上手くいかなくてな。そんなときは蛍とか眺めながら、泣きまくってたんだと。そんな蛍くらいで感情高ぶるようなロマンチストな人間が拗らせて無気力になるとは思わなかった」
語りすぎて混乱したせいか、しまいには数少ない思い出を引っ張り出してしまう。本当に慣れないことはするものではない。
「・・・高ぶるっていうか、蛍に見惚れて、無防備だったから感情を我慢せず正直になれてたんじゃないの?」
日谷木の声に反応して、草むらから目を離し顔を上げる。
日谷木は横顔を見せ、川を眺めていた。
「ああ、なるほど。そうかも」
「まあ泣くのはださいけど」
そう言われて先日の音無の姿を思い出した。あの歩道橋の上での光景はどうしてか頭に焼きついている。
「それは違うかな。案外大人になっても泣くし。泣く姿は、まあ案外、綺麗だ」
「ふーん・・・そういえば私見たことないな、蛍。六乃ちゃんはあるの?」
「・・・一応ある」
「見たいな。うん、今見たい」
突拍子もないことを口にする。蛍の見頃は種類にもよるがだいたい六月頃。今は十一月。
「今は無理。時期じゃないから。春の終わりごろになって蛍の名所、じゃなくても田舎のほうに行ったら見れると思うぞ」
日谷木の無茶な願望に何の面白みもないありきたりな説明をした。
しかし日谷木は急に聞く耳を持たなくなったらしい。
「どんなの?光るんでしょ。真似てみるから」
そう言って手を上げでこぴんを構える。
真似てみる。日谷木の言葉と構えですぐに腑に落ちる。
「・・・えっ、再現するつもりか?・・・火で」
尋ねてみると日谷木は一度頷く。
頭を動かし周りの様子を確認する。一応近くに人影はないようだが。
「大丈夫か?多分人に見られるぞ」
「大丈夫だよ、川の上に出すから。誰も近づいて確認できないから、気づいても何かはわからない。私たちは河川敷でだべってる二人にしか見えないし」
明らかにやけになっている。秘密にしてきたものを秘密と思っていない。
「んー今度映像とか見れば。せっかく隠して————」
「今見たいの」
日谷木は駄々っ子のように引かない。
「・・・教えてよ」
最後はすがりつくような声を出された。その声を聞いて、気は乗らないが渋々応じることにする。夜も随分と更けた。そろそろ帰って寝て休んでほしい。ただガス抜きすれば気が紛れて再び家路につくとも思った。もうこちらもやけになろう。
「・・・ぱっと見は、そうだな・・・星に近いかな」
「星・・・」
日谷木がでこぴんをする。川の真ん中あたり、水の上に火が浮かび上がった。とてもじゃないが蛍には見えない。
「・・・人魂みたいになってるぞ」
「せっかちだなー」
眺めていると人魂が小さくなっていく。
「本当色々できるんだな。おーおーおーストップ」
小指の先ほど大きさになったところで号令をかけた。橙色の一番星が水面に鋭くきらめく。
「うんうん大きさはそのくらい。でも星みたいにずっと光ってるわけじゃなくてな。ついたと思ったら消えたり。消えたと思ったらついたり」
「どんなテンポ?」
質問に答えるため記憶の糸を手繰り寄せていく。そういえば中学生のあのとき泣いた場所も同じような風景だったかもしれない。
「点けてー、消してー、点けてー、消してー。このぐらい」
記憶に映る蛍に合わせて声を出した。
「点けてー、消してー、点けてー、消してー」
日谷木が構えたまま似たように口ずさむと、きらめいていた火はモールス信号のように点滅する。
「悪くないけど。んーこう見ると、点く消えるというより、しぼむ膨らむ、なのかな。今だとぷつぷつ途切れてるから繋げる意識をもっと」
喋っていて調子づいていることを自覚する。
「って、まっそれはいいか」
「できるし」
日谷木は口を尖らせる。
火の光が丸みを帯び、鼓動する。現れては隠れ。隠れては現れる。
「おっいいな。それであとは、時々動く」
「適当な感じ?」
「適当な感じ」
「えい」
声とともに火が流星のように水面に落ちる。
「速すぎ」
「だって適当って言ったじゃん。それに虫ってこんぐらい速くない?」
小慣れた様子で中指を弾いた。鼓動する火が一つ、再び浮かぶ。
「そうかもしれんが。蛍はもっと遅かったと思う。えーっと・・・このぐらいのスピードかな」
