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でこ火゜ん  作者: 丸村
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「やった・・・やった!」

 少女は一段飛ばしで階段を駆けて上っていく。自宅があるマンションの五階にはいつもはエレベーターで上がるが、今日は体が立ち止まることを許さない。

 五階に着地すると、廊下には濃い夕焼けが差していた。レッドカーペットみたい。階段とは打って変わって一歩ずつ踏みしめる。肩で息をしていたが、家のドアの前に就くころにはちょうど呼吸が整った。

 すぐに鍵を差し込んで、回そうとしたが一度引き抜く。ちょっと興奮しすぎだ。諌めようと深呼吸をする。

 インタビュー前の女優ってこんな気分なのかな。妄想に浸りつつ、鍵を開けドアを開けた。

「ただ————」

 帰りの挨拶を差し置いて、クラッカーの音が鳴る。

 靴を脱ぐ間もなく、母が左頬をくっつけてきた。最近太くなったという母の腕が体を覆う。

「合格おめでとー」

 言葉になっていない声を、そう聞き取ることができた。左頬には温もりと湿り気を感じる。

「ちょっと、ママ。びっくりするじゃん」

「だってぇ。だってねぇ。よかったねぇ」

 先ほどまでの興奮とは違う、別の興奮が湧いてくる。自分の幸せを自分以上に喜んでくれる人がいる。がんばった甲斐があるというものだ。

 母はもう一度力を込め抱きしめてきたあと、娘の両肩に手を回して体を離した。

 母の顔を見る。両目に涙の名残があった。思わずこみ上げてしまったが、一段大人になった娘を見てもらいたい。下唇を噛みクールを演じる。

「もう大げさだって」

 冷静ぶる娘を見て母は微笑み、目を拭う。手には役目を果たしたクラッカーを持ったままだ。

「ママね、電話で聞くまで心配だったんだもん」

「あっ、私が落ちると思ってたんだー」

 口を膨らまし、ようやく靴を脱いで玄関に上がった。中学の制服を着替えようと自分の部屋へ向かう。足取りはいつになく軽い。

「だって朝、すごい顔して出かけるんだもん。なんかもう罰ゲーム受けてきます、みたいな。パパが送っていくって言っても、絶対一人で行くって言って聞かないし」

 ぴったりとくっついてくる母の声。確かに今日の朝まで今日という日が本当に憂鬱だった。高校入試の合格発表日。

「楽勝だったよ」

「えーほんとぉ?」

「・・・ちょっと嘘かな」

「やっぱり。でもがんばってたもん。全然不思議に思わない」

 自室に入って制服を脱ぎ始めると、母は何かを思い出したように、キッチンのほうへ歩いていった。

 親が喜ぶ姿を見たい。幸せであることが、普通の娘としての使命だ。そう思って、ちょっぴり届きそうにない場所に手を伸ばした。絶対に受かりたかった。

 満を持して挑んだ高校入試。しかし自己採点は噂される合格ラインに一歩足りない形になった。どっちに転ぶかはわからない。でも正直自信がなかった。

 志望校に行かなくても合否を確認する方法はあったが、親に悲しい顔は見せたくない。落ちていたら、史上かつてないほどに落ち込む予感があった。念のためどこかでガス抜きをして帰らないと。そんな気持ちから志望校に張り出される掲示板を見に出かけた。

 神様にひたすら祈りながら掲示板を読んでいく。そして自身の受験番号を見つけた。次の瞬間神様のことは綺麗さっぱり忘れ、心の中で親にひたすら感謝した。

 お気に入りのセットアップの部屋着に着替え終わるとリビングへ。小さいがカウンターが備えられたキッチンには、ピンクのエプロン姿の母が見えた。眺めながらカウンターにくっつけられた家族三人の食事スペースにつく。テーブルも椅子もナチュラルな木製。

「あっママ。どうして私がドア開けるのわかったの?」

「夕ご飯までには帰るって、電話で言ってたでしょ。そろそろかなーと思ってドアの前で待ち伏せしちゃった。驚かせようと思って」

「何それ。変なの」

 緩みきった顔がさらに緩んでしまう。

「変じゃないわよぉ。でもママうれしいな。あなたの努力が実って。だって綱常(こうじょう)高校って言ったら、この辺で一番の高校よ」

 私立綱常高等学校。決して全国的屈指の有名校ではない。ただ、コンスタントに国立大学や有名私大に多くの合格者を出す進学校。東大京大への進学者も毎年複数人出る。戦前創立ということで歴史もあり、地域に根付いている。そのため、少子化などの影響で競争が激しくなっている私立校のなかでも一定の人気を獲得していた。

 公立ほどではないが学費も割安みたいだ。家族にとってはその点も魅力。家は決して裕福とは言えない。安さの理由は、資産家が運営をしている、卒業生の寄付金が多いなどが有力な話だが定かではない。

 鼻歌交じりに食事の用意を進める母。眺めているとだんだんお腹が空いてくる。

「中学にはもう知らせてきたんでしょ?」

「うん。帰りに寄ってきた」

「先生方喜んでたでしょー」

「見たことないくらいにこにこしてたよ。すっごい褒めてもらった」

「ありがたいねぇ。あっ同じ中学で綱常受けた子ってどのくらいいるんだっけ?」

 嬉しい理由はまだまだ尽きない。親友とまた一緒の学校に通えるはず。

「んーそんなにいないけど。美波(みなみ)!超仲良し!今日学校じゃ合わなかったなー。まあ美波は私より全然頭いいし。絶対受かってる。仲いい子はそれくらいかなー。あっ、学校行ったとき新井くんって男の子もいて綱常受かったって。ちょっとしか話したことないかな」

「そうなの?その男の子とも仲良くなれるといいわねぇ」

「どっちでもいいや」

「もお、そんなこといって。あっそうだ、ごはんはパパが帰ってきてからにしようと思うけど、まだちょっと時間あると思うから何か食べとく?シュークリームあるよ」

「食べる!」

「ちょっと待ってね」

 母は作業を中断し手を洗う。

 普段なら夕食のあとまで我慢するが、今日は我慢する必要はないと思った。今ならいくら食べてもお腹が満たされない気さえする。

 間もなくして真っ白な皿に載せられたシュークリームがテーブルの上に置かれた。母は笑みを浮かべながら再び食事の支度に戻る。

 こぶし大のシュークリームのてっぺんには赤色の捻れた細いロウソクが刺さっていた。火はまだ点いていない。おそらく少しでもたくさん祝いたいという母の気持ちの表れだ。この不思議なセンスと火の点け忘れは実にらしいというか。

「ロウソク刺さってる。うける」

「お祝いのケーキ買ったときにたくさんもらったの。ケーキはご飯のあとね」

「ママ」

 高校受験に受かった程度で大げさかもしれない。ただ、ロウソクを見つめたまま、言い損ねていた言葉を伝えようと思った。

「いつもありがと」

 食事の支度の音が止まる。顔を向けると泣いてしまいそうなので、見ないようにした。こういうことは我慢したい。

「もう、ママ泣いちゃいそう」

「さっきも泣いてたじゃん」

「もぉークールだなぁ。パパにも言ってあげてね」

「えーやだよー」

 すると家の電話の音が鳴るのが聞こえた。電話はキッチンから距離のある場所に置いてある。

 母がまた手を洗い、エプロンで拭きながら電話をとりに向かった。

 母の姿が見えなくなるまで動きを目で追う。電話の音が止まったあとには母の晴れやかな話し声が聞こえる。

 再びロウソクに目を戻した。左腕で頬杖を立てる。火を点けようとしたが、ライターが手元にない。キッチンの棚のどこかにはあるだろうが。

 話し声はまだ聞こえている。ほんの少しだけガス抜きをしようと思った。

 欲求があったわけではない。浮かれているだけだろう。


 ロウソクの導火線の手前に右手を添える。

 親指の腹を中指の爪を合わせ、もぞもぞとこすり合わせる。

 そのあとにそっと、中指を弾いた。

 

 ロウソクに火が灯る。

 

 普通の家庭の普通の女の子。そんな子どもの特別。言えない秘密。異常な体質。自分がなぜこんな病気なのか、理由はわからないし、知りたくもない。こんな不必要な力。正直いらない。ただ野放しにするわけにはいかない。もし心が大きく揺らめくことがあったら、どうなるかわからない。隠して、使いこなす。普通の子どもとして大切に育ててくれている両親のために。この体質がもしも赤の他人にばれてしまったら・・・そのときは  


 話し声が止んでいた。スリッパの音で、我に帰る。

「パパもうすぐ帰ってくるみたい。お仕事早めに切り上げたって」

「なんで?」

「そりゃぁ、パパも早くお祝いしたいからよ。ケーキ買って帰るって意気込んでたけどもう買ってるって言っちゃった。先超されたって悔しがっちゃって」

「何それ」

 大丈夫、やれるはず。今までだって隠してきた。

 笑顔のままロウソクを見つめ念じると火は、素直に消えてくれた。ロウソクを皿の上に転がし、シュークリームを頬張る。


「おはようございまーす」

 何人かの生徒たちが追い越し様、義務的に挨拶してくる。

 六乃輪太郎(むのりんたろう)は綱常高等学校のロータリーを歩いていた。

「はい、おはよ」

 挨拶を適当に放り投げて返す。毎朝この調子。

 職員用の下足入れに着くと、下足はもう三分の二以上が入っていた。始業にはまだまだ時間があるのに。

 高校の数学の教師になって四年目。夏休み明けの二学期初旬。職員室に向かっていく風景はほぼ毎日変わらない。好きでもが嫌いでもない風景。

 とくに歩速を変えることなく通路を進んでいく。職員室の前の廊下に出ると大小様々な生徒たちが少なくいた。ほとんどが地味な制服姿だが、中には朝練中なのか部活着姿の生徒も混じっている。

 職員室に入ると、喧騒とは言わない程度のざわつき。辛気臭さを醸し出した学校関係者が思い思いに動いている。すぐに野太い声がした。

「六乃先生」

 声の先には、先輩教師の都倉竜明(とくらたつあき)。目が合うと分厚い手で手招きをしてくる。左手に受話器を持ち、体育教師らしい運動着姿で椅子に深く腰を掛けていた。

 会釈し、都倉がいる席の斜め後ろに位置する自分の席に向かう。

 席にたどり着くと、都倉が電話機のボタンを押した。

「お待たせしております。今六乃にお繋ぎいたしますので」

 もう一度ボタンを押して、こちらを向く。

「遅いぞ。新井のお家。四番」

 都倉はそう部愛想に告げながら受話器を置いた。

 新井、授業を教えているクラスの生徒。その新井のお母様か。面倒だ。

「すみません」

 隣の席に置いてある別の電話機に手を伸ばす。

 隣の席の主はすでに朝の準備を整えた状態で席を外しているようだった。ファイルとノートとペンが机の上に兵隊のように整列していた。

 受話器をとって、一呼吸ついたあと四番を押す。

「大変お待たせいたしました新井さん。六乃です」

 ボールを転がすように声を出す。

「あー六乃さん?うちの弘樹から聞いたんですけどね」

 きつい口調の女性の声が挨拶を通り越してくる。弘樹、そうか新井のことか。新井弘樹(あらいひろき)。名前までは覚えていない生徒もいる。

 ノックを受ける体勢には入っている。どういうボールが来るかは予想がつく。

「はい。どうかされましたか?」

「六乃先生ちょっとひどいんじゃありません?」

「と、申しますと」

「心当たりありません?」

「んんー・・・」

 うめいて考える振りをする。

「またですか」

 お母様のため息が露骨に吹いてきた。

「申し訳ありません」

「弘樹がね、六乃先生に蹴られたって言ったんですよ!」

「蹴った、ですか?私が?」

 捕り損ねた。心当たりは本当にない。

「そうですよ!授業中に」

「授業中ですか・・・」

「たしかに弘樹がうとうとしてたのかもしれないですけどね」

「ええ」

「机を思い切り蹴ることはないんじゃないですか?」

 ああなるほど。

「そう・・・ですね。申しわけありません」

「肩を揺らすとか、もっとやりようがあるでしょう」

「ええ、おっしゃるとおりだと思います」

「————」


 お母様のノックはそのあとも何本かあったが、毎度より早く終わった。イエスマンになると物事が楽に進む。

「ええ、今後とも。はい、ご指導よろしくお願いいたします。失礼いたします」

 決まり文句を唱えてから受話器を置く。こういったやり取りには慣れてしまっていた。子どもが高校生になってもくだらない電話をかけてくる親はいる。この母は、授業中寝ていたことに対して本人に小言を言ったりはしないのだろう。こちらとしても別に起きてもらわなくても結構だったのだが、以前別の親から、何で起こさないんだ、と電話が入ったことがあった。それ以降仕方なく起こすようにしている。

 すると都倉の険しい視線を感じた。気づかないふりをする。

「新井さん、なんて?」

 だめか。振り向くと常時吊り上がった目と眉に威圧される。体のどのパーツも他の教師より一回りもふた回りも大きい。見た目の通り生徒指導にも容赦ないので、この先輩のおかげでここの風紀は守られているのだと思っている。

