表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

逢瀬…少なからず

作者: 南清璽

 事態がこうともなるとピンクの壁紙はやけに陳腐だ。首相官邸からは安全のため無用な外出は避ける様にとのツィートが盛んにされていた。

「裁判所だって標的になるかもね。私は大丈夫だから早く安全な場所に移動して。」

 どうやら所長が話しているのは事務局長の様だ。彼女を心配し官舎に赴いての電話だった。

「係長と連絡取れないの?」

 その係長とは自分のことだった。まさか所長もくだんの係長と情を交わそうとしているなど局長に云えるはずもなかった。局長との電話が終わると今度はスマホでニュースサイトを眺めだした。

「まさに戒厳令の夜ね。首相は自衛隊に出動を命じたようよ。」

 ただ所長も現行の制度で戒厳令が存しないのは心得ていた。首都圏で発生したテロ。相当な数の死傷者が出ているみたいだ。もちろん地裁の所長も事態に備えなければならなかった。しかし、今は身の安全の確保が優先されていた。もし標的として狙われているのなら地裁や官舎よりラブホの方が安全に決まっている。第一誰も所長が情事ためにこんな場所に滞在するとは考えないだろうから。当初は別々に去るつもりだったがこの状況で所長を一人にする訳にはいかなかった。それを察してか「ここで夜を明かす?」と云うのだ。だが、その言葉に対する答えは窮してしまった。もちろん外に選択肢はなかった。だがこの段にあっても二つ返事ができない距離は実在した。私は所長の秘書業務を司る係の長だった。確かにプライベートでは呼び捨てでもいいと云われていた。だが「所長」としか呼べなかった。その気品ゆえか傍に仕えても親近感が懐けずにいた。その実体は俗にいうカバン持ちだった。だから帰宅の際付き添うことはあった。もちろん、自動車の送迎はあるものの所用や宴会で遅くなるときは気遣いからそれを断った。畢竟安全のためにともせざるをえなくなった。初めの頃は玄関先で失礼したが所長も気遣い招きあげる様になった。

「こんな事マスコミに知られたら大変です。」

 私の心配はその一事に尽きた。何分、地裁としては全国有数の規模であるし、前任も前々任もここのポストから高裁長官に就いた。いわば裁判官のエリートのポストだった。だがテロのお蔭で街中には多数の記者が繰り出している。地裁所長となれば知られたものだ。でもものともしないというか「交際している間柄と云えばいいのよ。」と云うのだ。

 実は独身を貫いていらした。綺麗な人なのに。

「どうして離婚したの?いつも言葉を濁すけど。」

「気になりますか?」

「なるわ」

 情を通じていることだし。ある意味対等な立場だ。だったら気負う必要もないだろう。

「外の男性と関係を持ったのです。」

 シンプルな物言いにした。一方、所長は悪いことを聴いたものだと考えているようだった。もちろんいささか外聞としていいものではなかった。しかし深刻になるほどのものでもなかった。

「でもよかったです。しっくりいっていなかったもので。だから間男されたのでしょうが。」

 だが別れた妻に未練がない訳じゃなかった。そこそこの別嬪には違いなかったし。そう思うからこそ今度は感慨に耽けさせた。反面このテロの最中あまりに超然としていたのも事実だ。そんな雰囲気にあって所長は「誰も声をかけてくれなかった」とポツリと述べるのだった。

 意外だった。こんな風に感慨を滲ました物言いをすることもあるんだ。だがどう受け答えすればいい。男性の誰しもが自分なんか相手にされないと考えたぐらいの推察はついた。と思いつつ最初に所長と契ったときの、残像として理性の欠片もなかったのを思い出していた。もちろん貪るものでもないが彼女を抱きしめると素直にその身を委ねてくれた。だがその後は彼女から誘うようになった。寧ろそういう扱いが苦手だと知るとこっちをリードするかのようにもなった。

「あなたも初めてなんだ。こういうところ。」

 きっとラブホとは全く縁がなかったのだろう。逢瀬の場所は官舎だった。今から思えばテロに対する警戒からか急に周辺の警邏の頻度が高くなった。となれば場所を変えなければならない。そうして所長が一度行ってみたいということでなった次第だった。そのとき自分も行ったことがないとの方便を述べてしまった。もっとも三十年ぶりで感覚としてはそれに近かった。離婚してからというものはうだつのあがらない自分がラブホに異性と行くなんて考えもしなかった。

 やはり恋しい。だが言葉で表せなかった。だから所長自身ももどかしくもあったのだろう。いつものようにしなだれかかり私の胸に顔をうずめた。そしてたおやかな表情を見せる。これほどまでに愛おしいマテリアルがあろうか!彼女は私の胸の肌がすべすべして気持ちいいと云うのに私にはその現実味が感じられないでいた。そういった実体のなさは空とも言えるもので、その幽き様に感じいるのだ。そうして私にある決意をさせたのだ。

 翌朝、事務局長はホテルに来た。それは所長を迎えるためで目立たないように自家用車を運転してきたのだ。私はこの成り行きの全てを彼に話した。もちろん、事態が予断を許さない状況であったこともあるがその幽きさが心を捉えていたのも遠因であった。所長が向かったのは別の地裁所長の官舎だった。何でも盆地であり警備しやすいそうだ。この一連の次第は三人だけに秘められることとなった。数日後異動の辞令が交付された。当初は昇任を伴う内示だったがそれは断った。余りに俗っぽく壁癖としたからだ。異動してからは全く所長とは会わなくなった。おそらく視察のときまではそうなると考えた。だがその季節が到来する前に所長は事務総長の発令を受けた。しかも女性初。高裁長官どころか最高裁判事も夢ではなかった。決して恋しさは伝えられなかったが最良の選択だったと自分に言い聞かせた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