日谷木に向けて、手をゆっくりと適当に動かして見せた。
「へえ。なんかちっちゃい頃思い出すかも。文字をなぞって練習するやつ」
日谷木も同じような速度で手を動かす。
火が鼓動しながら動く。ゆっくりと。無造作に。本当に命が宿っているように見えた————
思えば蛍を眺めて泣いたことは頭にあっても、いざあのときの光景を鮮明に思い出そうとしたのは初めてだった。いくつもの滲んだ明かりを見つめながら、本当に泣いていたことを思い出す。泣きじゃくっていた。どうすればいいのかわからず、ただひたすらに誰かのことを考えながら。優しかった頃の先輩たち。愉快に話しかけていてくれていたはずの友人。髪をなびかせて笑う恋人。その人たちに少しずつ幸福をもらっていた自分。まだよかった頃の記憶の糸が心臓に絡みついてくる。糸の先に丸い火が落ちる。導火線のように糸が火を心臓に導く————
「何で黙るの。思ったのと違った?」
日谷木の声でふと我に帰る。胸に不思議なざわつきを感じていた。
目の前に写る一つの火は、まるで本物の蛍のように宙に浮いていた。蛍火とはよく言ったものだなと思う。
「・・・いや、結構再現できてるなと思って。大したもんだ」
「練習は、無駄じゃなかったのかな」
日谷木が手を下ろす。それでも橙色の蛍は自由に水面の上を舞っている。
「そうだな、俺が昔見たのは緑っぽい光なんだけど」
せっかくなら遠慮しないでおこう。わがままを言ってみる。
「えっ色変えるのは無理だなー。でも絶対私の作った蛍のほうがいいよ。オレンジ、かわいいじゃん」
「まあそうかもな」
「ねえ一匹だけしか出ないもんなの?」
「いや、思い出してみると何匹かいた気がする」
「じゃあいっぱい増やしちゃえ」
日谷木は再び手を挙げると、ためらうことなくでこぴんを打っていく。一回、二回、三回・・・。指を弾くたびにオレンジの蛍が増えていく。
「おいおい」
と言いつつも不思議と戸惑いはなかった。仲間が増えていくのは悪いことではない。
たくさんの蛍火が時折姿を消しながら目の前で舞い踊る。夕日がすぐ真上にでもあるかのよう水面が緋色にきらめき揺らめく。昔見た蛍とは違うはず。初めてみる光景なのに、どこかノスタルジーも感じる。魅了される。
日谷木がでこぴんをやめ手を下ろした。満足そうに息をつく。
「このくらい?」
横を向く。火の光が二人の立っている手前まで届きそうになっているせいか、先ほどまでより日谷木の顔が見えるようになっていた。無防備になっているのか表情は柔らかい。引き続き飛んでいる蛍たちに目を戻す。
「出し過ぎ」
「やっぱ?でも我ながら、綺麗。うん、めちゃくちゃ綺麗だ。どう?」
「うん、いいな」
「えーそれだけー」
日谷木はそう呆れつつ控えめな声をあげて笑う。
その声につられたのか口角が上がる。
「まあ上手く言えないけど、懐かしいんだよ。本当に懐かしい。それで、見てて、何だろうな、心が温まる。・・・いいもの見せてもらってるよ。・・・ありがとう」
自然と言葉が落ちてしまった。素直な気持ちだった。
目の端で日谷木の視線を感じる。
「六乃ちゃんの笑顔、初めて見た」
そう言われると笑ったのは久しいような気もする。けれど指摘されるとむず痒かった。
「気のせいだと思うぞ」
「いや、絶対そう」
日谷木は目を背け、風に揺られる火に目を戻した。
「初めて役に立ったかも。この体質」
「まあ他にも役に立つことあるかもしれないぞ。冷めた珈琲をホットにできるし、蛍ができたから花火だって再現できるかもしれない。あとは・・・バーベキューするとき火起こし上手いやつはモテる・・・これは男限定か。でもほら俺ができないことが三つもできるぞ」
「何慰めようとしちゃってんのさ、六乃ちゃん」
「その、慰めたいんだよ。・・・俺はお前の先生だから」
「わーまだ言ってる。しつこいなー・・・」
二人で夜風に気持ちよさそうに漂っている蛍火を眺める。
「・・・私ね。美波にね・・・謝りに行ったの」
日谷木がついさっきとは違う声で話す。ひどく掠れた声が溢れ始める。
「言いふらしたりなんかは、してないけど、でも別れさせようとは、したって言って、勝手に美波の幸せが、何なのか決めつけちゃって、余計こと言って、余計なことして、嫌な思いさせてて、ごめんって」