 おはようございます、と軽く置き、報告。

「授業中寝ている息子を、机を蹴って起こすな、とのことです」

「そんな強烈に蹴り上げたのか?」

「いえ、机の足を軽く小突いたくらいですけど」

 思い出しながら足を振り子のようにふらふらとさせた。

「なるほどな・・・くだらん」

 そう言った都倉が振っている足を気に食わない様子で見てくる。

 すぐに足を停止させた。

「でもな。お前も先に口で注意するようにしろ。最近は体罰に敏感だからな。第一そんなこといまさら言われんでもわかるだろ」

「すみません」

 そう言う先輩はこの間、柔道の授業でふざけていた生徒を絞め落としたと噂になっていましたけど。口に出そうとしたがやめた。いつからかはわからないが、この人にはあまり良く思われていないのは確かだ。今の距離感を保ちたい。

「まあ、あそこの家の場合。新井が面白おかしく盛った話をお母さんが鵜呑みにしたってところだろうが」

 都倉やや呆れた様子で呟いたあとシェイカーに入った飲み物を一気に飲み干した。恐らくプロテイン入りの何か。

 新井はそういう性格なのか。都倉はよく生徒のことを把握している。何気に生徒想いの教師なのだろうか。

 自分はというと、授業を担当している生徒の顔と苗字と大まかな成績くらいが把握できていれば支障はないと思っている。どんな性格なのかなどはぴんとこないし、興味もない。

 すると背後から声が掛かった。

「六乃先生が話を合わせてくれるから相談しやすいのよ、きっと」

 丁寧かつ凛とした声。隣りの席の主が帰ってきていたみたいだ。

 不機嫌だった都倉の表情が丸くなる。

「あっ吉永先生、違いますよ。相談されてたわけじゃなくて、単に保護者に叱られてただけです」

 都倉はそう言い残し、空になったシェイカーを片手に給湯室へ去っていった。

 隣の席の吉永京子(よしながきょうこ)はおそらく教師になって一番面倒を観られている女性。余計なお世話を焼く、都倉よりも少し先輩の教師。

「おはようございます吉永先生」

「おはよう。途中から聞こえていたけど。新井くんのお家よね?前も六乃先生にかかってきていなかったかしら?」

「えーっと前は確か・・・期末の結果が良くなかったとか」

「あなた担任じゃないでしょ。あっ数学が悪かったの?」

「いえ、国語以外全体的に」

「・・・やっぱり六乃先生には色々と言いやすいのね」

 そう口にし、やや眉間にしわを寄せる。真っ白なブラウスに黒のスキニータイプのパンツ。アクセサリーは無駄のない気品を纏っていた。キャリアウーマンさながら。仕事ぶりは敏腕。辛気臭い職員室より企業の洒落たオフィスのほうが似合いそう。

 吉永は元々公立校の国語教師。しかし公務員独特のしがらみが肌に合わなかったとかで、この私立高校の採用試験を受け直したらしい。バツイチだが息子と二人暮らしで十分幸せとのこと。この人を見ると、アラフォー女性の理想はこのような感じなのかなと思う。

 吉永に真っ直ぐ見つめられていることに気づく。朝に似合わない鋭さをまとっていた。

「六乃先生」

「はい」

「教師という職業は昔と比べてサービス色が濃くなったし、うちは私立校だから、なおさらそういう面も努力しなければならないけれど。言いなりになってはだめ。そういう人は気づかないうちに必ず損な役回りにさせられるわよ」

 自分の内側が見透かされるように感じた。この人に対する返事はとまどってしまうことが多い。

「・・・すみません。心がけます」

 吉永は口角をわずかに上げ腕時計を確認する。

「すみませんはいらないわよ。まっ、これは仕事に限らずだけれども。ほらっ、そろそろ朝礼始まるわ。授業の準備は大丈夫?」

「あっそれは大丈夫です。終わってます」

 授業準備は朝以外の時間に回している。赴任四年目といっても、綱常高校の教員の中では年齢は下から二番目。朝は何かと教科関係以外の雑務をこなすこともしばしば。先ほどの電話のような予定外の出来事もある。

「あなたは要領がいいんだか、悪いんだか」

 吉永はまだまだ何か言いたげな様子だった。

 それから五分ほど経って、校内に始業を知らせるチャイムが鳴る。

 離れた席でゆっくりと起立した教頭の号令で朝礼が始まった。その後も各教師から定型の連絡事項が流れていく。

 職員室には薄い光がカーテンのように揺らめいている。まどろみの入り口に立った————


「おーい。教師になりたいやつおらんかー?」

 学生時代。ゼミの教授がドアを開け、入ってくるなりそう告げた。研究室で卒業研究のための統計資料を眺めていたとき。

「あんな面倒な仕事就きたいやつは、俺らの中にはいないですよー」

 離れてたむろしていた学生のうちの一人がけたけたと笑いながら言い切る。

 卒業後、教員免許を取得できる過程を受けている学生は何人かいたが、ほとんどが就職活動や大学院試験で有利になるため。

 自身も中学、高校の数学の教員養成課程は受けていた。とくにやりたいこともないので念のためとっておくか、くらいの理由。

 教授は妙に納得した苦笑いを浮かべ、知り合いの校長が若い数学の教師を欲しがっていると付け加えた。

 不思議と考えを巡らすことになる。教師になるという選択肢はそのときまで微塵もなかった。教育実習で感じた現場の感覚を蘇らせる。

 実習中、指導を担当してくれた教師を観察していた。生徒よりも書類と顔を突き合わせている時間が長く見えた。他の教師の様子を見てみても、話を聞いてみても同じようなもの。無駄に思える書類も多々あったと思う。それを不思議と感じさせない閉鎖的な空間。教師という無責任な存在。生徒は一部の例外を除き、定期的に、自動的に去っていく。思考回路がとても軽くなるのを感じた。拗れた人間にはちょうどいい場所な気がした。

 錯覚か。でも、それでいい。誰かに手を引かれるかのように席を外し、欠伸をかいている教授の前に立って一言。

「その話詳しく聞かせてもらえませんか」

 目を合わせた教授が空き缶が釣ったような苦笑いを浮かべたのは覚えている。

 その後は大学生活で一番体力を使うことになった。進学校ということもあり筆記試験、面接、模擬授業も全てしっかり受けさせられた。ただ紹介なので多少配慮された部分はあったであろう。

 あとから聞いた話だが、縁故採用は高校側の立派な戦略だったとのこと。教師という職業はなりたい人間も多いが、やめてしまう人間も多い。縁故採用で離職の確率を減らそうという考えだったようだ。それが功を奏してか、安定した人員整理ができているとか。採用コストも抑えられているらしい。そんな話を新人にしていいのかと思いつつも、学習を怠らないという誓約を立て、私立綱常高等学校への赴任が決まった————


「最後に一つ。先日の校舎裏の煙草についてだけどー」

 教頭の口から出た普段とは異なる連絡事項が肩を揺り動かす。ただ自らには関係のないことと高を括った。

 この仕事、やる気はないが気に入ってはいる。何事にも何人にも、近づきすぎず。それが自分にはお似合いだ。それがここでは実現できている。この判で押したような平穏が維持されることを、一人願う。


 職員室の自席で昼食を手早く済ませる。片付けが終わるとふいに話しかけられた。

「あっ、お昼終わったの?」

 座っている六乃が隣を見上げると教頭の千石輝(せんごくあきら)が腕を後ろで手を組んで立っている。小学生のような笑みをこちらに向けていた。定年も射程に入ったおじいちゃん先生。年相応に頭は薄らとしていて、姿勢はいいが背は小さい。

「ええ、ちょうどたった今」

「何食べたの?」

 千石はよくこの手の質問を他の人にもしていた。最初は管理職として教員の健康意識でもチェックしているのか、とも考えたがおそらくは違う。千石の場合単なる雑談だろう。

「宅配の日替わり弁当です。今日はチキン南蛮でした」

「もも?むね?どっち?」

「もも肉でしたけど」

「えーそれ食べたかったなー。僕お昼今からなんだけど。いつも家内の弁当だと飽きるんだよね」

 全く悪気なく口にする。となりの席では吉永がまだ昼食を食べていた。ちらりと目をやると、箸を止め怪訝な顔で千石の後頭部を見ている。

「独り身の私としては愛妻弁当って憧れますけど」

 波風が立たぬよう気を利かした言葉を言っておく。目の端では吉永の箸が再び進み始める。

「六乃先生って彼女もいないんだっけ?」

「そうです」

「んー、まあ、いなさそうだもんね。暗いし」

 発言に躊躇がない。ただそう思われて構わないのでとくに腹を立たなかった。相手が教頭だからというところは、とくに関係なく。

 千石は上司だが、校内ではマスコットキャラクターのように扱われている特殊な存在だ。その悠々自適な姿に当初は苦笑してしまったが、すぐに慣れてしまった。威厳というものとは離れている。ただ人を動かすのは上手い印象。

 千石は思い出したように話を切り替える。

「あー違う違う、こんな話しようと思ったんじゃないや。六乃先生、ちょっと来てよ。お願いがあるんだ」

 そう告げると返事を聞くまでもなく、日当りの良い教頭席へと歩いていった。

 言われるままに席を立つ。とくに急ぐこともなく千石のあとをなぞっていく。

 千石は席に着くと腰掛けた勢いで椅子を一回転。太陽光が窓を抜けて、千石の薄い白髪頭を明るく照らしている。小鳥がやってきて一曲歌いそうな眺め。

 千石の真正面に立った。机は他の教師のものより大きい。机上ではつい先ほど話に出た愛妻弁当が存在感を放っている。小振りなサイズの黒い漆のお重が二段。

「いただきまーす。ご飯食べながら話すね」

 そう言って千石はお重を開き、食べ始める。

「あっ、はい」

 上司の話を聞く心の準備をしつつ、目は弁当へ。魚の煮付け、卵焼き、きんぴらごぼう、ほうれん草のおひたし、その他にも数種類。慣れとは恐ろしい。

「朝連絡した煙草の件なんだけどさ」

 ご飯とおかずを交互に口に運びながら千石は器用に続ける。

 煙草の件。職員室や教室があるA棟とは別のB棟の校舎裏で煙草を吸っていた痕跡が見つかった。確かそういった内容だった。

「六乃先生に確認してほしいんだよね」

「私が・・・ですか?見つけた方は?」

「いやー最初に見つけたのは用務員さんなんだけど。午前中に時間持て余して校内探検してたんだって。笑えるよね。でも用務員さんパートだし、色々込み入ったことは頼めないじゃん」

「ええ、まあ」

「先生部活はほとんど見てないし、放課後空いてるでしょ?彼女いないし」

 バスケ部の顧問は学生時代バスケ部だったという理由で押しつけられている。男女両方。ただどちらも外部コーチに丸投げしている。手続き上必要なときだけ顔を出していた。そういう姿勢をあらかじめ見せたからこそ、男女とも任されているということもある。真面目に取り組んでいたら今頃体を壊している。

「まだまだ若いし、体力有り余ってるでしょ」

 体力は関係ないだろうが、下っ端には違いない。無条件で受け入れる。

「わかりました。でも確認とは?」

「そりゃぁ誰が煙草を吸ってるかの確認だよ。残念だけどね。うちみたいな高校だとわりと珍しいけど、多分生徒なんだよね。教員用の喫煙所はちゃんとあるし」

 喫煙所。グランドの端にひっそりとある。周りから簡単には見えない場所にベンチと吸い殻入れのボックスが一つずつ。日当りがすこぶる悪いと、都倉が不平を漏らしていたのを聞いたことあった。

「当の生徒は煙草の痕跡が見つかったとか、まだ知らないだろうからまた来るかもしれないじゃない?すでに問題なんだけど、外で吸ってるとこ補導されたり、あとほら、最近北九川(きたくがわ)沿いで小火騒ぎあったでしょ」

 北九川沿いの小火騒ぎ。とある夜、河川沿いに面した道路際で火の手が上がっているのを通行人が発見した。通行人が騒いでいる間に火は自然に消え、怪我人などは全くなかったが、焼け跡からは猫の焼死体が見つかったとのことだ。綱常高校の校区内で、猟奇的な人間が趣味の悪い遊びでもしていたのだろうかと教師の間でもいくらか話題になった。

「あんな気味悪いのはないだろうけどさ、小火になったら最悪でしょ。ちゃんと学校として指導しとかないとね。だから六乃先生。しばらく放課後張り込みお願い」

 なるほど。朝、吉永に言われたことが頭に過ったがこれは仕方がないだろう。

「わかりました。今日からとりあえず張り込んでみます」

「よっ!六乃刑事。頼んだよ」

 千石は箸を持ったままにこやかに敬礼した。

 愛想笑いも添えずに一礼。その場を去る。

 

 放課後。職員室での事務作業を片付け終わり、捜査ごっこに取りかかる。B棟にはあまり足を踏み入れたことがない。校内敷地の図面のプリントを片手に確認してみると、教科の実習関連の教室と、多目的な教室が主だった。

 張り込む場所の鍵を借りようと、様々な鍵が掛けられているコルクボードの前に立つ。ふと初歩的なミスに気づく。千石に詳しい場所を聞いてなかった。朝礼の際に場所の話はあったかどうか覚えていない。夢見心地だったので聞き逃してしまったのだろう。

