第2話 復活、そして旅立ち
意識を取り戻した僕は、自分が森の中で横たわっていることに気が付いた。
まだ微かに頭がぼんやりしている。だけど辺りに充満した血の臭いが、一気に僕の意識を覚醒させた。
早くここから逃げないとまたオーガに殺される!
我に返った僕は跳ね返るようにその場を飛び起き、即座に森の外まで逃げ出そうとした。
『グアアアアアア?』
「……は?」
思考が止まった。
僕が死んでからかなりの時間が経ってる筈なのに、なぜか背後にオーガがいる。しかも「あれ? 今さっき殺したよね?」と尋ねんばかりに血に濡れた腕と血塗れの僕を交互に見ていた。
恐怖の再臨である。
僕は全身に鳥肌が立ち、呼吸が荒くなるのを実感した。
怖い! 怖い! 怖い! 怖い! どうしようどうしよう!?
殺される! どうしよう殺されちゃう!
全ての毛穴が開き、嫌な汗が大量に流れ出す。破裂しそうなほど高鳴る鼓動を耳にしながら、僕は二歩三歩と後ろに下がった。だけどオーガはたった一歩で空いた距離を埋めてくる。
そして僕を殺せなかったのが不満なのか、オーガは僕をまじまじと観察した後、空に向けて咆えた。
『ガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!』
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
僕は咄嗟に体の向きを反転させ、全速力で逃げ出した。
逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ!
僕はがむしゃらに足を動かして前へ前へと疾駆した。後ろを気にしている余裕なんて無い。追いつかれたら死ぬ。その焦燥感が僕の原動力となっていた。
だけどこんな時に限って邪魔が入る。
『ギャー!』『ギャース!』
突然目の前に二体のゴブリンが現れ、緑色の小柄な体で僕の逃げ道を完全に塞いだ。……冗談じゃない!
僕は舌打ちをしつつ、急遽その場で停止した。
「なんでよりによってこんな時に……!」
僕は腰のポケットからナイフを取り出し――ナイフが無い!? オーガに殺された時に落としたのか!
『グァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!』
「……あ」
背後から怒りの咆哮が轟いた。だけど振り返った時にはもう遅い。
目を赤く光らせたオーガは勢い良く拳を振り上げている。殺された時の恐怖で僕の体は凍りついた。
不味い。僕、また死んだ……!
体がぎゅっと強張る。視界が涙で滲んだ。またも走馬灯が脳裏を過ぎった。
また同じだ。アリスのことを思い出して、クラインの嘲りを思い出して、自分の無力さを思い知って、自分のことが嫌いになった。
だけどただ一点だけ、あの時とは違う所がある。
……遅い。
オーガの拳が遅く感じる。それでいて全く脅威を感じなかった。
それだけじゃない。後ろで一緒に怯えているゴブリンの気配すら鮮明に感じ取ることができる。今まで戦いとは無縁だったこの僕が。
オーガの攻撃がどのように来るのか、どうすればそれを回避できるのか、止まった思考の中でも簡単に理解することができた。
確実に避けられる。そう本能が囁いて、僕の体から僅かに緊張が取れた。
どうして突然こんなことができるようになったのか……心当たりは一つしかない。
おじさんの――魔王さんの一言が僕に勇気を与えてくれた。
「オーガくらい……素手で……一発!」
僕は半ば考える前に横へ跳び、オーガの拳を回避した。そして間髪入れずに突進。
どうして僕は生き返りたかったのか。そんなこと、考えなくたって分かる。
強くなりたかったから。駄目人間のまま終わりたくなかったから。アリスとクラインを見返してやりたかったから!
僕は変わりたい。
弱虫で泣き虫な自分を。ドン臭くて情けない自分を。馬鹿にされても何も言い返せない自分を。一人じゃなんにもできない自分を。……僕は変えたかった。
魔王さんがくれたこの命、絶対無駄にはしない。生まれ変わったつもりで今までの弱い自分とはお別れだ。
……僕は、変わりたい! 変わるんだ!
「うわぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
僕は渾身の力を込めて、オーガの鳩尾に自分の小さな拳を叩きつけた。
勢い良く踏み込んだ足が深く地面に沈みこみ、全力を込めた一撃は抉りこむようにオーガの体へ突き刺さる。直後、僕の拳から一瞬黒い光が瞬いて――
『ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――ッ!?』
――オーガの体が爆ぜた。
「……え?」
僕の身の丈を優に越していた巨体は呆気なく吹き飛びながら砕け散り、森の木々を薙ぎ倒して大量の砂塵を巻き上げた。
『ピギィ!?』
『ギャギャギャッ!?』
まるで何かが爆発したような音に後ろのゴブリン達が悲鳴を上げる。そして視界が晴れた先を目にした僕も、涙目を浮かべながら絶叫した。
……かなりグロテスクなことになってる!?