鼻をすする音も混ざり始めた。
「怒らせちゃったけど、まだまだ話したり、遊んだりしたいって。友達で・・・友達でいさせてって。だからわがままだけど、許してって言ったの」
感情が波打つ。日谷木の目から雫が落ちていく。光を反射しながら次から次へと落ちていく。
「でも駄目だった。許してもらえなかった。ごめん美波、ごめんなさい・・・」
やみくもに謝罪の言葉を口にする。理由、というより思いが伝わってくる。
「・・・水戸のこと、大好きだったんだよな?」
立ったまま泣きじゃくる日谷木に問いかける。
「うん、大好きだった・・・親友、だから」
「そうだよな。そういうやつとの別れは一段と辛いよな」
「うん」
「でもそういう別れを大切にできるやつは、これからも周りの人たちを大切にできると思うぞ。そんなお前を大切にしてくれる人にだってまた出会える」
「うん」
「出会いは、初めましてだけとは限らないしな。再会だっていつかできるかもしれない。水戸とまた元どおりに話せる日だってくるかもしれない」
「うん」
「お前は優しいからこれからも暴発なんかしないだろうけど、まあそれでも人生には嫌な別れってのは何回か訪れるから。世間話ついででもそのこと誰かに愚痴るといいと思うぞ。俺にでもいいし」
「・・・ほんと?」
「本当」
「担任外れたあともいい?」
「いいよ」
「・・・卒業したあとも時々いい?」
「いいよ」
日谷木がうつむき嗚咽を漏らす。
「・・・ありがとう。六乃先生」
泣きじゃくる日谷木が何とか言葉にした声は確かにそう聞こえた。
蛍火が一斉に空へ舞い上がり消える。辺りが元の夜に戻る。
暫しの間せせらぎの中に鼻をすする音が混じった。
「ここ」
目を腫らし、家路に戻った日谷木が鼻声で指差す。
「ん、何が」
「猫ちゃん」
「ああ」
道路と草むらの境目。言われてみれば焦げている気がする。日谷木が猫を火葬した場所。
「供養していくか。と言っても供えるもの何も持ってないけど」
「うん」
目を瞑って二人で合唱する。今度花でも供えに来よう。
そのあとまた少し歩いたところで日谷木を見送った。
次の日の学校。日の光が差し込んだ廊下を歩いていると後ろから腰を叩かれる。無言で振り返る。日谷木が直立不動で立っていた。
「暇なとき練習付き合って、六乃先生」
あっけらかんな表情で告げてくる。
いささか前の状況に逆戻り。でもこっちの平穏のほうがしっくりくる。
「今日は・・・うん、放課後なら大丈夫」
「んじゃ三十分くらい付き合ってよ。色変えるのチャレンジするから」
「いいよ」
「よっしゃ。あっもし逃げたら」
でこぴんを左胸に軽く打ってくる。
「燃やしちゃうぞー」
無垢な笑い声を上げ、踵を返し日谷木は去っていく。
しばらくその場に立ち止まり、生徒の後ろ姿を見つめた。どうしてか胸の辺りが熱くなり、何かがこみ上げてくる。自分の胸に目を向ける。燃えているわけではない。どうかしている。視界が滲む。片方の目から温い違和感がほほを伝う。そっと親指で拭って確かめるとわずかに濡れていた。
どうしてこの学校という場所に戻ってきたのかは未だにわからない。ただ、とりあえずできる限り、生徒が拗らせて忘れ物をしないよう、見守ることにした。
17
白い息を吐きながら改札を通り駅を出る。日が沈むのがすっかり早くなった。もうすぐ二学期も終わりを迎える。
きょろきょろしながら歩いていると、マフラーをしている人間も何人か目にした。その中の一人。蜜柑ほどの大きさの小ぶりなお団子ヘアの女子に目が止まる。
お目当ての女子は首に巻いたマフラーに顔の半分を埋めていた。小さい体をさらに小さくして前方を歩いている。
バスケ部の練習で疲れていた体が生き返る。帰りの時間が一緒になるのはありがたい。今日はラッキーな日だ。
髪をいじったあと、飛ぶような大股で近づいていく。たすき掛けしていた鞄をわざと鳴らしながら。
音に気づいたのか、女子が振り返る。目が合う。気だるそうに手を上げ、そのまま何もなかったように歩いていく。立ち止まってくれてもいいだろ。
「よっ」
新井弘樹は女子の隣に着地し、速度を合わせて並んで歩く。