「あの、六乃先生」

 透き通った聞き取りやすい声。振り返ると音無菜々(おとなしななか)がすぐ後ろにいた。職場で唯一の後輩教員。何かを聞きたそうにこっちを見ている。

 ワイシャツにペンシルスカートというシンプルな姿。まだ初々しい容姿だが、担当教科の英語の授業も事務もてきぱきとは言えないながらも滞りなく丁寧にこなす。固すぎることもなく、生徒と笑顔で話している姿もよく見かける。保護者の評判もいいと聞く。絵に描いたような人気の若手教師。抱いているのはそんな感想。煙草など絶対に吸わないだろう。

「あの、伺いました、煙草の件。六乃先生が見にいくんですよね」

「そうだけど」

「私も何か手伝えることありませんか?その・・・申し訳ないですし」

「申し訳ないって?」

「いえ、その、私のほうが後輩ですから」

「あーそんなこと気にしなくていい。音無先生は合唱部忙しいし。教頭もそう思ったんだと思う。一人で大丈夫」

 そう、気にしなくていい。何か面倒なことがおこったら、適当にごまかそうと思っていた。一緒に来られては困る。事実手伝ってもらうことはない。全部丸投げするという手もあったが、そこまでややこしい仕事でもない。

「そうですか」

 音無はまだ気にしている様子。少し真面目すぎるのかもしれないこの後輩は。

「そうだ丁度良かった。音無先生、その煙草の場所わかる?」

 音無に敷地の図面を見せてみる。

「えっ、ここですけど」

 戸惑いながらも咄嗟に指を差す音無。

 確認を終えるとボードに目を戻し、鍵を一つ、人差し指に引っ掛ける。ありがと、と音無に礼を済まし、そそくさと現場へと向かった。


 B棟の二階。廊下を進んでいく。B棟の入口近くは多少人の行き交いがあったが、目的地に近づくにつれて人の気配が消えていった。窓の外を覗くと、今日は絵に描いたような運動日和だ。放課後のグランドには色とりどりの運動着を身にまとった生徒たちが、蟻のようにわらわらと動いている。

 文化部の生徒たちは近年免震リフォーム工事が行われた部室棟で思い思いに活動しているのだろう。

 淡々と目的地に足を動かしていた。思い出したように窓とは反対の教室の方へ顔を上げる。入り口のプレートには調理実習室と書かれていた。足を止める。こんな教室には全く縁がないだろうと踏んでいた。

 中に入ると、普通の教室とは違う。可動式の大きな黒板。床には広々とタイルが広がり、白い調理台が存在感を出している。そういった新たな出会いには目もくれず。部屋を対角に横切り、黒板とは離れた場所の窓のほうへ向かった。

「だいたいこの辺か?」

 一人呟きながら、指を引っかけ錠を下ろす。窓を開け、顔を覗かせた。

 ビンゴ。ほぼ真下。普段人が歩かないコンクリート製の側溝が校舎の壁に沿って敷かれている。側溝の蓋は劣化こそしているようだが白に近いねずみ色を滑らかに保っている。その表面に黒い焦げ跡が見てとれた。てっきり吸い殻でも残っていたかと思ったが、恐らく用務員が見つけた痕跡とはあの焦げ跡のこと。

 敷地の図面を見た記憶によると陣取った調理実習室の下は視聴覚室。使用する部活もないため普段は鍵が閉められているはず。その裏に位置する目下の現場。学校の敷地の隅に位置し、境界を区切るブロック塀に沿い木が等間隔に植えられているだけの殺風景。敷地外の歩道からは傾斜のきつい丘のようになっていて外から校内を覗くことはできない。ブロック塀と側溝の間の土部分は校内の廊下よりも広く感じた。隠れて煙草を吸うには悪くない。むしろ教師用の喫煙所より快適そうとさえ思う。

 物音がするまで窓から顔を出さずに待つことにした。丸椅子を窓の近くに移動させ座る。持参した数学の参考書。教材研究でもすることにする。電気をつけていない仄暗い部屋は集中するにはもってこい。黄色の表紙を開く。

 本音を言うと犯人が来るか来ないかは大して問題ではない。見た、あるいは見なかった、をそのままを報告すればいいだけ。

 顔と名前もこの距離なら一致する。確認後、案件を持ち帰ってもよし、現行犯逮捕もよし。知らない生徒だとしたら、やむを得ないが後者か。まあとりあえず、そのときに決める。

 ただ気がかりが一つ。指導する教員は大抵その生徒の担任か、もしくはそういった生徒指導が得意な教員になるだろう。一年生の担任を持っている。最終的には上が決めることだ。しかし、もし今回の星が自己の預かるクラスの生徒の場合、自分が指導することになると考えると正直手間で億劫。一年二組は来ませんように。

 そして違和感も一つ。今しがた確認した煙草の痕跡と言われたもの。それが煙草によるものには見えなかった。二階から場所がすぐ分かる程度に三カ所。どれも灰の跡にしては一回り大きい気がした。色の基調は黒だが所々に茶色を帯びている。中には不思議な形のものもあった。黒い跡の内側に、コンクリートのねずみ色の表面が真円で残っている。本当に煙草なのか。いや、いずれわかるか。


 参考書を読み、試験問題に使えそうな問題をメモしていたとき。外でコンクリートと靴の底が擦れる音が聞こえた気がした。不本意だが窓の外に聞き耳を立てる。均等に数回。最後はまるでこちらに聞かせたいかのように丁寧にはっきりと鳴った。

 来てしまったか。いや重い腰を上げるのはまだ早い。姿勢を変えない。しかし軽い金属音が一度聞こえた。観念して参考書を閉じる。親に掃除を命じられた子どものように腰を上げる。窓から顔を出し、参考書片手に窓の縁に腕を掛けた。

 左斜め下の位置にやはり、生徒が一人。生徒のものだと思われる通学鞄と、それと同じ程度の大きさのハードケースが木に立て掛けられているのも見つけた。

 男子生徒だと踏んでいたが、女子生徒。地面を見つめて校舎の壁にもたれ掛かっているだけ。これといって何もしていない様子。角度がなくて生徒の顔はわからないが、蜜柑ほどの大きさの小ぶりなお団子ヘアが目を引く。見覚えがある。移動して別の窓から確認を試みる手もあったが、そのうちわかるだろうと言い訳をしてその場に留まった。とりあえず観察することに決めた。まだ何もしていないのだから。

 と思った矢先に女子生徒が動き始める。尻で壁を押し、壁から体が離れたかと思えば、べたんと元に戻る。繰り返す、繰り返す。お団子が前後する。羊を数えている気持ちになる。

 すると女子生徒は軽く押されたかのように勢いのまま小さく飛んだ。土部分に両の足でしっかりと着地。加えて一歩、二歩前に歩を進めて校舎と距離を作る。そして奇麗に回れ右。

 顔が見えた。無音で大きくため息をつく。

 一年二組の日谷木彩芽(ひやきあやめ)

 担任クラスの生徒。想定の範囲内だが、はずれくじを引いてしまった。

 見た目は月並。吹奏楽部。知る限りでは友人に困っている気配はない。問題を起こしたところを見たことも聞いたこともない。不良ではない。ただ成績は中の下。日谷木に対するデータはそんなところ。

 日谷木が寄りかかっていた場所に青い空き缶が置かれていることに気づく。お団子に気を取られて気づかなかったが、おそらく金属音の正体。灰皿代わりの代名詞。煙草ではなく楽器の個人練習でもしにきたのかと一瞬思ったが、そんな希望も煙になって消えた。

 普通に見える人間こそ何か闇があるものなのだろうか。わからない。ただ生徒の悩みなどには興味を持たない。とくにお近づきになっても力にはなれないだろう。相談されても無気力。教師とはそういう生業だと教えることになるだけだ。

 当の日谷木に目を戻すと、手を胸の高さまで上げて、指を何かもぞもぞとしている。煙草を持っているわけではなさそうだ。不思議と静かに真剣な眼差しを空き缶に刺していた。

 理由なく日谷木のもぞもぞを眺める。

 日谷木が無造作にでこぴんをした。でこぴんが空を切る。

 その動作に合わせて視野の端が明るくなるのを感じた。その明かりが瞳を導く。側溝の上に火が上がっている。

「え?」

 口から涎のように小さく音が漏れた。

 何をしている。あの火は何だ。あの火って何だ。

 目下の光景に目を奪われていた。煙草ではない可能性。それは思いついていたけれど。途中で煙草と決めて付けてしまっていた。

 脱力して不動を決め込んでいた六乃の体は、今度は緊張で強ばり、動くことはない。参考書を掴む手の感覚を忘れてしまうほど。

 突如現れた火。依然コンクリートに張り付いている。出火の原因がわからない。火中に目を凝らすと先ほど置かれた空き缶がちらちらと覗く。火は空き缶を包み込むような大きさだ。広がっていく様子はなさそうだった。

 日谷木は依然真剣な様子。だが緊張感は纏っていないように見えた。両腕を下げ、体の力を抜いている。想像したとおりの状況といったところなのか。

 声を掛けて、火遊びらしき行為を終わらせるべき。そう過る。しかしどう報告すればいい。その考えがまとまらないうちは、もう少し様子を見た方がよいのか。花火、手品・・・爆弾、そんな馬鹿な。引き出しを目的なく開け閉めする。どれも学校には似つかわしくない。

 日谷木が動いた。一歩二歩そして大股で三歩、火に向かい歩を進める。そしてスカートを片手で押さえ屈んだ。犬にお手をする前みたい。

 これはきっと二階から呼びかけたほうがいいのだろう。あの子がどうやって火をつけたなんてことは、知るところではない。予定通り現行犯逮捕。本人の口から説明させて、他の先生に委ねよう。

 この先は見るな。これ以上見たら引き返せない。そんな予感がする。思考を止めよう。息を大きく吸い込み、口を開いた。

 そのとき、日谷木の手が火の中に入っていくのが見えた。ゆるりと、躊躇なく。

 胸あたりで急ブレーキが掛かる。唾がたまる。言葉と一緒に飲み込んだ。

 何をしている。無言で問いかける。

 日谷木は火に片手を入れたまま。火から薄いクリーム色の腕が夏服の袖口まで伸びている。熱くないのか、という疑問は彼女の固定された表情で答えが出た。表情は数分前のまま。真剣な表情というのは不正解だったのだろう。無表情。こちらのほうが的を射ている。熱いという感覚は表情から汲み取れない。

 鞄からノートを取り出すように、火から手を出す。手には焦げ茶の筒状のもの。青い空き缶だったそれは、煙を上げて自らの温度を示めしている。変色した缶を手に持ち、なおも自然体な女の子。違和感しかない。

 続いて日谷木は空き缶を握ったまま、眼差しを穏やかに燃える火に向けた。するとコンクリートにくっついていた火が、徐々に小さくなっていく。やがて十秒も立たないうちに消えた。火が存在した場所には、来たばかりにも確認した黒い跡と同じような跡ができていた。跡の内側には丸いグレーの空白も。空き缶を置いていた名残だったということがわかる。

 日谷木は立てかけていた鞄のほうへ近づいていった。鞄からビニール袋を取り出し、その中に燃えて変色した空き缶を入れる。袋から出てきた手にはまた別の何かが握られていた。定かではないが、デザインからして菓子箱のよう。日谷木はすぐに中の包装まで開け、無表情のまま中身を口のなかに放り込みはじめた。

 一通り観察してみてもすぐに結論が出せない。

 小さくも赤く燃えていた火の中に手を入れていた。素手で。火傷している素振りは見せていない。ということは、さっき突如現れたあれはきっと火ではないのだろうか。手品なのか。だとしたら金を取れるくらいよくできている。

 しかし手品だとしてもあの空き缶の変わりよう。焼かれていた。そして焦げた。明らかに。そうなるとあの火に見えた何かは、やはり見た目の通り火だったことになる。単なる火遊びということもあるのか。

 いや、空き缶の変色も含め手品という可能性はないだろうか。ずいぶん凝った難易度の高い技を、人目のつかない場所でひっそりと練習。辻褄は合わないこともない。

 ただ、このホラー映画を見ているような感覚。現にあの教え子から目を離すことができていない。普段は生徒に注視することなどないのに。胸の中に、不気味なしこりが宿る。見たことのないもの。見ない方がいいもの。見てはいけないもの。その類が放つ独特の引力が押し止めてくる。単なる手品遊びにここまでの力強さがあるとは素直に思えなかった。

 だとしたら日谷木がやっていることは何なのか。自ら答えは出せないということは察することができた。

 どうすればいいのか。あそこでリスのように手と口を動かしている問題の生徒に話を聞けば、種明かしをしてもらえるのかもしれない。しかし、先ほどから胸に抱えるしこり。そのせいでためらわれる。

 日谷木は箱を上下に振った。一気に食べてしまったようだ。お菓子好きなのか。女の子らしいかわいい部分をようやく覗くことができた。多少安堵する。

 すると日谷木が空き箱を放り投げる。何気なく目で追ってしまった。箱は宙を舞うと、途中ふと火を纏い、力なくぽとりと地に落ちた。燃えるゴミが燃えている。日谷木に目を戻すとでこぴんを構え佇んでいた。

 見てはいけないものを見た。もう職員室に戻ろう。あんな不気味な雰囲気を醸し出した思春期真っ盛りの生徒に関わるのは危険な匂いしかしない。もし日谷木にこの現場を見たことがばれたらとばっちり、いやそんな優しい表現では済まない目に会う予感が確かに存在する。