ただの肉塊と化したオーガの死体を前に僕は思わず膝を付く。一目散にこの場を逃げ出したゴブリン達がなんだか羨ましく思えた。
胸の動悸が激しい。呼吸が荒い。体が震える。目の奥が熱い。
自分で引き起こした惨状に理解が及ばず、僕はむせ返るような獣の血の臭いに吐き気を覚えた。
「……これが、魔王の力?」
怖い。そう思った。
力そのものではなく、敵を圧倒した事実に高揚感を覚えた自分が。
他人の力で浮かれている自分の浅はかさがどうしようもなく怖い。僕にこんな一面があったなんて知らなかった。
僕の理想は……強くて、優しくて、頼りがいのある格好良い自分。爺ちゃんのように明るくて、魔王さんように愉快な人間だ。少なくとも力に振り回されているだけの僕じゃない。
このままじゃ不味い。魔王さんの期待を裏切ってしまう。なんとかしなくちゃ。
分不相応。僕はこの時、魔王の力が自分に見合っていないということをはっきりと自覚した。だからこの力に相応しい人間になれるように、本当の意味で強くならなければと思った。
――人間、本気で変わりたいと思ったなら一度外に出るべきだ。おっと、家の外じゃねーぞ? 自分の世界の外って意味だ。……ま、お前もいつか分かるようになるさ。
ふと脳裏に過ぎったのは、いつか教えられた爺ちゃんの言葉。
……うん。僕もその通りだと思うよ、爺ちゃん。
きっと今のままじゃ駄目なんだ。自分の世界を抜け出さない限り、僕は何も変えられない。
だから決めたよ。僕は家を出る。村の外に出て、新しい世界をこの目で見てくる。そしていつか、強くなって帰ってくるよ。
僕は自分の胸に手を当てて、爺ちゃんと魔王さんの顔を思い浮かべた。あの二人ならきっと、笑いながら「行ってこい」って送り出してくれると思うから。
そうして自分自身を励ました後、僕は誰ともすれ違わないように夜まで待ってから村に戻った。
「……爺ちゃん」
両親を知らない僕にとって、爺ちゃんは唯一の家族だった。
この狭い部屋の中には爺ちゃんと過ごした沢山の思い出が詰まっている。何物にも変え難い僕の世界の全てだ。だからこそ、ちゃんと決別しておかなければならない。
僕は旅に必要そうな道具と全財産をリュックに詰め込み、棚の上に飾っていた爺ちゃんの写真に目を向けた。
「爺ちゃん。僕、行ってくるよ……」
だから見守っていてください。
写真の中で笑顔を浮かべる育ての親に、僕は無言で頭を下げた。
「……」
家を出た後は、周りに人がいないかよく確認してから村の外に向かった。
正直言うと、今この村にいるのは辛過ぎる。あんな別れ方をした後じゃアリス達に合わせる顔が無い。というか、これから先もあいつ等と同じ場所で暮らしていくなんて絶対無理だ。正気を疑う。
だから誰にも悟られないように、僕はひっそりと故郷の村を立ち去った。
月の光に照らされた夜道を、僕は魔王の力を駆使しながら疾走していた。
昼間と言うほどでは無いけれど、周囲の様子はそれなりに鮮明に見えている。おまけに今の僕はモンスターの気配が読めるようになっているから、不必要にモンスターと遭遇することも無い。……少なくとも注意している間は。
念の為、リュックの中から一枚の地図を取り出してみる。
これは僕が住んでいた村を中心に描かれたこの辺り一帯の地図だ。周辺の町だけじゃなく、ダンジョンについても詳しく記されている。……まさかこれを開く日が来るとは思わなかった。今まで村の外に出ようなんて全く考えていなかったから。
地図によると、今いる場所から一番近いのはハンデルという街らしい。
時々村に色々な物資を運んでくる行商人がいたけど、もしかするとあの人はこの街から来ていたのかもしれないな。
……ハンデルか。一体どんな街なんだろう?
残念ながら手元にある地図には詳細な場所が描かれているだけで、街の情報に関しては一切記されていない。僕も村の外については殆ど知らないから、この先に何があるのか想像もできなかった。
……こんなことなら、もう少し村の外を出歩いてみるべきだった。そうすれば「臆病者」として同世代の人達から虐められることも無かったのに。
うぅ……思い出したら泣きたくなってきた。今まではアリスに守られていたから平気だったけど、これから先はもう彼女に頼ることはできないんだ。まあ、今はもう頼りたいとも思わないけど……。
なんか、ちょっと嫌な思い出が多過ぎるかな。僕は地図をリュックの中に戻した後、何も考えないで済むようにハンデルの街を目指して思い切り地面を蹴りつけた。
「おわああああああああああああっ!?」
――速過ぎる!?
オーガから逃げる時はすぐに足を止めちゃったから気付かなかったけど、全力で走るとこんなに速く動けるんだ……! 超怖い!
しかもどれだけ走っても疲れる気がしない。呼吸もあんまり乱れてないし、勢いに負けて体勢が崩れるようなことも無かった。……うん。どうやら僕は魔王の力を受け継いだ時に、体の構造が少しばかりおかしくなったらしい。
そ、そのうち頭から角が生えてきちゃったらどうしよう? 切り取る時に痛みとか感じないかな? ちょっと不安だ。
せっかく嫌なことを忘れようと思ったのに、これじゃ意味が無いじゃないか。僕は溜息を吐きながら周りの風景に目を移した。
「わぁ……!」
景色が物凄い速さで流れていく。それはとても新鮮な光景だった。
初めて感じる疾走感と爽快感。それ等が僕から嫌な気分を洗いさってくれる。なんだか急に走ることが楽しくなってきた。
「よーし! 行っくぞー!」
僕は走ることに夢中になって、夜の道をどんどん突き進んでいった。
そのおかげか、夜が明ける頃にはハンデルの街がすぐ傍まで見えていた。