「よっ」
日谷木から同じ調子で返事が返ってくる。マフラーで隠れているので口元は見えない。目元はなんだか眠そうだ。かわいい。
「今日帰り遅くね?」
心を小躍りさせ日谷木に問いかける。
「んー、いつもと変わんない気するけど。あーでも疲れてはいるわ」
「お前ら楽器プープー吹いてるだけじゃん」
「わかってないね。意外と疲れるんだな、これが」
「バスケよりはましだろ。つか大分寒くなったなー」
「ねー」
「ちんこ縮むわー」
「うわ、さいてー。みなさん痴漢されてまーす」
「勘弁勘弁。罰として一緒に帰ってやるから」
「はあ?いらんし」
「遠慮すんなって」
「してないし」
中学のころはあまり話したことなかったが、高校に入って気のおけない関係にいつの間にかなった。そしてまた自分の中でいつの間にか気持ちが変化していた。帰り道に二人きり。好機だ。日谷木には聞いておきたいことがある。
「そういやさ、日谷木はさ、クリスマスどうすんの?」
「あー別に。吹奏楽の彼氏いない組でカラオケ行くみたいになってるけど」
「うわ、さみしいクリスマスだな」
とりあえず一安心。日谷木に彼氏はいないようだ。予想はしていたが、いい風が吹いている。
どうしてかこの地味で色気のない同級生を好きになってしまったのかはわからない。でも好きになってしまったのだからしょうがない。中学では日谷木といつも一緒にいた水戸に人気が集中していた。今では自分も含めて男子は見る目がないとさえ思っている。
「いいじゃん別に。そういう新井はどうなのさ?」
「ひ、み、つ」
「どうせ何もないんでしょ」
「ばれた?その、あれだ・・・」
心臓の勢いが速くなっていくのがわかる。自然に、ごく自然に誘おう。
「お互い相手いないならクリスマス遊ばね?」
よし言った。いい返事が来てくれることを祈る。頼む、来てくれ。
「別にいいよ」
「えっ!うそ?まじ?」
本当に今日はラッキーな日だった。天にも昇る気持ち。
「うん他の子にも聞いてみる。バスケの男子もカラオケ来ていいかって。みんな喜ぶと思うよ」
日谷木は淡々と口にした。全くこちらの意図が伝わってない。
粛々と気持ちが地面に引き戻される。一先ず落ち着こう。
「・・・あー、うん、そうか。俺も、他のやつ誘っとくわ」
「うん。よろしく。あっそうだ今日六乃先生バスケ部来た?」
何故六乃の話が出る。あんな友達いなさそうな、毒にも薬にもならない教師は話題になるのも珍しい。
「ああ、ぴん太郎?来たよ」
「ぴん太郎?」
「そ。あいつさバスケ部員に何か注意っつうか説教するとき、でこぴんするようになったんだよ。だからぴん太郎。マイブームなんだろうな」
「何それ。うける」
日谷木が目を細める。マフラー越しでも笑顔になっているのがわかる。
今思い返すと近頃六乃が話しかけてくることが増えてきた気がする。大抵はつまらないくだらない内容。ただ、顧問のくせに、新井ってバスケ部だったんだな、とかぬかしてきたときはさすがに家でネタにした。
いやいやそんなことはどうでもいい。とりあえずクリスマスの約束は取つけることはできたのだ。女子が盛り上がりそうな話題でも振っておこう。
「そういや聞いたか?」
「何が?」
「この近くの北九川あんじゃん。そこの噂。つか伝説?オレンジ蛍の伝説」
一ヶ月近く前、突然北九川に蛍が現れたとの噂が上がった。この寒空の中。すぐ近くで見た人間には会ったことはないが、マンションのベランダなど遠くから見た人間は多数いるらしい。そのときの様子をとらえた写真を見せてもらったことがある。川の上にぼんやりとオレンジ色の花火が上がっているようで、幻想的だった。
次第に巷の若者の間ではこの季節外れの蛍が噂されるようになる。この光景を見ながら好きな人に告白すると結ばれるという噂。これが北九川のオレンジ蛍伝説。
「ああね」
日谷木は鼻で笑う。あまり興味はないのだろうか。女子力低いな。
「いやーこんな時期に出るとか嘘くせーけど、一回見てみてーよ」
「日頃の行いよかったら見れんじゃない」
「じゃあ毎日見れるわ」
「ないわー。つか何?告りたい子でもいんの?」
「いや、まあ・・・」
「へえーいるんだ。誰?同中のよしみで応援してあげる」