 誰も来なかった。何も見なかった。それが正解なのだろう。

 こんな摩訶不思議な光景は説明できない。無理やり他の人間に伝えても、ふざけていると思われ、ややこしいかつ痛々しいことになるだけ。そんな事態は真っ平ごめんだ。音無の同行も断ってよかった。明日からは張り込みは断りを入れよう。しばらくはバスケ部にも積極的に顔を出すか。免罪符になる。うん、いい判断だ。

「あのー、六乃先生!」

 突如背後から強めに名前を呼ばれた。

「わっ!」

 心臓が一際大きく鼓動する。鼓動に押し出されるが如く、自身でも聞いたことのない叫び声が口から飛び出した。棟全体に響き渡りそうな勢いに思えた。

 まずい、という感情が刹那に過る。反射的に体を部屋に引っ込ませ、両手で勢い良く窓を閉める。物が勢い良く叩きつけられた音が二度聞こえた。そのままの勢いで丸椅子から転げ落ちる。

 尻餅をついて、調理実習室を見回す。入り口から部屋に二、三歩入った場所に音無が立っていた。困惑した様子だ。無理もない。当人としては職員室と同じ調子で声をかけたのだろう。

「ごめんなさい。そんなにびっくりするとは思わなくて。大丈夫ですか?」

 戸惑いながらも、すぐに優しい言葉をかけてくるあたりはさすがだ。育ちの良さが滲み出ている。

 音無が近づこうとしてきた。

 今自分の近くに来られては困る気がした。厳密には窓の近くか。今の叫び声は外にも届いたはず。下の危険人物がこちらを見上げている映像を想像した。急いで右手を上げる。

「大丈夫!大丈夫だから!」

 近寄るな、と精一杯の意思表示をする。

 おかげで音無が歩みを止めた。さらに困惑したみたいだ。若干顔が引きつっている。別に構うものか。

 呼吸を整えながらゆっくりと、最小限に腰を浮かす。腕を精一杯伸ばし、窓の錠をかけた。今の動きなら、外から見られていたとしても認識はできないはず。にしても鍵まで締める必要はなかったか。そこまで焦っていたということをようやく頭で理解する。

 倒れた丸椅子をお腹に抱え、十分に腰を落とし、のそのそと窓から離れる。調理台の横に丸椅子を置いて座り、緊張した体を一旦ほぐすため、調理台に突っ伏した。

 一息ついて、強張った表情の音無に目を戻した。来なくていいと言ったはず。困った後輩だ。不可解な状況であるのはお互い様のはず。お茶を濁しておいたほうがいい。

「いやー急に呼ばれたからびっくりした。思わず腰を抜かして」

 自分の渇いた笑いが宙に浮く。大根役者のような棒読みだったが、驚いたのは事実である。

 音無は不思議そうに首をややかしげた。

「あの、実は二、三度声をおかけしたんですけど。全然反応なくて」

「そうなの?あー全く気づかなかった。考え事してたんだ」

「そうですか」

「音無先生はどうしてここに?」

「その、六乃先生がここの鍵を持っていかれるのを見まして。ここにいらっしゃるのかな、と」

 そういうことが聞きたいのではない。来るなと伝えたのにどうして来たのかが知りたい。

「わざわざ悪いね、一人で平気だったのに。それとも何か連絡でもあった?」

「いえ、特にそういうわけでは。そのやっぱり・・・気になってしまって」

 子供のお留守番のような、ただ待つだけの仕事。先輩にやらせるのは気がひけるということなのか。やはりこの先生は真面目なのだ。余計な気を使いすぎだろう。

「そうか。でも、もう大丈夫だから」

 その根拠のない一言で音無が整った眉が動く。

「大丈夫ってことは、六乃先生はもう何か知っているってことですか?」

「え?何かって、何を?」

「その例えばですけど。ここで、いえ実際にはこの外ですけれど、煙草を吸ったのが誰かってことを、とか・・・もしかして、その・・・」

 会話が止まり二人の間に行き場のない空気が漂う。

 じわりと汗が出るのを肌に感じた。この下で煙草を吸っていた人間はいない。しかし件の犯人は知っている。今し方この目で確認した。自分のクラスの生徒だった。面倒なことに煙草どころか放火まがいのことを、平然としていたのだ。

 ここで音無に相談しても、目に焼きついた状況を整理整頓できる気がしない。上手に説明できる気もしない。もしかすると正義感の強そうな音無なら、どうして教え子の犯行を見たときに止めなかったのか、と問い詰めてくるかもしれない。仕方ないだろうが。あの火を見てからというものの、俄然びびってしまっているのだ。恐怖は一人で抱えこんだ方が楽だ。

「いやいや、そういう訳じゃない。知らないんだ。何も知らない」

「そう、ですか。てっきり煙草を吸っている人を見かけたのかなーなんて」

「違う違う。考え事っていっても関係ないこと。試験内容どうするかとか、色々」

「それであんなに集中してらっしゃったんですか。真面目なんですね」

 違う違う、真面目なのではない。だが、便乗しておこう。

「あーそうそう。参考書読んでたら、のめり込みすぎたみたい」

「・・・参考書ですか?」

「そう参考書」

「私がぱっと見たところですけど」

「ん?」

「六乃先生手ぶらじゃないんですか?」

「え?」

「その、何も持ってないですよ」

 自分の両手を見つめる。言われてから気づいた。間違いなく持ってきた、読んでいた参考書がない。

「あれ?おかしいな。さっきまで読んでたんだけど」

 特に焦りはしなかった。この室内にない、というわけではないだろう。転げた拍子に落としたのか。さっきまでいた窓の近くに目を向ける。見当たらない。目の前の調理台の下を覗いてみた。見当たらない。四つん這いになり闇雲に床を見渡す。やはり見当たらない。

 窓を丁寧に開ける音が静かな室内に響く。窓が引き摺られる音に合わせて、背筋に悪寒が走った。

「あ、やっぱり。あれですよね。参考書、ありましたよ」

 声の聞こえた方へ振り返る。

 音無が窓を開け、外を覗き込んでいた。

「よっぽどに驚かせてしまったみたいですね、私」

 目が合うと、申し訳なさそうな顔で外を指差す。

 自分の血の気が一気に引いていくがわかる。驚いた拍子で落としたということは最初に思いついたけれど、まさか窓の外にとは。下には日谷木がいる。音無は少女の姿を発見して何を思うのか。そして少女は音無に発見されて何を思うのか————


 音無のワイシャツに火が灯る。端然とした服を伝って徐々に燃え広がり、やがて体全体が火に包まれる。何故かはわからないが鮮明に、違和感なく、そんな映像が頭に映った————

 

「どうしたんですか?ぼーっとされて。また考え事ですか?」

 現実に引き戻される。当の音無には変わった様子がない。

「その、参考書だけ?」

「えっと」

 音無が下を見回す。

「そうですね。落ちているものは、参考書だけですけど」

「本当?本当に?」

「本当ですよ。他にも何か落としたなら一緒に探しますよ」

 窓に近づいていく。恐る恐る歩みを進める。本当に参考書だけなのか。日谷木はいないのか。

 怪訝そうに見てくる音無を尻目に、窓の外を覗く。来た時と同じような殺風景。見回しても、高校生一人隠れられそうなところはないし、人の姿は見つけられなかった。

「あっ、参考書ならあそこです」

 言われるままに、音無が指差した方向に目を凝らす。敷地の境界壁近くの木陰に参考書が無造作にあった。思いのほか遠くまで放り投げてしまったな。

「いや、音無先生と話している間に誰かが来たかもしれないと思って」

「あ・・・なるほど」

 二人で無闇に外を眺める。心地よいはずの風が何とも言い難い気まずさを感じさせる。

 日谷木はこの場を去ったのは確かなようだ。お菓子の箱は跡形もなく焼失したのか、残ったのはコンクリート上の黒い痕跡だけ。隣で髪をなびかせている音無はあの痕跡をどう考えているのだろうか。気づいてないのか、はたまた気にしてないのか、別段話題にしてこない。至って好都合。

 先ほど上げてしまった叫び声を聞いて日谷木は立ち去った。あれが手品の練習だと仮定したら、逃げる必要性はない気がする。恥ずかしいから、というのは理由として弱い気がする。疚しいところがあり、だから焦って逃げた、と思うのが自然だ。校内で人目を避けて放火紛いのことをしていたのだ。見つかったら、きついお叱りを受けるに決まっている。普通に考えたらこうだろう。

 火の中に素手を躊躇なく入れた日谷木の姿が頭にちらつく。

 おかしくないか。さすがに、あれは。あの行為には火傷なんて絶対にしないという確信が見えた。現に火を熱がることすらしなかった。腕が火に覆われても変化がないということが、彼女にとっての通常であり、日常であり、必定なことだという証明。

 出火に関してもやはり変だ。空き缶に関してはこの際爆弾でもなんでもいい。どこか別の場所で細工をすることはできなくはないのだ。ただお菓子の箱に関しては、その場で開けて、食べて、投げて、燃やした。出火というか発火だ。訳がわからない。

 日谷木は燃えないし、燃やせる。そういう人物。それが見たままの報告。

 悪い方向へ空想していることは重々理解できた。恐怖に追い詰められて引きずりだした結論がこのありさま。脳の容量がいっぱいになっている。

「職員室に戻ろうかな」

「えっ六乃先生、参考書は?」

「とりあえず、後でいい」

 一応まだ日谷木が現場の近くにいるというリスクは拭えない。頃合いを見て回収に行こう。すぐに必要なものでもない。

「はあ・・・。私このまま張り込みしようかな」

「・・・いや実は、音無先生にお願いがあるの忘れてた。一緒に戻ろう」

「あっそうなんですか。わかりました」

 音無は不安そうだ。非行に走っている件の生徒を心配しているのか。それとも情緒が安定していない先輩教師のお願い事が怖くて心配なのだろうか。

 心配しなくていい。とくにお願いなんてものはない。もうこの事案に関わって欲しくないだけだ。余計なことはいらない。適当にプリントのコピーでも頼もう。

 戸締りをして調理実習室を後にする。廊下に出ると夢から覚めたような心地がした。正直夢であったら嬉しい。

 職員室に向かう道すがら、音無の話に調子を合わせながら今後の立ち回りに思いを巡らす。とりあえず、千石への報告はしばらく保留だな。

 あと今日は帰りに本屋に寄らないと。

 B棟から退散する。来たときのような人の行き交いはなくなっていた。


 昨日はすぐに寝付けなかった。頭の疲れが十分だったはずだが、火と戯れる日谷木と、火に包まれる音無の映像が眠りに落ちるのを邪魔してきた。

 しかし一度眠りにつくと、うなされることなどはなく、朝はすんなり起きた。睡眠時間も短いが、疲れもこれといってない。アドレナリンでも出ているかのよう。恐怖も薄れ、気がつけばまた、何の変哲もない風景を眺めて登校していた六乃がいた。人生で一、二を争う奇天烈なものを見たのに。自分の波のない精神をもう少し誇ったほうがよいのかとさえ思う。

 三限目の授業の時間。担当授業がなく空きコマだった。職員室は丁度いい静けさ。漂う誰のものともわからない珈琲の匂い。普段なら後回しにしていた書類を片付けたりして適当に過ごすだろう。匂いに釣られて給湯室に足を運ぶのかもしれない。ただ今日は優先してやることがある。そそくさと職員室を出た。

 目的地に向かう前に寄り道。授業中の教室の前を、とくに頭を働かせることなく歩く。各教室通り過ぎていくたびに、教師の声が聞こえたり、生徒の笑い声が上がったり、はたまた静寂な教室もある。ラジオをザッピングしながら聞いているような時間。

 寄り道の場所に着く。一年二組。立て札を見ると、わずかに体が強張る感覚がした。やはり多少はまだ緊張する。

 教室の後方、出入り口の小窓から、気配を殺しつつ教室の中を覗く。

 一番後ろ、窓際の席。日谷木が机に片肘をついて座っていた。教室の他の生徒と見比べても代わり映えのない普通の女の子がそこにいる。前は向いているが、授業に集中できていないみたいだ。心ここにあらず、手が動いていない。

 この教室で朝のホームルームをした際も、日谷木は似たような雰囲気に思えた。ただ朝は、極力目を合わさないようにしていたので、しっかりと観察したわけではないはないが。

 彼女もきっと昨日のことを考えている。誰に見られたのだろうかと。

 昨日現場に落とした参考書を、この後回収しにいくのだが、大事をとって日谷木の居場所を把握しておきたかった。授業中ならまず教室にいるはず、しかし授業なんてさぼろうと思えば割と簡単にさぼることができるものだ。現場で参考書を回収するところを見られるようなへまは確実に排除しなければ。

 日谷木の席が確認しやすい席であったことは幸運だった。次は現場へと向かう。


 B棟裏。側溝のコンクリート面をいざ間近で見てみるとそれなりに年季が入って汚れているのがよくわかる。それでも敷地の隅にたどり着き、再会した焦げ跡は異彩を放って目を引きつける。限りなく黒に近い茶色に変色している部分を手で優しく触れてみた。使い古した紙やすりのような感触。まだ熱を帯びているような気がしたが、さすがに気のせいだと察した。

 当初の目的を思い出す。昨日振り投げた参考書の回収。振り返って、外壁際の木々の間を確認していく。二階から落ちた場所を見たこともあり、すぐに見つけることができた。参考書を拾い上げ、黄色い表紙がまとった砂をなでるように払う。よかった。とりあえず日谷木に持ち帰られたりはしていなかった。

 前日叫び声を上げたとき、思わず身を隠した。今思い出しても滑稽だった、本当に。しかし、おかげで日谷木に姿を見られなかった自信はあった。彼女がもし目撃者を追うとしたら、手掛りになるものはこの参考書になる。

 参考書自体は市販のもの。数学の教科担当の中で同じものを採用している。生徒にもすでに購入させていた。教師用、生徒用などの区別はなく同じものを。記名をしていないので外見では誰のものか判断できない。

 しかし、手にしている参考書を開く。序盤から中盤のページの幾つかの問いにはメモがしてある。『1─1済』、『1─2済』、『1─3済』・・・。自分が数学を担当しているクラスの番号。どの問いをどのクラスの授業で使ったかわかるようにするためのメモ。これを見られるのは良くない。すぐにはメモの意味はわからないだろう。ただじっくり見れば、多少頭の回る生徒なら持ち主を特定できる。そしてこの参考書の持ち主が目撃者なのは叫び声で明白だ。叫び声と共にこの参考書が降ってきたのだから。

 でもほっとした。参考書がこの場所に残ったままということは、二つの可能性に絞ることができる。

 日谷木はこの本に気がつかなかった、もしくはこの本に気づいても持って帰らないという判断を下したか。

 気づかなかったのなら日谷木が目撃者にたどり着く確率は大分下がる。特定しようとしても、ヒントがないのだ。高一の小娘には無理だろう。

 あえて持って帰らなかったのなら、案外当の本人は見られたことを大事と思ってないのかもしれない。

 どちらの可能性も都合が良い。こちら側から下手に干渉しなければ、このまま互いの距離を保てる。

 木陰から出て、校舎の壁にもたれかかる。日当たりの良さで眠気が膨らんだ。用は済んだので落ちないうちに職員室に戻ることにした。


「失礼します!二年四組の————」


 放課後の職員室。入口の方から誰ともわからない生徒の声が聞こえる。

 職員室は人の出入りが盛んになっていた。朝の時間とは違い、喧騒が室内を覆う。

 生徒は自由に出入りができない決まりになっている。入り口で名乗り、近くの先生に用件を伝えてから職員室内に入る。

 生徒に応対している他の先生を何気なく目移りしていると。千石が向かってくるのが見えた。目が合った千石の顔からは期待感が滲み出ている。

「六乃先生昨日はどうだった?張り込み」

「いえそれが、とくに進展はなくてですね」

「誰も来なかったの?」

 千石があからさまに拍子抜けする。

「はい。放課後ずっといたわけではないですが」

「なーんだ。てっきり煙草吸う人って毎日吸うものかと思ってたけどそうでもないんだね。僕吸わないからわからないや」

「今日は放課後行けないので、授業の空きに現場に見にいったんですけど、昨日と変わりはありませんでした。吸い殻は見つからないですし、匂いもさすがに残っていなくて」

「ふーん。あれ、放課後だめなの?」

「あのー、えーとバスケ部がそろそろ試合があるみたいで。今日は仕事が済んだら部活に顔を出しておこうかなと」

「あっそうなの。そっか意外だなー。六乃先生バスケ部全然興味ないと思ってたから」

 やはりそう思われていたのか。いざ面と向かって言われるとやや恐縮する。

「そんなことはないつもりですけど・・・申し訳ありません」

「まあ最初から毎日は無理だろなって思ってたし。いいんだけど」

「引き続き空いた時間で張り込んでみて、何かありましたら報告しようかと思っているんですけど」

「うん。それでいいや。一回きりってことも、それどころか気のせいってこともありそうだしね。六乃先生が何か見つけたら、何人かの先生で毎日持ち回りで見張れるようローテーションでも組もうかな」

「わかりました」

「それじゃ、しばらくそういうことでよろしく」

「あっ千石先生」

 立ち去ろうとした千石を呼び止める。

「ん、なになに?」

 一応試しに反応を確認しておきたいと思った

「煙草じゃない・・・かもしれないとか思ったりもしてまして」

「えっじゃあ何なの?」

「・・・爆弾とか」

 千石が小さく吹き出した。小馬鹿にするように笑い声を上げる。

「何それ?六乃先生のジョーク、レアだけど。全然つまんない」

 つまんないと言いつつも笑い続ける千石。

「すみません」

「ねえねえ都倉先生、今ね六乃先生がほんとつまんない冗談————」

 千石は軽快に体を翻し、都倉のいる方へ歩いていく。

 ある意味予想通りの反応。物的証拠がないかぎり力説しても白い目で見られるのは確かなようだ。


「えー失礼しまーす。サッカー部の————」


 大きく深呼吸をする。参考書は理由なく机の上に置いたままにしていた。見ていると安心がこみ上げてくる。これで、万事上手くいく。何も変わらず進む。

 何かを見つけることなどない。日谷木は二度とあそこには来ないだろうから。一度目撃された可能性のある場所で、放火行為に及ぶなんてことはないはず。

 何も起きず適当な時が経てば、張り込みは打ち切られるだろう。誰も困ることはない。だから安心して過ごせ日谷木。

「お疲れね」

 声の方へ顔を向けると吉永がマグカップを両手に笑みを浮かべていた。片方のマグカップを無言で差し出してくる。

「六乃先生のマグってこれよね?」

「そうです。・・・すみません」

 自分のマグカップを受け取る。珈琲の香りが鼻を包む。

「すみませんはいらない」

「あっ、ありがとうございます。少し思う事があって、寝不足でして」

「もしかして煙草の件?」

「・・・そう、ですね」

「早めに片がつくといいわね。こちら側の早とちりで何もないのが一番だけど」

「本当に、そう思います」

「そういえば聞いた?音無先生の婚約の件」

 そのような話は聞いていない。なるべく教師同士の雑談には入らないからだろう。

「初耳です。指輪とかしてましたっけ?」

「いいえ、つけてきて生徒に冷やかされるのが恥ずかしいんですって。あと、まだ何となくつける気にならないみたいよ」

「どうして?めでたいことじゃないですか」

 吉永が一瞬気まずそうな顔を見せた。だがすぐに微笑みが戻る。

「いや・・・そのお相手がね、同じ教師みたいなんだけど、結構だらしない男みたいなのよ。だからプロポーズされたときもちょっと迷ったんですって」

「そうなんですか」

「マリッジブルーだと思うけど。まあ結婚してみてだめだったら、だめだったでそのときなのよね。独身も結婚も良し悪しあるのは間違いないわ」

 離婚経験者の言葉は重みがある。いい意味でだ。今のアドバイスをきっと音無にも贈ったのだろう。

「あととりあえず、考えすぎて疲れたときは珈琲飲むのがおすすめ」

 吉永はマグカップを指差してくる。そして自身の珈琲を一口飲み、机のパソコンに向き合い始めた。

「あっはい。いただきます」

 珈琲に口を付けるといい具合に体の力が抜け、反対に頭が引き締まってくる。


「失礼します。一年二組————」


 部活動には実際に顔を出しておくか。行ったときは毎回練習風景を保護者のようにただただ眺めているだけだが。先ほど口から飛び出した試合なんてものもあったかどうかあやふやだ。でも千石に宣言してしまったこともある。とりあえず体育館に向かうためにも、今日中に済ませておくべき書類を片付けて、珈琲を飲み終わったら体育館へ向かおう。

「六乃先生」

 すぐ背後から生徒の声が聞こえた。ずいぶんと素っ気なく聞こえた。

 マグカップを持ったまま声の方へ椅子を回転させる。六乃を呼んだ生徒の顔を見上げた。

 声の主が誰だかわかった瞬間思わずむせてしまう。

 日谷木が直立不動していた。

 大げさに咳払いをして呼吸と鼓動を整える。日谷木の奥に、座っている都倉の責めるような視線があったが、それどころではなかった。

 何故ここにいる。生徒が職員室内にいることは特段おかしいことではない。生徒に話しかけられることは割と珍しいが、やはりおかしいことではない。しかし昨日の今日で、日谷木が今声をかけてくるのはタイミングがおかしい。現に担任ではあるが、日谷木が職員室に自分を訪ねてくるのは初めてだった。

 今一度日谷木の顔を伺う。日谷木が向けてくる目つきが穏やかではなかった。黒のカラーコンタクトでも入れてるのかと思うほど瞳孔開いている。

 会話をしたくない。しかし無視するわけにもいかない。

「・・・どうした日谷木」

「六乃先生に聞きたいことがあるんです」

 心臓が跳ねる。逃げるか。露骨に退避すると変に疑われかもしれない。慎重にいかねば。

「そうか。その、珍しいな。先生今日忙しくてな。今じゃないと————」

「今お願いします。すぐ終わるので」

 必死さにたじろぐ。教師に対する生徒の一般的な態度とはとても思えない。敬意は微塵も伝わってこなかった。昨日の引力が心臓から体に貼りめぐらされていく。逃げないほうが無難かもしれない。

 聞きたいこととは昨日のことなのか。どのような聞き方をされてもしらばっくれる準備をしとかなければ。動揺を表に出さず、できる限り落ち着いて。大丈夫だ。

「・・・ま、仕方がない。なんだ?」

「その本のことで」

 日谷木が机の上を指差してくる。その小さな指は真っ直ぐ黄色い表紙の数学の参考書を指している。焦るな。大丈夫だ。

「あーえーと、これか?」

 別の本を指してみる。

「違います。その黄色いやつです」

「そうか、これか」

 表紙を隠すように手を置く。

「で、これがどうした?」

「解説見てもわからない問題があって、教えて欲しいんです」

「自分の参考書持ってきたか?」

「持ってきてません。うっかりしてて。先生の見せてください」

 うっかりしてて。そう言った生徒の表情は緊張で張り詰めている。そしてこの本の中を見たい、そう言っている。

 日谷木はもしかしたら、こちらが回収する前にこの参考書の中をすでに見たのかもしれない。昨日彼女が逃走する前、今日の授業の間の休み時間。どちらも時間的な余裕はないが不可能ではない。書いていたメモを見ていて、今この場でそれらがこの机の上の参考書に書いてあるかどうかを確かめにきた、ということなのか。まあいい。見せよう。

「何ページ?」

 日谷木に参考書を手渡す。

「最初の辺り・・・」

 日谷木は参考書を手にするとページを一目散にめくり始める。半分ほど差し掛かると、逆回りでめくり返していく。

 その本に手がかりはない。日谷木に見られた可能性があるメモは彼女が今手に取っている本には書いていない。まっさらな新品のままの状態のものである。

 昨日の帰り本屋に寄って、もう一冊同じ参考書を新しく買っておいた。今のような万が一の状況に備えて。日谷木がすぐさまこんなに大胆な行動に出るとは思わなかったが、念のため買っておいてよかった。実際に回収したものは鞄の中に避難させてある。

 目の前の日谷木は参考書を何往復かし終え一息つく。多少は緊張が解けたように見えた。肩の力が目に見えて抜ける。

「六乃先生」

「ん?」

「どこ教えてもらおうか忘れちゃった、みたいです」

 目を合わせず明け透けにものを言い、参考書を返してくる。

 参考書を日谷木から受け取り元の机の上に置いた。

「何しに来たんだお前は」

 露骨に呆れてみせる。内心は安心しているだけだが。

「ごめんなさい」

 日谷木は口をとがらせる。腑には落ちていないようだ。

「次来るときはちゃんと自分の参考書を持ってこい。さっき言ったけど先生忙しいんだ」

「・・・はい。失礼します」

 正直もう来てほしくない。どうなるかと思ったが大丈夫そうだ。今日はぐっすり眠れる。

 日谷木が踵を返しその場を去ろうとした瞬間。

 すれ違い様に音無が近くで立ち止まる。机の上に目をやり一言。

「あー六乃先生、参考書拾ってきたんですね」

 立ち去ろうとしていた日谷木の足が止まった。

 時間が止まったような時間が流れる。音無に返事がすぐに上手く返せない。

「あれ、あの・・・どうかしました?」

 音無が昨日と同じような困った顔をしていた。

 何とかして違和感なく返事しないと。

「いや、そ、その、今日の空き————」

「音無先生、拾ったってなーに?」

 日谷木が間に割って入ってきた。先ほど向けてきた表情とは違い、笑顔で音無に話しかける。

「あら日谷木さん。実はね、昨日私が六乃先生を驚かせちゃって」

「うんうん。それで?」

「そしたら六乃先生、窓の外にこの参考書放り投げるほどびっくりしちゃったのよ」

 思考が停止する。

「へえ、そうなんだ。ちなみにどこで?」

「ん?B棟の二階だけど。調理実習室」

「ふーん、うける」

 日谷木がこちらに笑顔を向ける。目は笑っていない気がした。

「そうなのよ。気になっていてね。申し訳ないと思っていたから。日谷木さんは六乃先生に用事?邪魔しちゃったかしら」

「うん。聞きたいことあったけど、もうわかったからいいや。ばいばい先生」

 日谷木はそう残し、颯爽と職員室から消えていった。

「日谷木さん、笑顔がかわいらしいですよね・・・六乃先生?」

 音無の問いかけに反応できない。胸の中では真逆の感想がうごめいていた。目の焦点が合わないまま珈琲を手に取り一気に喉を通過させる。味も香りもしなかった。


 帰りの電車はいつもより人が少なかった。吊革が頭の上でやる気なく踊る。黒い下地で塗りつぶされた窓ガラスには、空な目をした人たちが校舎裏で見た木々のように等間隔に配置されている。六乃もそのうちの一人だった。