また心臓が鳴り始める。これは、お前だよ、と答えるべきなのか。そういう誘いなのか。でも急すぎて勇気が出せない。
「・・・そっちはどうなんだよ。告りたいやついんの?」
一度質問を打ち返してみる。反応によっては今が告りどきだったりして。
日谷木は黙り込む。ということは好きなやつが。新井のことだよ、と言ってほしい。
「いるよ。別に今は告りたくないけど」
「今は告りたくないって何だよ」
「反対したし。迷惑だし」
「反対、迷惑、・・・なんだそりゃ?」
「まあ色々あんの。それに、その人多分、私の他に気になってる人いるし。本人は自分の気持ちに気づかなさそうだけど。ほんと煮え切らないわ」
何となく、自分のことではなさそうな気がしてきた。想像していた以上に心の中がしょんぼりする。
「新井、今度告りなよ。そこの川呼び出して。その好きな子教えてくれなくてもいいからさ。私やじうましながら応援してあげる」
日谷木が人の気も知らずに提案してくる。自分も気づいていないじゃないか。
「何でだよ。それに蛍出ないとそこの川で告る意味ねえじゃん」
「いや私連れて行くと出ると思うなー」
「嘘つけ」
「嘘じゃないし」
何だその根拠ない自信は。いやまさか、私を連れていって私に告れということなのだろうか。その可能性は十分ありそうだ。というか期待が捨てきれない。どうしようか。本当にクリスマスに告白してみるか。せっかく好きになったんだ。他の人が好きでもいい。玉砕覚悟で。案外上手くいくかもしれない。というかこの際振られてもいい。振られても多分しばらくはこの女を好きなままでいられる気がする。あーでもこのままの関係も捨てがたい。迷いに迷う。でもこの迷い、嫌いじゃないな。クリスマスが楽しみだ。とりあえず日谷木と過ごせる。ハッピーだ。そうだ、帰りに川の近くを通ってみよう。もしかしたらオレンジ蛍に出会えるかもしれない。
歩いている途中。日谷木が自動販売機の前で立ち止まった。
「カフェオレ飲もっと」
日谷木が小銭を入れボタンを押す。缶が落ちた音が鳴った。カフェオレの缶を屈んで取り、飲み口を開ける。マフラーを緩め隠していた口元が露わになった。なぜこんな芋くさい女にときめきを感じてしまうのか。気を紛らわせよう。
「俺も買おっと」
「真似すんなし」
そう言って日谷木がカフェオレを一口飲む。
「るっせ。俺はブラックだし」
とは言ったものの、普段はブラックなど飲まない。というか珈琲など飲まない。ただいい格好はしたい。適当にボタンを押す。
「あっ」
押した瞬間にアイスのボタンを押したことに気づく。ただでさえ飲まないブラック珈琲。どう考えてもホットの季節。
「あっアイス押したんだ」
「い、いや、どうだかなー」
せっかく格好つけたのに腰を自分で折ってしまった。
「これ、持ってて」
日谷木がそう言って、飲んでいるカフェオレの缶を差し出してきた。
缶を受けとる。温かい。空いている飲み口を思わず見てしまう。
「飲んでいい?」
ふざけてみる。半分冗談。半分本気。
「ぶっとばすよ」
予想通りの返答。日谷木は先ほどのように屈んでブラックの缶珈琲を取り上げた。立ち上がるとおもむろに、でこぴんをするように中指を缶にぶつける。軽い金属音が二人の間に響く。缶確かめるように眺める。
「何だちゃんとホットじゃん」
「えっ」
思わず声を漏らし、差し出されたブラックの缶珈琲を開いている方の手で受け取った。確かに温かかった。十二分なほどに。
「あれ、ちゃんとホット押してたのか、俺?」
自販機に目をやる。それとも故障だろうか。まあどっちしろこの寒い中アイスの缶珈琲を飲まずに済んだ。
「つか私の返してよ」
「お、おう」
日谷木のカフェオレの缶を慌てて返した。
「うける」
受け取りつつ笑い声をあげた目の前の女の子に見惚れてしまう。やっぱりかわいい。
いつから好きなのか。いつになったら好きと告げるのか。いつまで好きなのか。いつまでも好きなままでいるのか。いつの日か好きを諦めるのか。心がいくつもの火柱できらきらと燃やされる。
好きな人を見つめ、珈琲を一口飲む。格好つけて飲んだブラック珈琲。熱く、苦く、後味最悪。でも何となく、忘れちゃもったいない、そんな味な気がした。
下完