 大抵なら座席に座った時点で、一日の終わりを迎えた気分になる。しかし今日は違った。鞄を抱えて席に尻を埋もれさせているが、座り心地はすこぶる悪い。

 結局バスケ部には顔を出せなかった。出さなかったのではなく出せなかった。理由は単純で、仕事が片付かなかったということが理由。そこまでやるべきことが多かったわけではないけれど。

 身が入らなかった。目の前の書類に手をつけようとしても、すぐに別のことに頭が回ってしまった。おかげで仕事の進みが通常の倍時間がかかることになる。

 仕事を片付けた後もその別のことに頭が回って、椅子から離れる気がしなかった。体育館に行くという自分との約束事を思い出したときには、部活動も終わる頃合いになっていた。屋外の照明灯の明かりを見て約束をなかったことにする。

 別のことには頭を回していただけ。具体的な答えを見つけられるものではない。頭の中で同じところを当てもなく歩き回った。結果時間を浪費しただけだった。

 今現在、帰る途中も引き続き頭の中を歩き回っている。

 電車が自宅の最寄り駅に着いた。

 あらかじめプログラムされていたよう立つ。電車を降り、改札を通ってからも自宅まで歩くのは足に委ね、頭は問題の生徒のことを考える。ある一人の生徒のことを。

 日谷木は言った。もうわかったからいいや、と。

 放火現場の目撃者を確認できた。だからもういい。そういう意味の発言と捉えていいと思う。彼女はあの日自身を見てしまった人物を探していた。だからこそ放課後職員室に来たのだろう。

 どうして探していたのか。恐らくあの奇妙な火遊びはあの生徒の隠したい秘密なのだと思う。でないとあのような人気のないところで行う必要がないし、見た側からしてもあの行為は気味が悪かった。秘密を何者かに知られたら、それが誰かと確認しようとする可能性はある。

 万が一日谷木が接触してきて探ってくることまで想定したからこそ、わざわざ同じ本の二冊目を買うなどの小細工を労した、ないと思いつつ。そんな小細工は徒労に終わってしまった。

 これ以上関わりたくなかった。どうせろくな目に合わない予感がしたから。

 目撃者がわかった今、日谷木はどうするのだろう。その辺りがいまいち掴めない。先ほどは何も言わず去っていった。単に知りたかっただけなのかも。それに越したことはないけれど。

 そんな思考を繰り返す度に昨日見た音無が燃えるイメージが浮かんでくる。初めて浮かんだときは妙に鮮やかで恐ろしい映像だった。今も多少怖い。それでも、どんなホラー映画も数回度見てしまえば慣れるものだ。この馬鹿馬鹿しく幼稚な妄想もそのうち消えてくれる。

 いい加減どうでもよくなってきた。疲れている。やはり睡眠が足りなかったのかもしれない。家に着いたらすぐに寝よう。色々と考えているうちに駅から離れた住宅街にある自宅にも大分近づいてきていた。これ以上わからないことを考えても意味がない。


 帰り道の途中、家の近所の商店街を一人歩く。商店街といっても見事なシャッター商店街。営業しているかいないかわからないような店ばかり。昼間も通行人がいないときのほうが多い。夜になればなおさら閑散とした印象が強くなる。

 アーケードのない通路をわずかな街灯が薄明るく辺りを照らしていた。今夜は自分の他に人っ子一人いないみたいだ。この寂れた見た目の店たちも昔は繁盛していたのかもしれない。人々の優先順位が変わって、こういう空虚な場所になってしまったのだろう。初めてこの光景を見たときも寂しいとかそういった感情は湧かなかった。ちょっとした親近感だけがにじみ出た。以来ここはほぼ毎日通る。

 ふと前方に人が立つていることに気づく。珍しい。店のシャッターにもたれかかっているみたいだが、その場所がちょうど暗くなっていてよく見えない。ただ誰かいるということはわかる。自分以外人っ子一人いないというのは間違いだったが、とくに気に留めることなく歩く。

 何の気なしに夜空を見上げた。星も雲も見えない空には半月だけがくっきりと浮かんでいる。

 夕食を食べていないことに気がつく。どうしようか、食べたいものが特別ない。

 一昨日炊いた米がまだ冷凍庫に残っている。冷蔵庫の中のものを大まかに思い浮かべる。じゃがいもとにんじん、それとトマトがあったような。何を作ろうか。半月を見つめているとカレーしか思いつかなくなってきた。肉はあったかどうかいまいち思い出せないが、カレールーはあるはず。トマトもカレーに入れてしまおう。むしろ肉があると重たいかもしない。インスタントの味噌汁でもつければ今日の空腹具合にはちょうどいい気がする。過食はお腹に悪い。

 人は一線を超えると壊れるようにできている。食べ過ぎはお腹を痛くする。酒を飲みすぎると理性がなくなる。人に近づきすぎると心を拗らせる。

 強い弱いは人それぞれだけれども、自分の一線を無視して無茶をし続けると、そのうち治らなくなってしまう。

 夜風に吹かれて我に帰る。とにかく今日はカレーだ。もう決めた。

 前方に立っていた人の前を通り過ぎる。

「————なさい」

 女の声。誰かに似ている。日谷木の声だ。つい何時間前聞いた声色。

 気のせいだ。さっきまであの子のことばかり考えていたせいかもしれない。さすがに気持ちが悪い。

 自分に向けられたものではないだろうと高を括り構わず進む。

「六乃先生」

 名前を呼ばれた。さすがに足が止まる。

 幻聴だろうか。幻聴だろう。本当に疲れている。

 家路を急ごうと、振り向かず足を再び動かそうとした瞬間。小さな足音が横を通り過ぎていく。すぐに視野の中に見慣れた綱常高校の制服が入り込んできた。

 街灯の明かりに照らされて、お団子ヘアの小柄な後ろ姿が徐々に浮かんでくる。嘘だろうと思いつつも、そのときにはもう顔を見なくても察してしまった。心拍数が急速に上がっていく。

 制服を着たその人物が振り返り向かい合う。

 嫌な予想は当たってしまう。目の前にいるのは確かに日谷木だった。

 商店街は静寂なまま。向かい合ってまずは、お互いが無言を選んだ。

 どうして。職員室ならまだしも、何故こんなところまで追ってくる。

 少女の顔からは感情が汲み取れない。目を合わせてこず、まるで幽霊のように佇む。

 無音の時間が続き、空気に押しつぶされるような危うい感覚が身体に纏わりついてくる。見た目はか弱い少女なのに。爆発物の前に立つとこのような心境になるのだろうか。耐えられない。何か話さなければ。

「お、驚いた・・・。日谷木何でこんなところにいるんだ」

 返事は返ってこない。右手に持っていた鞄に力がこもる。

「どうした?結構、あれだ、時間も遅いぞ。高校生といってもまだまだ子どもだからな。早く家に帰りなさい。終電はまだあるだろ。親御さんに心配かけるぞ。あっもしかしてお前の家この近くなのか?先生の家もこの近くでな。いや近くというかな、えーと、その、いや奇遇だな」

 様子を伺う。引き続き無視される。

 実は本当に幽霊なのか。生き霊なんて普通なら気味が悪いが、そっちの方が今は嬉しい。単純に目の前の人物が怖いのだ。

 反応がないということは、もしかしたら逃がしてくれるのかもと期待する。

「とにかくそういうことだから。早く帰れ。じゃあ」

 日谷木を躱すため足を動かそうとする。

「聞きたいことがあるんです」

 日谷木が静かに口を動かした。

 止まれ、と命令されたように足を動かなくなる。恐怖が身体を支配してくる。深呼吸をして動揺を隠すのに必死になる。

「どうしたお前、今日おかしいぞ。職員室に来たときに聞いてきたことか?先生疲れてんだ。頼むから明日に————」

「先生見たんですよね?」

 言葉に詰まる。また商店街が静かになる。他の通行人の気配は未だない。

「何を?」

「昨日私が校舎裏でやってたこと」

「・・・見てない」

「嘘つくんだ」

 そう呟いた日谷木は目を合わせないまま右手の親指と中指をこすり始める。

 その日谷木の仕草から目が離せなくなる。見覚えがある。確かにあのとき、この少女があの火遊びをしていたとき、似たような仕草をしていた。何をする気かわからない。

「嘘ってお前。何のことかわからんぞ」

「いいですよとぼけなくても。もう決めたし。六乃先生は絶対見たって。うん、もう決めたもん」

「さっきから何を言ってる。それが教師に対する態度か!」

「ねえ、もう一つ聞きたいんですけど。見たこと、私がやってたこと、他の誰かに喋りました?」

「もういい話にならん」

 我慢できない。意を決してその場を後にしようと前へ踏み出した。

 ほとんど同時に日谷木のでこぴんが宙を弾く。

 空気が揺れる音が聞こえた。すぐ近くで。

 構わず歩こうとしたが、自分の右手に違和感を感じる。

 この感覚。暖かい。違う。暑い。それも違う。熱い。確かにそう感じた。

 恐る恐る右手を確認する。

 握りしめていた通勤鞄が、右手を照らしながら燃えていた。

「あっつ!」

 熱さに今気づいたように鞄を放る。急いで右手をでたらめ払った。一回、二回、三回、四回。焦りつつ右手を今一度確認する。右手は焼けていなかった。ただ小刻みに震えているだけだった。

 幻覚でも見たのかと思い、横たわった鞄に目を戻す。相変わらず燃えている。火が何本も空に手を伸ばしていた。鞄の底の方からじりじりと広がっていく。

 鞄の中に発火性のあるものなどもちろん入れていなかった。中身は筆記用具とノート、それに今日回収した方の参考書ぐらい。煙草は吸わないので、ライターなども入っていない。

 でも鞄は燃えている。どういう原理で燃えているかは今までの人生経験を振り返ってみても見当がつかない。しかし誰が燃やしたかは昨日今日の経験で見当はつく。

 日谷木が火を点けた。そう決める。

「先生もう一度聞きます。他の誰かに喋りました?」

 視野の外から声が聞こえる。先ほどと変わらない静かな声。言い聞かせるように日谷木が話しかけてくる。

 彼女のことは見なかった。本当に恐ろしいものは見ることができなくなる。鞄が燃えていく様を呆然と見つめる。

「他の先生に言ったりしてません?」

 言ってはいない。でもそれが問いかけの解答として正解なのか判断ができなかった。口の中が乾いていく。

「例えば・・・音無先生とか」

 音無の名前が聞こえた。不意にまた映像が押し寄せる。昨日から何度も浮かぶ映像。燃える同僚の姿。人が焼かれる姿。

 最初に彼女の放火を見たときから、恐怖は感じていた。原因は薄々わかっていた。あの火が人に向けられるかもしれない、そう思った。ただ最終的には馬鹿馬鹿しい、考えすぎだと、浮かぶ度に自分を諌めていた。

 今はどうだ。鞄が燃やされた。靴が燃やされた。次は、もしかすると。

 疑っていた考えが焼きつけられる。瞬間、堰を切ったように体を走らせる。日谷木を背に帰り道を逆走し始める。

 しかし今度は忽ち左足に熱を感じた。足がつったときのように一気にブレーキがかかる。革靴のソールが火を纏っていた。うめき声が上がる。

 それでも片方の足で喧々をしながら進みつつ、手で何とか脱がそうとする。しかし素手では熱いどころではなかった。喧々をやめ、無事な足で燃えている靴を脱がそうとする。靴下ごと一気に脱げたはいいが、足がもつれて勢いそのままに転倒した。

 起きようとしたところ、前方に円を描くように火の手が一瞬上がった。行く手を遮るように。すぐに消えたその火の手は、座りこんでいる今の姿勢なら容易に包まれてしまいそうな大きさに見えた。

 仰け反って尻餅をつく。心臓がはち切れそうだった。目眩もする。何故こんな目に合わなければならない。

 背中に人の気配を感じた。

 日谷木がゆっくりと前に回り込んでくる。仁王立ち。無表情のまま、無情で宙を見つめている。

 目を合わせないまま、額の前に右手を掲げてきた。

 少女の手は近すぎて焦点が合わない。しかしその手はでこぴんの形だということが容易に伝わって来る。拳銃を向けられているような錯覚。体が動かない。

「これが最後。他の誰かに言ってない?」

 日谷木が告げて来る。

 背景には商店街が永遠に続いているように見えている。本当に通行人はいないのか。やみくもに瞳を動かす。その一瞬、視界の先で何かが動くのが見えた。急いで大きく肩で息をし、そして精一杯の力を込めて絞り出す。

「助け————」

 声が出た途端、額に小さな衝撃を感じる。同時に視界が全て橙色に染まった。

 あっ、焼かれる。

 不思議と自分の命が止まることを瞬時に理解する。ろくな人生じゃなかった。

 最後はそこで電源が落ちた。


 これだけ血を味わうのも初めてかもしれない。口の中で唾と混ざっていく。味もしゃしゃりもない。

 中学二年の春も終わりを迎える頃。少年は体育館の壁にもたれかかりうなだれていた。ヘルメットでも被っているかのような重さと窮屈さを頭に感じる。

 焦点が合わないまま眺めていた黒い制服には赤い雫が一定のリズムで落ちていき消えていく。鼻からは閉めの甘い蛇口のように鮮血が漏れていた。眺めるのが馬鹿馬鹿しくなり、上手く開かなくなってきた目蓋を素直に下ろす。

「なんだこいつ。何もしてこんし。動かんし。きも」

「いまさらびびってんだって。雑魚だわまじ」

 バスケ部の先輩たち数人の無邪気な声が聞こえる。

「は?そんなん俺らが弱い者いじめしてるみてーじゃねーか」

「笑える。罪悪感はんぱねー」 

「いやこいつが俺の女に手出したのがわりーでしょ。あーまじ腹立つ」

 よくそんな幼稚な理由で人を袋にできるものだと感心する。そうなるほどに彼女を好きということか。

「まっ言えてんな」

「前から態度気に入らんかったからちょうどよかったっしょ」

「あっわかる。なんか生意気やし。雰囲気」

「そーそー年上を敬う態度みたいなんがねーんだよな。呼び出したときもまだだんまり決めていちびってたし」

「そ、だからこーなるのは自業自得。つかちょい、手いてーんだけど」

 相手は中学三年。男といっても内面は案外女々しいものだと思った。

 先輩の彼女に手を出した。その女が飛んだ曲者だったみたいだ。手を出したのは事実だけれども。自分もその女を恋人と思っていた。

 相談と称して散々クラスメイトの愚痴を吐き出してくることが最近の彼女の日課になっていた。よくよく思い返してみると、結局は惚気だったわけだが。見事な二股かけられてたな。

 恐らく喫茶店に二人でいるところを先輩に見られたのだろう。自分の恋人が他の男と笑いながら話しているのを見た先輩の心中はさぞ穏やかではなかったはずだ。今のこの状況がそれを物語っている。 

 彼女の恋人は自分だけと疑いもしなかった。この先輩とも付き合っているということは本当に知らなかった。知っていたらのこのこ何度も遊びに行って、告白なんかしてなかったか、と問われれば、答えに詰まるけれど。

 今更弁解するつもりはないかった。もう二人でよろしくしてくれ。

「でもちょいやり過ぎたっぽいか。完全に鼻血ぶーになってんじゃん」

「そんなに殴ってないっしょ」

「違うって。俺らは一発も殴ってませーん、だろ。なあ」

「・・・はい」

 とあるバスケ部の同級生の声が聞こえた。よく食べ、よくしゃべり、よく笑う男。自然と人が集まるような、そんな男。

 今日はこの男に呼ばれてこの体育館の裏に来た。頼むから来てくれと。そう言われた。嫌な予感しかしなかったが、友達に頼まれたから。友達だと思っていたから。だから来た。

「安心しろって。お前はちゃんとこいつ連れてきたからぼこらねえよ。文句ねえだろ?なあ」

「・・・はい」

 いつもの元気はどうしたよ。警察官になりたいって自分の夢を恥ずかしげもなく話す陽気なお前はどこに行ったんだ。気に病むことはない。安心しろ。こういうことには慣れている。お前の足を引っ張ったりはしないから。

 保育園は覚えてないけれど、小学校でも同じような目にはあった。些細なことで嫌われる、目をつけられる。他の生徒と同じことをしても自分だけ卑下される。大体はこちら側から謝るが、元の関係に戻ることはなかった。中学でまた気の合った人たちと出会えて、今度は大丈夫だろうと浮ついたのが運の尽きだっただけだ。

 恋人だと思っていた人や友達だと思っていた人。その人たちの中で自分の優先順位が先輩たちより低かった。それだけのことだ。

 駆け足の音が聞こえてきた。

「やべえやべえ!」

 足音と共に近づいてくる新手の先輩の声。

「どうしたよ?」

「先公こっち来るぞ!」

「まじでやべえやつじゃねえか!」

 一斉に足音が遠ざかっていくのが聞こえる。目蓋を閉じたまま動かない。動けないわけではないが、動く気にはなれなかった。

 このまま眠ったほうが楽なのかもしれない。それほどの静寂が包んでくる。

 先輩たちの足音が聞こえなくなってしばらくすると誰かが近づいてくる音が聞こえた。ゆっくりと状況を確かめるように。

「おい」

 大人の声。落ち着いた口調だった。声からしてバスケ部の顧問の先生。

 うなだれたまま目をできる限り開けてみる。スニーカーを履いた足が横目で見えた。先生はそばで突っ立っているみたいだった。目蓋が重かったのでもう一度目を閉じる。

「おい」

 同じ調子で声が落ちてくる。口の中が数カ所切れて痺れている感触がして、上手く口が回らない。

「おいおい気失ってんのか。やりすぎだろあいつら」

 その一言が思考を完全に停止させる。そしてかすかな舌打ちが聞こえた。

「面倒くせえ」

 確かに先生の声だった。迂闊に口を滑らせたようだ。

 ただ驚きはとくになかった。納得と同時に睡魔が膨らんでいく。どうでもよくなり、そのまま眠りを受け入れる。


 次に目を覚ましたときは保健室のベットだった。

 起きたことを確認すると、保健室の先生が一本内戦電話をかけた。

 顧問の先生が心配そうな顔をして入室し、そばに腰掛けてくる。舌打ちしたときはどんな顔をしていたのだろうか。

「大丈夫か?何があった?」

 問いかけられた。返事に迷うことはなかった。

「大丈夫です。・・・何もありません」

 口の中の未だ残っていた刺激を意識しながら無表情で答える。

 先生二人は意表を突かれたようで、顔を見合わせる。

 職員室に気まずい沈黙が数分続いたあと先生たちが席を外した。一旦保健室を出て入口近くで小会議を始めた。声は聞こえるが何を話しているかはわからない。

 ベットから立つ。体は痛みが走る箇所があったが、それほど重くはない。鏡を覗いてみると、思いのほか鼻や口に目立った外傷はなかった。目に切り傷と腫れがあるが、この程度なら家に帰っても適当に誤魔化せる。追求されたら最悪他校の生徒にかつあげされたことにする。

 ベットに戻り腰掛けて、物思いにふける。たいしたことないさ、と。

 保健室のドアが開く。先生たちの小会議が終わったみたいだ。

 顧問の先生は再びそばに腰掛ける。

「大丈夫なのか?」

 同じような質問が飛んできた。答えが変わることはない。

「大丈夫ですよ」

 表情を足そうと笑おうとしたが、上手く笑えたかは手応えがなかった。

「そうか。でももし何かあったら先生に相談するんだぞ」

 優しい言葉にうなづき、先生の顔を見る。安堵の表情がそこにはあった。

 顧問の先生はすぐ後に用事を思い出したようでそそくさと離れていく。

 その日はそれで片付いた。


 先輩たちからの圧力はその後も続いた。同級生も先生も気づいていたと思うが我感せず。

 それが正解なのだと思った。俺らは悪くないよ、そう言われている気がした。

 親は気づいていなかったと思う。心配をかけないよう、部活には通い続けたから。家庭に問題があったわけではない。ただ満ち足りて見える普通の家族をわざわざ崩すのは気が引けた。それが正解だったかはわからない。

 友達なら助け会う、家族なら助け会う、が正論。でもそのときくらいから正論が正しいと信じることは素直にできなくなった。誰かに頼ろうとは思わなかった。自分が招いたことだから。

 避けられない非日常は、やがて日常となる。

 一人でいるときに時折目から水が溢れたが、結局は受け入れた。これ以上誰かに嫌な思いをさせたくない。嫌われたくない。

 こうなったのは俺が悪い。とにかく俺が悪いと。そう言い聞かせた。そう選んだ。

 自分の心が日に日に冷たく麻痺していくのがわかる。それでいい。それが強くなるということだとさえ感じた。でも違った。ある日何気なく読んだ記事。有名な漫画家がインタビューで強さとは何かと問われていた。わがままを通せる力のこと、だと答えていた。その答えを見て、自分が強くなったと思ったのは気のせいだと教えられる。他人に自分のわがままを押し通してまで幸せになる勇気はなかったから。

「人生、そのうちいいことあるさ」

 浸りながら冷静に呟いた。

 一人の帰り道、近所の川で蛍を見ながら泣き終わるのを待った。点いては消え、消えては点く緑の光。その光を泣きながら眺めているときだけは何も考えずにいられた。そして蛍がいなくなる頃には涙は我慢せずとも出なくなった。

 先輩たちが綺麗に卒業していったあとも、かつて友達だった人たちとの関係が元に戻ることはなかった。持て余した時間は勉強に使うことになる。


 結局四半世紀、これと同じような結果を繰り返して過ごしてきた。友人、恋人、恩師。築いた人間関係をある日を境に手から離していく。

 その際は唯一見つけた方法にすがることになる。早々に自己嫌悪で心を冷やす。いつしか水が溢れるどころか揺らめくこともなくなった。

 自らの心の中にある、人を求める熱。自分が人に熱をゆだねると、その熱は他の誰かに奪われていく。他人に預ける熱が尽きていく。世の中の仕組みを否が応でも理解していく。

 頭では求めているはずなのに、心がその場から動こうとしなくなる。そして体は心に従うことを選ぶ。

 他の人はこんなとき、どうしているのだろうか。

 そんな疑問も時折浮かんだが、そのうち考えるのも疲れるようになる。ださい。気持ち悪い。救われない。これ以上こんな思いはする必要がない。 

 凍った感情は溶けなくなる。どうせだめなのだろう。それが普通の状態になった。今後もこのまま年を重ねていくと予想できた。

 人との別れなんてたいしたことはない。皆経験する些細なこと。死ぬわけでもないし、死にたくなるわけでもない。朝起きるたび一々悲しんでたらそれこそ殺されてしまう。

 青春の一ページ一ページ。どのページも最後は消しゴムで綺麗に消してある。


 そんな人間がどうして大人になってわざわざ教師になり、また学校という場所に戻った来たのか。大学の研究室で席を立ったあのときの心情は死ぬ目に会っても不確かなままだった。


 約四半世紀生きて何となく気づかされた。人付き合いするための容量が他の人より少ないということを。人との関わりが消極になってずいぶん経つ。生きているのか死んでいるのかわからない人生。それでも死にたくはなかったな。他人にはおすすめできない、つまらない生き方だけれど————   

 

 気持ちを整理したところで目が覚める。黄色い何かを目の端で捉えた。輪郭がはっきりしていない。無意識にゆっくりと瞬きをして、ピントを合わせていく。見上げた晩夏の夜空には半月が浮かんでいた。

 後頭部から片足のかかとまで伝わってく硬い感触。仰向けで寝ていることにふと気づく。すぐさま上体を起こそうとしたが、意識が朦朧としていて思いのほか時間がかかった。

 視界には天国でも地獄でもない、見慣れたシャッター商店街が広がっている。

 六乃は生きていた。

 地べたに胡座をかき夜風に当たる。気を失っていたということは察することができたが頭がこんがらがっていた。気を失う前、何をしていたか思い返す。

 家に帰っていて。カレーを作ろうと思って。人に話しかけられて。そしてその人物が日谷木で。火で燃やされた。

 はっとして街灯で柔らかく照らされた自らの体を見回す。同時に体のあちこちを手で触った。見つかるのは寝そべっていた際についた汚れくらい。火傷どころか服に焦げ跡さえ見つからなかった。

 時間が経つにつれて多少ずつ記憶とともに恐怖も思い出していく。夢だと思いたかったが、冷えている方の足を伸ばして確認する。裸足になっていることに気づきすぐに夢を諦めた。

 前方に人影はない。後方は、どうなっている。

 振り向くのが非常に躊躇われる。記憶のままだと女の子がいることになる。気絶している間に立ち去っていてはもらえないだろうか。

 上半身を捻って背後に目を向けてみた。

 日谷木はまたシャッターにもたれかかっていた。眠そうに欠伸をかいている。欠伸の余韻を残したままこちらの視線に気づいた。

「あっ起きてた」

 願望は失望に変わる。ただ不思議と恐怖心は失せていた。逃げようとしても無駄だということは覚えている。すでに諦めがついてしまっていた。

 前を向き直し、座ったまま深くため息をついた。

「よかったよかった。起きなかったら救急車呼ばなきゃだったし」

 声が背中を叩いてくる。無言で応対する。

「ねぇ先生。・・・しかと?」

 いつの間にか敬語ではなかった。元から敬意は感じなかったが。殺意もおさらくだが、ないのだろう。

 この際やけになろう。聞きたいことを聞いておく。日谷木を見ないまま話しかける。

「俺、どのくらい気絶してた?」

「全然経ってないよ。五分くらいじゃない?」

 どうりで全く景色が変わっていないわけだ。

「さっき、俺の鞄と靴さ、その、燃えてたよな?」

「あーそれなら、よいしょっ」

 座ったままでいると、日谷木が靴の底が擦れる音を立てて隣まで来た。

「はい」

 太ももの上に順番にものを乗せてくる。参考書、ノート、革靴。最後に革靴の履き口にペンケースが突っ込まれた。

 本類は黒から茶色、そして元の表紙の色とグラデーションを作っていたが、思いのほか本の形を保っている。革靴に関してはほとんど変化が見られなかった。

 日谷木を見上げる。すんなりと目が合う。落ち着いた様子だ。その様子に安堵する。私物が燃やされたというのに。

「本はさ、中も微妙に焦げてんだけど、全然読めるから。先生のメモとかもちょいちょい生き残ってるし。つか放課後それ探してたんだよ。何で私見落としたんだろ」

 同じ本を二冊用意したことは答える気になれないので黙っておく。隠してもすでに意味のないことだけれども。話題を変えよう。

「鞄は?」

「あっもう使い物にならなそうだったから、あそこ」

 日谷木が後方に目を向けて顎を動かす。

 その方向に目を向ける。何も見えなかった。

「見にくいかも。というかもう灰しか残ってないし」

「全部、燃えた?」

「うん。もしかして財布とか入ってた?」

 貴重品はポケットの中だ。

「いや」

「ならいいじゃん。つかいつまでも座ってないでよ。ここ全然人来ないからラッキーだけど」

 その一言で思い出す。気絶する前、動く影を見た。辺りを見回す。

「人ならいないよ」

 日谷木が冷たく言い放つ。

「先生が見たのはあの子」

 日谷木がそう言って指さした方向に目を凝らす。

 黄色に光る小さな瞳が二つ。黒猫だった。助けを求めても無駄な存在。虚しさが募ってくる。

「さすがに焦ったけど笑ったわ。それじゃ行くよ」

「へ?」

 行くって何だ。

「へ?じゃないよ。先生自分が聞いてばっかで私の質問全然答えてくれてないじゃん。ほら立った立った」

 日谷木に言われるがまま立ち上がる。驚くほど素直に。

 去る間際に猫の鳴き声が商店街に響いた。


 最寄り駅の近くに舞い戻ってきた。

 駅前大通り沿い。普段は入ることのないファミリーレストランは半分ほど席が埋まっている。虚しさを感じさせない程度に人の気配が店内には流れていた。食器同士が触れる音が時折耳に入ってくる。

 案内された四人席。テーブルの上は清潔に整頓され、照明でより綺麗に照らされていた。二人でくつろぐには十分。しかし向かいのソファー席に壁を背にして腰を下ろしている少女のせいで全く気持ちが落ち着かない。焦げた本類は目立つので日谷木の鞄に入れられた。

「あーお腹すいた」

 日谷木が小柄な体を目一杯伸ばす。

「先生尾行しようと思ったら中々帰らないんだもん。終電までまだまだ余裕あるし、別にいいけど」

「お待たせいたしましたーこちらアボカドサラダのフレッシュハンバーグです」

 モノトーンで落ち着いた制服をまとったウェイトレスが料理を運んできた。迷いなく日谷木の前に白い皿を置く。

「わーおいしそー。これ前から気になってたんだよね」

 赤と緑の野菜の中からハンバーグが顔を覗かせている。米は頼んでいない。糖質でも気にしているのだろうか。日谷木はそんなこと気にする体格でもないが。

「つか先生ほんとなんも食べないの?」

「家で食べる」

 食欲など消えていた。ウーロン茶のグラスのみが自分の手前に置かれている。

「それと今は、先生って言うのやめてくれ」

「何で?だって先生は先生じゃん」

「こんな時間に先生が生徒と二人きりは、その、まずいんだよ。しかも女生徒」

 そう頼むと淡白な姿勢を見せていた日谷木が一気に軽蔑の眼差しを向けてくる。まるで汚物を見るかのように。

「は、何それ?きも。高校の男教師ってロリコンなの?」

 がきには興味ない。そんなセリフが出そうだったが、今は下手に出ないといけない。癇癪を起こしされたら燃やされる。

「いや違うけど、頼むよ」

「・・・まっいいけどさ。んじゃ六乃ちゃんで。いただきまーす」

 想定外の愛称をつけ、日谷木がスプーンを手に取り、口に料理を運び始める。食べ急ぐこともなく、頬張らない程度に、丁寧に。目を細めて料理を満喫する。

 完全に彼女のペースだが、できるかぎり早く解放してもらいたい。

「さっさと食ってさっさと帰ってくれ」

 日谷木が左手で小さく動いている口元を隠す。

「いやだから、聞きたいことあるって言ってんじゃん」

「誰にも話してないから」

「ほんと?」

「話してたらとっくに白状してる。気絶する前に」

「あーそれもそうだよね」

「そういうことだから。満足だろ。それじゃ」

 席を立とうとした。するとウーロン茶の水面の上に火が灯るのが目に入った。ロウソクの火程度の微かなもの。その揺らめきを見て中腰のまま停止する。

 日谷木は速度を変えず淡々と夕食を食べていた。不意打ちだったせいででこぴんした様子は捉えられなかった。

「まあ焦らない焦らない」

「勘弁してくれ」

「まだ聞きたいことあるの!」

 椅子に引きずられるように腰を下ろす。それを確認するかのようにウーロン茶の上から火が忽然と消えた。

「今の見てどう思う?」

「どう思うって。今のは、お前がやったんだよな?」

「もうとっくにわかってんでしょ」

「いや第一に、どうやってるのかが気になってだな。手品?」

「違う」

「爆弾?」

「違う」

「・・・じゃあ何だよ」

「・・・病気っていうか、体質」

 火が出せる体質。そんな人間見たことない。

「本当か?」

「ほんと。信じられないって言うなら財布でも燃やしてあげようか」

「信じ、ます」

「何で敬語?つかやっぱ六乃ちゃんのほうが質問してんじゃん」

 日谷木がうんざりした様子でため息をつく。

 体質。脳内の引き出しに言葉が無理やり押し込まれる。説明はつかないが、合点はつく。疑いたいが、自身が見た彼女の行為の説得力が強すぎる。とりあえず頭の奥にしまっておこう。彼女は火を出せる体質の女の子。馬鹿馬鹿しい事実。頭が揺れる。

「でこぴんみたいなこと、してたよな?あれが、その、合図というか」

 宙ででこぴんをしてみせる。当然何もおこらない。

「あーこれ?」

 日谷木がスプーンをもったまま、ややぎこちなく中指を弾く。

 思わず身構える。周りを見渡す。どこが燃えたか気になる。

「何やってんの?火はもう出さないよ。六乃ちゃんが余計なことしなければだけど」

 安堵していいのかいまいちわからない。

「でこぴんはしなくても出せるよ、火はさ。なんだろうな。空気を擦るイメージで出してんだけど、ただでこぴんしたほうが狙ったとこに出るの。離れたとことかとくに。それにふいに出ないようにするためにも、でこぴんして出すように心がけてる」

 一見理由がなさそうに思っていたが一応聞いてみるものだと思った。

「そう、なのか・・・まだ質問していいか?」

「えー、いいけど」

「俺を追ってきた理由なんだけど」

「・・・ちょっと待ってね」

 そう言って食べ続ける。黙々とペースを乱さず。

 

 日谷木は最後の一口の食べ終わると紙のナプキンで優しく口を拭った。使い終わったナプキンを畳んで空の皿の上に落とす。静かに手を合わせ、ごちそうさま、と呟いた。

 その後で担任に向かって冷たく言い放つ。

「殺そうと思ったんだよね。六乃ちゃんのこと」

 はっきりと堂々と告げられた。年頃の少年少女はこういう類の脅し文句を使うことがあるのは知っている。でもこの少女の放つ場合、生々しさの度合いが比べ物にならなかった。

「・・・冗談か?」

「あんまし冗談じゃない」

 呼び出しの電子音が店内に響く。ウェイトレスが席の近くを早足で通り過ぎていく。

「私さ、昔から決めてたんだよね。これ、ずっと秘密にしてきたから。ばれたら私の人生めちゃくちゃになるかもだし。ちゃんと口止めしなきゃって思うじゃん。でもどうやって口止めしようかなって考えたらさ、絶対に相手が喋らない方法にしないとじゃん。そうなると()るしかないなーって」

 日谷木の口調はどこか投げやりだった。

 そのぶっきらぼうな言葉を聞いて、命拾いしたことを今更ながらに実感する。

「でもいざこうなると中々難しいね。ほんと最悪」

「・・・見たのが俺みたいな知ってる人間だったから助かったわけか」

「んーそれは関係ないかも」

「えっ、関係ないのか?」

「うん。そりゃ親とかよっぽど仲のいい友達とかだったら話は別だけどさ。私と六乃ちゃんって別に仲良くも何ともないし」

「それはまあ、そうだ。でもだったら、その何で、何で————」

「殺さなかったか?」

「そう、それ」

「何でって言われてもなー。あっ六乃ちゃん家って包丁ある?」

「あるけど。たまに料理するしな」

「えっ超意外。じゃあさ、包丁持ってて、目の前に六乃ちゃんの隠し事、例えばロリコンなの知ってる人がいるとするじゃん。そしたらその人刺し殺す?」

 日谷木は自ら口にして顔をしかめている。やけにロリコンに嫌悪を示す。

 面倒だし、話の腰を降りそうなのでそのまま流す。

「それは刺さないさ」

「でしょ。それと同じでさ」

「同じ?」

「六乃ちゃんは包丁で人殺しはしない。私は火で人殺しをしない。二人とも人を殺そうと思えばできるのにしない。選べるのに選ばない」

 そう言われると、同じなのかもしれない。火を自由に出せる体質と単なる性癖を同列に扱うのは違う気がするが。日谷木の話に耳を傾ける。

「さっきの私もさ、殺ろう殺ろうと尾行までして、六乃ちゃん気絶させて、いざ選択肢突きつけられたとき、全く殺ろうとか思わなくてさ。そのときわかったんだよね。私そういうの選ばない人間なんだって。だから六乃ちゃんじゃなくて知らない人でも私は同じ選択をしただろうなって」

 日谷木は妙に達観して言い、テーブルの上にある自分のグラスを手に取り、ストローを吸う。中の白いジュースの水面が徐々に下がっていった。

 確かにそうなのかもしれない。凶器が人を殺すなんて言うときもある。追い込まれて他の選択肢が見えなくなることもある。しかし結局人殺しは文字通り人の仕業。

 日谷木の都合だけ見れば、秘密を知った人物はいなくなったほうがいい存在。足のつかない消し方ができる凶器を持っている。その合理的な選択をしなかったから生かされている。

「かといって、このこと他の人に話したら承知しないからね」

「い、言わないさ。第一言っても変人扱いされるだけだ」

 日谷木が静かにグラスを置く。いくらか落ち着いて見えた。目の前の爆弾は今のところ爆発しそうにない。

「まあそうかもね。でも何となく殺らないだろうなーって予感もしてたんだよねー、猫ちゃん燃やしたときから」

 その一言で突如緊張が走る。思い当たる噂話が頭に浮かぶ。

「猫ってお前、もしかして北九川沿いの小火ってお前の仕業か!」

「うっそ、やっぱ噂になってんだ。うげー、つか声でかいって」

 日谷木が口の前で人差し指を立てる。

 思わず猫背になってしまった。口に手を添える。

「す、すまん。というかあれお前か。普通に殺ってるじゃないか。さっきの話はどうした」

「何どん引きしてんの。違うって。いや確かに猫ちゃん燃やしたんだけど供養だよ、供養」

「供養?」

「そうそう。たまたまあそこで猫ちゃん見かけてさ、なんか車に轢かれたかわかんないけど、死にかけててさ。それでそのままじゃかわいそうだから・・・」

 素知らぬ顔で話していた日谷木がようやく子どもに似合う塩らしく弱った声を出した。

「一思いに火葬したわけか。それ供養じゃないな。供養は火葬のあとにするもんだ」

「そうなんだ。ま、どっちでもいいけど。でさ、本気出したから苦しまなかっただろうけど、それでもさ、私が息の根止めたってことは変わらないし。猫でこうなるなら人のときはもっと後ろめたくなるのかなーなんて、そんな予感がしたの」

「なるほど・・・」

 日谷木に猫を燃やした経験がなかったら。そう思うとぞっとした。もしかしたら彼女は違う選択を選んでいたかもしれない。

 さっき燃やされたとき。いや厳密に言えば燃やされかけたとき。情けなくも猫に助けを求めてしまった。あのSOSは全くの無意味だったけれど、猫のおかげで今命がある言われても否定はできない気がする。今度供養にでも行こうかとさえ思った。絶対に行かないだろうが。

 またグラスを手に取った日谷木がストローをくわえたまま店内にかけてある時計で時間を確認する。綺麗に生え揃った眉毛が動いたかと思うと、グラスをやや荒っぽくテーブルに置いた。そして通学鞄の中を漁る。

「いつの間にか結構経ってんじゃん。帰ろっと。六乃ちゃんの本、ビニール入れといたから、はい」

 手渡されたビニール袋には彼女の異質の証明が入っていた。もう使い物にならない焼け焦げた本。今度燃えるごみに出すことになった燃えたごみ。

 日谷木がソファー席から立つ。

 昨日今日で本当に疲れた。でもこれでようやく解放される。一時はどうなるかと思ったが、異常のない生活に戻れる。

「あっ六乃ちゃん。燃やさないであげるかわりにさ、明日から練習ね」

「えっ」

「拒否権ないのはわかるっしょ。よろしくっ」

「ちょっ、ちょっと待て。練習って?」

 狼狽していると、日谷木はでこぴんを二回素振りした。

「・・・人燃やす練習。それじゃあ、ごちー」

 さらりと安息の空気をぶち壊して、日谷木が出口に向かっていく。

 自分は人を殺さない人間、ついさっきそう言った少女を、ただ呆然と口を開けて見送る。

 我に返って口にしたウーロン茶は緩くなっていた。


 上完

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